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その1
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その日、雨が降りそうだと覚悟して宿を出た。次の街まで保ってくれよと祈りながら、足早に峠道を進んだが、予想よりずっと早い降り出しに、自分が楽観的すぎたことを悔やんだ。
雨はざあざあと、まるで滝のような勢いで降り、外套を着込んだ私の全身を濡らした。体が冷え、これは本格的にまずいことになった、と焦りながら雨宿りできる場所を探した。
木々の隙間から、人家の明かりが見えたときにはほっとした。
このようにぽつんと峠の途中にある家など地図に載っていようはずもない。幸運に感謝しながら、私は戸を叩いた。そして改めてその建物を見て、驚きにつばを飲み込んだ。
峠道から少し入った、木ばかりで不便で人気のない場所に似つかわしくない立派さ。豪邸、と言って差し支えないだろう。真っ暗な雨空の下、濡れてつやつや輝く黒い屋根瓦はすべて綺麗に揃っていて、叩いた戸には格子の間にガラスが嵌められている。とろりとした橙色の明かりが、そこから透過して外へ漏れ出ているのだ。他の部屋はびったりと雨戸が閉じられ、中の様子を伺い知ることはできないが、庭にはたくさんの紫陽花が咲き乱れて美しかった。薄暗さに負けず、まあるい花はぼんやりと白っぽく浮いて見える。
振り返ってみると、鬱蒼と茂った木々の合間、この屋敷の土地との境を示すように、雨と泥で汚れた太く白い縄が地面に落ちていた。本来、門の前にピンと張っていたのかもしれない。踏み越えて侵入してしまってよかったのかと、今更ながら心配になる。
「どちら様で」
ややあって玄関のなかから聞こえたのは、しゃがれた老女の声だった。
「旅の者です。雨に降られて、困っています。雨宿りをさせていただけませんか」
「確認して参ります」
なるほど、お女中さんか。たしかに、この広い家を維持するには必要な人手だろう。
私は玄関に張り付くようにして雨を避けながら、応えを待った。
ほどなくして、老女が「どうぞ、雨の止むまでご滞在ください」と言って、屋敷に迎え入れてくれたのだ。
◆
食事も風呂もいただいて、それでも雨は降り止まなかった。そうこうしているうちに夜になり、峠を越えるのはもちろん、引き返すのも不可能になった。
この峠は昔から難所と言われていて、天気が良くても急な坂や岩だらけの道に阻まれて、越えるのは苦労をともなう。大雨のあとはよく地すべりを起こし、人死にも出たし、道も塞がれてきた。気性の荒い神が住まう峠と言われ、地元では信仰の対象になっているとも聞く。そんな峠道をこの雨のなか移動するのは、自殺行為というものだ。
私に、老女は小さな部屋を用意してくれた。小さい、と言っても、東京にある私の住処とほぼ同じ程度の面積はあり、いぐさの好ましい香りが満ちている部屋だ。布団まで敷いてある。
「大変申し訳無い。急に押しかけたというのに、ここまでしていただいて」
「当主から、お客様をもてなすように、と」
世話を焼いてくれる老女は、小柄で髪は白く染まっていたが、背筋はピンと伸び、皺深い顔の中にある双眸は鋭かった。こちらが笑顔を作ってもにこりともしないが、それでも構わない。ここまでしてもらって、なんの文句があるというのか。
「ご当主様にご挨拶をさせていただけませんか」
礼を言いたかった。もっと早くにそうすべきだったのだろうが。
老女は目を伏せると「確認して参ります」とまた言い、しばらくして部屋に戻ってきた。「当主が、お会いになるそうです」
板張りの廊下はよく磨き込まれて、飴色だった。歩くたびにきしきしと心地よい音がする。やはり広いだけあって部屋数も多く、沢山の戸の前を横切った。しかし、人の気配はない。この広い屋敷で、この老女と二人きりで生活しているのだろうか、その当主は。不便はないのだろうか。いくらこの老女がいるとはいえ、老人と二人で生活するには、家が広すぎる気がする。
老女は、最奥の部屋の襖の前ですっと膝を落とした。
「弓香様。お客様がお越しです」
「お通しして」
