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本編
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午前九時半、ホテルをチェックアウトしたあと、私たちは市営の駐車場に車を移動させた。
直接、指定の店に行き、予約者である柿山の名前を告げ、個室に通してもらう。
飲食店にしては珍しく、早い時間から開店しているこの店は、ブロカント風の洋食レストランだ。案内された個室は店の奥にあって、六人掛けの席が用意されていた。
すでに、待ち合わせの相手は到着し、着席していた。
43、
柿山は、青と白のボーダーのポロシャツにデニムをあわせて、夏らしいさわやかな印象の服装をしていた。
彼は立ち上がり、ごつごつした手を差し出すと笑顔を作る。私は握手のあと、改めて名乗った。
「磯波です。今日はお時間ありがとうございます。宜しくお願いします」
「こちらこそ、わざわざご足労いただいてありがとうございます」
「こちらは、柏田リアン。リアン、こちらが柿山さん」
リアンも、軽く笑顔を作って柿山と握手する。二人のやり取りを、部屋の隅で立ってじっと見つめている男がいた。
「磯波さん、こちらが私の友人の伊丹洋次君」
伊丹は、まだ青年と言っていいほど若く見えた。十代後半と言われても驚かないほどに。細面で全体的に華奢だ。背は高くリアンとさほど変わらないが、体重は三分の二くらいしかないのではないだろうか。もしかしたら半分かも。肌は白く、真っ黒な墨を流したような髪の毛はやや長め。眼鏡をかけているが、顔の造作はきれいだった。これで表情が明るければ、かなりもてるだろう。だが、体調のせいか、くっきり浮いた目の下の隈が、彼を病的な印象に仕上げていた。
伊丹はぎこちなく笑顔をつくると、細くて華奢な手を差し出した。軽く会釈して、その手を握る。すると、思いのほか強い力で握り返された。緊張しているのか、彼の手は震えている。
柿山と伊丹、私とリアンがそれぞれ並んで座る。
「それじゃあ、改めまして、今日はわざわざご足労ありがとう」
柿山が仕切ってくれる。伊丹はテーブルを見つめて、しきりに瞬きをしている。
「私がサバイバーの会の発足を決意したのは、まさにこういった、関係者同士が独自につながり合うことのできるコミュニティの必要性を考えたからです。とくに、伊丹君や磯波さんのように、マイノリティになった人たちが」
「こちらこそ、お時間をありがとうございます。伊丹さんも、体調が優れない中、ありがとうございます」
私がそういうと、伊丹はごにょごにょとなにかを言って、さらに下を向いてしまった。元々内向的なのか、それとも精神的なものでこうなったのかはわからないが、会話が好きそうには見えなかった。
あまり拘束してもかわいそうだ。とりあえず、聞いてみたいことだけを聞いておこう。
私は飲み物を一口飲んで、伊丹に向き直った。
「伊丹さん、私のことは柿山さんからある程度聞いてらっしゃるかと思いますが、私もキャリアです。記憶障害と、妄想の症状で悩んでいます。医師から処方された薬を飲んでいますが、改善しているかどうかはわかりません。その症状とどうやって付き合っていくか、悩んでいるところです」
「私たちが聞かない方がいい内容ですか」
「いえ、私は大丈夫です」
リアンは私の症状については知っているし、柿山に知られても問題ないように思えた。彼も医師であるから、私の話を聞いて驚きはするかもしれないが、態度を変えるようなことはないだろうと思うからだ。
「柿山さん、すみません」
そう言ったのは、伊丹だった。私は驚いた。彼の口調はきっぱりしていた。ずっと下を向いていたので、そういう話し方をする人だとは思わなかった。
リアンと柿山は目配せし合うと、飲み物を飲んでから、連れ立って個室を出て行った。三十分ほど外で時間をつぶす、という。リアンは目で、大丈夫かと私に聞いてきたが、私は頷いて返した。
彼らの足音が遠ざかるのを確認してか、伊丹が姿勢を正す。
