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本編
73
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渡された携帯食料を頬張る。ピーナッツ味と書かれているそれは、おそらく相当甘いはずなのに、味を感じられなかった。
放心している。その状態に一番近いはずだ。
ちらっと運転席の方を見ると、リアンが何か運転手と英語で話していた。早口かつ、聞き慣れない固有名詞が飛び交っていて、私はその意味の半分も理解できない。
厳しい表情で地図を指差すリアンの横顔を見ていると、先ほどの話が現実感のない、夢のように感じられた。
73、
炭酸なしのスポーツドリンクは、すっと乾いた喉を潤してくれる。気付けば、ペットボトルの中の三分の二を飲み干していた。
車窓から外を眺める。清々しい晴天が広がっていて、時折鳥が飛んで行く。上を眺めるだけなら、散歩に行きたいくらいの天気だ。
やや下を見ると、生々しい事故の痕がそこここにあって、まだこの場が非常事態のまっただ中だと再確認させられる。
バスの後部、分厚いアクリルの板の向こうには、六人の男女が椅子に座らされていた。壁面に取り付けられたカラビナに、腰に廻されたベルトから伸びた鎖で係留されている。暴れないように、腕を反対側の肩に巻き付けるような形で拘束されている。全員、目を血走らせて、落ち着き無くがたがたと脚を動かしていた。年齢も性別もばらばらな六人は、服装もばらばらだ。
あれから二度程、アルバートの部下が何人かで戻って来て、彼らをここに押し込めて行った。
感染者たち。彼らはここを出た後、どうなるのだろう。想像もできない。
効果的な治療法が発見されることはあるのだろうか。キャリアの私も、この先、急に発症するかもしれない。――ないと言われていたが、その不安はふとした瞬間に、頭の隅を掠めていく。
うす濁りのスポーツドリンクが、透明な容器の中で揺れる様子を眺める。
――一緒に暮らす。リアンと。
なんでそんな発想にたどり着くのか、彼の頭の中を想像してみたけれど、全然わからない。もちろん申し出は嬉しい。彼に、ここを出てからも一緒にいていい、それもごく身近にと言ってもらえたのだから。舞い上がってしまいそうになる。
だがなぜ、と。興奮が覚めてくると、疑問が湧いてくる。
自分で言うのもなんだけれど、私は事故物件だ。引くくらいに、どうしようもない。リアンには迷惑ばかりかけていて、将来的にそれに見合ったものを返せる当ても無い。事故物件かつ、不良債権だ。
そんな私に、命をかけてまで助けにくる価値があるだろうか。彼がお節介だというだけでは、説明できない程のリスクだ。
おまけに、――思い出したくもないことだが、伊丹の件もある。彼の死体を調べられたら、簡単に私に行き当たるだろう。痕跡という痕跡を隠す気もなく残してきたからだ。あのときは、自棄になっていてどうでもいい気分だったが、今思えば短慮だ。
止められなかった。思考がどんどんマイナスに傾いて行く。
自分がリアンに相応しくない――いっそ伊丹にこそ相応しいほどの、どうしようもない人間だと言う結論がでたタイミングで、リアンが戻って来て、隣に腰をかけた。
リアンは自分の飲み残しのペットボトルに口をつけて、深く息を吐いた。やや呆れ顔で問う。
「……それで、次はなんだ。世界が終わるのか、その顔は。言っておくが、この疲れきっているときに思いついた自虐的な発言を、いちいち取り合っていられないぞ」
きつい言葉には、やや笑いを含んでいる。……どうやらお見通しのよう。
「でも、私は」
「でもはなしだ。俺は疲れているし、君も疲れている。そういう難しいことは、しっかり休んでから考えないと、判断を誤る」
言外に、私が判断を誤ったことがあるように指摘された気がして、黙り込む。その通りだった。
