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#6
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――狭間の者について述べよう。
姿は確かに悪魔的だが、彼らに善悪をはじめ、人間基準の価値観はない。ただただ自らの存在意義に従って行動している。そうすることだけが存在する理由であり、それ自体が存在。
悪魔や怪物という名前を避けたのは、先入観を捨て去るためである。彼らのただ在るがために在る状態に反するものは必要ない
彼らはそもそも肉体を持たない。個を区別するための器や境界を持たないエネルギー体だ。本来ならこの物質世界に姿を現すこともない、不可視のもの。だが無とは違う。物質界と無との間に存在する。だから狭間なのだ。
説明しやすいよう、便宜上世界の層を定義づけよう。
まず我々の存する物質界。固体が存在し、異物同士が溶け合うことなくアイデンティティを主張しあう世界だ。内と外という構造を持つ事で、『存在すること』を許された世界である。
もう片方、こちらは通常、不可視・不可触である。精神世界と言っていい。存在するかどうかは確かめようがなく、その判断は個々人のイマジネイションに依存するが、これも便宜的に存在すると仮定する。
ここにあるのは、満遍なくたゆたう液体のようなものだ。気体でもいい。濃度や内容物に偏りはなく、故に存在しない。どこにもない。
けれどこの世界にも波が起こる。物質界に向けて個を作ろうとする波だ。その波が彼らを『存在させる』のだ。波というストレスがエネルギーそのものになる。
きっかけは物質界からの働きかけだ。物質界で本来存在し得ないものを作り出そうとするとき(たとえばそう、儀式などで)、精神世界ではエネルギーのが生じ、その影響範囲が限りなく『存在する状態』に近くなる。物質界にあらゆる影響を与えるほどに。
もともと物質界にない超自然的なエネルギーは、なににでも姿を変える。
たとえば神や天使などの人間を超越したもの。たとえば不自然なほどに一方向に流れる世論などの気運。たとえば抗い難い自然の恵みと脅威。
それらは物質界に引きずり出され、名前と役割を与えられたエネルギーの固まり。『存在することを許された』ものたちだ。
繰り返すがそれ自体に価値はなく、影響を受けた者たちによってそれを決められる。精霊、悪魔、天使。呼び名や状況、自ら及ぼした影響によって本質を決められる。名を与えられると同時に、精神世界から独立し個を確立する。
問題は物質界の求めに応じたのではなく、条件が偶然に揃ってしまったために発生し、名も与えられずに徘徊しているモノたちがいるということだ。
それを狭間の者と呼ぶ。
彼らは存在するために生まれ、しかし存在するための個を与えられなかった。
存在意義を得るために存在しようとする。個を得ようとする――端的に言えば既に存するものの個を奪い依代を得ることで、安定しようとする。
己と波長の合う者を選り中てて、肉体を奪い、自らの存在を示そうとする――。
◆
わたしは何度かレポートの最後の一文を読み返し、ユリアンを見つめた。
「それじゃあ、わたしはその狭間の者に狙われているの?」
「目の輪はやつらのマーキングだよ。波長が合った獲物に、最初に仕掛けていく」
「わたし、死ぬの?」
赤い血潮の残像が脳裏に過ぎって、遮断するように目を瞑った。
あの悪夢の日は、わたしの波長があったために……? やるせなさがこみ上げる。
しばらく、ユリアンは沈黙していたが、酒瓶を机に置くと、背もたれに体重を預けて笑みを浮かべた。
「イノリ、死ぬってどういうことかわかるか? 簡単な言葉でいい」
「それは……、生きてない状態」
「生きているっていうのは、どんな状態」
簡単な問いのはず、当たり前のことなのにわからなかった。
息をしていること? 心臓が動いていること? 思考していること?
