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#27
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病院に着いてまず、受付にクラウディオの居場所を聞いた。
柱に貼られた地図で確認し、エレベーターに乗り込む。同乗者たちは、皆地下一階の検査室で降り、最後まで降りようとしないわたしに同情的な視線を送ってきた。
薄暗い地下二階の最奥に、部屋名のプレートがない扉があった。そっと扉を開く。老神父が横たわっており、かたわらに、疲れた顔のクラウディオが待っていた。自然に両手をあわせたあと、十字を切るべきだったか、少し悩んだ。
なるべく、物音をたてないように荷物から封筒を取り出し、手渡す。
「ありがとう。葬儀社があと一時間で到着するんだ。悪いんだが、……少し任せてもいいか」
「もちろんよ」
クラウディオは書類とスマートフォンを手に部屋を出ていった。椅子を寄せて、静かに眠っているドナトーニ神父の顔を見つめる。安らかな、本当に眠っているような顔だ。神聖なものを見ているような気すらわいてくる。その手に触れたらまだ温かいのではないだろうかと錯覚してしまいそう。
無意識に伸ばしかけていた手に気付いて、わたしは誰にともなく苦笑した。
「あれ……?」
一瞬、ドナトーニ神父の胸の上で組んだ手が動いたように見えた。
疲れからくる錯覚だろう。ごしごしと目をこすって、再度視線を転じるが――。
「し、神父様っ?」
(動いてる!?)
半ば腰を浮かせて、部屋を出たクラウディオを呼び戻そうとした。しかし腕をものすごい力でひっぱられ、椅子から転げ落ちる。倒れたパイプ椅子が、けたたましい音を立てた。
うちつけた膝が焼けるように痛む。さすりながら顔を上げると、信じ難い光景があった。
さっきまで、ぴくりともしなかったドナトーニ神父が、糸で吊られた人形のように、ふわりと上半身を起こした。しわ深い顔はまだ眠っているというのに、その手は祈りの形を崩して、だらりと体の両脇に垂れた。
「イノリ、どうした?」
物音に気づいたクラウディオが、ドアから顔をのぞかせて硬直した。切れ長の目が、見開かれる。狼狽するわたしたちの前で、亡骸はゆっくり一歩踏み出した。
遺体を横たえる狭い台にその先はないのに、遺体が床に倒れることはなかった。見えない地面があるようにその場に直立している。いや、立っているというよりは、浮いている。
「なんだ、これは……。ドナトーニ、お前、いったい……?」
「クラウディオ、だめ!」
わたしが飛びついて止めていなければ、クラウディオの腕は無くなっていただろう。
目標物を失って大きく空振りした老神父の手が、そばにあった木製の棚に大穴をあけた。
みるみるうちに、自分の頭から血の気が引いていくのがわかった。
老神父は、ぎこちない動きでこちらを振り返って、床で呆然としているわたしたちに顔をむけた。また、腕が振りかぶられる。先ほど棚にぶつかった右手が、かろうじて手首とつながっているとわかるほどにつぶれているのに気づく。
非常事態だ。
ばくばく心臓が鳴るのと裏腹に、頭のどこか冷静な部分では原因をつきとめていた。ギャロップさながらの心臓を抱えたまま、さらに目を凝らし、目的のものを見つける。遺体のぼんのくぼから延びる、細い細い糸のようなもの。薄暗い明かりの中でも角度によってはきらめいて見える。糸と思われるそれは、ついと延びて壁の中に奥の壁につながっていた。
「随分と、卑怯な真似をするのね」
