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レギュラー(後)
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南鵠のコーチに着いて半年がたった││。
ここへ来て、驚いたことがふたつある。
ひとつは子供達の熱意だ。強豪クラブの自負というべきか、練習から試合におけるまでのサッカーへの熱が違った。おしゃべりしてる子はいないし、ましてや砂いじりを始める子供もいない。コーチが話している時には、じっと顔を見つめて聞き入ってくる。そんなやる気を見せられたら、こちらも俄然、指導に熱が入るのは当然だった。そして子供達の熱意は、彼らの親にまで伝染していた。
休憩には、冷たいタオルと水を持って待機したママさんがマネージャーのように気配りしてくれる。試合会場までの車だしはもちろんのこと、週ごとにママさんが弁当まで用意してくれた。これがまた、祝いの席にでてくるような重箱に入った手によりをかけたものばかりで、箸をつけるのも躊躇うほどのできに恐縮ものであった。弁当の当番はママさん連中のあいだでローテーションだが、貧相なレベルのものはまずでない。ここでも親の競争が激しくあるのだろう。それを面倒だとおくびも出さず作ってくれる母親達は大変だろうが、いただくほうはありがたかった。
そして、ふたつめの驚きは偶然の再会だった。
南鵠フットボールクラブで、倉部が担当する小学六年生のヘッドコーチが「スギ」と呼んでいた後輩であった。こちらも驚いたが、もっと驚いたのはスギのほうだ。そしてスギが、あまりに僕をたてるものだから、どっちがサブでヘッドなのかわからないほどだった。
「なあ、スギがヘッドなんだから、俺に気を使うような発言はしなくていいぞ。かえってやり辛い」
「そんなこといわれたって急には変われませんよ。大先輩なんですから」
スギの腰の低さはあいかわらずだ。あの頃は、あちこちで後輩にダンベルを持たせて空気イスをやらせる下品なほどの上下関係があった。三年神様、二年庶民、一年奴隷がまかり通る時代だった。
「それより……」
そういってスギが渡してきたのはA4判の紙だった。
「来週までに県大会の選手登録をしなくちゃいけないんですよ」
上から順にスクール生の名前が枠に振られている。名前を追ってくうちに、大概の見当はついてくる。二ヶ月後に迫った全国大会への切符を争う予選。そして六年生のとっては最後の試合。つまり県大会のレギュラー決めだ。
「いつものスタメンで問題ないだろ」
「それが飯野が外れたいといってるんですわ」
「飯野が? 」
返し損ねた紙を、舐めるように見る。そこに飯野の名はない。どういうつもりだ。小学生の最後の大会を棄権するキャプテンなど聞いたことがない。耳を疑うとはこのことだ。
「この前のスカウトからの入れ知恵みたいですよ」
スギが苦虫を潰したような顔でいった。
「湘南バルスのスカウトか……さすがにやることが早いな。あいつら」
前回の練習に突如現れたバルスのスカウト。クラブの光景を舐め回すように見ていた。その肉食獣のような視線に、薄っすらと危惧に近いものを抱いてはいた。子供達にとっては願ってもないチャンスだが、根回しもへったくりもなく、鳶《とんび》のように才能のある子をかっさわれると、不快感も当然湧いた。さも特別な選手にしてやるんだぞ、というような上から唾をつけてやるような態度に、虚しさをを通り越して、空いた口が塞がらない。
湘南バルスは湘南に拠点を置くプロサッカーチームである。下部組織があり、質のある子を他の手垢が付く前に、触手を伸ばして湘南バルスのユースに所属させる。早い話しが青田買いだが、そうなってくると、大会に出て不要な怪我のリスクを負わせなくはないバルス陣が棄権させたのだ。大人の事情とはこのことだ。
「本人はそれでいいといってるのか? 」
「まあ、本音は出たいんでしょうが。これだけは……ねぇ」
諦めの色を滲ませてスギが腕を組む。正直、子供なのだからがむしゃらに大会に出て、経験を積んでほしいのが本音だ。小学生最後の大会。今のメンバーでサッカーはできなくなるのだから……。
「飯野も空気を呼んだのでしょう。これから世話になる人間からいわれるわけですから」
「相思相愛とはいえ、淡白だよな」
飯野の考えもわかる。あれだけの才能があれば、彼の頭の中でプロへのロードマップができていても不思議ではない。手塩にかけた選手が羽ばたいていくのは嬉しいが、クラブとの関係をちょきんとハサミで切られるような気がしないわけではない。
「問題は飯野の穴を誰が埋めるかです」
「飯野の他に誰がいたっけ?」
「それがいないんですよ。だから玉突き人事になっちゃうかな」
スギが顔を歪ませる。長いこと飯野はトップ下で不動だった。ゆえにサブで努める子がいない。群を抜いた飯野のポジションを避けるように、サイドの層が多く、スライドさせるのが妥当だ。
「ってことは、西野と岡のふたりを交互に出せばいいじゃないか」
ふたりの実力はほぼ同じ。両方とも左ききだし、性格も体格も似通っている。どちらかを選ぶとなれば難しいが。
「そんな簡単にいわないでくださいよ」
「なんで? 」
「全国大会までいくと、有名私立から声がかかるんですよ。推薦ですから、試験免除で入れる。それを狙ってる父母がいるんです。スカウトの目もレギュラーとリザーバーだと雲泥の差ですからね」
「だってこれは、県大会だろ」
「まあ、県大会を勝ち抜いたらの話しですが」
スポーツ推薦の存在は知っていた。勉学などそっちのけで競技に集中させる私立の強豪もある。勉強はできなくても、栄光を勝ち取れる人材を得ることで、学校の箔が付く。そのために試験内容を教えることもあるという。まさに一芸はペンよりも強しか。