今度は真っ直ぐ、私を見ている。やや色素の薄い、茶色の目が眼鏡の奥にあった。
「僕、人見知りなんです。人と話すことがそもそも苦手で、在宅でもできる仕事をするために、プログラマーになりました。でも、そのおかげで、サバイバーの会のサイト構築も担当できたんですけど」
さっきとは別人のようにはきはきとした話し方だ。
「そうですか。初対面なのにこんなことを聞いてすみません」
「いえ。……その、記憶障害と妄想ということですけれど、それはどういう感じですか。もしかして、僕と一緒でしょうか」
「一緒、というと……」
「僕は、事件の直前の記憶が曖昧でした。自分がどうしてあの学園都市に行き、事件に巻き込まれたのかもわからなかった」
「それは、私も同じです。今もまだその記憶が戻りません。歴史認識もあちこちおかしくなっていた。しかも、自分の身元がわからない」
彼は笑顔になった。子供のような笑顔だ。同じ悩みを持つ人間に出会えて嬉しかったのだろうか。やや前傾姿勢になって彼は話を続けた。
「僕もそうです、調べてもらったけれど、身元がよくわからなかったのも一緒です。しかも、日本が今も独立国だって思い込んでいた。あちこち変なんですよ、記憶が。今は、体調のこともあるから、病院にお世話になってます。ときどき、フラッシュバックっていうんですかね、あの学園都市での記憶がばっとよみがえって、動けなくなるから」
それも私と同じような状態だった。病院に世話になるというのは、彼も私と同じように被験者になっているということだろうか。
「あなたは……ええと……すみません、人の名前覚えられなくて」
「ああ、私は磯波です。磯波美鹿」
「みしか?」
「美しい鹿で美鹿です。記憶では両親がつけてくれた名前ですけれど」
「じゃあ、バンビちゃんですね」
「は?」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。しかし伊丹は気にした様子もなく、話し続けた。
「バンビちゃんは、どういう妄想があると診断されたんですか? 僕は、何度もやり直す妄想がありました」
やり直す。私は息を飲んだ。
「あの学園都市で、僕は、何度も死んでしまって。でも、その度生き返って、やり直した。毎回同じ場所で目が覚めるんです。病院の特別看護室で。死ぬ時にどんな怪我をしても、目が覚めると戻っている。夢のように。最初はすごく怖かったけれど、なんとか慣れてきて、途中で出会った看護士の人と一緒にあの場所を脱出したんです。バンビちゃんはどういう妄想を?」
「私も、……私も同じ妄想を。何度も死んで、何度もやり直して……でも、どうして」
驚きに、うまく言葉が出て来ない。もしかすると、同じ症状を持つ人がいるかもしれない、むしろそれを期待して今日ここにきたというのに。実際に全く同じとわかると、どう反応していいかわからなかった。
「本当に?! バンビちゃんも、僕と同じ?」
私の返事を聞くと、伊丹はますます興奮したように顔を上気させて、身を乗り出してきた。私は思わず後ろにのけぞった。それでもおかまいなしに、彼は私の手を掴む。汗ばんだ骨の細い手に強く拘束される。
「え、ええ……。今日はそれについて、聞きたくてここへ。同じキャリアなら、なにか知っているかと思って」
私はなるべく身を引いて、自分の妄想について話した。手を放してほしかったが、きついことを言うと、この不安定そうな人が傷付くのではという心配があってそのまま。
同じように、病院の地下室で目が覚め、何度も死んではやり直したこと。やり直す前のことも覚えていたこと。そして妄想のはずなのに、実は、その記憶の内容が現実と符牒が合っていたり、本来私が知り得ないことであったりしたということ。
記憶障害のせいで、覚えていた自分の家族の住所や名前も存在せず、自分がどういう存在だかもわからないという話も。
彼は、私が話を進める程に目を爛々とさせた。
「これは運命だね、バンビちゃん。僕たちはこうして出会う運命だったんだ」
彼の言動が、いちいち私をぎくりとさせる。元々こういう話し方をする人なのだろうか、それとも、後遺症が原因でこういう風に話すようになってしまったのか。
