【R18】Overkilled me

薊野ざわり

文字の大きさ
上 下
57 / 92
本編

57

しおりを挟む
 一時間待っても、リアンたちが戻って来る様子はなかった。もともと薄暗かった外は、完全に夜の暗さになっている。雨音はしないが、霧雨が降っているかもしれない。
 私たちは、ときおり伊丹が思い出したように話しかけてくるのを聞いたり答えたりしながら彼らを待った。それだけのことだが、疲労感はかなり強い。主に精神的なものが。
 さっき、伊丹の案――いや、あれは指示か――を聞いて、十分は経っただろうか。
 伊丹の指示というのは、あと一時間して二人が戻らなかったら、ここを出発しようと言うものだった。


57、

「お腹空いたなー。もう待つのも飽きたし、出発しちゃおうか?」
「……まだ、一時間経ってない」
 私の指摘に、伊丹は大げさにため息をついた。

「だってさ、これだけ待って帰って来ないんだったら、逃げたか途中でリタイアしてるかどっちかでしょ。待つ意味ないって。お腹も減ったし、いいじゃん。僕、昼も食べてないから、空腹なんだよね」
 それを言ったら、満足に食事をしている人の方が、今この街には少ないと思う。

 伊丹は、塩野から奪うようにして受け取った車のキーを、手で弄んでいる。飽きがきて苛立っているのか、しきりにため息をついていた。
 私の隣で静かにしている塩野は、時折目をつぶっていた。怪我と薬のせいで、眠気がきているように見受けられた。この怪我のこともあるし、早めにこの街を出た方がいいのには間違いないが……。

 リアンたちは、なぜ戻って来ないのだろう。本当になにかトラブルがあったのだろうか。ビルと病院との距離はほとんどないので、その可能性が高い。リアンが怪我をした塩野を置いて先に逃げるような人間でないことを、私はよく知っている。そう考えると、心配な気持ちがさらに強くなってきた。

 いっそ、リアンと顔を合わせず、このままここを出た方がいいのか。そうすれば、伊丹とリアンが関わることもない。彼が生きていれば、おそらく、無事に脱出することもできるだろう。

 伊丹の意見に賛成してしまおうか。心に迷いが生じる。

「そうだなにか面白い話ししてよ。塩野さん」
 だしぬけにそんなことを言って、伊丹は後部座席を覗き込むように姿勢を変えた。
 塩野は、少しうとうとしていたのか、びくりと小さく震えると目をしばたたかせる。

「なんだ、寝てたわけ? 僕らが起きて待ってるのに」

 伊丹がからかうようにそう言って、やにわに、手を伸ばして塩野の太ももに指を突き立てた。包帯の、血の滲んでいる部分の中心に。
 塩野の押し殺せなかった悲鳴が、私の耳に届く。
「やめて、怪我してるのに」

 私は伊丹の手を掴んで睨みつける。それに対して伊丹は、おどけて目を大きく開けて笑顔をつくった。
 塩野の額に、じわりと汗が浮き始めていた。彼は体をくの字にして痛みに耐えている。きっと、痛み止めの処置はされているだろうけれど、傷口をえぐられるなんて想定してないはず。骨っぽいその背をさすってあげる。今の私にはそれくらいしかできない。
 怪我をしているところを攻撃された時の痛みは、私も知っている。他ならぬ塩野にやられた。だからといって、当人がそれを味わっているのを見られて愉快、という気分には到底ならない。むしろ、あのときの苦痛を思い出して、みぞおちがきりきりした。

「怪我してるからやったんだよ。目が覚めただろ? もし今、感染者が襲って来たら、眠っている人は死ぬしかないんだから。起こしてやったんだ、感謝してよ」
「……それはどうも」
 塩野が食いしばった歯の間から声を絞り出し、そう返した。
「それで。さっきも言ったけれど、なにか面白い話しをしてよ。お題はそうだなあ、最近一番、君が惨めだなって思ったことでどう」
「それが面白い話のお題かよ」
「詳しく言うと、僕が面白いと思う話、かな」

