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その3

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 洞窟の中は下り階段になっていた。泥と大きな石で作られ、高さのまちまちなそれは、雨と湿気でぬかるんで、甚だ滑りやすい。足元が暗いのも危険だった。慎重に降りる。

 湿った土とかすかな金属のにおいがする。耳を澄ましても聞こえるのは自分の足音と呼吸の音だけだ。この階段がどこまで続くのかわからないが、下り続けるうちにどんどん気温も下がり、鳥肌が立つほどになっていた。
 
 ここはどういう場所なのだろう。これが、神域、なのだろうか。振り返るともうとっくに出入り口は見えなくなっていた。
 ふと不安になる。真っ暗だからだろうか。それとも自分がどこにいるのかわからないからだろうか。このままどこにも到達できないのではないかと思ったのだ。その自分の思いつきに、ぞくりとする。
 
 弓香たちはどのくらいの速さで、ここを下ったのだろうか。彼女が持つ灯りが欲しい。
 
 転ばないようにだけ気をつけて、私は足を速めた。踏み出す先すら、もう真っ暗で見えない。
 
「貴様、どうしてここに」

 突如腕を捕まれ、私はぎくりとした。ずいっとしわ深い顔が近づき、ようやく自分を拘束した相手がわかった。お鷹だ。暗闇にいたとしても、足音も気配も感じずここまで接近していたなんて。私を待ち伏せしていたのか? 恐慌状態に陥りそうになっている頭でそんなことを思う。

 彼女は厳しい顔をさらにしかめて、私を睨んだ。
 
「ここが神域と知っての狼藉か? 弓香様は甘い、もはや放ってはおけぬ。来い」
「お鷹さん、すみません、私はなにも知らず」
「来い」

 お鷹は私の言葉に耳を貸さず、老女らしからぬ剛力で腕をぐいぐい引っ張った。私はつんのめるようにして、彼女とともに二段階段を登った。
 お鷹の空の左手が、その着物の懐に入ったと思ったら、白っぽい棒のようなものを持って出てくる。目をこらし、それが白木の鞘を持つ懐刀であると知った。彼女は鞘を口に加え、刃を顕にした。

 背筋が凍った。殺される。
 
「ああっ」

 悲鳴を上げたのは老女だ。私が懇親の力で腕を振り払ったから、転んでしまったらしい。しかし、それを振り返って確かめている場合ではない。私は自分の方こそ転びそうになりながら、階段を下った。数段駆け下りてから、しまった、地上へ逃れるのだったと後悔したが、もう遅い。立ち止まるわけにはいかず、必死に足を動かした。
 
 息が切れ、膝ががくがくするまで走り続けた。お鷹の声も足音もしない。空気はいよいよ冷たくなって、運動で火照った頬でさえツンとするほどだ。
 
「あっ」

 疲れた足がもつれ、私は階段を滑り落ちた。何段分落ちたかわからないが、ようやく勢いが止まって、かっと焼けるような痛みが右足の脛を襲ったとき、手を突いた地面は広く平らだった。最下段に到達したのか。
 痛みを堪えながら、私は身を起こした。
 
「……ここは」
 
 階段の先には、広い空間があった。天井はかなり高く、ごつごつした岩が自由に張り出している。それが視認できるのは、その空間のあちこちに灯りがあったからだ。たくさんのろうそくが並べられ、ゆらゆらと揺れている。照らし出された床は土と石を均してあった。ろうそくの光が届かぬ部分は、不気味に闇に沈んでいる。
 
 奥に、人がひとり立っていた。白い着物姿。弓香か。こちらに背を向けているので、顔は見えない。唄うようになにかを口ずさんでいるのが聞こえてくる。それに夢中なのか、彼女は私に気付いていないようだ。
 彼女の立つ先には、四角く水が張られていた。地面をくり抜いて、そこに注水しているのか、あるいは湧いてきているのか。いったい、どの程度の深さがあるのだろう。
 
