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#23
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古いフィルムを再生しているように、ノイズが走り、全ての像が色褪せて見える。
男が、一人うずくまっていた。
がらんとした部屋は聖堂だろうか。御子が十字を背負う像が壁にかかり、床にはそれを照らし出すための無数の蝋燭が立てられている。
彼は目深にかぶったフードの下で、ぶつぶつつぶやいている。ラテン語のバイブルだ。彼の主を求める心が、たどり着いた最後の砦だった。
(どうして、こうなった)
答えは既に出ていた。皇帝より授かった聖なる職務。単純に誇らしく思えた期間は過ぎた。裏にある、汚れた因果から目を背けることはもうできない。つまり彼は傀儡だった。
血筋と、金。その二つが司教という位への必要条件で、信仰はなくてもよかったのだ。
妻帯する者、己の落胤を甥や姪と偽って養い財産を継がせる者、権威と金との執着。皇帝に任命された司教たちの醜さはもはや目を逸らせぬところまできている。
そして彼にも、そういった輩とのしがらみがついてまわった。
(私の祈りが届きましたら、不浄のこの身を堕としたまえ)
(主よ、おわしましたら、光を……)
(主よ! ……いらっしゃらないのですか)
血を吐くような祈りは、彼に一つの決意を与えた。
(主の、存在を確かめなければ)
仮説を立証する科学者とよく似た、冷静で整然とした思考だった。主に呼びかけても答えがないなら、逆説でその存在を主張しよう。
召還するのだ、――悪魔を。
思い立ったら早かった。それが許されぬことだと、禁忌だということはわかっていた。だが、そんなことは些事である。存在が証明できれば、それでいい。
――そして、彼は石造りの部屋の扉を開いた。
◆
逃亡は何年に及んだろう。疲れきって、彼は教会の門を叩いた。旅人風の彼を、神父は快く出迎え、一晩の宿を与えた。彼が教会に追われる身だとも知らず。
人の捌けた聖堂で、祈るでもなく懺悔するでもなく、彼は聖母の像と向き合っていた。迷子のように、物言わぬ聖母に問いかける。
(神は、己は何者なのだ)
あの日から、何度も襲ってきた異形の者たちを定義づけようとすればするほど、その二つの形が曖昧になっていく。
己が人というカテゴリからはずれてしまったことには、気付き始めていた。既に二度、体が物質を透過している。それを意識的にしたり、どうやったか説明したりはできないが、己に起きた異変を認めるには十分だ。
それに、あれから二十余年が過ぎたが、驚いたことに心身の衰えが感じられない。本当ならば、既に五十に手が届くだろう年齢なのに、二十代後半の体つきのままだ。体力の低下も感じない。
己と、異形と、神。それらが混在する状態をどう理解すればいいのだろう。そのすべてに共通項があり、しかし完全に同一ではなかった。どれも人とは違うものであるが、己は神たりえぬし、また異形とも少し違う。あの異形が神であるわけもない。なにせ神というのは、この世界に遍く存在していて、決して召還の儀に応じたりしない。魔術などをもってして、人間が顕現させるなんて、貶めるようなことができるような領域にはそもそも存在してないのだ。
三つのうち一つを取り出してカテゴライズすると、ほか二つの説明ができなくなる。
思考の袋小路に追いつめられながらも、考えることを放棄できないのは彼の性質がひたすらに真実を求めるものだからかもしれない。悲痛な顔で聖母像の前に額衝いても、いらえはあるはずもなかった。
◆
彼は、また部屋に閉じこもっていた。壁には聖なる言葉を記した護符を張り、結界を作っている。これがある限り、安全である。月の盈虧にあわせて襲ってくる、あの不気味な者たちは聖域には進入できない。長年の経験から学んだことだった。果たして、その結界の威力が一向に答えをくれない主の御稜威かどうかはわからないが。