 くつくつ笑って、伊丹はどうぞ、と塩野を促した。塩野は、辛そうな顔をしたままだ。

「わざわざ出張に来て、この騒動に巻き込まれたこと以上に、惨めな話はないよ」
「……ふーん、つまんないね」

 言うが早いか、再び塩野の傷口に伊丹の指がねじ込まれた。塩野が、獣じみた悲鳴をあげて暴れる。凶行を止めるため私は伊丹に掴みかかったが、彼が銃把に片手をかけ牽制されてしまった。唇を噛んで、隣で苦しむ塩野を見守るしかない。
 包帯をかき分けて、さらに中の止血用のガーゼをも毟りとって、伊丹の指はついに塩野の傷口を直に責めはじめた。耳を覆いたくなるような叫びをあげて、塩野は身を捩った。
「やめて。もう十分でしょ」

 私が怒鳴っても、伊丹は聞きやしない。ひとしきり塩野をいたぶり、嗜虐的な色を目に宿したまま、再び塩野に話しかけた。血に染まった指を、塩野のシャツの胸元に執拗になすりつけて。

「あんたがいっとう惨めな話しを聞きたいんだ。作り話じゃないって証明できるものがいいな」
「……ハードルあがってるじゃないか」

 眉根をきつく寄せ、額に汗を浮かべたまま、塩野はそれでも伊丹に言い返した。

「そんな話、あろうがなかろうが、お前に話すつもりはない。殺したいなら殺せばいいだろ。付き合いきれない」
 痛みのせいか、それとも疲れのせいか、塩野の目は虚ろだった。
 そんなこと言ってしまってどうなることか。私は、内心はらはらして、伊丹の出方を窺っていた。
 伊丹は、片方の眉を跳ね上げてつまらないという顔をしたが、すぐにいたずらを思いついたように、にんまり笑った。握った銃をまっすぐ私に向ける。

「君が話さないなら、暇つぶしに、バンビちゃんを撃つって言うのはどうだろう」
「……どうしてそうなるんだよ」
「まあ、今回はいろいろ失敗気味だったからね。やり直してもいい気分なんだ」

 意味がわからないのだろう。塩野は顔をしかめて、伊丹の真意を知ろうとするように、じっと彼の顔を覗き込んだ。
 私は、背筋を緊張させた。来たる耐え難い苦痛を想像すると、勝手に身が強ばる。だが恐怖は以前よりずっと弱い。安堵した気持ちすらあった。このどうしようもない状態から脱せるのであれば、死を受け入れることすらましだと思える。そのくらい、疲れていた。

「――年末に、嫁が出て行った。僕は、一昨年に部署が変わってから仕事ばかりで、ほとんど夫らしいことができなくて、彼女が妊娠したあとも、出産の準備も手伝えなかった」

 塩野がぽつぽつと話しだして、私は思わず彼の顔を見た。彼は、ヘッドレストに頭を預け目をつむり、疲れの滲んだ声で続けた。

「年明けの出産予定だったから、なんとか休みをとって出産に立ち会うつもりで帰って来たんだ。クリスマスケーキを買って。それで、家に帰ったら身重の嫁の荷物が一つもなかった。テーブルの上に、はんこを押した離婚届けがあって。まあ、お決まりの展開だけれど、堪えたね」

 私は知っている。彼の首からは、チェーンにかかった指輪が提げられていることに。

「慌てて連絡をとろうとしても、全然だめで、直接むこうの実家に行ったら追い返されたよ。それでも、毎日連絡をとろうと、メールに電話。付き合ってるときよりずっと頻繁にメールしたけれど、梨の礫。年明けに、子供が産まれたって報告のメールがきて。謝ろうとしたら、子供は次の結婚相手の子として認知するから、早く離婚届けを送ってくれと言われた。どうやら、僕があまりに放っておいたから、別の人に頼ったみたいなんだ。……間抜けだろ」