「毎年、揉めるんですよ。小学生最後の、あわよくば推薦の取れる大会ですから。親御さん達もこの県大会は躍起になるんですわ」
スギがどんよりした溜息を漏らす。
「それ決めるのをぎりぎりまで待てないか? 」
「まあ、来週半ばまでは」
「とりあえず保留にしておこう」
今の時点でひとりを決めるのは無理なような気がした。いくらコーチの人事権とはいえ、父母の利害関係が絡むなら、其れ相応の理由も必要だろう。先延ばしに過ぎないが、スギも同意した。
「まったく。親の方が必死だよ。有名私立から誘いを受けるチャンスなんだとさ」
愚痴をこぼしながら缶ビールを開けると、キッチンに立つ妻がもろきゅうを差し出した。妻の反応は「ふうん」と薄い。
「県大会を勝ち抜くのも難しいのに、今のうちから、そんな話しで揉めるんだってよ。まさに取らぬ狸《たぬき》の皮算用だよ」
話しているうちに、あまりのくだらなさに怒りが湧いてくる。これじゃあ、県大会で敗退したら何をいわれるかわからない。
「あなただって、連太郎のことになったら必死じゃない」
痛いところをつかれて、思わず口を尖らせる。
「じゃあ、君ならどうする? 」
「どうするって……同じようなふたりからどちらかを選ぶんでしょう? 」
「ああ。是非とも聞かせてもらいたいね。いち父母のママさんの意見ってやつを」
「そうね……」
頭を斜めにして妻が考えている。どうしても男だけで考え込むと、偏ったものになる。意外と彼女のアドバイスは良い中和剤になるかもしれない。
「ふたりの母親はどちらが協力的なの? 」
「だから、そういう考えはよくないって」
「なんでよくないのよ? 」
ほら、これだ。どこの世界に親のやる気を汲むコーチがいるんだ。練習に打ち込むのは、実力で決まるからこそなのに。
こちらの腑に落ちない顔も気にせず妻は続ける。
「もし、どちらかの子がスギコーチの息子だったら、きっとレギュラーになるんじゃないかしら」
「そうかな……」
しっくりこないが、妙に納得もできる。おそらく自然に選んでいるような気がする。サブとヘッドの二人三脚は、想像していたよりも大変だ。怪我を負わせたら責任問題だし、試合に負ければ指導に欠点があるなどといわれる。そのくせ、実力主義でいくと蚊帳の外になった親が臍《へそ》を曲げる。それゆえコーチ同士は自衛本能みたいな仲間意識がある。それが有利に働くことは否定できない。
「結局、クラブに貢献してるからこそだと思わない? 」
「貢献ねえ……」
顎《あご》を摩る。西野と岡の父母がどうだったか。真っ先に西野の母親が思い浮かぶ。毎年クラブの父母会の役員を努め、練習や試合のたびに雑用をこなしている。それもかなり大変そうだ。新しいクラブ生が入ってくれば、ユニフォームの世話もしなければいけないし、合宿のレジュメひとつとっても一日やそこらでは作れないような代物だ。一期努めればお役御免の役員を、なり手がいないからとここ何年も連続でやっている。だからといって先輩風を吹かせるわけもなく、謙虚に汗を流している。その働きぶりは、不躾《ぶしつけ》な例えだが奴隷である。西野のママさんの印象は、クラブにとっても父母にとっても〈助かる女〉だった。
一方で、岡の母親の印象は薄い。試合は観戦は欠かさずくるが、父母会のミーティングでは顔を見たことがない。クラブに在籍している以上、逃げ切れないといわれる役員も、ジャンケンで見事に勝ち抜き、白けた雰囲気の中でひとり諸手をあげて大喜びしていた。
「だってクラブが運営できるのも、影の立役者がいるからじゃない。実力が違うなら、仕方ないけど。同じならクラブのためにも協力的な父母の子を選ぶべきだと思う」
「そうはいってもなぁ」
「協力してくれるママさんがいなかったら、困るのはコーチでしょ」
それは否定できない。まさしく西野の母親のような協力が無ければ、指導に集中できないどころか、運営すらままならない。増える負担を考えるだけで恐ろしい。
「見てるわよ。ママさん達は意外とそういうとこ。好きで働いてるわけじゃないのよ。それじゃ報われないじゃない」
二日後││。見知らぬアドレスからメールが届いた。
よくよく調べると送り主から南鵠フットボールクラブの父母会連絡網を経由していた。それが西野の母親と繋がるのにさして時間はかからなかった。
件名は『ご相談』。父母会でトラブル発生か。クラブ内で雑用の多い西野の母親は、何かと話しを振られる。面倒の片付けをこなせばこなすほど、西野さんに頼めばどうにかなるだろう、という傾向が生まれる。ひとり抱え込んでしまうことは避けるようにと、何かあればすぐにでもコーチ陣にメールをよこすよう伝えてあった。
事情を尋ねようとすると、長話しになるので、逢って話したい、とのことだった。
会社から帰宅間際の横浜で待ち合わせすることになった。
繁華街の橋を渡り、少し賑わいが薄れたところに、押さえておいた創作料理屋があった。
「どうも、お待たせしました」
西野の母親がひとり。まだスギは来ていないようだった。十分ほど遅れたことを詫びると、彼女は恐縮そうに頭を下げた。
「この度は、わざわざ呼び出してごめんなさい」
「お気遣いなく。西野さんにはお世話になってますから。とりあえず先に飲んでましょうか。喉乾いちゃったし」
スギの勤務先は新橋だから、まだ到着には時間がかかるはずだ。それに残業も多いらしいので、待っていたらきりがない。
生ビールで乾杯し、他愛ない話しで盛り上がる。西野の母親は重い話しを切り出すこともなく、お互い似たような歳の子を持つ親同士、共通の話題に事欠くことはなかった。普段は芋焼酎かホッピーの安酒だが、ここには気取ったジュースのようなカクテルしかなく、ペースを見誤ったようだ。知らぬうちに酔いが回っている。時計を見ると一時間が経っていた。