ぐい、と頭を掴まれて、腕に寄り掛かるように促された。されるがままに姿勢を崩して、汗臭いと称された彼に額を預ける。そこまで不快な臭いじゃない、だなんて、どうでもいいことに思考が飛んだ。
「……でも、伊丹の……」
なおも続けようとすると、子供を黙らせるときにするように、しーっと、吐息で制止され、それ以上なにも言えなかった。
諦めて目を閉じる。とたん、ぐっと後ろ髪を引っ張られるような強烈な睡魔が襲って来た。思っていたより、ずっと疲れているらしい。思考力も最低だろう。認めざるを得ない。
眠れと言うように背中を優しくリズミカルに叩かれると、抗いがたい眠気に意識を攫われそうになる。
「後のことは、一緒に考えればいい。今は休むんだ」
低い声が、心地よい。目が覚めたとき、またこの声を聞ければいいのに。
◆
「エンジンをふかせ、援護する!」
耳元で怒声が響き、急に姿勢が崩れた。はっとして、私は身を起こした。
リアンが立ち上がり、タラップに降りるとマシンガンを構えて発砲した。
何が起きているのかわからず、私は今しがた彼が座っていた場所に手を突いて、それを眺めた。
眠りについたことまでは覚えている。そう長時間じゃないはずだ。同じ姿勢でいたのに、腰もお尻も痛くないから。
運転手が矢継ぎ早に英語で何か怒鳴って、バスのエンジンを始動させた。
窓から外を覗く。
バスの正面、図書館の敷地入り口の向こうの方から、微かな音が聞こえて来ていた。徐々に近づいて来ている。ひっきりなしの発砲音だ。
背筋が緊張した。
ぐるりと車内を見回して、なにか武器がないかと探す。壁に拳銃やショットガンが固定されていたけれど、勝手に手にしていいのかわからない。一瞬迷って、――リアンがこれ以上減俸されたりしないように祈り、拳銃を手にした。
「なにがあったの」
踏み出すと脚が痛むが、なんとか引きずって、リアンの背後にたどり着く。リアンは、マシンガンの銃身につけられたスコープを覗き込んで、引き金を引いた。
「群れだ。こっちに向かっている。アルバートたちが退避してくる。合流したら、すぐにこの場を離れるぞ。ミシカ、君は下がっていろ」
そう言ったあと、リアンは再び引き金を引いた。
バスが動き出す。体勢を崩し、私は床に手を突いた。荒々しい方向転換。遠心力で立ち上がれず、転がらないようにするので精一杯だ。
「大丈夫か?!」
そう問いながらも、リアンはこちらを振り返らない。タラップにつけられた手すりを抱え込むようにして姿勢を保持し、発砲を繰り返す。横顔に余裕がない。
タイヤを鳴らして、バスは図書館の敷地から出る。そして低速で走りだした。私はどうにか立ち上がって、リアンの背後から顔を出す。
方向転換したバスの後方にそれは見えた。
十人ほどの兵士たちを飲み込もうとする、感染者たちの波だ。
「なにあれ」
どこにあれだけの人数がいたのだろう。ぱっと見ただけでは、何人いるのかわからない、道幅一杯に広がった人の波が、銃声に倒れた前の人間を踏み越えて、兵士たちに迫っていた。
図書館の敷地内であれに追いつかれたら、逃げ場が無い。だからバスは敷地を出て、バトンを待つリレー選手のように、ゆっくりと退路を進んでいたのだ。
ざわりと不安が胸に広がる。
兵士が発砲し、感染者が一人倒れる。それを踏み台にして、後ろから走って来ていた感染者が、兵士に飛びかかった。掴み掛かられた兵士は、あっという間に感染者の波に飲み込まれて見えなくなる。
銃声に混じって、怒声が聞こえた。悲鳴まじりの、だ。
「ミシカ」
リアンにぐいっと肩を押されて、私は下がった。
追いついて来た兵士が、タラップから車内に駆け込んでくる。リアンが身を乗り出して、彼らの背後に向けて発砲し続ける。
なにかが衝突する音がして、車体が揺れた。後ろから、感染者たちが激突している。車体が激しく打ち据えられる音と振動が響く。
