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本編
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作った料理を二人で食べて、食器も片付けた。九時を回ったころ、リアンは荷物をまとめ始めた。
それまで、彼の思い出の話を聞いたり、彼から借りた本の感想を話し合ったり、のんびり過ごしていたのだが、別れる時間が近付くと言葉が出てこなくなる。
すっかり身支度を整えた彼は、じっとその様子を見ていた私の額に口付けた。
47、
エントランスまで彼を見送りに出た。雨が降ったおかげで、幾分、夜風は涼しく感じた。湿度は高いが昼間ほどの辛さはない。
「それじゃあ気をつけて。二日間ありがとう」
手を差し出すと、リアンは握り返してくれた。名残惜しい気持ちに、なかなかその手を離せない。
「ゆっくり休んでくれ。また連絡する。次の休み、君さえよければまたどこか近場に遊びに行こう」
頷くと彼は軽く私を抱きしめて、踵を返した。その背中が見えなくなるまで、私は見送った。
部屋に戻り、彼が直前まで使っていたコップをキッチンに持っていく。リアンがいるとやや狭く感じた部屋も、一人だとがらんとして感じる。エアコンの稼動音が、空虚に聞こえた。
リアンは帰らなければいけないのだとわかっていても、寂しい。なんだか、変な気分だ。まるで、普通に恋愛をしている女のよう。普通の規格からはかなりずれてしまっているというのに。
コップを洗って、あとはもうすることもなくて、積んでおいた本に手を伸ばした。
スマートフォンが、着信を知らせる軽快なメロディを奏で始めた。リアンがなにか忘れ物でもしたのだろうか。
しかし、画面に表示されたのは、柿山という文字。さきほど自分が、彼宛にメッセージを送ったことを失念していた。
「はい、磯波です」
『こんばんは、柿山です。夜分にすみません。今いいですか? 先ほどの件について』
「ええ、大丈夫です。こちらこそご連絡いただいてしまって、すみません」
ベッドに腰をかける。
「それに、今日のことも申し訳ありませんでした。せっかく、セッティングしていただいたのに、急に帰ってしまって」
『いえ、そのことも少しお聞きしたくて。なにか、伊丹君との間にありましたか? ……彼も、だいぶ興奮気味だったので。柏田さんにもお聞きかもしれませんが、彼に掴みかかったり、彼のせいであなたが本来の調子に戻れないだなんて怒鳴ったりして、相当錯乱していたんです』
それは知らなかった。リアンはなにも言わなかったが、そういうことがあったのか。そうであれば、彼が強く心配する気持ちもわかった。
「そうだったんですか。彼からは特にそういう話は聞いていませんが……。あのあと、伊丹さんはいろいろ自論を話してくださったんですが、私はちょっとついていけなくて。興奮して、よくわからないことを口走ったり、……不愉快なことを聞かれて、耐えられなくて逃げ出してしまったんです」
そう伝えると、柿山は大きくため息をついた。
『すみませんでしたね。彼はかなりムラのあるタイプです。あなたのことを話すと、強く興味を示して会いたいというものだから、彼と彼の主治医の間できちんと相談するように指示はしたんですが……』
「彼から、かなりの数のメールと電話が来ていて困っています。先ほど止めてほしいと直接電話で伝えました。ですがちょっと不安です。柿山さんが、私の連絡先を、伊丹さんに伝えたんですか?」
責めるような口調になってしまったが、それを謝る気にはならなかった。
『いいえ。私は、サイト上のあなたのIDは教えましたが、それ以外は教えていません』
「では、どうやって……。サイト経由ではなくて、直接、メールも電話もきているんです。彼はどこから私の情報を入手したんですか?」
サバイバーの会の連絡先の設定は、非公開になっているはずだ。たしかに、柿山と会う前に、追加で住所や電話番号の入力はしたが、それも通常は見られない形になっているはず。
『……彼が、あのサイトのプログラムを構築したんです。だから、彼なら非公開のデータベースにもアクセスできる』
私は息を飲んだ。そうだ、今日、たしかに、彼があのサイトを構築したと、自分で言っていた。となると、非公開の設定などまったく意味がないということだ。彼は私が入力した自分の情報を、なんの障害もなく覗き見ることができる立場にあるということだ。