「なんかスギの奴、遅いな」
「実はスギコーチには何も伝えてないんです」
「えっ? 」
あまりにあっさりいわれ、面食らった。もともとスギは呼ばれていない。なぜ、そのことを黙っていたのだろう。もしや、スギのことに関しての相談なのか。
「なんだかこの席、さむいわ」
ノースリーブからでた二の腕を摩って寒がっている。天井のエアコンから冷風が、西野の母親を直撃していた。
「席を変わりましょうか││。」
そういうのと同時に、彼女が隣の席に座った。壁と彼女に挟まれて逃げ道がない。その不自然な相席に苦笑いする。
「倉部コーチの手あたたかい」
突然、手を握られてどうしていいかわからなかった。
父母から女に変わった西野の母親が、深く僕を凝視していた。
ドアの向こうから聞こえてくるシャワーの音を耳にしながら、いけない展開になったと後悔した。
居酒屋をでて、黙ったまま薄暗いホテル街へ向かった。その間も葛藤がなかったわけではない。何かこちらが勘違いしているならば、すぐにでも回れ右で駅に戻るつもりだった。だがそうはしなかった。下心がなかったといえば嘘になる。自分が招いたと素行とはいえ、スクール生の母親と関係を持つとは、許されない背任行為だ。
やっぱりやめましょう、と部屋をでるか。でもここまで来て恥をかかせるのは、いかがなものか。すでに股間はテントのように張っていて、アルコールの入ったいい加減な脳みそで考えを巡らせても、都合のいい方へ流れていってしまう。
バタンとバスルームから音がして現れた西野の母親。健康ランドの寝巻きに着替えた彼女のボディソープの甘い匂いと柔肌に触れた瞬間、理性はどこかに弾け飛んでいった。
久しぶりに味わった妻とは違う身体に、二回果てた。
性交のあと、腕の中で包まる西野の母親。なんでここに西野の母親がいる。なんでこんなことになった。ベッドに横たわる西野の母親に、そんなつもりは全くありませんでした、と土下座したくなる。急激に萎んだ性欲が、現実に引き戻す。クラブに事実が知れ渡れば、まず居場所はなくなる。歴代のスケベコーチとして名を汚すのだろうか。
「あら、いけない!」
飛び起きた彼女は、時計を見て焦りだした。
「もうこんな時間だわ。すみません。帰ります」
乱れた髪もそのままに、風呂上がりのように、素早く下着を身につけ、ヒールに足をつっかける。余韻《よいん》もへったくれない。あまりの素早い帰り支度に、惨めな気持ちが湧いてくる。
「あの……」
その後ろ姿に声をかける。
「相談って、何だったのですか?」
ピタリと止まった西野の母親。
「次の大会に飯野君がでないと聞きました」
なぜ、それを? とは思わなかった。父母のネットワークの速さは光回線並みだ。それに西野親子がレギュラー選抜に過敏になるのは自然である。
「もちろん、うちの息子を選んでもらえるんですよね」
予想外に横柄な口調に驚く。
「それは約束できないけど、彼にチャンスはあると思うよ」
舌打ちが聞こえたような気がした。こちらの解答に不満があるのは明白だった。
「コーチ同士で引き継ぎはなかったの? 」
冷たく言い放つ質問。そこに、良識を疑うようなニュアンスが滲む。ヘルニアで辞めた前任のコーチから、引き継ぎはなかった。正直、会ったこともない。
「うちの子は、一番に選んで頂けるはずなんです」
「なにか勘違いされている可能性はありませんか? 」
「それじゃ、約束が違うじゃないですか! 」
感情を爆発させた西野の母親のきつい視線が刺さる。先ほどまでの蠱惑《こわく》の表情は消え失せ、代わりに般若の面が乗り移っていた。
「好きでやってるんじゃないですよ……。役員だって、雑用だって。ぜんぶ息子のためを思ってやってるんです……」
震える声に、涙が入り混じっていた。そういうことか……。彼女からグイグイと誘ってきた意味がやっとわかった。振り向くこともなく、西野の母親は部屋を後にした。
「さあ、ここらへんからが問題の枠です。ちゃんと考えました? 」
スギがカリカリと県大会の登録選手の名前を書き込んでいく。後回しにした空欄に、抜けた飯野のキャプテンのポジションと背番号の10が残っている。
「例の件だけど……西野でいこうと思う」
スギのペンがピタリと止まる。
「なぜですか?」
「それはだな……」
解答の準備を用意していたつもりだが、心咎《こころとが》め、口ごもってしまう。まさか、先日のあだ事を話せるわけがない。
「西野の母親が体張ってるからですか?」
どきりとする発言に戸惑った。まさか││。
だが、スギの目に嫌悪感は見られない。その態度から、深い意味がないことに安堵する。
あの日以来、西野の母親と直接言葉を交わしていない。練習中にちらちらと彼女の視線を感じることはあっても、声をかける合うような空気は一切ない。目が合っても、決して秘密を共有し合あう甘いものではなかった。わかってますよねぇ、とでもいいたげな気魄《きはく》の宿る能面の顔。まるで借金取りに睨まれたようで、背筋が寒くなる。
「スギはどちらを選ぶつもりだった? 」
「僕も西野で賛成ですよ。西野のかあちゃんの働きっぷりなしでは、このクラブは成り立たないですよ。あの尽くし方は父母の鏡です。たまに行き過ぎたサービスもありますけどね」
行き過ぎたサービス? こいつどこまで知ってるのか││。
知っててこの問いをしてるなら、かなりの役者だ。
「去年の合宿の話しですが。旅館側の不備で父母の役員が泊まる部屋が少なかったんですよ。仕方なく僕と西野のかあちゃんが相部屋になる事態で││。」
もしや││。スギもか。