負傷者を抱えた兵士が、必死にタラップにすがりついた。リアンがそれをフォローして、ぐったりしている負傷者を抱え上げて、バスの床に横たえた。装備を整えた男性相手すら、リアンは危なげなく持ち上げる。
待ってくれ、と言ったように聞こえた。タラップに足を掛け損ねて転倒した兵士が、手で虚空を掴む。その手を、肩を、頭を、背後から肉をむしり取るように感染者たちの腕が拘束した。アルバートが叫んで手を伸ばすも、その兵士には届かなかった。
バスはスピードを上げる。窓には、格子や突起に手をかけてしがみついた感染者たちが、内部に侵入しようとへばりつき、自らを顧みず頭を打ち付けてくる。窓があっという間に血に染まるが、彼らは止まらない。
兵士たちは、窓やタラップから発砲して、感染者を引き離そうとする。負傷者を含めても、彼らは七人になっていた。リアンを含めて、ようやく八人。
「出血がひどい、ミシカ、手伝ってくれ」
リアンが、床に並べた負傷者の衣服を切り開いて行く。腹部から夥しい血を流した負傷兵は、青白い顔をしてぐったりしていた。意識が朦朧としているように見える。
この部隊の衛生担当らしい茶髪の青年が、もう一人の負傷者に心臓マッサージを施しはじめる。心臓マッサージを受けている兵士は、首を負傷していた。深々と抉られて、顔にまで血が飛んでいる。うつろな目を見ると、――とても彼が助かるとは思えなかった。
私はリアンに言われた通りに眼前の負傷者の腹部を圧迫した。ぬるりとした血の感触と、濃い鉄の臭い。防弾衣を貫いて大きなガラス片が彼の腹部に突き刺さっている。ガラス片には、それを凶器として使用するために握っていたと思われる別の人物の指紋がくっきりこびりついていた。血にまみれて。自分の手を怪我することなど、感染者にとっては気にもならないことなのだろう。何度も執拗に刺したに違いない。深い傷が何カ所にもあって、圧迫するにも私の手で押さえきれない範囲で血が溢れ出している。
ガラス片の横には、斜めにざっくりと、さびた釘が二本突き立てられている。顔には打撲があって、指の爪はほとんど毟れていた。彼が動けなくなったところに、よってたかって飛びかかったのだろう。
首を絞められた痕もあって、手の形にくっきり痣が残っている。
「どうして、こんな」
「地下を」
心臓マッサージを繰り返していた茶髪の、二十代前半に見える青年が、泣きそうな声で言った。
「地下駐車場のシャッターを開けたら、奴らが沸いて来て、あっという間に、くそ」
彼の混乱と絶望が、痛い程伝わってきて私は唇を噛む。
「彼はだめだ。こっちを手伝え」
リアンの言葉に、彼は弾かれたように顔を上げた。怒りと恐怖で、顔が赤黒くなっている。
「ですが、木島は」
「四の五の言っていると、こちらも死ぬぞ。喉がつぶれている。気管を切開する。腹はお前が止血をしろ」
手当用のキットが入っている備え付けのボックスから物資を取り出して、リアンは手早くそれを広げた。
それを見て、青年が今度は青くなる。
「ですが、自分は、まだ経験も浅く、マイヤー軍曹の補佐でしか――」
「じゃあ、軍曹を呼べ」
「軍曹は、さきほど、地下で」
「お前はもう一人殉職者を出す気か」
リアンに恫喝されて、彼はおたおたと私の隣にしゃがみこむ。
「ミシカ、彼の服を脱がせてくれ、他の負傷を確認する」
私に指示をしながらも、リアンはこちらを見向きもせず、自分は手を動かし続けた。彼の手元を見ないようにしながら、私は負傷者の残っている衣服を脱がしにかかる。
一瞬だけ躊躇したが、怯んでいる場合ではないと自分を励まして、ベルトをはぎ取った。パンツから脚を引き抜いて気付いたが、彼の脛が尋常じゃない腫れ方をしている。折れているのかもしれない。
「だめです、曹長! 少尉殿と交信が途絶えました、本部とも連絡が取れません」
悲鳴を上げるように叫んだ運転手に、アルバートが怒鳴り返す。
「ポイントアルファに迎え!」