「僕が一緒に脱出した看護士の人は、僕に道中、いろいろなことを教えてくれたんだよ。僕は、彼らが意図的に作り出したキャリアだったって」
突拍子のない話だが、これが彼の妄想の一つだろうか。私はとりあえず、そう、と適当な相槌をうつ。
「彼らは、僕ともう一人、特別な人を作った。脳の機能を拡張して、思考のスピードも範囲も普通の人よりずっと優れた人を。彼らは、僕に言ったんだ。本当の君は、まだ病室で眠っていて、ずっとシミュレーションをしているんだよ、と。最善のルートを探すために。だから君は、この世界を創造しているようなものなんだよって。僕は、彼らが知覚できない、他のIFの世界を渡り歩いて、ベストな方法を見つけ出す力を得たんだと。
本当は、あのウイルスは、こうして思考の精度をあげるためのもので、これがうまく働けば、もう人は過ちを犯さなくて済むようになるはずだったってさ。
彼らは、アメリカから日本が独立する未来をみんながシミュレーションできるように、そして未来で自分たちの子孫が同じような重大な過ちを犯さないようあらかじめあらゆる可能性を検討できるようにしたかったんだって。でも、適合者は結局、僕ともう一人の女性だけだった。おそらくその適合と不適合をわけた原因は、体質だろうから、僕とその女性の遺伝子を研究すれば、いずれ誰もがこのウイルスに対する適合性を得られるはずだとも言っていた。
多分、僕らは、別の世界からの使者なんだって。この世界に変革をもたらすために呼ばれた。だから違う世界の記憶を持ち、他を超越した力を持っている」
ただ呆然としている私に、彼はさらに顔を近づけて、微笑んだ。うっとりと。口角には、細かな泡がついている。
「ねえ、バンビちゃん、僕らはアダムとイブになるんだ」
一気に話し終えて、伊丹はやや息荒く、私を見つめた。熱っぽい視線が肌に絡む。
どうしたらいいのかわからず、私は身を硬くして、掴まれた手を振りほどこうとした。だが、彼の力は強くなかなか解放してもらえない。
困惑しながら――例えようのない嫌悪感と不安がこみ上げてくる。この人、変だ。
「君はあのマッチョな男と付き合っているの?」
急に声のトーンを落として、そんなことを聞いて来る。なぜそんなことを聞くのだろう。返事をすぐにしなかったことが気に障ったのか、彼は顔を曇らせて、首を傾げた。
「昨日は彼とセックスしたの?」
伊丹を渾身の力で突き飛ばし、荷物を引っ掴んで部屋を飛び出した。彼が追いかけて来る様子はなかった。
すれ違った店員に、紙幣を会計分と無理矢理押し付けて、店から駆け出す。
ビルを出て駐車場に戻り、車を停めた場所まで来た。
荒くなっていた呼吸を整えようと、深呼吸を繰り返す。暑い日だというのに、鳥肌が立つような不快感は、なかなかぬぐえなかった。
私はスマートフォンを取り出した。リアンから着信とメールが入っていた。
震える指で、通話ボタンを押して折り返す。すぐに電話は繋がった。
『ミシカ? 体調が悪くなって退室したって聞いたが、大丈夫か? 今、どこだ?』
リアンの声を聞いて、ようやくまともに息がつけた。
「駐車場。車のところ」
『わかった、すぐに行く』
通話が切れて、五分もしないで、リアンが来た。走ってきてくれたようで、汗を掻いている。
「大丈夫か?」
しゃがみこんでいた私の前に、リアンが膝をつく。心配そうなその顔を見ると、力が抜けた。
頭を軽くなでられて、私は思わず彼の胸に顔を埋めた。リアンの匂いに、心底安心した。
直接、指定の店に行き、予約者である柿山の名前を告げ、個室に通してもらう。
飲食店にしては珍しく、早い時間から開店しているこの店は、ブロカント風の洋食レストランだ。案内された個室は店の奥にあって、六人掛けの席が用意されていた。
すでに、待ち合わせの相手は到着し、着席していた。
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柿山は、青と白のボーダーのポロシャツにデニムをあわせて、夏らしいさわやかな印象の服装をしていた。