凛とした声がした。女性の声だ。襖が開いた。中は、十畳ほどの和室だった。箪笥や棚が壁際に並び、真ん中にはどっしりした一枚板の、漆塗りの卓がある。その向こう、障子の前に置かれた文机に向かっていた女性がこちらを振り返った。
若草色の小袖の上に、ショールを羽織って、豊かな黒い髪をふんわりと首の後ろでまとめている。白い顔、目元は涼やかで鼻筋が通っているが、大きめの口とえくぼに愛嬌があった。
年の頃なら、二十前後だろう。私より、少し若い。
彼女は、ふっと微笑んだ。
「宗方弓香です。雨の中、大変でしたね。今晩はゆっくりお休みくださいな。なにかあれば、お鷹に」
「私は、原田ミツルと申します。急なお願いでしたのに、ここまで良くしていただいて、……ありがとうございます。ご温情に感謝いたします」
ろくな言葉が思い浮かばなかった。弓香の笑顔を直視できず、顎を撫でて照れ笑いしてごまかそうとする。
「この峠を越えようとなさったのかしら。朝から天気が悪かったでしょうに、どうして」
責めるというより面白がっている様子で、彼女は姿勢を少し楽にした。
「仕事で、できれば早く到着したかったのです、目的地に。しかし、欲をかいて失敗しました」
「あらあら。どんなお仕事をなさっているの?」
「絵描きです……いえ、見習いなのですが」
「それは素敵ね。それがまたどうして、この峠の向こうに急いだのですか」
「私の師事している先生の代わりに、届け物をしてきたんです。急ぎの品だったので、行きは汽車を使ったんですがね。先生はケチで帰りの路銀をくれなかったんですよ」
「まあ。それは大変でしたね。お疲れでしょう。お鷹、原田さんにお茶をお出しして」
「かしこまりました」
老女――お鷹というらしい――はうやうやしく頷いて、その場を去っていった。きしきしっと、彼女と共に足音が遠ざかっていく。
「ご当主様は」
「弓香と呼んでくださって結構ですよ」
「……弓香さんは、お鷹さんとここでお二人で暮らしていらっしゃるのですか」
「ええ。不便じゃないか、とお思いですね、そのお顔は。週に一度、ここを通る商人から必要なものを買っているので、さほど不便ではありませんよ。もちろん、街で暮らすよりは楽しみが少ないでしょうが、ここは静かでいい」
今は雨戸が閉まって、光さえ通さない障子の向こうに、彼女が視線を向けた。
「この季節は庭の紫陽花が美しいのです。私は土いじりが好きで、お鷹には嫌がられるのですが、やめられません」
「先ほど、見かけました。とても素晴らしかったですよ、紫陽花」
「そうでしょう」
ぱっと花が咲いたような笑顔になって、弓香が胸を反らした。その表情は、明るい初夏の空を思わせる清々しさをもって、私の目に飛び込んできた。
「雨の中見ると、風情があって、とてもよろしいかと。でも、晴れた日の紫陽花も素敵ですよ。雨が止んだら、ぜひ見てくださいな」
「美しいでしょうね。きっと絵を描きたくなってしまいます」
「原田さんはどのような絵を描くの」
そこで、お鷹がお茶を持ってきた。私の分と、弓香の分だ。弓香に勧められ、私は茶碗を啜った。薫り高いほうじ茶。夜にはとてもあう。温度も、飲みやすかった。あっという間に飲み干してしまう。
「私は、人物画を」
「……裸の女性も描くのかしら」
弓香はいたずらっぽい表情で問うた。
「ええ。モデルの都合がつけば」
冗談で返そうと思ったが、お鷹の視線を感じ、無難な返事で落ち着いた。
「もし作品をお持ちだったら、見せていただきたいわ」
「今は持っていません」
「残念だわ。……そうだ、紙と筆をお渡しするので、描いてみせてくださらない」
あまりに楽しそうに言われるので、返答に窮した。普段、描画に使用するのは木炭で、弓香が自分の文机から取り出した書用の筆とは違う。
しかし、落胆させまいと、期待の眼差しをむけてくる弓香をモデルに、あまり似ていない絵を描いた。やはり勝手が違うし、薄墨もないから濃淡もつけられず、酷い有様だった。それでも、弓香は目を輝かせて手を叩いた。
「すごいわ、鏡の中の私がいる! 見てお鷹、素晴らしい才能じゃない」