怯えを振り払うためにわざと大声を出すと、眠るようだった老神父の顔が動いた。半月のような不気味な口に、細くなった両の目。ご丁寧に笑い声までついている。
奴は、ドナトーニ神父の声で言った。
「卑怯とは、おもしろい概念だ。普遍的な価値観の基盤がなければ生まれない。ふむ、そなたはこうして死者を使うことを卑怯と言うか。なぜ、他者を利用すると卑怯と呼ばれるか、是非知りたい」
「仲むつまじく哲学者ごっこするつもりはないわ。神父様を返して」
「神父? これはもう、ただの肉の塊だろう」
この間にも、けたけた笑う遺骸の後ろの壁から、迫り出すようにして肉色の禍々しい人形が顕現していた。炎に照らされていたときはもっと赤みが強かったが、今見ると、火を通す前の腸詰め肉みたいに白っぽい。浮き出た血管が生々しく、顔の位置に病んだ中年男の面をつけたような格好は変わらないが、そいつの指先から細く延びた糸が、老神父の遺骸に繋がっている。
やつは、古代ギリシア風のドレープが寄った衣装を翻すと、指をくいっと動かした。
「イノリ!」
一秒前までわたしの頭があったところを、うなりをあげた遺体の腕が過ぎ去っていった。数本、逃げ遅れた髪の毛が宙に舞う。クラウディオが腕を引っ張ってくれなければ、わたしの頭はあの棚のようにグシャグシャになっていただろう。
背筋に冷たい汗が流れる。
「さてどうしたものか」
ドナトーニ神父は、小首を傾げた。人情の機微なんてこれっぽっちも理解してないだろうに、変に芸が細かいのに腹が立つ。
「どうしたもこうしたもない、神父様を返せ!」
「ここに来て、そなたたちを嬲っていれば、あやつも姿を見せると踏んでいたのだが。思いの外、そなたらの価値は低いようだ」
(あいつって?)
問い返す必要もない。ユリアンのことに決まっている。ということは、彼はなんとか逃げおおせているということだ。
考えている間に再び迫った鉤爪をしゃがんでよける。今度は腕にかすってしまい、鋭い痛みを感じた。老神父の体が、ぎしぎしと嫌な音を立てて旋舞する。
(全部わたしを狙っている!)
猫に転がされるネズミはきっとこんな気分なのだろう。頭を抱えて転げ回れば、そこここからこぼれた赤い血が、リノリウム張りの床にかすれた模様を描き出した。
「息子を返せ!」
クラウディオが隙をついて、暴れる遺体を羽交い締めにした。しかし。
「ぐぅっ!」
とても力ではかなわず、派手な音をたてて、壁に激突した。ずるずると床に座り込む。壁には、引きずったような血のあとが残った。
「クラウディオ!」
叫んだわたしの喉元に、しゅっと老人の貫手が添えられた。触れるか触れないか、きわどいところで制止している。わたしは、身を起こしかけた不自然な体勢で、硬直する。こめかみの汗が、顎を伝って落ちる。
「ふむ。あやつのしぶとさに慣れているからか、もの足りぬな。もう少し、時間をかければあやつも駆けつけるか?」
「どれだけ待ってもユリアンは来ないわよ。来る理由がないもの」
「それはおかしな話よのう。月が欠けるころになると、わざわざ我らを引き受けて、そなたらから遠ざけるような手間をかけていたのに」
「なんですって……?」
「なにも知らぬか。あやつの気まぐれやもしれぬな。ならばここで遊んでいる必要もないということ」
「っ……!」
ずっ、と貫手が差し出され、わたしは自分の喉が切り裂かれるのを覚悟して目をつぶった。
刹那、轟音が鼓膜を穿った。同時に、貫手がふつりと力を失った。
重たい何かが覆いかぶさってきて、思わず目を開く。糸を失った老神父の体が、だらりとわたしの上にのしかかっていた。
視界が翳り、顔をあげる。