その言葉を聞き終わるや否や、甲高い音を立てて車体が急カーブを曲がり、私は悲鳴をあげて、床に倒れ込んだ。
放心している。その状態に一番近いはずだ。
ちらっと運転席の方を見ると、リアンが何か運転手と英語で話していた。早口かつ、聞き慣れない固有名詞が飛び交っていて、私はその意味の半分も理解できない。
厳しい表情で地図を指差すリアンの横顔を見ていると、先ほどの話が現実感のない、夢のように感じられた。
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炭酸なしのスポーツドリンクは、すっと乾いた喉を潤してくれる。気付けば、ペットボトルの中の三分の二を飲み干していた。
車窓から外を眺める。清々しい晴天が広がっていて、時折鳥が飛んで行く。上を眺めるだけなら、散歩に行きたいくらいの天気だ。
やや下を見ると、生々しい事故の痕がそこここにあって、まだこの場が非常事態のまっただ中だと再確認させられる。
バスの後部、分厚いアクリルの板の向こうには、六人の男女が椅子に座らされていた。壁面に取り付けられたカラビナに、腰に廻されたベルトから伸びた鎖で係留されている。暴れないように、腕を反対側の肩に巻き付けるような形で拘束されている。全員、目を血走らせて、落ち着き無くがたがたと脚を動かしていた。年齢も性別もばらばらな六人は、服装もばらばらだ。
あれから二度程、アルバートの部下が何人かで戻って来て、彼らをここに押し込めて行った。
感染者たち。彼らはここを出た後、どうなるのだろう。想像もできない。
効果的な治療法が発見されることはあるのだろうか。キャリアの私も、この先、急に発症するかもしれない。――ないと言われていたが、その不安はふとした瞬間に、頭の隅を掠めていく。
うす濁りのスポーツドリンクが、透明な容器の中で揺れる様子を眺める。
――一緒に暮らす。リアンと。
なんでそんな発想にたどり着くのか、彼の頭の中を想像してみたけれど、全然わからない。もちろん申し出は嬉しい。彼に、ここを出てからも一緒にいていい、それもごく身近にと言ってもらえたのだから。舞い上がってしまいそうになる。
だがなぜ、と。興奮が覚めてくると、疑問が湧いてくる。
自分で言うのもなんだけれど、私は事故物件だ。引くくらいに、どうしようもない。リアンには迷惑ばかりかけていて、将来的にそれに見合ったものを返せる当ても無い。事故物件かつ、不良債権だ。
そんな私に、命をかけてまで助けにくる価値があるだろうか。彼がお節介だというだけでは、説明できない程のリスクだ。
おまけに、――思い出したくもないことだが、伊丹の件もある。彼の死体を調べられたら、簡単に私に行き当たるだろう。痕跡という痕跡を隠す気もなく残してきたからだ。あのときは、自棄になっていてどうでもいい気分だったが、今思えば短慮だ。
止められなかった。思考がどんどんマイナスに傾いて行く。
自分がリアンに相応しくない――いっそ伊丹にこそ相応しいほどの、どうしようもない人間だと言う結論がでたタイミングで、リアンが戻って来て、隣に腰をかけた。
リアンは自分の飲み残しのペットボトルに口をつけて、深く息を吐いた。やや呆れ顔で問う。
「……それで、次はなんだ。世界が終わるのか、その顔は。言っておくが、この疲れきっているときに思いついた自虐的な発言を、いちいち取り合っていられないぞ」
きつい言葉には、やや笑いを含んでいる。……どうやらお見通しのよう。
「でも、私は」
「でもはなしだ。俺は疲れているし、君も疲れている。そういう難しいことは、しっかり休んでから考えないと、判断を誤る」
言外に、私が判断を誤ったことがあるように指摘された気がして、黙り込む。その通りだった。
ぐい、と頭を掴まれて、腕に寄り掛かるように促された。されるがままに姿勢を崩して、汗臭いと称された彼に額を預ける。そこまで不快な臭いじゃない、だなんて、どうでもいいことに思考が飛んだ。