「よく言われるが生と死の定義は曖昧だ。科学者すら決めかねている。どっちも同一直線上にある相対的なものだ。区切りをつけるのは容易じゃない。てか、どうでもいい」
「議論の余地あることをわたしに聞かないでよ」
半眼になって睨む。こっちは本気で怒っているのに、ユリアンはにやりと「元気になったじゃねえか」と言いやがった。
「だけど。存在していないものを生きていると言うことは出来ない。そうだろ」
「そりゃあねえ。生きている幽霊とかそんなものでしょう? 矛盾しているわ」
「そうそう。逆に、生きていないものが死ぬ事もできない」
「幽霊は死なないわね」
「ところで、オレ、ざっと千年生きてんだけど、何でだと思う」
「は……? 何あなた危ない薬でもキメてるの?」
思わず口を突いて出た言葉は、ユリアンの哄笑を誘った。
狭間の者なんて超常的なものを目の当たりにしたとしても、ギネス記録保持者はだしの長寿記録、信じられようもない。これぞ荒唐無稽だ。
「ま、信じるか信じないかはあんたに任せるとして。とにかくオレは普通には死なないらしい。なんででしょう? ここ重要」
たっぷり三分考えたがわからない。
ユリアンに目で訴えると、呆れたようにため息を吐かれた。これは、かなり傷つく……。ユリアンに馬鹿扱いされるなんて、将来不安だわ。
ユリアンは指で自分の目を示した。びっしり金色の睫が生え揃った目蓋の下に、赤い輪の浮いたヘーゼルの瞳がある。輪さえなければ、宝石のよう。輪さえなければだけど。
(……輪さえ?)
「まさか、印があるから?」
「あんたほんっとばっかなー。印がって気付いたら、普通は狭間の者と接触したからって大きな要因を挙げるもんだろ」
「驚けばいいのか怒ればいいのか悲しむべきか分からなくなるから、ネタばらしとけなすの同時は禁止」
「はいはい。ま、泣かれちゃ始末に終えないから、とりあえず怒っとけ。要するに、狭間の者に接触して、この印を受けた者は死ねない――生きていないけど、死んでもいない、存在しているけどしていない、まさしく狭間の者と同質になるんだ」
頭を殴られたようなショックだった。わたしが、狭間の者?
「個を奪うってのはそういうことだ。死ぬんじゃない。存在しなくなる。
あいつらは存在していないけれど、している状態に限りなく近い。オレたちの状態は、存在しているけれどしていない状態に近い。
オレたちはわずかにプラス、あいつらはわずかにマイナス。正常な世界の理からほんの少しずれた存在だ。足し合わせたら、どうなるかわかるよな」
簡単な数学の問題だ。
コインの表裏のように紙一重の、ただし決して交わらない存在。交わったときに待っているのは互いの消失、完璧なバランスというわけか。
「わたしが、肉体を奪われたら」
「オレは狭間の者たちと同化するって言っている」
「同化したら、わたしは消えてなくなるの」
「個を確立できなくなる。アイデンティティが消える。どこにでも存在して、しかしそのために認識できないものだ。プールに一つ落とされた角砂糖のような」
「そっちのが嫌ね……」
ただ死ぬなら白石祈璃として死ねる。でも同化したら、待っているのは大いなるうつろ。
死の痛みの方が好ましい。だって、死なないってことはつまり、生きてもいなかったことになっちゃう。
「さて、適当に落ち込んだところで一つ提案だ。あんた、同化はしたくないだろ。なら、オレにその日のことを話せよ。あんたが印を受けた日のことだ。対価にやつらのことをもっと教えてやるよ。守ってやってもいい」
「わたしにもできることがあるの? 銃もまともに扱えないのに」
「まあ、多少は、な。延命くらいにはなるんじゃないか?」
「延命……」
「それがせいぜいだな。だが、悪い話じゃないぜ。
オレの長い人生で、同士に出会ったのがまだ十三人。しかも、十二人は同化しちまった。残る一人はちょっと理由ありでしぶとく生き残っているが、たいていは肉体的・精神的なダメージを受けて弱ったところを同化されている。悪いことに、あいつらは自分たちに近い波長のオレたちを探し出す力がある。そして、襲うときは対の者以外も無差別だ。本能といってもいい。
少しの知識の差でも、生存率は上げておいたほうがいいんじゃねえの?」
「その、対の者っていうのは?」
「オレたちにマーキングした、一体の狭間の者をそう呼んでいる。あっちからすりゃ、オレたちが対の者だな。完璧に波長が合う、運命の相手だ。他の狭間の者は完全に波長があうわけじゃないから、同化してもどちらかが不完全に残ることが多い。ま、残るのは肉体的精神的制約がないあいつらの側が圧倒的に多いが」
「それってつまり、対の者以外と同化して、残っちゃった狭間の者がいるってこと?」
頭数で捕食者側が多いなら、襲われる確率はさらに上がるということだ。
本当は藁にもすがる思いだった。死にたくない。消えたくない。
でもあの日のことを言葉にするのは、怖い。
漸く過呼吸の発作を抜け出たばかり。未だ夢でわたしの心を痛めつけていく嵐の記憶。
――それを、今?