視界の端から突き出された硝煙のくゆる銃口が、肉色天使にぴったりむいている。
天使は、わずかに弾んだ声で言った。
『ようやく来たな、吾が半身』
「なーにが半身だ。未確認生物が」
歯をむき出しにした獰猛な笑みを浮かべて、ユリアンがうなるように言った。
「ユリアン!」
「おう、イノリ。二日ぶり。相変わらず陰気そうで、安心したぜ」
「うるさいわね、いったい今までどこに潜伏して……ちょっと!」
「い、いて! 馬鹿、そこ触んなって!」
血のシミが浮き出たわき腹をシャツの上から触れると、ユリアンに手を叩き落された。ユリアンは声こそしっかりしているが、額にはじっとり汗をかいている。
よく観察してみれば顔色は悪いし、いつも気遣っているはずの服装にも乱れがある。垢じみたシャツに、穴のあいたジャケット、泥の跳ねたスラックスといずれも二日前に見たときと同じものばかりだ。着替えてないのだ。本当に、ほかの敵を引きつけて孤軍奮闘していたのか。
(なんて無茶したの)
感謝すべきであって腹を立てる場面ではないとわかっているのに、目つきがきつくなるのを止められなかった。
「ったく、今日はずいぶん攻め手が緩やかだと思ったら、こんなところで道草とは、いいご身分だな。鬼ごっこの鬼が勝手にリタイアすんなよ」
わたしを押し退け、ユリアンはずいっと天使との間合いを一歩つめた。話をしながら、目を眇めて、動かないクラウディオと、老神父の冒涜された遺体を見やる。
わずかに、ユリアンの口角がこわばったのを、わたしは見逃さなかった。
「それで。オレの半身様よお。このままリタイアする? それとも――」
赤い舌が、ぬるりと唇をなめあげた。挑発的に、ヘーゼルの瞳が細まる。
「続きを?」
合図は銃声だった。ユリアンが放った散弾は、着弾直前に体を揺らがせ半透明になった天使を通り抜け、後ろの壁に穴をあけた。
二発目が発射されたときには、肉色の触手がユリアンに向かって突き出されている。
やはりよけられた散弾が壁を穿つと同時に、ユリアンも左に身をかわして、第三の弾を撃ち込んでいた。
よけられて目標を失った触手は、壁に触れる直前に一度大きくしなると三本に分かれた。風を切る音を立てて、一本がユリアンの顔面に迫る。だが、ユリアンは焦ったふうもなく大口を開け、迷わず触手に噛みついた。食いちぎられた触手が、床に吐き出されるなり四散する。
「わわっ!」
分かれたもう一本の触手が、わたしの頭上を横薙ぎにして過ぎ去っていった。とっさに身をかがめてやり過ごすが、追ってはらはらと数本の髪の毛が落ちてくる。
三本目の触手は、さらに二本に枝分かれして、直角に折れ曲がると、ユリアンの頭と腹に迫った。一メートルに及ばない二本の槍の間に、ユリアンは身を投げ出して着地する。ライオンの火の輪くぐりを見ている気分だ。
「イノリ! クラウディオを連れて逃げろ!」
ユリアンが曲芸めいた動きで、金色の触手たちを翻弄している。だがその顔色が優れないのは、傍目にもわかった。横腹の出血がますます増えている。このままでは不利だ。わたしたちを庇って戦うなんて、とても無理。
わたしは自分の上に乗っているドナトーニ神父に心中で謝りながらその体を床にどかすと、身を屈めたままでクラウディオのもとに駆け寄る。彼の脇の下に腕を通しながら、容態を確認し、できるだけ身を低くしたままでドアのほうへ向かった。クラウディオは、意識はないが呼吸はしている。派手な出血は背中の一部が裂けたみたいだ。
クラウディオの体を引きずるのは、かなりの重労働だ。どうにかこうにかドアにたどり着き、ノブに手を伸ばしたとき、
「あっ」