「それは、サイトの倫理規定に違反しているんではないですか」
『……ええ。ですが、それしか考えられません。弱ったな、彼はたしかにプログラマーとしての能力もあって、仕事に関してはプロだと思ったので任せたんですが……。そんなことをしでかすなんて』
「どうにかしてください。彼、私のところに来ると言っていました。止めてほしいといっても、まったく耳を貸しません。これ以上こんなことが続くようでしたら、警察に相談します」
口調がきつくなる。恐怖もあったが、なにより怒りが強かった。そんな、人の情報を騙し取るような真似、卑怯だ。
『そう……ですね、それがいいでしょう。ですが、ちょっと待ってもらえませんか。私のほうから、彼に話してみます。ときどき話を聞けなくなる気はあるんですが、それは彼の症状のひとつで、落ち着けば通常の会話ができるんです。今日はちょっと躁状態になってしまったようです』
柿山のお願いに、私は閉口した。午前中に不愉快な気分にさせられた記憶はまだ強く残っているし、またばんばん連絡されるのはもっと気分が悪い。
それでも、彼に会いたいと言い出したのは私で、柿山はそれに応えてくれた。さきほど直接話したせいか、伊丹の電話攻撃も今のところ落ち着いている。一時的にかもしれないが。
「……わかりました、では、明日のこの時間まで待ちます。その後、彼から連絡が来るようでしたら、そのときは対応を考えます」
『ありがとうございます。迷惑をかけてすみません。ですが、わかってやってほしいんです。あの事件は、彼にとって大きな痛手でした。まだ立ち直れていません。自分がどういう人間かもわからず、彼は苦しんでいます。たぶん、その辛さはあなたが一番おわかりでしょう。こんなことお願いできた義理ではないですが、どうか、広い心で対応してあげてください。こちらも、尽力します』
「はい……」
電話を切ると、私はそのまま後ろに倒れこんで、天井を見つめた。
私は心が狭いのだろうか。自問する。たしかに、柿山やリアンと比べると、心が狭いかもしれない。だが、私は伊丹の友人でもなければ、ましてや恋人ではない。彼のために割ける心のスペースには、限りがある。
ため息をついた。
それまで、彼の思い出の話を聞いたり、彼から借りた本の感想を話し合ったり、のんびり過ごしていたのだが、別れる時間が近付くと言葉が出てこなくなる。
すっかり身支度を整えた彼は、じっとその様子を見ていた私の額に口付けた。
47、
エントランスまで彼を見送りに出た。雨が降ったおかげで、幾分、夜風は涼しく感じた。湿度は高いが昼間ほどの辛さはない。
「それじゃあ気をつけて。二日間ありがとう」
手を差し出すと、リアンは握り返してくれた。名残惜しい気持ちに、なかなかその手を離せない。
「ゆっくり休んでくれ。また連絡する。次の休み、君さえよければまたどこか近場に遊びに行こう」
頷くと彼は軽く私を抱きしめて、踵を返した。その背中が見えなくなるまで、私は見送った。
部屋に戻り、彼が直前まで使っていたコップをキッチンに持っていく。リアンがいるとやや狭く感じた部屋も、一人だとがらんとして感じる。エアコンの稼動音が、空虚に聞こえた。
リアンは帰らなければいけないのだとわかっていても、寂しい。なんだか、変な気分だ。まるで、普通に恋愛をしている女のよう。普通の規格からはかなりずれてしまっているというのに。
コップを洗って、あとはもうすることもなくて、積んでおいた本に手を伸ばした。
スマートフォンが、着信を知らせる軽快なメロディを奏で始めた。リアンがなにか忘れ物でもしたのだろうか。
しかし、画面に表示されたのは、柿山という文字。さきほど自分が、彼宛にメッセージを送ったことを失念していた。
「はい、磯波です」
『こんばんは、柿山です。夜分にすみません。今いいですか? 先ほどの件について』
「ええ、大丈夫です。こちらこそご連絡いただいてしまって、すみません」
ベッドに腰をかける。
「それに、今日のことも申し訳ありませんでした。せっかく、セッティングしていただいたのに、急に帰ってしまって」
『いえ、そのことも少しお聞きしたくて。なにか、伊丹君との間にありましたか? ……彼も、だいぶ興奮気味だったので。柏田さんにもお聞きかもしれませんが、彼に掴みかかったり、彼のせいであなたが本来の調子に戻れないだなんて怒鳴ったりして、相当錯乱していたんです』