「いやいや、さすがにまずいと思って、僕だけスクール生の部屋で雑魚寝ですよ」
嫌な汗が脇を伝った。
話しの矛先を変えたくて、共通の知り合いである額井コーチの話しを振った。
「額井コーチとは、どこで知り合ったんだ? 」
「ああ、額井さんね。あいかわらず元気なのかな」
「バイタリティがすごいよ、あの人は」
「数年前まで、額井コーチも僕も住まいが東京でして、その地域のサッカースクールで同じようにコーチを」
「なるほどね。それでこっちに越したわけだ」
「そうなんです」
「じゃあ、額井さんも? 」
「あの人はどうでしょうかね………」
「どうでしょうって? 職場が変わったとかあるだろに」
「いや。詳しいことはわからなくて……」
煮え切らないわりには、含みを持たすようないい方だった。
「同じクラブだったなのに、知らないのか」
「まあ、まあ……そこらへんは……ね」
頭を掻いて笑いで過ごそうとするスギ。なんだか、額井コーチについては濁したい雰囲気に、首を傾げた。
数日後││。新田と顔を合わせたのは、高校時代の仲間を集めてのフットサルだった。
最近は、旧友と会うことも多くなった。近頃、流行りのSNSのおかげで同窓会のように集まっては、久しぶりにボールを蹴る。ほとんどの連中が、気ばかりが先にいって覚束ない走りだ。老体に鞭を打つその姿は情けなさを通り越して、滑稽でもある。爆笑して、冗談まじりにビール腹を罵り合った。
軽く汗をかいた頃には、コートよりも喫煙所の密度が濃くなる始末だった。
「息子のスイッチは見つかったか? 」
新田が尋ねる。
「ああ、それに関して礼をいわなくちゃな」
「ってことは、スイッチは見つかったんだな」
「まだまだレギュラーには程遠いが。なかなかやる気は出てきたみたいだ」
僕が南鵠のコーチを務めてから、息子はがらりと変わった。やはり親の背中を見て育つというのは、真実だと思う。まったく何にイラついていたのか。叱咤だけで済ませようとした自分が情けない。新田は「おう、よかったじゃないか」と我が子のように喜んでくれた。
「少年サッカーといえば、おまえの近所にヌカイさんっていないか? 色黒のおっさんなんだが」
「ああ。額井コーチね。チョコボールみたいな人だろ」
「それだ! 珍しい名字だから間違いないと思う」
新田の顔が一瞬だけ曇る。
「どうしかしたのか? 」
「そこのミウって娘が、俺の担任する生徒なんだよ」
新田の務め先は女子校だ。
「つい先日、彼女が風俗店で摘発された。幸い、未成年だから補導扱いだ。うちの生徒は、勉強はそっちのけで化粧だ、セックスだ、とませたことに夢中でな。女としての成長だけはやたらに早い」
新田の女子校の偏差値は、お世辞でも高いとはいえない。キャバクラ嬢の製造工場と揶揄《やゆ》されるのを耳にしたことがある。
「バイト感覚なら、説教して終わるんだが。どうも家庭環境に問題がある。連れ子なんだ。彼女は」
「今時、珍しいとは思わないけどな」
その程度の家庭の不運で、グレる理由を正当できない気がする。連れ子の肩身が狭さは、容易に想像がつくけども。
「血の通わない年頃の女の子と、男が同居するんだ。俺らにわからない何かがあるんだろう」
「オレだったら、ムラムラして襲っちゃうかもな」
鬼畜発言で口を挟んだのは、旧友のひとりだった。時の流れは、頭髪や締まった筋肉を奪い去った。そのわりにモラルの低さだけは、昔から変わっていない。
「教師と教え子といえども、そこまでは聞けてない。どうやら親夫婦の仲が悪化が原因らしい」
「浮気か? 」
「スクールで他の母親と仲良くしてたとか、そんなくだらないことさ。夫婦喧嘩に理由なんてあるか。ちょっとしたことでムカつくもんだ。おまえだってそうだろ? 」
吸い殻を押し潰して新田が、渋い顔でいう。
「振り回される子供はたまったもんじゃないな」
夫婦喧嘩は犬も食わないか。額井の娘に同情すらする。いや、正確には額井の連れ子か。
「額井は今の妻とスクールで知り合ったらしい。ミウの弟が、額井コーチに教わっていた。まあ、よくありがちな話しではある。ここからがウケるんだよ」
新田がニヤニヤとはぐらかす。
「おいおい。もったいぶるなよ」
「額井の前妻も、そこのスクール生の母親なのさ。つまりスクール内で、いろいろ手を出していたわけだ。寝とった女が、今度は寝取られると考えてもおかしくはないよな」
「ずいぶんと女殺しだな」
信じられん。あの成りで。と喉元まででかかる。西野の母親と関係を持った自分も同じ穴のムジナだが。
「噂では、補欠組の母親にレギュラー抜擢とほのめかして、枕営業させるみたいだぜ」
新田がいやらしい笑みでいった。
玄関がガチャガチャと騒がしくなった。
ショールを肩にかけ、めかし込んだ妻が、煙草の匂いとともに帰宅する。友人との飲み会でふらついた妻。その残り香に、石鹸の匂いが鼻をつく。
「なあ、今日おもしろいこと聞いたんだ」
口元を緩ませてビールをコップにつぐ。額井コーチの過去について話したくて仕方がない。どんな反応をするか。妻の反応を想像すると心が躍る。
アクセサリーを外していた妻から「あら、なくしちゃった」と声が漏れた。こちらの言葉に耳を貸しているのか、疑わしいほど酔っている。
「何を? 」
「あなたから貰ったピアスよ」
何度目か。彼女はよくピアスを失くす。以前はシャワーを浴びていた時だった。どうせ失くすから、最近は高いものは買わない。
「仕方ない。店に聞くのはやめておけ。あんな小さい物を探させたら、返って迷惑だ。それより話しを聞いてよ。かなり驚くぞ」
テーブルに促したが妻は座らずに、ふらついた身体でせっかく注いでおいたビールを横取りした。
「わたしもいいこと教えてあげる」
「へえ。じゃあ、君の話しから聞こうかな」