視界が赤く染まるほどの激痛がおそってきた。痛みが強すぎて、その瞬間には体のどこが傷ついたのかわからなかった。
痛みの源泉はくるぶしだ。床に投げ出されている右のくるぶしに、針のように細く長いきらめきがあった。足首を床に縫い止めるように、貫通している。球になった血液が、つっと触手を伝って床に小さな水たまりをつくった。
声にならない悲鳴をあげ、わたしはもがいた。それでも、先日横腹に穴をあけられたときよりは気持ちに余裕があって、苦し紛れに天使もどきを睨むくらいはできた。誘うように、仰向けた左の手のひらの指を順にしならせて、肉色の天使は自慢げにわたしを振り向いた。
疲れた中年男の顔が、ザクロのように爆ぜた。厳しい顔をしたユリアンが、不服そうに鼻を鳴らす。
「おいおい、ゲーム中に余所見とは随分じゃねえか。そんなに退屈だったら、止めてもいいんだぜ。ただしプレイ料金は返金しないがな」
銃声に銃声が重なった。初弾を左肩、第二弾を胸部に受けた天使は、左腕をどさりと床に落とした。落ちた腕は、わたしを貫く触手ごとかき消える。
栓を失ったくるぶしから本格的な出血が始まった。歯を食いしばって耐え、気絶しなかった自分を褒めてやりたい。
できの悪い喜劇のように、天使は失った顔のあたりを残った右手でなでた。
『おや、少し遊びがすぎたか』
くるりとその手が返ったかと思うと、長く延びた中指が守るもののいなかった老神父の遺体に刺さっていた。ユリアンが容赦なく発砲するが、弾は遺体を通り抜けて床に着弾した。遺体が、淡い光を放って半透明になっている。
『まあ良い。今宵は我らがもっとも力を得る新月。すぐに元にもどろう……』
語尾がかすんで、敵本体諸とも遺体が虚空に消えた。ユリアンは、無言でショットガンを構えていたが、やがてそれをおろし、ジャケットの内側からベルトにねじ込んだ。
「おー、イノリ。派手に出血してんな、大丈夫か」
「大丈夫じゃない。でもそれより、あなたの方がひどいでしょ」
ユリアンは、「まあね」と肩をすくめると、青白い顔のまま少し考えるそぶりを見せた。
ややあって、大きく手を打つと、
「ここに来たのは、銃で武装した、覆面の男たち。そいつらは一通り暴れたあと、遺体を盗んで消えた……。ちまたを騒がす遺体泥棒に遭った、哀れな被害者ってことでよろしく!」
彼は、言うが早いか、壁のインターフォンを掴みあげていた。
柱に貼られた地図で確認し、エレベーターに乗り込む。同乗者たちは、皆地下一階の検査室で降り、最後まで降りようとしないわたしに同情的な視線を送ってきた。
薄暗い地下二階の最奥に、部屋名のプレートがない扉があった。そっと扉を開く。老神父が横たわっており、かたわらに、疲れた顔のクラウディオが待っていた。自然に両手をあわせたあと、十字を切るべきだったか、少し悩んだ。
なるべく、物音をたてないように荷物から封筒を取り出し、手渡す。
「ありがとう。葬儀社があと一時間で到着するんだ。悪いんだが、……少し任せてもいいか」
「もちろんよ」
クラウディオは書類とスマートフォンを手に部屋を出ていった。椅子を寄せて、静かに眠っているドナトーニ神父の顔を見つめる。安らかな、本当に眠っているような顔だ。神聖なものを見ているような気すらわいてくる。その手に触れたらまだ温かいのではないだろうかと錯覚してしまいそう。
無意識に伸ばしかけていた手に気付いて、わたしは誰にともなく苦笑した。
「あれ……?」
一瞬、ドナトーニ神父の胸の上で組んだ手が動いたように見えた。
疲れからくる錯覚だろう。ごしごしと目をこすって、再度視線を転じるが――。
「し、神父様っ?」
(動いてる!?)