 ふいに、弓香の声が止んだ。彼女はすっと姿勢を正すと、徐に、肩を顕にした。帯を解いたのだ。するりと着物を脱ぐと、その下は素肌で、白くしなやかな裸体が惜しげもなくさらされた。長い髪も解かれ、黒い豊かなそれが、白い背中を滝のように流れる。
 いけない、と思いながらも、私はその白い背中、曲線を描く腰と臀部、しなやかな二本の脚から目を離せない。
 
 弓香はすっと右足から一歩前へ出て、水に入った。水たまりの中は階段になっているようで、ゆっくり彼女の体が水に沈んでいく。この寒い空間で、あの水はどれほど冷たいことだろう。こうしているだけで、息が白くなるのに。
 弓香はすっかり、胸のあたりまで沈んでいた。黒髪が、水中の蛇のようにゆらゆらと広がっていく。
 
「……ああ……」

 彼女が、ため息のような高く細い声を上げた。そこにかすかな苦痛、そして……官能の色をみつける。ぞくり、と私の背中になにか温くざらついたものが走った。にわかに訪れた肉欲。それに自分でも戸惑った。

 弓香の声は断続的に上がる。その様子がおかしいことに、私はすぐに気付いた。
 彼女のまわりの水がぼこぼこと、煮沸したように泡立っている。ろうそくの光ではとても中まで照らせないその水は、まるで水銀のようなてらてらとした銀色と、ろうそくの光の橙色に染まって見えた。

 水の飛沫が彼女の白い肩に当たる。――見間違いだろうか。水銀のように光るその水が、まるで手のように見える。いや、見間違いではない。まるで拘束するように、二つの手が彼女の両肩に食い込んでいる。大きさで考えると男の手、だった。しかし、肌の色は弓香と比べても白く……いや、青白かった。照明のせいかだろうか、黄みがかっても見えるし、妙に小さな爪は黒く見える。

 私は息を呑んだ。

 ざぶりと大きく水が跳ね、弓香も跳ねたように見えた。だが、すぐにわかった、彼女は担がれただけだったのだ。飛沫の向こうから現れたなにかによって。
 
 あれは一体、なんなのだろう。頭と手脚があり、人間に近いかたちをしている。がっしりした体格から男のように見えるが、ぶよぶよと水死体のように膨らんだ肢体を見る限り断言できない。全裸のそれの頭部らしき部分は、弓香の喉笛に執拗に舐め回し――口のような亀裂が彼女の白い肌を這っている――、手は彼女の膝下にまわされそのしなやかな体を持ち上げている。
 その水死体のようなものが体の中心を一心不乱に、弓香の大きく開いた脚の間に押し付けていた。
 
 交合している、とでもいうのか。
 
「ああ……ぁ、あっ、ああ」

 弓香の途切れ途切れの喘ぎ声が耳を穿つ。官能の裏に苦痛が交じっている。体を揺さぶられるたび、彼女はいやいやする子供のように、首を左右に振って、悶えた。水位の下がった水たまりはそれでもまだ冷たいはずなのに、ねっとりとした生ぬるい空気が漂ってくるように錯覚する。

 おぞましい。
 得体の知れないなにかに、あの、初夏のにおいのする娘が犯されている。腐臭のしそうな穢れた肉塊に蹂躙され、苦痛にもがきながらも快楽に苛まれている。
 
 恐怖心と不快感は耐え難いほどなのに、私はその光景から目をそらせないでいた。それどころか、下腹部が痛いほど張り詰めている。それを意識すると吐き気に襲われた。ぞくぞくと背筋を駆け上るのが、怖気なのか、それとも気温から来る寒気なのか。
 
 くるりと彼らがこちらを見たのは、体勢を変えようとしたからだろうか。うっすら開いていた弓香の目が見開かれた。私を見付けて。
 はっとした表情になった彼女は、息を呑み。
 