お鷹は「さようで」と言っただけだった。それでも弓香ははしゃいで、まだ墨の香りのするそれを壁に飾ろうとか、額縁でもつけようかと言う。無邪気な少女のようで、――大変好ましかった。その表情の変化を、いつかカンバスに描き込めないかと本気で思うほどに。
雨はざあざあと、まるで滝のような勢いで降り、外套を着込んだ私の全身を濡らした。体が冷え、これは本格的にまずいことになった、と焦りながら雨宿りできる場所を探した。
木々の隙間から、人家の明かりが見えたときにはほっとした。
このようにぽつんと峠の途中にある家など地図に載っていようはずもない。幸運に感謝しながら、私は戸を叩いた。そして改めてその建物を見て、驚きにつばを飲み込んだ。
峠道から少し入った、木ばかりで不便で人気のない場所に似つかわしくない立派さ。豪邸、と言って差し支えないだろう。真っ暗な雨空の下、濡れてつやつや輝く黒い屋根瓦はすべて綺麗に揃っていて、叩いた戸には格子の間にガラスが嵌められている。とろりとした橙色の明かりが、そこから透過して外へ漏れ出ているのだ。他の部屋はびったりと雨戸が閉じられ、中の様子を伺い知ることはできないが、庭にはたくさんの紫陽花が咲き乱れて美しかった。薄暗さに負けず、まあるい花はぼんやりと白っぽく浮いて見える。
振り返ってみると、鬱蒼と茂った木々の合間、この屋敷の土地との境を示すように、雨と泥で汚れた太く白い縄が地面に落ちていた。本来、門の前にピンと張っていたのかもしれない。踏み越えて侵入してしまってよかったのかと、今更ながら心配になる。
「どちら様で」
ややあって玄関のなかから聞こえたのは、しゃがれた老女の声だった。
「旅の者です。雨に降られて、困っています。雨宿りをさせていただけませんか」
「確認して参ります」
なるほど、お女中さんか。たしかに、この広い家を維持するには必要な人手だろう。
私は玄関に張り付くようにして雨を避けながら、応えを待った。
ほどなくして、老女が「どうぞ、雨の止むまでご滞在ください」と言って、屋敷に迎え入れてくれたのだ。
◆
食事も風呂もいただいて、それでも雨は降り止まなかった。そうこうしているうちに夜になり、峠を越えるのはもちろん、引き返すのも不可能になった。
この峠は昔から難所と言われていて、天気が良くても急な坂や岩だらけの道に阻まれて、越えるのは苦労をともなう。大雨のあとはよく地すべりを起こし、人死にも出たし、道も塞がれてきた。気性の荒い神が住まう峠と言われ、地元では信仰の対象になっているとも聞く。そんな峠道をこの雨のなか移動するのは、自殺行為というものだ。
私に、老女は小さな部屋を用意してくれた。小さい、と言っても、東京にある私の住処とほぼ同じ程度の面積はあり、いぐさの好ましい香りが満ちている部屋だ。布団まで敷いてある。
「大変申し訳無い。急に押しかけたというのに、ここまでしていただいて」
「当主から、お客様をもてなすように、と」
世話を焼いてくれる老女は、小柄で髪は白く染まっていたが、背筋はピンと伸び、皺深い顔の中にある双眸は鋭かった。こちらが笑顔を作ってもにこりともしないが、それでも構わない。ここまでしてもらって、なんの文句があるというのか。
「ご当主様にご挨拶をさせていただけませんか」
礼を言いたかった。もっと早くにそうすべきだったのだろうが。
老女は目を伏せると「確認して参ります」とまた言い、しばらくして部屋に戻ってきた。「当主が、お会いになるそうです」
板張りの廊下はよく磨き込まれて、飴色だった。歩くたびにきしきしと心地よい音がする。やはり広いだけあって部屋数も多く、沢山の戸の前を横切った。しかし、人の気配はない。この広い屋敷で、この老女と二人きりで生活しているのだろうか、その当主は。不便はないのだろうか。いくらこの老女がいるとはいえ、老人と二人で生活するには、家が広すぎる気がする。
老女は、最奥の部屋の襖の前ですっと膝を落とした。
「弓香様。お客様がお越しです」
「お通しして」
凛とした声がした。女性の声だ。襖が開いた。中は、十畳ほどの和室だった。箪笥や棚が壁際に並び、真ん中にはどっしりした一枚板の、漆塗りの卓がある。その向こう、障子の前に置かれた文机に向かっていた女性がこちらを振り返った。