恐怖がよみがえり、わたしの右手が震え始めた。
「今はまだ思い出したくないの」
「手遅れになるぞ?」
「こ、心の準備が要るのよ。わかるでしょう」
この肉食獣のような男の前で弱みを見せるのは怖かった。
しかし、ユリアンは鼻で笑う。笑顔がどこか怖い。
「オレも連中も待つのは嫌いだ。連中は年中無休だし、オレも貴重な資料を連中にこれ以上持っていかれちゃ困る」
「資料ですって」
あまりの言い草に、わたしは眉をひそめた。
悪びれた様子もなく、ユリアンは脚を組み替える。
「資料だ。オレの趣味、レポート書きなのよ」
彼は古ぼけたレポートの束をばさりと鳴らす。
この男が机に向っていそいそと文字書きしている様を想像してみる。……似合わない。
「だから、オレのレポートの題材になってよ、イノリちゃん」
むちゃくちゃな言い分への怒りが沸いてくる。わたしが苦しんでいるのを、楽しみのために消費したいっていうわけ?
「今日はどうもありがとう。助かったわ。でも、わたしは貴方の資料にはならない」
立ち上がったわたしを、ユリアンが引き止めた。
「まあまあ、待てよ」
ユリアンはがさがさとごみ溜めをあさると、よれた新聞を引っ張り出した。
今年の二月の新聞だ。
踊る文字を見て、わたしはぎくりとした。
『ローマ大講師夫妻不審死! カーニバル中に殺害か』
下品なゴシック体の下に、ドス黒く染まった煉瓦敷きの路地の写真がある。見覚えのある店の看板が、小さく映っていた。
ユリアンが得意げに諳んじる。
「ローマ大学で教鞭を執っていた日本人講師ヨシノブ・シライシ氏、その妻タエコ夫人がヴェネチアで、カーニバルの最中、遺体となって発見された。現場は隘路で、人通りは祭りの最中とはいえ比較的少なかったためか、目撃者は同行していた娘一人のみ。遺体の損傷は激しく、内部から切れ味の悪い刃物で――」
「やめて!」
金切り声が喉から溢れた。自分の声とは思えないほど攻撃的だった。
怒りを込めて目の前のサディストを睨みつける。視線で人が殺せるなら、わたしはユリアンを百回は殺している。
頭は血が上ってくらくらするのに、手足の先は氷のよう。感情が高ぶりすぎて上手く処理しきれず、涙が浮いた。
「そうよ、それはわたしの両親よ。どう、これで満足した?」
「知りたいのはそんなことじゃねえよ。あんた、この場にいたんだろ」
獲物を見つけた捕食者の目だ。
「なあ、何を見た? あんたに印を与えた対の者はどんな姿だった」
ユリアンはわたしの殺意の篭った視線なんて何処吹く風で酒をあおっている。
「わたし、帰る」
ドアに走った。三重の鍵に飛びつく。
三つ目の鍵を開けたとき、背後に気配を感じた。焦って、肩からぶつかるようにノブを回した。だが、ドアは開かない。
頭上に腕があった。
ユリアンが背後から覆いかぶさるように手をドアについているのだ。
彼はそのまま、腕を下へ動かして、部屋に戻ってきたとき同様、鍵を閉めていった。
鍵自体には直接手を触れずに。手を鋼鉄製の扉にめり込ませて。
ううん、めり込ませるというのも正確じゃあない。
彼の手首から先は水に突っ込んだようにするりと溶け込んでいるのだ。金属と同化している。手首と扉の境目が、淡く発光している。
内部で直接ピンをいじって鍵を閉めているのだ。そう気付いて、総毛立つ。
最初に鍵を開けたのを見たときは、一瞬だったから見間違いかと思った。
説明できない現象を前に、膝が震えた。
化け物――そんな言葉が喉まででかかる。
首筋に、生ぬるい息がかかる。かすかにムスクの香りが鼻腔をくすぐる。
「そう簡単に逃がすかよ。久々の同志だ。つっても、あんたみたいな新米、同志というには頼りないけどな」
「同じ志をもった記憶はないわ」
「そうか? 消えたくないと思っているだろうよ」
すっと降りてきたスーツの腕は、抵抗もなくわたしの右肩にめり込んだ。ぬるいお湯に浸かるときの感覚に似ている。痛みも衝撃もないのに、異物感と圧迫感がある。腕が自分の体のどこを通っているのか、はっきりわかる。
荒く呼吸を繰り返す肺を通って、空っぽになった胃をかすめ、喉をくすぐる。最終的に、扁平な胸の中で落ち着いた。
指を開閉する感覚が伝わってきた。不思議な事に、自分の手指を握ったり開いたりしているような間隔がある。
「オレはこうやって体の一部だけを同化させることを、『共有』と呼んでいる。限りなく、対象との境界をなくすことができる、狭間の者の得意技だな