それは知らなかった。リアンはなにも言わなかったが、そういうことがあったのか。そうであれば、彼が強く心配する気持ちもわかった。
「そうだったんですか。彼からは特にそういう話は聞いていませんが……。あのあと、伊丹さんはいろいろ自論を話してくださったんですが、私はちょっとついていけなくて。興奮して、よくわからないことを口走ったり、……不愉快なことを聞かれて、耐えられなくて逃げ出してしまったんです」
そう伝えると、柿山は大きくため息をついた。
『すみませんでしたね。彼はかなりムラのあるタイプです。あなたのことを話すと、強く興味を示して会いたいというものだから、彼と彼の主治医の間できちんと相談するように指示はしたんですが……』
「彼から、かなりの数のメールと電話が来ていて困っています。先ほど止めてほしいと直接電話で伝えました。ですがちょっと不安です。柿山さんが、私の連絡先を、伊丹さんに伝えたんですか?」
責めるような口調になってしまったが、それを謝る気にはならなかった。
『いいえ。私は、サイト上のあなたのIDは教えましたが、それ以外は教えていません』
「では、どうやって……。サイト経由ではなくて、直接、メールも電話もきているんです。彼はどこから私の情報を入手したんですか?」
サバイバーの会の連絡先の設定は、非公開になっているはずだ。たしかに、柿山と会う前に、追加で住所や電話番号の入力はしたが、それも通常は見られない形になっているはず。
『……彼が、あのサイトのプログラムを構築したんです。だから、彼なら非公開のデータベースにもアクセスできる』
私は息を飲んだ。そうだ、今日、たしかに、彼があのサイトを構築したと、自分で言っていた。となると、非公開の設定などまったく意味がないということだ。彼は私が入力した自分の情報を、なんの障害もなく覗き見ることができる立場にあるということだ。
「それは、サイトの倫理規定に違反しているんではないですか」
『……ええ。ですが、それしか考えられません。弱ったな、彼はたしかにプログラマーとしての能力もあって、仕事に関してはプロだと思ったので任せたんですが……。そんなことをしでかすなんて』
「どうにかしてください。彼、私のところに来ると言っていました。止めてほしいといっても、まったく耳を貸しません。これ以上こんなことが続くようでしたら、警察に相談します」
口調がきつくなる。恐怖もあったが、なにより怒りが強かった。そんな、人の情報を騙し取るような真似、卑怯だ。
『そう……ですね、それがいいでしょう。ですが、ちょっと待ってもらえませんか。私のほうから、彼に話してみます。ときどき話を聞けなくなる気はあるんですが、それは彼の症状のひとつで、落ち着けば通常の会話ができるんです。今日はちょっと躁状態になってしまったようです』
柿山のお願いに、私は閉口した。午前中に不愉快な気分にさせられた記憶はまだ強く残っているし、またばんばん連絡されるのはもっと気分が悪い。
それでも、彼に会いたいと言い出したのは私で、柿山はそれに応えてくれた。さきほど直接話したせいか、伊丹の電話攻撃も今のところ落ち着いている。一時的にかもしれないが。
「……わかりました、では、明日のこの時間まで待ちます。その後、彼から連絡が来るようでしたら、そのときは対応を考えます」
『ありがとうございます。迷惑をかけてすみません。ですが、わかってやってほしいんです。あの事件は、彼にとって大きな痛手でした。まだ立ち直れていません。自分がどういう人間かもわからず、彼は苦しんでいます。たぶん、その辛さはあなたが一番おわかりでしょう。こんなことお願いできた義理ではないですが、どうか、広い心で対応してあげてください。こちらも、尽力します』
「はい……」
電話を切ると、私はそのまま後ろに倒れこんで、天井を見つめた。
私は心が狭いのだろうか。自問する。たしかに、柿山やリアンと比べると、心が狭いかもしれない。だが、私は伊丹の友人でもなければ、ましてや恋人ではない。彼のために割ける心のスペースには、限りがある。
ため息をついた。
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