目蓋の裏に、忘れ得ぬ天使の姿がよみがえる。造形は美しくも、光を透かす死人のような肌の色と白濁した双眸がおぞましい天使だ。何度か、あれとも再会している。その度に、危険で恐ろしい目にあった。負傷することもあったが、それよりも痛く恐ろしいのは、触れられることだった。
あの天使像に似たものに触れられると、その部分にぽっかり穴が開いたようになる。食われているのだろう。だが、不思議なことに、触れられてもそうならないときがある。「嫌だ」と強い拒絶の心を持ったときにそれは起こるようだった。不意を衝かれて食われたときはだめなのだ。
面白いことに、あの天使に体の一部を持っていかれるごとに、あの美しい彫刻のような顔が老いた男の顔になっていく。引き換えに、彼の容貌はまるで命を吹き込まれた彫像のように変化してきた。
彼は仮説を立てた。これは食われているのではないのかもしれない。自分と相手は、肉体の一部を同化しているのではないだろうか。共有し、奪い取り、自分のものにする。能力の高い方が勝ち取れる。その能力とは――。もうすぐその結論が出そうである。
儀式から何年が経過したろう。正確な年数はわからない。もはや自分という男が、この部屋に隠れるように住み着いている理由すら、知っている者はいまい。それは都合がよかった。時間はいくらでもある。彼は、自分が自分に与えた最大の疑問に立ち向かうために、そのためだけに生きていた。
神は、存在するのだろうか。今までは疑うことすら禁じられてきた。
しかし、時の流れによって、禁忌は揺らぎつつある。
彼は本を閉じた。その本の下敷きになっている紙切れに、最近密かに話をした男の名前が記載されている。その対話は、彼に大きな転機をもたらした。再度の対談の予定をここに書き留めてある。
顔を上げると、埃がこびりつき曇ってしまった窓のむこうに、激しく口論しあう男たちがいる。片方は、服装から聖職者であることがわかった。
教会前での大騒ぎに、野次馬の垣は何重にもなっている。男らはたかだか紙切れの存在について争っているのだった。
彼はその様を、目を細めて見やり、手元にあった紙切れを指先で弄んでいた。
――神の存在の有無がわかるとき、あの天使に勝つための秘密もわかるだろう。
男が、一人うずくまっていた。
がらんとした部屋は聖堂だろうか。御子が十字を背負う像が壁にかかり、床にはそれを照らし出すための無数の蝋燭が立てられている。
彼は目深にかぶったフードの下で、ぶつぶつつぶやいている。ラテン語のバイブルだ。彼の主を求める心が、たどり着いた最後の砦だった。
(どうして、こうなった)
答えは既に出ていた。皇帝より授かった聖なる職務。単純に誇らしく思えた期間は過ぎた。裏にある、汚れた因果から目を背けることはもうできない。つまり彼は傀儡だった。
血筋と、金。その二つが司教という位への必要条件で、信仰はなくてもよかったのだ。
妻帯する者、己の落胤を甥や姪と偽って養い財産を継がせる者、権威と金との執着。皇帝に任命された司教たちの醜さはもはや目を逸らせぬところまできている。
そして彼にも、そういった輩とのしがらみがついてまわった。
(私の祈りが届きましたら、不浄のこの身を堕としたまえ)
(主よ、おわしましたら、光を……)
(主よ! ……いらっしゃらないのですか)
血を吐くような祈りは、彼に一つの決意を与えた。
(主の、存在を確かめなければ)
仮説を立証する科学者とよく似た、冷静で整然とした思考だった。主に呼びかけても答えがないなら、逆説でその存在を主張しよう。
召還するのだ、――悪魔を。
思い立ったら早かった。それが許されぬことだと、禁忌だということはわかっていた。だが、そんなことは些事である。存在が証明できれば、それでいい。
――そして、彼は石造りの部屋の扉を開いた。
◆
逃亡は何年に及んだろう。疲れきって、彼は教会の門を叩いた。旅人風の彼を、神父は快く出迎え、一晩の宿を与えた。彼が教会に追われる身だとも知らず。
人の捌けた聖堂で、祈るでもなく懺悔するでもなく、彼は聖母の像と向き合っていた。迷子のように、物言わぬ聖母に問いかける。
(神は、己は何者なのだ)