半ば腰を浮かせて、部屋を出たクラウディオを呼び戻そうとした。しかし腕をものすごい力でひっぱられ、椅子から転げ落ちる。倒れたパイプ椅子が、けたたましい音を立てた。
うちつけた膝が焼けるように痛む。さすりながら顔を上げると、信じ難い光景があった。
さっきまで、ぴくりともしなかったドナトーニ神父が、糸で吊られた人形のように、ふわりと上半身を起こした。しわ深い顔はまだ眠っているというのに、その手は祈りの形を崩して、だらりと体の両脇に垂れた。
「イノリ、どうした?」
物音に気づいたクラウディオが、ドアから顔をのぞかせて硬直した。切れ長の目が、見開かれる。狼狽するわたしたちの前で、亡骸はゆっくり一歩踏み出した。
遺体を横たえる狭い台にその先はないのに、遺体が床に倒れることはなかった。見えない地面があるようにその場に直立している。いや、立っているというよりは、浮いている。
「なんだ、これは……。ドナトーニ、お前、いったい……?」
「クラウディオ、だめ!」
わたしが飛びついて止めていなければ、クラウディオの腕は無くなっていただろう。
目標物を失って大きく空振りした老神父の手が、そばにあった木製の棚に大穴をあけた。
みるみるうちに、自分の頭から血の気が引いていくのがわかった。
老神父は、ぎこちない動きでこちらを振り返って、床で呆然としているわたしたちに顔をむけた。また、腕が振りかぶられる。先ほど棚にぶつかった右手が、かろうじて手首とつながっているとわかるほどにつぶれているのに気づく。
非常事態だ。
ばくばく心臓が鳴るのと裏腹に、頭のどこか冷静な部分では原因をつきとめていた。ギャロップさながらの心臓を抱えたまま、さらに目を凝らし、目的のものを見つける。遺体のぼんのくぼから延びる、細い細い糸のようなもの。薄暗い明かりの中でも角度によってはきらめいて見える。糸と思われるそれは、ついと延びて壁の中に奥の壁につながっていた。
「随分と、卑怯な真似をするのね」
怯えを振り払うためにわざと大声を出すと、眠るようだった老神父の顔が動いた。半月のような不気味な口に、細くなった両の目。ご丁寧に笑い声までついている。
奴は、ドナトーニ神父の声で言った。
「卑怯とは、おもしろい概念だ。普遍的な価値観の基盤がなければ生まれない。ふむ、そなたはこうして死者を使うことを卑怯と言うか。なぜ、他者を利用すると卑怯と呼ばれるか、是非知りたい」
「仲むつまじく哲学者ごっこするつもりはないわ。神父様を返して」
「神父? これはもう、ただの肉の塊だろう」
この間にも、けたけた笑う遺骸の後ろの壁から、迫り出すようにして肉色の禍々しい人形が顕現していた。炎に照らされていたときはもっと赤みが強かったが、今見ると、火を通す前の腸詰め肉みたいに白っぽい。浮き出た血管が生々しく、顔の位置に病んだ中年男の面をつけたような格好は変わらないが、そいつの指先から細く延びた糸が、老神父の遺骸に繋がっている。
やつは、古代ギリシア風のドレープが寄った衣装を翻すと、指をくいっと動かした。
「イノリ!」
一秒前までわたしの頭があったところを、うなりをあげた遺体の腕が過ぎ去っていった。数本、逃げ遅れた髪の毛が宙に舞う。クラウディオが腕を引っ張ってくれなければ、わたしの頭はあの棚のようにグシャグシャになっていただろう。
背筋に冷たい汗が流れる。
「さてどうしたものか」
ドナトーニ神父は、小首を傾げた。人情の機微なんてこれっぽっちも理解してないだろうに、変に芸が細かいのに腹が立つ。
「どうしたもこうしたもない、神父様を返せ!」
「ここに来て、そなたたちを嬲っていれば、あやつも姿を見せると踏んでいたのだが。思いの外、そなたらの価値は低いようだ」
(あいつって?)
問い返す必要もない。ユリアンのことに決まっている。ということは、彼はなんとか逃げおおせているということだ。
考えている間に再び迫った鉤爪をしゃがんでよける。今度は腕にかすってしまい、鋭い痛みを感じた。老神父の体が、ぎしぎしと嫌な音を立てて旋舞する。
(全部わたしを狙っている!)