「……でも、伊丹の……」
なおも続けようとすると、子供を黙らせるときにするように、しーっと、吐息で制止され、それ以上なにも言えなかった。
諦めて目を閉じる。とたん、ぐっと後ろ髪を引っ張られるような強烈な睡魔が襲って来た。思っていたより、ずっと疲れているらしい。思考力も最低だろう。認めざるを得ない。
眠れと言うように背中を優しくリズミカルに叩かれると、抗いがたい眠気に意識を攫われそうになる。
「後のことは、一緒に考えればいい。今は休むんだ」
低い声が、心地よい。目が覚めたとき、またこの声を聞ければいいのに。
◆
「エンジンをふかせ、援護する!」
耳元で怒声が響き、急に姿勢が崩れた。はっとして、私は身を起こした。
リアンが立ち上がり、タラップに降りるとマシンガンを構えて発砲した。
何が起きているのかわからず、私は今しがた彼が座っていた場所に手を突いて、それを眺めた。
眠りについたことまでは覚えている。そう長時間じゃないはずだ。同じ姿勢でいたのに、腰もお尻も痛くないから。
運転手が矢継ぎ早に英語で何か怒鳴って、バスのエンジンを始動させた。
窓から外を覗く。
バスの正面、図書館の敷地入り口の向こうの方から、微かな音が聞こえて来ていた。徐々に近づいて来ている。ひっきりなしの発砲音だ。
背筋が緊張した。
ぐるりと車内を見回して、なにか武器がないかと探す。壁に拳銃やショットガンが固定されていたけれど、勝手に手にしていいのかわからない。一瞬迷って、――リアンがこれ以上減俸されたりしないように祈り、拳銃を手にした。
「なにがあったの」
踏み出すと脚が痛むが、なんとか引きずって、リアンの背後にたどり着く。リアンは、マシンガンの銃身につけられたスコープを覗き込んで、引き金を引いた。
「群れだ。こっちに向かっている。アルバートたちが退避してくる。合流したら、すぐにこの場を離れるぞ。ミシカ、君は下がっていろ」
そう言ったあと、リアンは再び引き金を引いた。
バスが動き出す。体勢を崩し、私は床に手を突いた。荒々しい方向転換。遠心力で立ち上がれず、転がらないようにするので精一杯だ。
「大丈夫か?!」
そう問いながらも、リアンはこちらを振り返らない。タラップにつけられた手すりを抱え込むようにして姿勢を保持し、発砲を繰り返す。横顔に余裕がない。
タイヤを鳴らして、バスは図書館の敷地から出る。そして低速で走りだした。私はどうにか立ち上がって、リアンの背後から顔を出す。
方向転換したバスの後方にそれは見えた。
十人ほどの兵士たちを飲み込もうとする、感染者たちの波だ。
「なにあれ」
どこにあれだけの人数がいたのだろう。ぱっと見ただけでは、何人いるのかわからない、道幅一杯に広がった人の波が、銃声に倒れた前の人間を踏み越えて、兵士たちに迫っていた。
図書館の敷地内であれに追いつかれたら、逃げ場が無い。だからバスは敷地を出て、バトンを待つリレー選手のように、ゆっくりと退路を進んでいたのだ。
ざわりと不安が胸に広がる。
兵士が発砲し、感染者が一人倒れる。それを踏み台にして、後ろから走って来ていた感染者が、兵士に飛びかかった。掴み掛かられた兵士は、あっという間に感染者の波に飲み込まれて見えなくなる。
銃声に混じって、怒声が聞こえた。悲鳴まじりの、だ。
「ミシカ」
リアンにぐいっと肩を押されて、私は下がった。
追いついて来た兵士が、タラップから車内に駆け込んでくる。リアンが身を乗り出して、彼らの背後に向けて発砲し続ける。
なにかが衝突する音がして、車体が揺れた。後ろから、感染者たちが激突している。車体が激しく打ち据えられる音と振動が響く。
負傷者を抱えた兵士が、必死にタラップにすがりついた。リアンがそれをフォローして、ぐったりしている負傷者を抱え上げて、バスの床に横たえた。装備を整えた男性相手すら、リアンは危なげなく持ち上げる。