あの日から、何度も襲ってきた異形の者たちを定義づけようとすればするほど、その二つの形が曖昧になっていく。
己が人というカテゴリからはずれてしまったことには、気付き始めていた。既に二度、体が物質を透過している。それを意識的にしたり、どうやったか説明したりはできないが、己に起きた異変を認めるには十分だ。
それに、あれから二十余年が過ぎたが、驚いたことに心身の衰えが感じられない。本当ならば、既に五十に手が届くだろう年齢なのに、二十代後半の体つきのままだ。体力の低下も感じない。
己と、異形と、神。それらが混在する状態をどう理解すればいいのだろう。そのすべてに共通項があり、しかし完全に同一ではなかった。どれも人とは違うものであるが、己は神たりえぬし、また異形とも少し違う。あの異形が神であるわけもない。なにせ神というのは、この世界に遍く存在していて、決して召還の儀に応じたりしない。魔術などをもってして、人間が顕現させるなんて、貶めるようなことができるような領域にはそもそも存在してないのだ。
三つのうち一つを取り出してカテゴライズすると、ほか二つの説明ができなくなる。
思考の袋小路に追いつめられながらも、考えることを放棄できないのは彼の性質がひたすらに真実を求めるものだからかもしれない。悲痛な顔で聖母像の前に額衝いても、いらえはあるはずもなかった。
◆
彼は、また部屋に閉じこもっていた。壁には聖なる言葉を記した護符を張り、結界を作っている。これがある限り、安全である。月の盈虧にあわせて襲ってくる、あの不気味な者たちは聖域には進入できない。長年の経験から学んだことだった。果たして、その結界の威力が一向に答えをくれない主の御稜威かどうかはわからないが。
目蓋の裏に、忘れ得ぬ天使の姿がよみがえる。造形は美しくも、光を透かす死人のような肌の色と白濁した双眸がおぞましい天使だ。何度か、あれとも再会している。その度に、危険で恐ろしい目にあった。負傷することもあったが、それよりも痛く恐ろしいのは、触れられることだった。
あの天使像に似たものに触れられると、その部分にぽっかり穴が開いたようになる。食われているのだろう。だが、不思議なことに、触れられてもそうならないときがある。「嫌だ」と強い拒絶の心を持ったときにそれは起こるようだった。不意を衝かれて食われたときはだめなのだ。
面白いことに、あの天使に体の一部を持っていかれるごとに、あの美しい彫刻のような顔が老いた男の顔になっていく。引き換えに、彼の容貌はまるで命を吹き込まれた彫像のように変化してきた。
彼は仮説を立てた。これは食われているのではないのかもしれない。自分と相手は、肉体の一部を同化しているのではないだろうか。共有し、奪い取り、自分のものにする。能力の高い方が勝ち取れる。その能力とは――。もうすぐその結論が出そうである。
儀式から何年が経過したろう。正確な年数はわからない。もはや自分という男が、この部屋に隠れるように住み着いている理由すら、知っている者はいまい。それは都合がよかった。時間はいくらでもある。彼は、自分が自分に与えた最大の疑問に立ち向かうために、そのためだけに生きていた。
神は、存在するのだろうか。今までは疑うことすら禁じられてきた。
しかし、時の流れによって、禁忌は揺らぎつつある。
彼は本を閉じた。その本の下敷きになっている紙切れに、最近密かに話をした男の名前が記載されている。その対話は、彼に大きな転機をもたらした。再度の対談の予定をここに書き留めてある。
顔を上げると、埃がこびりつき曇ってしまった窓のむこうに、激しく口論しあう男たちがいる。片方は、服装から聖職者であることがわかった。
教会前での大騒ぎに、野次馬の垣は何重にもなっている。男らはたかだか紙切れの存在について争っているのだった。
彼はその様を、目を細めて見やり、手元にあった紙切れを指先で弄んでいた。
――神の存在の有無がわかるとき、あの天使に勝つための秘密もわかるだろう。
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