グビグビとコップを開ける妻は、普段より大胆に見える。
「連太郎がレギュラーになるわよ」
ここへ来て、驚いたことがふたつある。
ひとつは子供達の熱意だ。強豪クラブの自負というべきか、練習から試合におけるまでのサッカーへの熱が違った。おしゃべりしてる子はいないし、ましてや砂いじりを始める子供もいない。コーチが話している時には、じっと顔を見つめて聞き入ってくる。そんなやる気を見せられたら、こちらも俄然、指導に熱が入るのは当然だった。そして子供達の熱意は、彼らの親にまで伝染していた。
休憩には、冷たいタオルと水を持って待機したママさんがマネージャーのように気配りしてくれる。試合会場までの車だしはもちろんのこと、週ごとにママさんが弁当まで用意してくれた。これがまた、祝いの席にでてくるような重箱に入った手によりをかけたものばかりで、箸をつけるのも躊躇うほどのできに恐縮ものであった。弁当の当番はママさん連中のあいだでローテーションだが、貧相なレベルのものはまずでない。ここでも親の競争が激しくあるのだろう。それを面倒だとおくびも出さず作ってくれる母親達は大変だろうが、いただくほうはありがたかった。
そして、ふたつめの驚きは偶然の再会だった。
南鵠フットボールクラブで、倉部が担当する小学六年生のヘッドコーチが「スギ」と呼んでいた後輩であった。こちらも驚いたが、もっと驚いたのはスギのほうだ。そしてスギが、あまりに僕をたてるものだから、どっちがサブでヘッドなのかわからないほどだった。
「なあ、スギがヘッドなんだから、俺に気を使うような発言はしなくていいぞ。かえってやり辛い」
「そんなこといわれたって急には変われませんよ。大先輩なんですから」
スギの腰の低さはあいかわらずだ。あの頃は、あちこちで後輩にダンベルを持たせて空気イスをやらせる下品なほどの上下関係があった。三年神様、二年庶民、一年奴隷がまかり通る時代だった。
「それより……」
そういってスギが渡してきたのはA4判の紙だった。
「来週までに県大会の選手登録をしなくちゃいけないんですよ」
上から順にスクール生の名前が枠に振られている。名前を追ってくうちに、大概の見当はついてくる。二ヶ月後に迫った全国大会への切符を争う予選。そして六年生のとっては最後の試合。つまり県大会のレギュラー決めだ。
「いつものスタメンで問題ないだろ」
「それが飯野が外れたいといってるんですわ」
「飯野が? 」
返し損ねた紙を、舐めるように見る。そこに飯野の名はない。どういうつもりだ。小学生の最後の大会を棄権するキャプテンなど聞いたことがない。耳を疑うとはこのことだ。
「この前のスカウトからの入れ知恵みたいですよ」
スギが苦虫を潰したような顔でいった。
「湘南バルスのスカウトか……さすがにやることが早いな。あいつら」
前回の練習に突如現れたバルスのスカウト。クラブの光景を舐め回すように見ていた。その肉食獣のような視線に、薄っすらと危惧に近いものを抱いてはいた。子供達にとっては願ってもないチャンスだが、根回しもへったくりもなく、鳶《とんび》のように才能のある子をかっさわれると、不快感も当然湧いた。さも特別な選手にしてやるんだぞ、というような上から唾をつけてやるような態度に、虚しさをを通り越して、空いた口が塞がらない。
湘南バルスは湘南に拠点を置くプロサッカーチームである。下部組織があり、質のある子を他の手垢が付く前に、触手を伸ばして湘南バルスのユースに所属させる。早い話しが青田買いだが、そうなってくると、大会に出て不要な怪我のリスクを負わせなくはないバルス陣が棄権させたのだ。大人の事情とはこのことだ。
「本人はそれでいいといってるのか? 」
「まあ、本音は出たいんでしょうが。これだけは……ねぇ」
諦めの色を滲ませてスギが腕を組む。正直、子供なのだからがむしゃらに大会に出て、経験を積んでほしいのが本音だ。小学生最後の大会。今のメンバーでサッカーはできなくなるのだから……。
「飯野も空気を呼んだのでしょう。これから世話になる人間からいわれるわけですから」
「相思相愛とはいえ、淡白だよな」
飯野の考えもわかる。あれだけの才能があれば、彼の頭の中でプロへのロードマップができていても不思議ではない。手塩にかけた選手が羽ばたいていくのは嬉しいが、クラブとの関係をちょきんとハサミで切られるような気がしないわけではない。
「問題は飯野の穴を誰が埋めるかです」
「飯野の他に誰がいたっけ?」
「それがいないんですよ。だから玉突き人事になっちゃうかな」
スギが顔を歪ませる。長いこと飯野はトップ下で不動だった。ゆえにサブで努める子がいない。群を抜いた飯野のポジションを避けるように、サイドの層が多く、スライドさせるのが妥当だ。
「ってことは、西野と岡のふたりを交互に出せばいいじゃないか」
ふたりの実力はほぼ同じ。両方とも左ききだし、性格も体格も似通っている。どちらかを選ぶとなれば難しいが。
「そんな簡単にいわないでくださいよ」
「なんで? 」
「全国大会までいくと、有名私立から声がかかるんですよ。推薦ですから、試験免除で入れる。それを狙ってる父母がいるんです。スカウトの目もレギュラーとリザーバーだと雲泥の差ですからね」
「だってこれは、県大会だろ」
「まあ、県大会を勝ち抜いたらの話しですが」
スポーツ推薦の存在は知っていた。勉学などそっちのけで競技に集中させる私立の強豪もある。勉強はできなくても、栄光を勝ち取れる人材を得ることで、学校の箔が付く。そのために試験内容を教えることもあるという。まさに一芸はペンよりも強しか。
「毎年、揉めるんですよ。小学生最後の、あわよくば推薦の取れる大会ですから。親御さん達もこの県大会は躍起になるんですわ」