で。今、共有を解いてみようか? どんなふうになるかな」
そんなの、説明されなくてもわかっていた。
「……目的は何」
「研究に付き合ってもらう。それだけ。ま、難しいことは無しよ。答えはオーケイ、だな」
胸の中にあった腕がぐっと上に上がってきた。息苦くてわたしは振り返る。
ユリアンが白々しい蛍光灯の逆光の中で、犬歯を見せびらかせた。
(天使の皮をかぶった悪魔め)
罵りの言葉が口から飛び出るより早く、息がつまった。
ユリアンの手が、わたしの額を貫いていた。
吐き気がする。天地がひっくり返る。
何が起こっているの?
視界は真っ白な光に満ちて、わたしの意識は拡散していった。
姿は確かに悪魔的だが、彼らに善悪をはじめ、人間基準の価値観はない。ただただ自らの存在意義に従って行動している。そうすることだけが存在する理由であり、それ自体が存在。
悪魔や怪物という名前を避けたのは、先入観を捨て去るためである。彼らのただ在るがために在る状態に反するものは必要ない
彼らはそもそも肉体を持たない。個を区別するための器や境界を持たないエネルギー体だ。本来ならこの物質世界に姿を現すこともない、不可視のもの。だが無とは違う。物質界と無との間に存在する。だから狭間なのだ。
説明しやすいよう、便宜上世界の層を定義づけよう。
まず我々の存する物質界。固体が存在し、異物同士が溶け合うことなくアイデンティティを主張しあう世界だ。内と外という構造を持つ事で、『存在すること』を許された世界である。
もう片方、こちらは通常、不可視・不可触である。精神世界と言っていい。存在するかどうかは確かめようがなく、その判断は個々人のイマジネイションに依存するが、これも便宜的に存在すると仮定する。
ここにあるのは、満遍なくたゆたう液体のようなものだ。気体でもいい。濃度や内容物に偏りはなく、故に存在しない。どこにもない。
けれどこの世界にも波が起こる。物質界に向けて個を作ろうとする波だ。その波が彼らを『存在させる』のだ。波というストレスがエネルギーそのものになる。
きっかけは物質界からの働きかけだ。物質界で本来存在し得ないものを作り出そうとするとき(たとえばそう、儀式などで)、精神世界ではエネルギーのが生じ、その影響範囲が限りなく『存在する状態』に近くなる。物質界にあらゆる影響を与えるほどに。
もともと物質界にない超自然的なエネルギーは、なににでも姿を変える。
たとえば神や天使などの人間を超越したもの。たとえば不自然なほどに一方向に流れる世論などの気運。たとえば抗い難い自然の恵みと脅威。
それらは物質界に引きずり出され、名前と役割を与えられたエネルギーの固まり。『存在することを許された』ものたちだ。
繰り返すがそれ自体に価値はなく、影響を受けた者たちによってそれを決められる。精霊、悪魔、天使。呼び名や状況、自ら及ぼした影響によって本質を決められる。名を与えられると同時に、精神世界から独立し個を確立する。
問題は物質界の求めに応じたのではなく、条件が偶然に揃ってしまったために発生し、名も与えられずに徘徊しているモノたちがいるということだ。
それを狭間の者と呼ぶ。
彼らは存在するために生まれ、しかし存在するための個を与えられなかった。
存在意義を得るために存在しようとする。個を得ようとする――端的に言えば既に存するものの個を奪い依代を得ることで、安定しようとする。
己と波長の合う者を選り中てて、肉体を奪い、自らの存在を示そうとする――。
◆
わたしは何度かレポートの最後の一文を読み返し、ユリアンを見つめた。
「それじゃあ、わたしはその狭間の者に狙われているの?」
「目の輪はやつらのマーキングだよ。波長が合った獲物に、最初に仕掛けていく」
「わたし、死ぬの?」
赤い血潮の残像が脳裏に過ぎって、遮断するように目を瞑った。
あの悪夢の日は、わたしの波長があったために……? やるせなさがこみ上げる。
しばらく、ユリアンは沈黙していたが、酒瓶を机に置くと、背もたれに体重を預けて笑みを浮かべた。
「イノリ、死ぬってどういうことかわかるか? 簡単な言葉でいい」
「それは……、生きてない状態」
「生きているっていうのは、どんな状態」
簡単な問いのはず、当たり前のことなのにわからなかった。
息をしていること? 心臓が動いていること? 思考していること?
