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その2
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ふと、覚醒したのは、きしっきしっという小さな足音を聞いた気がしたからだ。
慣れない枕のせいか、首が痛い。ゆっくり目を開け身体を起こし、私は耳を澄ませた。外の雨風はいよいよ強く、雨戸ががたがたと大きな音を立てて揺れている。その音にかき消され、小さな足音はもう聞こえなかった。むしろ、先程のそれは、聞き間違いだったのかもしれないと考えた。
今は何時ころなのだろう。雨戸がぴったりしまったこの部屋では、外の光は入ってこない。この雨風では、そもそも太陽は出ていないかもしれない。しかし、喉の渇きや腹具合からして、まだ夜は明けてないような気がした。
もう一度、高すぎる枕に横向きに頭をあずけ、目をつぶろうとして――きしりとかすかな音を聞いた。聞き間違い、ではないようだ。
そっと布団を抜け出して、襖を開ける。廊下の角を、橙色の灯りがすうっと曲がっていくのが見えた。灯りは遠ざかり、廊下には暗闇が満ちる。
お鷹か、弓香か。あちらは玄関の方で、厠は逆側だ。となると、なにか用事があって、外にものを取りに行くとか?
外の雨風の強さを考えると、それは危険だし、重労働に思えた。ここは、男の私が出るべきではないだろうか。恩を返したいという気持ちもある。
寝間着にと借りた浴衣の前を直しながら、部屋を出て、私は灯りを追いかけた。
「ですから、反対いたしましたのに」
厳しいお鷹の声が聞こえ、私ははっと足を止めた。角の向こうに、人の気配があった。揉め事のにおいに、私はその場で壁に張り付くようにして、静かにした。
続いて聞こえたのは、苦笑まじりの弓香の声だ。
「そうは言ってもね、お鷹。放り出してしまえば、あの人はこの嵐の中、凍え死んでいたかもしれないのよ。私がお慰めすればよいだけだから、そんなことを言わないで。あの人は悪くないわ」
「軽く考えてはいけませんよ。ああいう輩を不用意に神域に近づけて、逆鱗に触れれば、この地はまた土砂に埋もれることになるのです。そうなれば、何人が死ぬか。やはり、あの旅人は放り出すべきでした」
「もう遅いわ」
「いえ、遅くはありません。今、あの部屋で呑気に寝息を立てているあの男の首を差し出せば、もしかしたら」
物騒な話が聞こえてきて、私は息を飲んだ。
ここに訪れ、玄関でお鷹の返答を待つ間に振り返って見た、あの地面に落ちた白い縄の存在を突然思い出す。もしかしたら、ここは踏み込んではいけない場所だったのではないだろうか。……おそらくは、そうなのだろう。
「お鷹、およしなさい」
ぴしゃんと、老女の言葉を遮り嗜めたのは、弓香だ。
しばらく緊張した沈黙が続いていたが、やがて足音が再び聞こえだし、玄関の開閉音が聞こえた。そろりと顔を出した私は、廊下の先に誰もいないことを確認し、安堵の息をついた。
どうするべきなのだろう。このままここにいるのは危険なのではないだろうか。
弓香はともかく、お鷹にとって私は招かれざる客でしかない。しかも、お鷹は私の首を――あれはただの物騒な比喩であるという可能性を考えたいが、楽観視していいものなのだろうか。
身の危険を不安に思うと同時に、弓香が心配でもあった。善意で私を助けてくれた彼女が、なにかしら負担を強いられていることは確かだ。謝罪して済むことであればいいが。あるいは、私がなにかすれば彼女の負担が軽くなるのであれば、ぜひそうしたい。
たとえば、早急にここを出ていくとか。
もちろん、この嵐の中峠を下るのは自殺行為だとしても、……なにかほかに方法はあるかもしれない。
私は玄関の戸を少しだけ開け、そろりと外を見た。大風、大雨。夜も明けてない。家の外壁に沿って、ゆっくり動く灯りが視認できた。きっと弓香とお鷹だ。裏に回るらしい。
この嵐の中、外へ行くということは、それが急ぎで後回しにできない用だということにほかならない。弓香の言っていた「お慰めする」ということに関係があるのではないだろうか。彼女は巫女かなにかで、神事でも行うのかもしれない。
雨風から目を庇うため、顔の前に手を掲げ、私は灯りを追いかけた。
大きな屋敷を回り込んでたどり着いた裏庭には、紫陽花が咲き乱れていた。淡く咲いたまるい花がゆさゆさと風に揺られている。灯りが、そのなかを突っ切って行く。ぼんやり照らしだされた弓香の姿が遠目に見えた。雨のせいではっきりはしないが、彼女は顔を合わせたときと違って、真っ白な着物に着替えていた。その後ろを小柄なお鷹が続く。風に吹かれた紫陽花が、まるで弓香に向かってお辞儀するように、あるいは手招きするように揺れている。
彼女たちは、紫陽花の向こうにある、山の斜面に開いた洞穴に消えた。あまり大きな穴ではない。人ふたり、並んで通れるかどうかというところだ。穴の上には、雨水で湿って周囲の泥を吸った、しめ縄らしきものがぶら下がっている。
灯りが見えなくなったのを確認し、私も後を追いかけた。体中を打ち据える雨風から逃れるようにして。
慣れない枕のせいか、首が痛い。ゆっくり目を開け身体を起こし、私は耳を澄ませた。外の雨風はいよいよ強く、雨戸ががたがたと大きな音を立てて揺れている。その音にかき消され、小さな足音はもう聞こえなかった。むしろ、先程のそれは、聞き間違いだったのかもしれないと考えた。
今は何時ころなのだろう。雨戸がぴったりしまったこの部屋では、外の光は入ってこない。この雨風では、そもそも太陽は出ていないかもしれない。しかし、喉の渇きや腹具合からして、まだ夜は明けてないような気がした。
もう一度、高すぎる枕に横向きに頭をあずけ、目をつぶろうとして――きしりとかすかな音を聞いた。聞き間違い、ではないようだ。
そっと布団を抜け出して、襖を開ける。廊下の角を、橙色の灯りがすうっと曲がっていくのが見えた。灯りは遠ざかり、廊下には暗闇が満ちる。
お鷹か、弓香か。あちらは玄関の方で、厠は逆側だ。となると、なにか用事があって、外にものを取りに行くとか?