猫に転がされるネズミはきっとこんな気分なのだろう。頭を抱えて転げ回れば、そこここからこぼれた赤い血が、リノリウム張りの床にかすれた模様を描き出した。
「息子を返せ!」
クラウディオが隙をついて、暴れる遺体を羽交い締めにした。しかし。
「ぐぅっ!」
とても力ではかなわず、派手な音をたてて、壁に激突した。ずるずると床に座り込む。壁には、引きずったような血のあとが残った。
「クラウディオ!」
叫んだわたしの喉元に、しゅっと老人の貫手が添えられた。触れるか触れないか、きわどいところで制止している。わたしは、身を起こしかけた不自然な体勢で、硬直する。こめかみの汗が、顎を伝って落ちる。
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「なんですって……?」
「なにも知らぬか。あやつの気まぐれやもしれぬな。ならばここで遊んでいる必要もないということ」
「っ……!」
ずっ、と貫手が差し出され、わたしは自分の喉が切り裂かれるのを覚悟して目をつぶった。
刹那、轟音が鼓膜を穿った。同時に、貫手がふつりと力を失った。
重たい何かが覆いかぶさってきて、思わず目を開く。糸を失った老神父の体が、だらりとわたしの上にのしかかっていた。
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視界の端から突き出された硝煙のくゆる銃口が、肉色天使にぴったりむいている。
天使は、わずかに弾んだ声で言った。
『ようやく来たな、吾が半身』
「なーにが半身だ。未確認生物が」
歯をむき出しにした獰猛な笑みを浮かべて、ユリアンがうなるように言った。
「ユリアン!」
「おう、イノリ。二日ぶり。相変わらず陰気そうで、安心したぜ」
「うるさいわね、いったい今までどこに潜伏して……ちょっと!」
「い、いて! 馬鹿、そこ触んなって!」
血のシミが浮き出たわき腹をシャツの上から触れると、ユリアンに手を叩き落された。ユリアンは声こそしっかりしているが、額にはじっとり汗をかいている。
よく観察してみれば顔色は悪いし、いつも気遣っているはずの服装にも乱れがある。垢じみたシャツに、穴のあいたジャケット、泥の跳ねたスラックスといずれも二日前に見たときと同じものばかりだ。着替えてないのだ。本当に、ほかの敵を引きつけて孤軍奮闘していたのか。
(なんて無茶したの)
感謝すべきであって腹を立てる場面ではないとわかっているのに、目つきがきつくなるのを止められなかった。
「ったく、今日はずいぶん攻め手が緩やかだと思ったら、こんなところで道草とは、いいご身分だな。鬼ごっこの鬼が勝手にリタイアすんなよ」
わたしを押し退け、ユリアンはずいっと天使との間合いを一歩つめた。話をしながら、目を眇めて、動かないクラウディオと、老神父の冒涜された遺体を見やる。
わずかに、ユリアンの口角がこわばったのを、わたしは見逃さなかった。
「それで。オレの半身様よお。このままリタイアする? それとも――」
赤い舌が、ぬるりと唇をなめあげた。挑発的に、ヘーゼルの瞳が細まる。
「続きを?」
合図は銃声だった。ユリアンが放った散弾は、着弾直前に体を揺らがせ半透明になった天使を通り抜け、後ろの壁に穴をあけた。
二発目が発射されたときには、肉色の触手がユリアンに向かって突き出されている。
やはりよけられた散弾が壁を穿つと同時に、ユリアンも左に身をかわして、第三の弾を撃ち込んでいた。
よけられて目標を失った触手は、壁に触れる直前に一度大きくしなると三本に分かれた。風を切る音を立てて、一本がユリアンの顔面に迫る。だが、ユリアンは焦ったふうもなく大口を開け、迷わず触手に噛みついた。食いちぎられた触手が、床に吐き出されるなり四散する。