「よく言われるが生と死の定義は曖昧だ。科学者すら決めかねている。どっちも同一直線上にある相対的なものだ。区切りをつけるのは容易じゃない。てか、どうでもいい」
「議論の余地あることをわたしに聞かないでよ」
半眼になって睨む。こっちは本気で怒っているのに、ユリアンはにやりと「元気になったじゃねえか」と言いやがった。
「だけど。存在していないものを生きていると言うことは出来ない。そうだろ」
「そりゃあねえ。生きている幽霊とかそんなものでしょう? 矛盾しているわ」
「そうそう。逆に、生きていないものが死ぬ事もできない」
「幽霊は死なないわね」
「ところで、オレ、ざっと千年生きてんだけど、何でだと思う」
「は……? 何あなた危ない薬でもキメてるの?」
思わず口を突いて出た言葉は、ユリアンの哄笑を誘った。
狭間の者なんて超常的なものを目の当たりにしたとしても、ギネス記録保持者はだしの長寿記録、信じられようもない。これぞ荒唐無稽だ。
「ま、信じるか信じないかはあんたに任せるとして。とにかくオレは普通には死なないらしい。なんででしょう? ここ重要」
たっぷり三分考えたがわからない。
ユリアンに目で訴えると、呆れたようにため息を吐かれた。これは、かなり傷つく……。ユリアンに馬鹿扱いされるなんて、将来不安だわ。
ユリアンは指で自分の目を示した。びっしり金色の睫が生え揃った目蓋の下に、赤い輪の浮いたヘーゼルの瞳がある。輪さえなければ、宝石のよう。輪さえなければだけど。
(……輪さえ?)
「まさか、印があるから?」
「あんたほんっとばっかなー。印がって気付いたら、普通は狭間の者と接触したからって大きな要因を挙げるもんだろ」
「驚けばいいのか怒ればいいのか悲しむべきか分からなくなるから、ネタばらしとけなすの同時は禁止」
「はいはい。ま、泣かれちゃ始末に終えないから、とりあえず怒っとけ。要するに、狭間の者に接触して、この印を受けた者は死ねない――生きていないけど、死んでもいない、存在しているけどしていない、まさしく狭間の者と同質になるんだ」
頭を殴られたようなショックだった。わたしが、狭間の者?