スギがどんよりした溜息を漏らす。
「それ決めるのをぎりぎりまで待てないか? 」
「まあ、来週半ばまでは」
「とりあえず保留にしておこう」
今の時点でひとりを決めるのは無理なような気がした。いくらコーチの人事権とはいえ、父母の利害関係が絡むなら、其れ相応の理由も必要だろう。先延ばしに過ぎないが、スギも同意した。
「まったく。親の方が必死だよ。有名私立から誘いを受けるチャンスなんだとさ」
愚痴をこぼしながら缶ビールを開けると、キッチンに立つ妻がもろきゅうを差し出した。妻の反応は「ふうん」と薄い。
「県大会を勝ち抜くのも難しいのに、今のうちから、そんな話しで揉めるんだってよ。まさに取らぬ狸《たぬき》の皮算用だよ」
話しているうちに、あまりのくだらなさに怒りが湧いてくる。これじゃあ、県大会で敗退したら何をいわれるかわからない。
「あなただって、連太郎のことになったら必死じゃない」
痛いところをつかれて、思わず口を尖らせる。
「じゃあ、君ならどうする? 」
「どうするって……同じようなふたりからどちらかを選ぶんでしょう? 」
「ああ。是非とも聞かせてもらいたいね。いち父母のママさんの意見ってやつを」
「そうね……」
頭を斜めにして妻が考えている。どうしても男だけで考え込むと、偏ったものになる。意外と彼女のアドバイスは良い中和剤になるかもしれない。
「ふたりの母親はどちらが協力的なの? 」
「だから、そういう考えはよくないって」
「なんでよくないのよ? 」
ほら、これだ。どこの世界に親のやる気を汲むコーチがいるんだ。練習に打ち込むのは、実力で決まるからこそなのに。
こちらの腑に落ちない顔も気にせず妻は続ける。
「もし、どちらかの子がスギコーチの息子だったら、きっとレギュラーになるんじゃないかしら」
「そうかな……」
しっくりこないが、妙に納得もできる。おそらく自然に選んでいるような気がする。サブとヘッドの二人三脚は、想像していたよりも大変だ。怪我を負わせたら責任問題だし、試合に負ければ指導に欠点があるなどといわれる。そのくせ、実力主義でいくと蚊帳の外になった親が臍《へそ》を曲げる。それゆえコーチ同士は自衛本能みたいな仲間意識がある。それが有利に働くことは否定できない。
「結局、クラブに貢献してるからこそだと思わない? 」
「貢献ねえ……」
顎《あご》を摩る。西野と岡の父母がどうだったか。真っ先に西野の母親が思い浮かぶ。毎年クラブの父母会の役員を努め、練習や試合のたびに雑用をこなしている。それもかなり大変そうだ。新しいクラブ生が入ってくれば、ユニフォームの世話もしなければいけないし、合宿のレジュメひとつとっても一日やそこらでは作れないような代物だ。一期努めればお役御免の役員を、なり手がいないからとここ何年も連続でやっている。だからといって先輩風を吹かせるわけもなく、謙虚に汗を流している。その働きぶりは、不躾《ぶしつけ》な例えだが奴隷である。西野のママさんの印象は、クラブにとっても父母にとっても〈助かる女〉だった。
一方で、岡の母親の印象は薄い。試合は観戦は欠かさずくるが、父母会のミーティングでは顔を見たことがない。クラブに在籍している以上、逃げ切れないといわれる役員も、ジャンケンで見事に勝ち抜き、白けた雰囲気の中でひとり諸手をあげて大喜びしていた。
「だってクラブが運営できるのも、影の立役者がいるからじゃない。実力が違うなら、仕方ないけど。同じならクラブのためにも協力的な父母の子を選ぶべきだと思う」
「そうはいってもなぁ」
「協力してくれるママさんがいなかったら、困るのはコーチでしょ」
それは否定できない。まさしく西野の母親のような協力が無ければ、指導に集中できないどころか、運営すらままならない。増える負担を考えるだけで恐ろしい。
「見てるわよ。ママさん達は意外とそういうとこ。好きで働いてるわけじゃないのよ。それじゃ報われないじゃない」
二日後││。見知らぬアドレスからメールが届いた。
よくよく調べると送り主から南鵠フットボールクラブの父母会連絡網を経由していた。それが西野の母親と繋がるのにさして時間はかからなかった。
件名は『ご相談』。父母会でトラブル発生か。クラブ内で雑用の多い西野の母親は、何かと話しを振られる。面倒の片付けをこなせばこなすほど、西野さんに頼めばどうにかなるだろう、という傾向が生まれる。ひとり抱え込んでしまうことは避けるようにと、何かあればすぐにでもコーチ陣にメールをよこすよう伝えてあった。
事情を尋ねようとすると、長話しになるので、逢って話したい、とのことだった。
会社から帰宅間際の横浜で待ち合わせすることになった。
繁華街の橋を渡り、少し賑わいが薄れたところに、押さえておいた創作料理屋があった。
「どうも、お待たせしました」
西野の母親がひとり。まだスギは来ていないようだった。十分ほど遅れたことを詫びると、彼女は恐縮そうに頭を下げた。
「この度は、わざわざ呼び出してごめんなさい」
「お気遣いなく。西野さんにはお世話になってますから。とりあえず先に飲んでましょうか。喉乾いちゃったし」
スギの勤務先は新橋だから、まだ到着には時間がかかるはずだ。それに残業も多いらしいので、待っていたらきりがない。
生ビールで乾杯し、他愛ない話しで盛り上がる。西野の母親は重い話しを切り出すこともなく、お互い似たような歳の子を持つ親同士、共通の話題に事欠くことはなかった。普段は芋焼酎かホッピーの安酒だが、ここには気取ったジュースのようなカクテルしかなく、ペースを見誤ったようだ。知らぬうちに酔いが回っている。時計を見ると一時間が経っていた。
「なんかスギの奴、遅いな」
「実はスギコーチには何も伝えてないんです」