 自嘲気味に笑って、塩野は深いため息をついた。
 何も言えない私と違って、伊丹は大笑いする。

「ほんと、よくあるやつじゃん。古傷っていうか生傷だし。でも、どっちなんだろうね、子供の本当の父親は。浮気相手なのか、あんたなのか。浮気相手だったらよくある話しだし、もしあんたの子供だったら、悲しいよね、あんたほんとに捨てられちゃったんだよ、嫁にも子供にも」

 人の傷口に塩を塗るようなことをするのが、心底楽しいのだろう。伊丹はなおも続けた。

「それで、離婚は成立したの? それとも、泥沼の係争中?」
「……すぐに離婚したよ。その方が、子供のためにもなるし」
「そういうお為ごかしはどうだろうね。ただ逃げ出したいだけだったんじゃないの? ……ああ、でも、まだ未練たらしく、こんなものをつけてるくらいだもん、本当に断腸の思いだったのかな」

 伊丹は、先ほど血をなすりつけた塩野のシャツの胸元を乱暴に掴むと、思いっきり引っ張った。ボタンが弾け、塩野のシャツの胸元がはだける。細いチェーンに掛けられたリングが鈍く光った。
 伊丹はそのチェーンを毟りとると、切れたチェーンを捨てて、リングを手に取り、もてあそぶ。わざとらしく、塩野に見せつけるように。

「彼に返して。必要ないでしょ、あなたには」
 言ってからしまったと後悔した。私の言葉に反応するように、伊丹はさらに嗜虐的な笑みを深くし、そのリングを自分のパンツの尻ポケットにつっこんだ。
 塩野は緩く首を振って、弱々しく笑った。

「いいんだ。これで気持ちを切り替えるきっかけになるかも」
「……包帯、巻き直すわ。いいでしょ」

 伊丹にそう言うと、彼はようやく銃口を降ろして、気障ったらしい口調でお好きにどうぞ、と言った。
 塩野の太ももの血の滲みはずっと大きくなってしまっていて、出血しているのがわかった。口をつぐんだその横顔も強張っている。
 私はなるべく塩野に負担をかけないように、慎重に包帯を外していく。

「……ありがとう」

 包帯を巻き直していると、塩野がぽつりと言った。私は、首を横に振る。
 彼のリングを初めて見たときショックを受けた。なし崩し的に関係を持ったとはいえ、裏切られたと思ったから。
 そう単純ではなかったんだ。彼の気持ちはたしかに元奥さんに残っていた。それ以外の関係を断ち切られてしまって、むしろ、誰かに縋りたくなる気持ちだったろうことが、よくわかる。私も、そういう気持ちだったときがあった。いや、ほとんど、常にそうだった。――そして、そのとき隣にいてくれた人がいた。

「あれ? ようやく帰って来たかな」
 そう言って、伊丹がやにわに銃を持ち上げた。
 駐車場の端の方、私たちが乗ってきたエレベーターの方で明かりがついている。
 人影が動いているのは分かったが、逆光になって詳細は見えない。エレベーターのドアが閉まると、人影は夜の闇に紛れて見えなくなる。

 感染者という可能性もある。私は少し緊張して息をひそめた。この場では、伊丹の銃だけが頼りになる。
 やがて、ぱっと強い光が車内の一部を照らし出した。ライトを手にして銃を構えているのは、リアンだった。やや後ろに須賀もいる。彼らは私たちの姿を発見すると、銃を降ろした。