「わわっ!」
分かれたもう一本の触手が、わたしの頭上を横薙ぎにして過ぎ去っていった。とっさに身をかがめてやり過ごすが、追ってはらはらと数本の髪の毛が落ちてくる。
三本目の触手は、さらに二本に枝分かれして、直角に折れ曲がると、ユリアンの頭と腹に迫った。一メートルに及ばない二本の槍の間に、ユリアンは身を投げ出して着地する。ライオンの火の輪くぐりを見ている気分だ。
「イノリ! クラウディオを連れて逃げろ!」
ユリアンが曲芸めいた動きで、金色の触手たちを翻弄している。だがその顔色が優れないのは、傍目にもわかった。横腹の出血がますます増えている。このままでは不利だ。わたしたちを庇って戦うなんて、とても無理。
わたしは自分の上に乗っているドナトーニ神父に心中で謝りながらその体を床にどかすと、身を屈めたままでクラウディオのもとに駆け寄る。彼の脇の下に腕を通しながら、容態を確認し、できるだけ身を低くしたままでドアのほうへ向かった。クラウディオは、意識はないが呼吸はしている。派手な出血は背中の一部が裂けたみたいだ。
クラウディオの体を引きずるのは、かなりの重労働だ。どうにかこうにかドアにたどり着き、ノブに手を伸ばしたとき、
「あっ」
視界が赤く染まるほどの激痛がおそってきた。痛みが強すぎて、その瞬間には体のどこが傷ついたのかわからなかった。
痛みの源泉はくるぶしだ。床に投げ出されている右のくるぶしに、針のように細く長いきらめきがあった。足首を床に縫い止めるように、貫通している。球になった血液が、つっと触手を伝って床に小さな水たまりをつくった。
声にならない悲鳴をあげ、わたしはもがいた。それでも、先日横腹に穴をあけられたときよりは気持ちに余裕があって、苦し紛れに天使もどきを睨むくらいはできた。誘うように、仰向けた左の手のひらの指を順にしならせて、肉色の天使は自慢げにわたしを振り向いた。
疲れた中年男の顔が、ザクロのように爆ぜた。厳しい顔をしたユリアンが、不服そうに鼻を鳴らす。
「おいおい、ゲーム中に余所見とは随分じゃねえか。そんなに退屈だったら、止めてもいいんだぜ。ただしプレイ料金は返金しないがな」
銃声に銃声が重なった。初弾を左肩、第二弾を胸部に受けた天使は、左腕をどさりと床に落とした。落ちた腕は、わたしを貫く触手ごとかき消える。
栓を失ったくるぶしから本格的な出血が始まった。歯を食いしばって耐え、気絶しなかった自分を褒めてやりたい。
できの悪い喜劇のように、天使は失った顔のあたりを残った右手でなでた。
『おや、少し遊びがすぎたか』
くるりとその手が返ったかと思うと、長く延びた中指が守るもののいなかった老神父の遺体に刺さっていた。ユリアンが容赦なく発砲するが、弾は遺体を通り抜けて床に着弾した。遺体が、淡い光を放って半透明になっている。
『まあ良い。今宵は我らがもっとも力を得る新月。すぐに元にもどろう……』
語尾がかすんで、敵本体諸とも遺体が虚空に消えた。ユリアンは、無言でショットガンを構えていたが、やがてそれをおろし、ジャケットの内側からベルトにねじ込んだ。
「おー、イノリ。派手に出血してんな、大丈夫か」
「大丈夫じゃない。でもそれより、あなたの方がひどいでしょ」
ユリアンは、「まあね」と肩をすくめると、青白い顔のまま少し考えるそぶりを見せた。
ややあって、大きく手を打つと、
「ここに来たのは、銃で武装した、覆面の男たち。そいつらは一通り暴れたあと、遺体を盗んで消えた……。ちまたを騒がす遺体泥棒に遭った、哀れな被害者ってことでよろしく!」
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