「個を奪うってのはそういうことだ。死ぬんじゃない。存在しなくなる。
あいつらは存在していないけれど、している状態に限りなく近い。オレたちの状態は、存在しているけれどしていない状態に近い。
オレたちはわずかにプラス、あいつらはわずかにマイナス。正常な世界の理からほんの少しずれた存在だ。足し合わせたら、どうなるかわかるよな」
簡単な数学の問題だ。
コインの表裏のように紙一重の、ただし決して交わらない存在。交わったときに待っているのは互いの消失、完璧なバランスというわけか。
「わたしが、肉体を奪われたら」
「オレは狭間の者たちと同化するって言っている」
「同化したら、わたしは消えてなくなるの」
「個を確立できなくなる。アイデンティティが消える。どこにでも存在して、しかしそのために認識できないものだ。プールに一つ落とされた角砂糖のような」
「そっちのが嫌ね……」
ただ死ぬなら白石祈璃として死ねる。でも同化したら、待っているのは大いなるうつろ。
死の痛みの方が好ましい。だって、死なないってことはつまり、生きてもいなかったことになっちゃう。
「さて、適当に落ち込んだところで一つ提案だ。あんた、同化はしたくないだろ。なら、オレにその日のことを話せよ。あんたが印を受けた日のことだ。対価にやつらのことをもっと教えてやるよ。守ってやってもいい」
「わたしにもできることがあるの? 銃もまともに扱えないのに」
「まあ、多少は、な。延命くらいにはなるんじゃないか?」
「延命……」
「それがせいぜいだな。だが、悪い話じゃないぜ。
オレの長い人生で、同士に出会ったのがまだ十三人。しかも、十二人は同化しちまった。残る一人はちょっと理由ありでしぶとく生き残っているが、たいていは肉体的・精神的なダメージを受けて弱ったところを同化されている。悪いことに、あいつらは自分たちに近い波長のオレたちを探し出す力がある。そして、襲うときは対の者以外も無差別だ。本能といってもいい。
少しの知識の差でも、生存率は上げておいたほうがいいんじゃねえの?」
「その、対の者っていうのは?」
「オレたちにマーキングした、一体の狭間の者をそう呼んでいる。あっちからすりゃ、オレたちが対の者だな。完璧に波長が合う、運命の相手だ。他の狭間の者は完全に波長があうわけじゃないから、同化してもどちらかが不完全に残ることが多い。ま、残るのは肉体的精神的制約がないあいつらの側が圧倒的に多いが」
「それってつまり、対の者以外と同化して、残っちゃった狭間の者がいるってこと?」
頭数で捕食者側が多いなら、襲われる確率はさらに上がるということだ。
本当は藁にもすがる思いだった。死にたくない。消えたくない。
でもあの日のことを言葉にするのは、怖い。
漸く過呼吸の発作を抜け出たばかり。未だ夢でわたしの心を痛めつけていく嵐の記憶。
――それを、今?
恐怖がよみがえり、わたしの右手が震え始めた。
「今はまだ思い出したくないの」
「手遅れになるぞ?」
「こ、心の準備が要るのよ。わかるでしょう」
この肉食獣のような男の前で弱みを見せるのは怖かった。
しかし、ユリアンは鼻で笑う。笑顔がどこか怖い。
「オレも連中も待つのは嫌いだ。連中は年中無休だし、オレも貴重な資料を連中にこれ以上持っていかれちゃ困る」
「資料ですって」
あまりの言い草に、わたしは眉をひそめた。
悪びれた様子もなく、ユリアンは脚を組み替える。
「資料だ。オレの趣味、レポート書きなのよ」
彼は古ぼけたレポートの束をばさりと鳴らす。
この男が机に向っていそいそと文字書きしている様を想像してみる。……似合わない。
「だから、オレのレポートの題材になってよ、イノリちゃん」
むちゃくちゃな言い分への怒りが沸いてくる。わたしが苦しんでいるのを、楽しみのために消費したいっていうわけ?
「今日はどうもありがとう。助かったわ。でも、わたしは貴方の資料にはならない」
立ち上がったわたしを、ユリアンが引き止めた。
「まあまあ、待てよ」
ユリアンはがさがさとごみ溜めをあさると、よれた新聞を引っ張り出した。
今年の二月の新聞だ。
踊る文字を見て、わたしはぎくりとした。
『ローマ大講師夫妻不審死! カーニバル中に殺害か』
下品なゴシック体の下に、ドス黒く染まった煉瓦敷きの路地の写真がある。見覚えのある店の看板が、小さく映っていた。
ユリアンが得意げに諳んじる。
「ローマ大学で教鞭を執っていた日本人講師ヨシノブ・シライシ氏、その妻タエコ夫人がヴェネチアで、カーニバルの最中、遺体となって発見された。現場は隘路で、人通りは祭りの最中とはいえ比較的少なかったためか、目撃者は同行していた娘一人のみ。遺体の損傷は激しく、内部から切れ味の悪い刃物で――」