「えっ? 」
あまりにあっさりいわれ、面食らった。もともとスギは呼ばれていない。なぜ、そのことを黙っていたのだろう。もしや、スギのことに関しての相談なのか。
「なんだかこの席、さむいわ」
ノースリーブからでた二の腕を摩って寒がっている。天井のエアコンから冷風が、西野の母親を直撃していた。
「席を変わりましょうか││。」
そういうのと同時に、彼女が隣の席に座った。壁と彼女に挟まれて逃げ道がない。その不自然な相席に苦笑いする。
「倉部コーチの手あたたかい」
突然、手を握られてどうしていいかわからなかった。
父母から女に変わった西野の母親が、深く僕を凝視していた。
ドアの向こうから聞こえてくるシャワーの音を耳にしながら、いけない展開になったと後悔した。
居酒屋をでて、黙ったまま薄暗いホテル街へ向かった。その間も葛藤がなかったわけではない。何かこちらが勘違いしているならば、すぐにでも回れ右で駅に戻るつもりだった。だがそうはしなかった。下心がなかったといえば嘘になる。自分が招いたと素行とはいえ、スクール生の母親と関係を持つとは、許されない背任行為だ。
やっぱりやめましょう、と部屋をでるか。でもここまで来て恥をかかせるのは、いかがなものか。すでに股間はテントのように張っていて、アルコールの入ったいい加減な脳みそで考えを巡らせても、都合のいい方へ流れていってしまう。
バタンとバスルームから音がして現れた西野の母親。健康ランドの寝巻きに着替えた彼女のボディソープの甘い匂いと柔肌に触れた瞬間、理性はどこかに弾け飛んでいった。
久しぶりに味わった妻とは違う身体に、二回果てた。
性交のあと、腕の中で包まる西野の母親。なんでここに西野の母親がいる。なんでこんなことになった。ベッドに横たわる西野の母親に、そんなつもりは全くありませんでした、と土下座したくなる。急激に萎んだ性欲が、現実に引き戻す。クラブに事実が知れ渡れば、まず居場所はなくなる。歴代のスケベコーチとして名を汚すのだろうか。
「あら、いけない!」
飛び起きた彼女は、時計を見て焦りだした。
「もうこんな時間だわ。すみません。帰ります」
乱れた髪もそのままに、風呂上がりのように、素早く下着を身につけ、ヒールに足をつっかける。余韻《よいん》もへったくれない。あまりの素早い帰り支度に、惨めな気持ちが湧いてくる。
「あの……」
その後ろ姿に声をかける。
「相談って、何だったのですか?」
ピタリと止まった西野の母親。
「次の大会に飯野君がでないと聞きました」
なぜ、それを? とは思わなかった。父母のネットワークの速さは光回線並みだ。それに西野親子がレギュラー選抜に過敏になるのは自然である。
「もちろん、うちの息子を選んでもらえるんですよね」
予想外に横柄な口調に驚く。
「それは約束できないけど、彼にチャンスはあると思うよ」
舌打ちが聞こえたような気がした。こちらの解答に不満があるのは明白だった。
「コーチ同士で引き継ぎはなかったの? 」
冷たく言い放つ質問。そこに、良識を疑うようなニュアンスが滲む。ヘルニアで辞めた前任のコーチから、引き継ぎはなかった。正直、会ったこともない。
「うちの子は、一番に選んで頂けるはずなんです」
「なにか勘違いされている可能性はありませんか? 」
「それじゃ、約束が違うじゃないですか! 」
感情を爆発させた西野の母親のきつい視線が刺さる。先ほどまでの蠱惑《こわく》の表情は消え失せ、代わりに般若の面が乗り移っていた。
「好きでやってるんじゃないですよ……。役員だって、雑用だって。ぜんぶ息子のためを思ってやってるんです……」
震える声に、涙が入り混じっていた。そういうことか……。彼女からグイグイと誘ってきた意味がやっとわかった。振り向くこともなく、西野の母親は部屋を後にした。
「さあ、ここらへんからが問題の枠です。ちゃんと考えました? 」
スギがカリカリと県大会の登録選手の名前を書き込んでいく。後回しにした空欄に、抜けた飯野のキャプテンのポジションと背番号の10が残っている。
「例の件だけど……西野でいこうと思う」
スギのペンがピタリと止まる。
「なぜですか?」
「それはだな……」
解答の準備を用意していたつもりだが、心咎《こころとが》め、口ごもってしまう。まさか、先日のあだ事を話せるわけがない。
「西野の母親が体張ってるからですか?」
どきりとする発言に戸惑った。まさか││。
だが、スギの目に嫌悪感は見られない。その態度から、深い意味がないことに安堵する。
あの日以来、西野の母親と直接言葉を交わしていない。練習中にちらちらと彼女の視線を感じることはあっても、声をかける合うような空気は一切ない。目が合っても、決して秘密を共有し合あう甘いものではなかった。わかってますよねぇ、とでもいいたげな気魄《きはく》の宿る能面の顔。まるで借金取りに睨まれたようで、背筋が寒くなる。
「スギはどちらを選ぶつもりだった? 」
「僕も西野で賛成ですよ。西野のかあちゃんの働きっぷりなしでは、このクラブは成り立たないですよ。あの尽くし方は父母の鏡です。たまに行き過ぎたサービスもありますけどね」
行き過ぎたサービス? こいつどこまで知ってるのか││。
知っててこの問いをしてるなら、かなりの役者だ。
「去年の合宿の話しですが。旅館側の不備で父母の役員が泊まる部屋が少なかったんですよ。仕方なく僕と西野のかあちゃんが相部屋になる事態で││。」
もしや││。スギもか。
「いやいや、さすがにまずいと思って、僕だけスクール生の部屋で雑魚寝ですよ」
嫌な汗が脇を伝った。
話しの矛先を変えたくて、共通の知り合いである額井コーチの話しを振った。
「額井コーチとは、どこで知り合ったんだ? 」