若草色の小袖の上に、ショールを羽織って、豊かな黒い髪をふんわりと首の後ろでまとめている。白い顔、目元は涼やかで鼻筋が通っているが、大きめの口とえくぼに愛嬌があった。
年の頃なら、二十前後だろう。私より、少し若い。
彼女は、ふっと微笑んだ。
「宗方弓香です。雨の中、大変でしたね。今晩はゆっくりお休みくださいな。なにかあれば、お鷹に」
「私は、原田ミツルと申します。急なお願いでしたのに、ここまで良くしていただいて、……ありがとうございます。ご温情に感謝いたします」
ろくな言葉が思い浮かばなかった。弓香の笑顔を直視できず、顎を撫でて照れ笑いしてごまかそうとする。
「この峠を越えようとなさったのかしら。朝から天気が悪かったでしょうに、どうして」
責めるというより面白がっている様子で、彼女は姿勢を少し楽にした。
「仕事で、できれば早く到着したかったのです、目的地に。しかし、欲をかいて失敗しました」
「あらあら。どんなお仕事をなさっているの?」
「絵描きです……いえ、見習いなのですが」
「それは素敵ね。それがまたどうして、この峠の向こうに急いだのですか」
「私の師事している先生の代わりに、届け物をしてきたんです。急ぎの品だったので、行きは汽車を使ったんですがね。先生はケチで帰りの路銀をくれなかったんですよ」
「まあ。それは大変でしたね。お疲れでしょう。お鷹、原田さんにお茶をお出しして」
「かしこまりました」
老女――お鷹というらしい――はうやうやしく頷いて、その場を去っていった。きしきしっと、彼女と共に足音が遠ざかっていく。
「ご当主様は」
「弓香と呼んでくださって結構ですよ」
「……弓香さんは、お鷹さんとここでお二人で暮らしていらっしゃるのですか」
「ええ。不便じゃないか、とお思いですね、そのお顔は。週に一度、ここを通る商人から必要なものを買っているので、さほど不便ではありませんよ。もちろん、街で暮らすよりは楽しみが少ないでしょうが、ここは静かでいい」
今は雨戸が閉まって、光さえ通さない障子の向こうに、彼女が視線を向けた。
「この季節は庭の紫陽花が美しいのです。私は土いじりが好きで、お鷹には嫌がられるのですが、やめられません」
「先ほど、見かけました。とても素晴らしかったですよ、紫陽花」
「そうでしょう」
ぱっと花が咲いたような笑顔になって、弓香が胸を反らした。その表情は、明るい初夏の空を思わせる清々しさをもって、私の目に飛び込んできた。
「雨の中見ると、風情があって、とてもよろしいかと。でも、晴れた日の紫陽花も素敵ですよ。雨が止んだら、ぜひ見てくださいな」
「美しいでしょうね。きっと絵を描きたくなってしまいます」
「原田さんはどのような絵を描くの」
そこで、お鷹がお茶を持ってきた。私の分と、弓香の分だ。弓香に勧められ、私は茶碗を啜った。薫り高いほうじ茶。夜にはとてもあう。温度も、飲みやすかった。あっという間に飲み干してしまう。
「私は、人物画を」
「……裸の女性も描くのかしら」
弓香はいたずらっぽい表情で問うた。
「ええ。モデルの都合がつけば」
冗談で返そうと思ったが、お鷹の視線を感じ、無難な返事で落ち着いた。
「もし作品をお持ちだったら、見せていただきたいわ」
「今は持っていません」
「残念だわ。……そうだ、紙と筆をお渡しするので、描いてみせてくださらない」
あまりに楽しそうに言われるので、返答に窮した。普段、描画に使用するのは木炭で、弓香が自分の文机から取り出した書用の筆とは違う。
しかし、落胆させまいと、期待の眼差しをむけてくる弓香をモデルに、あまり似ていない絵を描いた。やはり勝手が違うし、薄墨もないから濃淡もつけられず、酷い有様だった。それでも、弓香は目を輝かせて手を叩いた。
「すごいわ、鏡の中の私がいる! 見てお鷹、素晴らしい才能じゃない」
お鷹は「さようで」と言っただけだった。それでも弓香ははしゃいで、まだ墨の香りのするそれを壁に飾ろうとか、額縁でもつけようかと言う。無邪気な少女のようで、――大変好ましかった。その表情の変化を、いつかカンバスに描き込めないかと本気で思うほどに。
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