「だめっ、見ないでっ……!」

 叫ぶなりじたばたと暴れ、体勢を崩した異形とともに水しぶきの中に消えた。
 盛大な水音によって、私はようやく呪縛から解放された。水のなかでもがいている弓香のもとへ走り寄り、彼女の脇の下に腕を突っ込んで引き上げる。水は刺すように冷たく、弓香の体もまた、氷のように冷たくなっていた。
 
「逃げよう」

 震える彼女の肩を抱いて、なんとか立たせると、床に落ちていた彼女の着物を拾った。華奢な手首を引き、転びそうになりながらも彼女を階段に誘導する。
 
 ばしゃんと水音がして振り返ると、爪の異様に短い手が、水たまりの中から床に伸びていた。這い上がりたいのか、芋虫のように指が蠢いている。
 
「早くっ」
 
 弓香を急かす。彼女は真っ青な顔をして、首を横に振りながらも、なんとか階段を登り始めた。その肩に着物をかけ、袖を通させる。暗闇に入っても、着物から覗く白い裸体は目に鮮やかで、私に先程のまぐわいを思い出させた。
 
「原田さん。あなた、どうして、ここに……? ここが神域と知っていて?」
 
 荒い呼吸のあいまに、弓香が問う。寒さか動揺か、声が震えている。

「なにも。なにもわからない。でも、君はあんなところにいてはいけない。逃げないと。あの化物が追いかけてくる」

 私の気ばかり急いても、弓香の足は速まらなかった。しかし、彼女を担いで階段を登るには、私の足は傷んでいた。階段を滑り落ちたときについた傷が焼けるように痛み、一歩踏み出すごとに後頭部までがずくずくと疼く。
 
「あれは、化物ではないわ。怒らせてはいけないもの」
「祟るのなら、化物と同じだ」
「ここに封じていなければいけないものなの。私は、ここに残らなければ」

 拒絶を表明するように、彼女は私を突き離す。
 背後から聞こえる水音が、徐々に大きくなってきている。動きは鈍くても、確実に距離が詰められている。
 
 弓香は青ざめた顔でふっと笑った。それが視認できるほど明るくはないので、あくまで私がした暗闇での妄想だが。呼吸音でそう思っただけで。
 
「お鷹の言う通りだったわ。あなたを招き入れたのは失敗だった。憧れたの。外から来た、人のにおいに。泥のにおいはもうたくさんだって。でも、こんなことになるなんて」

 彼女は私の肩を押すと、一歩、後ろに下がった。
 ああ、水音がこんなに近く。
 
「お願い、振り返らないで。絶対に。私はここに残るけれど、あなたは逃げて。私のことは忘れて、峠越えで見た悪夢だとでも思って」
「弓香っ」

 置いていけるわけがない。そんな泣きそうな声で別れを告げられて、残していけるはずがない。

 繋いでいた右手を振りほどかれ、私は暗闇のなか、彼女を手探りする。伸ばした自分の指すら位置が曖昧になる凝った闇。
 
 びしゃりと、水音が、聞こえた、気がした。
 
 ――ア゛ッ……。
 
 くぐもった声が聞こえたような気もしたが、それは、足音の反響を聞き違えたのかもしれない。しんとした、耳に痛い静謐に怖気づき、私は、闇に伸ばした自分の手を引き寄せようとした。
 ふと、指先に柔らかで冷たいものが触れた。
 引き寄せると、すいっと闇から、白い女の顔が現れた。うつむいた、弓香。

 ああ、考え直してくれたのだ。まだそれでも迷いがあるのか、彼女は頑なに顔をあげようとはしないが、私の手を握る彼女の力はしっかりしていた。
 安堵とともに、むくむくと元気が湧いてきて、私は彼女の手を引っ張った。

「急ごう、足元に気をつけて」

 こくりとうなずく彼女を先導し、私はとにかく足を動かした。弓香は裸足でありながら、黙々とついてきた。時折私は彼女の様子を確認しに振り返ったが、彼女はよろめきながら階段を登るだけだ。濡れた髪が頬に張り付いているのが寒そうで、それを指で払ってやると、ぼんやりした目を私に向けた。
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