「ああ、額井さんね。あいかわらず元気なのかな」
「バイタリティがすごいよ、あの人は」
「数年前まで、額井コーチも僕も住まいが東京でして、その地域のサッカースクールで同じようにコーチを」
「なるほどね。それでこっちに越したわけだ」
「そうなんです」
「じゃあ、額井さんも? 」
「あの人はどうでしょうかね………」
「どうでしょうって? 職場が変わったとかあるだろに」
「いや。詳しいことはわからなくて……」
煮え切らないわりには、含みを持たすようないい方だった。
「同じクラブだったなのに、知らないのか」
「まあ、まあ……そこらへんは……ね」
頭を掻いて笑いで過ごそうとするスギ。なんだか、額井コーチについては濁したい雰囲気に、首を傾げた。
数日後││。新田と顔を合わせたのは、高校時代の仲間を集めてのフットサルだった。
最近は、旧友と会うことも多くなった。近頃、流行りのSNSのおかげで同窓会のように集まっては、久しぶりにボールを蹴る。ほとんどの連中が、気ばかりが先にいって覚束ない走りだ。老体に鞭を打つその姿は情けなさを通り越して、滑稽でもある。爆笑して、冗談まじりにビール腹を罵り合った。
軽く汗をかいた頃には、コートよりも喫煙所の密度が濃くなる始末だった。
「息子のスイッチは見つかったか? 」
新田が尋ねる。
「ああ、それに関して礼をいわなくちゃな」
「ってことは、スイッチは見つかったんだな」
「まだまだレギュラーには程遠いが。なかなかやる気は出てきたみたいだ」
僕が南鵠のコーチを務めてから、息子はがらりと変わった。やはり親の背中を見て育つというのは、真実だと思う。まったく何にイラついていたのか。叱咤だけで済ませようとした自分が情けない。新田は「おう、よかったじゃないか」と我が子のように喜んでくれた。
「少年サッカーといえば、おまえの近所にヌカイさんっていないか? 色黒のおっさんなんだが」
「ああ。額井コーチね。チョコボールみたいな人だろ」
「それだ! 珍しい名字だから間違いないと思う」
新田の顔が一瞬だけ曇る。
「どうしかしたのか? 」
「そこのミウって娘が、俺の担任する生徒なんだよ」
新田の務め先は女子校だ。
「つい先日、彼女が風俗店で摘発された。幸い、未成年だから補導扱いだ。うちの生徒は、勉強はそっちのけで化粧だ、セックスだ、とませたことに夢中でな。女としての成長だけはやたらに早い」
新田の女子校の偏差値は、お世辞でも高いとはいえない。キャバクラ嬢の製造工場と揶揄《やゆ》されるのを耳にしたことがある。
「バイト感覚なら、説教して終わるんだが。どうも家庭環境に問題がある。連れ子なんだ。彼女は」
「今時、珍しいとは思わないけどな」
その程度の家庭の不運で、グレる理由を正当できない気がする。連れ子の肩身が狭さは、容易に想像がつくけども。
「血の通わない年頃の女の子と、男が同居するんだ。俺らにわからない何かがあるんだろう」
「オレだったら、ムラムラして襲っちゃうかもな」
鬼畜発言で口を挟んだのは、旧友のひとりだった。時の流れは、頭髪や締まった筋肉を奪い去った。そのわりにモラルの低さだけは、昔から変わっていない。
「教師と教え子といえども、そこまでは聞けてない。どうやら親夫婦の仲が悪化が原因らしい」
「浮気か? 」
「スクールで他の母親と仲良くしてたとか、そんなくだらないことさ。夫婦喧嘩に理由なんてあるか。ちょっとしたことでムカつくもんだ。おまえだってそうだろ? 」
吸い殻を押し潰して新田が、渋い顔でいう。
「振り回される子供はたまったもんじゃないな」
夫婦喧嘩は犬も食わないか。額井の娘に同情すらする。いや、正確には額井の連れ子か。
「額井は今の妻とスクールで知り合ったらしい。ミウの弟が、額井コーチに教わっていた。まあ、よくありがちな話しではある。ここからがウケるんだよ」
新田がニヤニヤとはぐらかす。
「おいおい。もったいぶるなよ」
「額井の前妻も、そこのスクール生の母親なのさ。つまりスクール内で、いろいろ手を出していたわけだ。寝とった女が、今度は寝取られると考えてもおかしくはないよな」
「ずいぶんと女殺しだな」
信じられん。あの成りで。と喉元まででかかる。西野の母親と関係を持った自分も同じ穴のムジナだが。
「噂では、補欠組の母親にレギュラー抜擢とほのめかして、枕営業させるみたいだぜ」
新田がいやらしい笑みでいった。
玄関がガチャガチャと騒がしくなった。
ショールを肩にかけ、めかし込んだ妻が、煙草の匂いとともに帰宅する。友人との飲み会でふらついた妻。その残り香に、石鹸の匂いが鼻をつく。
「なあ、今日おもしろいこと聞いたんだ」
口元を緩ませてビールをコップにつぐ。額井コーチの過去について話したくて仕方がない。どんな反応をするか。妻の反応を想像すると心が躍る。
アクセサリーを外していた妻から「あら、なくしちゃった」と声が漏れた。こちらの言葉に耳を貸しているのか、疑わしいほど酔っている。
「何を? 」
「あなたから貰ったピアスよ」
何度目か。彼女はよくピアスを失くす。以前はシャワーを浴びていた時だった。どうせ失くすから、最近は高いものは買わない。
「仕方ない。店に聞くのはやめておけ。あんな小さい物を探させたら、返って迷惑だ。それより話しを聞いてよ。かなり驚くぞ」
テーブルに促したが妻は座らずに、ふらついた身体でせっかく注いでおいたビールを横取りした。
「わたしもいいこと教えてあげる」
「へえ。じゃあ、君の話しから聞こうかな」
グビグビとコップを開ける妻は、普段より大胆に見える。
「連太郎がレギュラーになるわよ」
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