待ってくれ、と言ったように聞こえた。タラップに足を掛け損ねて転倒した兵士が、手で虚空を掴む。その手を、肩を、頭を、背後から肉をむしり取るように感染者たちの腕が拘束した。アルバートが叫んで手を伸ばすも、その兵士には届かなかった。
バスはスピードを上げる。窓には、格子や突起に手をかけてしがみついた感染者たちが、内部に侵入しようとへばりつき、自らを顧みず頭を打ち付けてくる。窓があっという間に血に染まるが、彼らは止まらない。
兵士たちは、窓やタラップから発砲して、感染者を引き離そうとする。負傷者を含めても、彼らは七人になっていた。リアンを含めて、ようやく八人。
「出血がひどい、ミシカ、手伝ってくれ」
リアンが、床に並べた負傷者の衣服を切り開いて行く。腹部から夥しい血を流した負傷兵は、青白い顔をしてぐったりしていた。意識が朦朧としているように見える。
この部隊の衛生担当らしい茶髪の青年が、もう一人の負傷者に心臓マッサージを施しはじめる。心臓マッサージを受けている兵士は、首を負傷していた。深々と抉られて、顔にまで血が飛んでいる。うつろな目を見ると、――とても彼が助かるとは思えなかった。
私はリアンに言われた通りに眼前の負傷者の腹部を圧迫した。ぬるりとした血の感触と、濃い鉄の臭い。防弾衣を貫いて大きなガラス片が彼の腹部に突き刺さっている。ガラス片には、それを凶器として使用するために握っていたと思われる別の人物の指紋がくっきりこびりついていた。血にまみれて。自分の手を怪我することなど、感染者にとっては気にもならないことなのだろう。何度も執拗に刺したに違いない。深い傷が何カ所にもあって、圧迫するにも私の手で押さえきれない範囲で血が溢れ出している。
ガラス片の横には、斜めにざっくりと、さびた釘が二本突き立てられている。顔には打撲があって、指の爪はほとんど毟れていた。彼が動けなくなったところに、よってたかって飛びかかったのだろう。
首を絞められた痕もあって、手の形にくっきり痣が残っている。
「どうして、こんな」
「地下を」
心臓マッサージを繰り返していた茶髪の、二十代前半に見える青年が、泣きそうな声で言った。
「地下駐車場のシャッターを開けたら、奴らが沸いて来て、あっという間に、くそ」
彼の混乱と絶望が、痛い程伝わってきて私は唇を噛む。
「彼はだめだ。こっちを手伝え」
リアンの言葉に、彼は弾かれたように顔を上げた。怒りと恐怖で、顔が赤黒くなっている。
「ですが、木島は」
「四の五の言っていると、こちらも死ぬぞ。喉がつぶれている。気管を切開する。腹はお前が止血をしろ」
手当用のキットが入っている備え付けのボックスから物資を取り出して、リアンは手早くそれを広げた。
それを見て、青年が今度は青くなる。
「ですが、自分は、まだ経験も浅く、マイヤー軍曹の補佐でしか――」
「じゃあ、軍曹を呼べ」
「軍曹は、さきほど、地下で」
「お前はもう一人殉職者を出す気か」
リアンに恫喝されて、彼はおたおたと私の隣にしゃがみこむ。
「ミシカ、彼の服を脱がせてくれ、他の負傷を確認する」
私に指示をしながらも、リアンはこちらを見向きもせず、自分は手を動かし続けた。彼の手元を見ないようにしながら、私は負傷者の残っている衣服を脱がしにかかる。
一瞬だけ躊躇したが、怯んでいる場合ではないと自分を励まして、ベルトをはぎ取った。パンツから脚を引き抜いて気付いたが、彼の脛が尋常じゃない腫れ方をしている。折れているのかもしれない。
「だめです、曹長! 少尉殿と交信が途絶えました、本部とも連絡が取れません」
悲鳴を上げるように叫んだ運転手に、アルバートが怒鳴り返す。
「ポイントアルファに迎え!」
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