「やめて!」
金切り声が喉から溢れた。自分の声とは思えないほど攻撃的だった。
怒りを込めて目の前のサディストを睨みつける。視線で人が殺せるなら、わたしはユリアンを百回は殺している。
頭は血が上ってくらくらするのに、手足の先は氷のよう。感情が高ぶりすぎて上手く処理しきれず、涙が浮いた。
「そうよ、それはわたしの両親よ。どう、これで満足した?」
「知りたいのはそんなことじゃねえよ。あんた、この場にいたんだろ」
獲物を見つけた捕食者の目だ。
「なあ、何を見た? あんたに印を与えた対の者はどんな姿だった」
ユリアンはわたしの殺意の篭った視線なんて何処吹く風で酒をあおっている。
「わたし、帰る」
ドアに走った。三重の鍵に飛びつく。
三つ目の鍵を開けたとき、背後に気配を感じた。焦って、肩からぶつかるようにノブを回した。だが、ドアは開かない。
頭上に腕があった。
ユリアンが背後から覆いかぶさるように手をドアについているのだ。
彼はそのまま、腕を下へ動かして、部屋に戻ってきたとき同様、鍵を閉めていった。
鍵自体には直接手を触れずに。手を鋼鉄製の扉にめり込ませて。
ううん、めり込ませるというのも正確じゃあない。
彼の手首から先は水に突っ込んだようにするりと溶け込んでいるのだ。金属と同化している。手首と扉の境目が、淡く発光している。
内部で直接ピンをいじって鍵を閉めているのだ。そう気付いて、総毛立つ。
最初に鍵を開けたのを見たときは、一瞬だったから見間違いかと思った。
説明できない現象を前に、膝が震えた。
化け物――そんな言葉が喉まででかかる。
首筋に、生ぬるい息がかかる。かすかにムスクの香りが鼻腔をくすぐる。
「そう簡単に逃がすかよ。久々の同志だ。つっても、あんたみたいな新米、同志というには頼りないけどな」
「同じ志をもった記憶はないわ」
「そうか? 消えたくないと思っているだろうよ」
すっと降りてきたスーツの腕は、抵抗もなくわたしの右肩にめり込んだ。ぬるいお湯に浸かるときの感覚に似ている。痛みも衝撃もないのに、異物感と圧迫感がある。腕が自分の体のどこを通っているのか、はっきりわかる。
荒く呼吸を繰り返す肺を通って、空っぽになった胃をかすめ、喉をくすぐる。最終的に、扁平な胸の中で落ち着いた。
指を開閉する感覚が伝わってきた。不思議な事に、自分の手指を握ったり開いたりしているような間隔がある。
「オレはこうやって体の一部だけを同化させることを、『共有』と呼んでいる。限りなく、対象との境界をなくすことができる、狭間の者の得意技だな
で。今、共有を解いてみようか? どんなふうになるかな」
そんなの、説明されなくてもわかっていた。
「……目的は何」
「研究に付き合ってもらう。それだけ。ま、難しいことは無しよ。答えはオーケイ、だな」
胸の中にあった腕がぐっと上に上がってきた。息苦くてわたしは振り返る。
ユリアンが白々しい蛍光灯の逆光の中で、犬歯を見せびらかせた。
(天使の皮をかぶった悪魔め)
罵りの言葉が口から飛び出るより早く、息がつまった。
ユリアンの手が、わたしの額を貫いていた。
吐き気がする。天地がひっくり返る。
何が起こっているの?
視界は真っ白な光に満ちて、わたしの意識は拡散していった。
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いわくつき物件のご多分に漏れず、入居初日の晩、稲光が差し込む窓越しに、珠子は恐ろしいものを見てしまう。
それは、古風な小袖を纏い焼けただれた女性の姿であった。
時を同じくして、呪具師一族の末裔である大江間諭が珠子の部屋の隣に越して来る。
呪具とは、鎌倉時代から続く大江間という一族が神秘の力を織り合わせて作り出した、超常現象を引き起こす道具のことである。
諭は日本中に散らばってしまった危険な呪具を回収するため、怨霊の気配が漂うおんぼろアパートにやってきたのだった。
ひょんなことから、霊を成仏させるために強力することになった珠子と諭。やがて、珠子には、残留思念を読む異能があることがわかる。けれどそれは生まれつきのものではなく、どうやら珠子は後天的に、生身の「呪具」になってしまったようなのだ。
さらに、諭が追っている呪具には珠子の母親の死と関連があることがわかってきて……。
※毎日17:40更新
最終章は3月29日に4エピソード同時更新です
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