「君たち、ここにいたのか」
 私たちがこの車に辿り着いているということに驚いたらしい。リアンは、少しだけ声を明るくしたが、すぐに表情を硬くした。

 伊丹のショットガンが、塩野と私の方へ向けられているから。
「これは……どういうことだ」
「須賀、そのマッチョの銃、没収しておいて」

 指示された須賀は、一瞬じっと伊丹を見つめ、その後、リアンが体の横に持ったままになっていた銃を、おもむろに取り上げた。
しおりを挟む
感想 18

あなたにおすすめの小説

The Last Night

泉 沙羅
ホラー
モントリオールの夜に生きる孤独な少女と、美しい吸血鬼の物語。 15歳の少女・サマンサは、家庭にも学校にも居場所を持てず、ただひとり孤独を抱えて生きていた。 そんな彼女が出会ったのは、金髪碧眼の美少年・ネル。 彼はどこか時代錯誤な振る舞いをしながらも、サマンサに優しく接し、二人は次第に心を通わせていく。 交換日記を交わしながら、ネルはサマンサの苦しみを知り、サマンサはネルの秘密に気づいていく。 しかし、ネルには決して覆せない宿命があった。 吸血鬼は、恋をすると、その者の血でしか生きられなくなる――。 この恋は、救いか、それとも破滅か。 美しくも切ない、吸血鬼と少女のラブストーリー。 ※以前"Let Me In"として公開した作品を大幅リニューアルしたものです。 ※「吸血鬼は恋をするとその者の血液でしか生きられなくなる」という設定はX(旧Twitter)アカウント、「創作のネタ提供(雑学多め)さん@sousakubott」からお借りしました。 ※AI(chatgpt)アシストあり

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

不労の家

千年砂漠
ホラー
高校を卒業したばかりの隆志は母を急な病で亡くした数日後、訳も分からず母に連れられて夜逃げして以来八年間全く会わなかった父も亡くし、父の実家の世久家を継ぐことになった。  世久家はかなりの資産家で、古くから続く名家だったが、当主には絶対守らなければならない奇妙なしきたりがあった。  それは「一生働かないこと」。  世久の家には富をもたらす神が住んでおり、その神との約束で代々の世久家の当主は働かずに暮らしていた。  初めは戸惑っていた隆志も裕福に暮らせる楽しさを覚え、昔一年だけこの土地に住んでいたときの同級生と遊び回っていたが、やがて恐ろしい出来事が隆志の周りで起こり始める。  経済的に豊かであっても、心まで満たされるとは限らない。  望んでもいないのに生まれたときから背負わされた宿命に、流されるか。抗うか。  彼の最後の選択を見て欲しい。

視える僕らのルームシェア

橘しづき
ホラー
 安藤花音は、ごく普通のOLだった。だが25歳の誕生日を境に、急におかしなものが見え始める。    電車に飛び込んでバラバラになる男性、やせ細った子供の姿、どれもこの世のものではない者たち。家の中にまで入ってくるそれらに、花音は仕事にも行けず追い詰められていた。    ある日、駅のホームで電車を待っていると、霊に引き込まれそうになってしまう。そこを、見知らぬ男性が間一髪で救ってくれる。彼は花音の話を聞いて名刺を一枚手渡す。 『月乃庭 管理人 竜崎奏多』      不思議なルームシェアが、始まる。

田舎のお婆ちゃんから聞いた言い伝え

菊池まりな
ホラー
田舎のお婆ちゃんから古い言い伝えを聞いたことがあるだろうか?その中から厳選してお届けしたい。

日常怪談〜穢〜

蒼琉璃
ホラー
何気ない日常で誰かの身に起こったかもしれない恐怖。 オムニバスの短編ホラーです。エブリスタでも投稿しています。

[全221話完結済]彼女の怪異談は不思議な野花を咲かせる

野花マリオ
ホラー
ーー彼女が語る怪異談を聴いた者は咲かせたり聴かせる 登場する怪異談集 初ノ花怪異談 野花怪異談 野薔薇怪異談 鐘技怪異談 その他 架空上の石山県野花市に住む彼女は怪異談を語る事が趣味である。そんな彼女の語る怪異談は咲かせる。そしてもう1人の鐘技市に住む彼女の怪異談も聴かせる。 完結いたしました。 ※この物語はフィクションです。実在する人物、企業、団体、名称などは一切関係ありません。 エブリスタにも公開してますがアルファポリス の方がボリュームあります。 表紙イラストは生成AI

赤い部屋

山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。 真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。 東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。 そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。 が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。 だが、「呪い」は実在した。 「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。 凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。 そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。 「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか? 誰がこの「呪い」を生み出したのか? そして彼らはなぜ、呪われたのか? 徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。 その先にふたりが見たものは——。

処理中です...