外の雨風の強さを考えると、それは危険だし、重労働に思えた。ここは、男の私が出るべきではないだろうか。恩を返したいという気持ちもある。
寝間着にと借りた浴衣の前を直しながら、部屋を出て、私は灯りを追いかけた。
「ですから、反対いたしましたのに」
厳しいお鷹の声が聞こえ、私ははっと足を止めた。角の向こうに、人の気配があった。揉め事のにおいに、私はその場で壁に張り付くようにして、静かにした。
続いて聞こえたのは、苦笑まじりの弓香の声だ。
「そうは言ってもね、お鷹。放り出してしまえば、あの人はこの嵐の中、凍え死んでいたかもしれないのよ。私がお慰めすればよいだけだから、そんなことを言わないで。あの人は悪くないわ」
「軽く考えてはいけませんよ。ああいう輩を不用意に神域に近づけて、逆鱗に触れれば、この地はまた土砂に埋もれることになるのです。そうなれば、何人が死ぬか。やはり、あの旅人は放り出すべきでした」
「もう遅いわ」
「いえ、遅くはありません。今、あの部屋で呑気に寝息を立てているあの男の首を差し出せば、もしかしたら」
物騒な話が聞こえてきて、私は息を飲んだ。
ここに訪れ、玄関でお鷹の返答を待つ間に振り返って見た、あの地面に落ちた白い縄の存在を突然思い出す。もしかしたら、ここは踏み込んではいけない場所だったのではないだろうか。……おそらくは、そうなのだろう。
「お鷹、およしなさい」
ぴしゃんと、老女の言葉を遮り嗜めたのは、弓香だ。
しばらく緊張した沈黙が続いていたが、やがて足音が再び聞こえだし、玄関の開閉音が聞こえた。そろりと顔を出した私は、廊下の先に誰もいないことを確認し、安堵の息をついた。
どうするべきなのだろう。このままここにいるのは危険なのではないだろうか。
弓香はともかく、お鷹にとって私は招かれざる客でしかない。しかも、お鷹は私の首を――あれはただの物騒な比喩であるという可能性を考えたいが、楽観視していいものなのだろうか。
身の危険を不安に思うと同時に、弓香が心配でもあった。善意で私を助けてくれた彼女が、なにかしら負担を強いられていることは確かだ。謝罪して済むことであればいいが。あるいは、私がなにかすれば彼女の負担が軽くなるのであれば、ぜひそうしたい。
たとえば、早急にここを出ていくとか。
もちろん、この嵐の中峠を下るのは自殺行為だとしても、……なにかほかに方法はあるかもしれない。
私は玄関の戸を少しだけ開け、そろりと外を見た。大風、大雨。夜も明けてない。家の外壁に沿って、ゆっくり動く灯りが視認できた。きっと弓香とお鷹だ。裏に回るらしい。
この嵐の中、外へ行くということは、それが急ぎで後回しにできない用だということにほかならない。弓香の言っていた「お慰めする」ということに関係があるのではないだろうか。彼女は巫女かなにかで、神事でも行うのかもしれない。
雨風から目を庇うため、顔の前に手を掲げ、私は灯りを追いかけた。
大きな屋敷を回り込んでたどり着いた裏庭には、紫陽花が咲き乱れていた。淡く咲いたまるい花がゆさゆさと風に揺られている。灯りが、そのなかを突っ切って行く。ぼんやり照らしだされた弓香の姿が遠目に見えた。雨のせいではっきりはしないが、彼女は顔を合わせたときと違って、真っ白な着物に着替えていた。その後ろを小柄なお鷹が続く。風に吹かれた紫陽花が、まるで弓香に向かってお辞儀するように、あるいは手招きするように揺れている。
彼女たちは、紫陽花の向こうにある、山の斜面に開いた洞穴に消えた。あまり大きな穴ではない。人ふたり、並んで通れるかどうかというところだ。穴の上には、雨水で湿って周囲の泥を吸った、しめ縄らしきものがぶら下がっている。
灯りが見えなくなったのを確認し、私も後を追いかけた。体中を打ち据える雨風から逃れるようにして。
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