彼は立ち上がり、ごつごつした手を差し出すと笑顔を作る。私は握手のあと、改めて名乗った。
「磯波です。今日はお時間ありがとうございます。宜しくお願いします」
「こちらこそ、わざわざご足労いただいてありがとうございます」
「こちらは、柏田リアン。リアン、こちらが柿山さん」
リアンも、軽く笑顔を作って柿山と握手する。二人のやり取りを、部屋の隅で立ってじっと見つめている男がいた。
「磯波さん、こちらが私の友人の伊丹洋次君」
伊丹は、まだ青年と言っていいほど若く見えた。十代後半と言われても驚かないほどに。細面で全体的に華奢だ。背は高くリアンとさほど変わらないが、体重は三分の二くらいしかないのではないだろうか。もしかしたら半分かも。肌は白く、真っ黒な墨を流したような髪の毛はやや長め。眼鏡をかけているが、顔の造作はきれいだった。これで表情が明るければ、かなりもてるだろう。だが、体調のせいか、くっきり浮いた目の下の隈が、彼を病的な印象に仕上げていた。
伊丹はぎこちなく笑顔をつくると、細くて華奢な手を差し出した。軽く会釈して、その手を握る。すると、思いのほか強い力で握り返された。緊張しているのか、彼の手は震えている。
柿山と伊丹、私とリアンがそれぞれ並んで座る。
「それじゃあ、改めまして、今日はわざわざご足労ありがとう」
柿山が仕切ってくれる。伊丹はテーブルを見つめて、しきりに瞬きをしている。
「私がサバイバーの会の発足を決意したのは、まさにこういった、関係者同士が独自につながり合うことのできるコミュニティの必要性を考えたからです。とくに、伊丹君や磯波さんのように、マイノリティになった人たちが」
「こちらこそ、お時間をありがとうございます。伊丹さんも、体調が優れない中、ありがとうございます」
私がそういうと、伊丹はごにょごにょとなにかを言って、さらに下を向いてしまった。元々内向的なのか、それとも精神的なものでこうなったのかはわからないが、会話が好きそうには見えなかった。
あまり拘束してもかわいそうだ。とりあえず、聞いてみたいことだけを聞いておこう。
私は飲み物を一口飲んで、伊丹に向き直った。
「伊丹さん、私のことは柿山さんからある程度聞いてらっしゃるかと思いますが、私もキャリアです。記憶障害と、妄想の症状で悩んでいます。医師から処方された薬を飲んでいますが、改善しているかどうかはわかりません。その症状とどうやって付き合っていくか、悩んでいるところです」
「私たちが聞かない方がいい内容ですか」
「いえ、私は大丈夫です」
リアンは私の症状については知っているし、柿山に知られても問題ないように思えた。彼も医師であるから、私の話を聞いて驚きはするかもしれないが、態度を変えるようなことはないだろうと思うからだ。
「柿山さん、すみません」
そう言ったのは、伊丹だった。私は驚いた。彼の口調はきっぱりしていた。ずっと下を向いていたので、そういう話し方をする人だとは思わなかった。
リアンと柿山は目配せし合うと、飲み物を飲んでから、連れ立って個室を出て行った。三十分ほど外で時間をつぶす、という。リアンは目で、大丈夫かと私に聞いてきたが、私は頷いて返した。
彼らの足音が遠ざかるのを確認してか、伊丹が姿勢を正す。
今度は真っ直ぐ、私を見ている。やや色素の薄い、茶色の目が眼鏡の奥にあった。
「僕、人見知りなんです。人と話すことがそもそも苦手で、在宅でもできる仕事をするために、プログラマーになりました。でも、そのおかげで、サバイバーの会のサイト構築も担当できたんですけど」
さっきとは別人のようにはきはきとした話し方だ。
「そうですか。初対面なのにこんなことを聞いてすみません」
「いえ。……その、記憶障害と妄想ということですけれど、それはどういう感じですか。もしかして、僕と一緒でしょうか」
「一緒、というと……」
「僕は、事件の直前の記憶が曖昧でした。自分がどうしてあの学園都市に行き、事件に巻き込まれたのかもわからなかった」
「それは、私も同じです。今もまだその記憶が戻りません。歴史認識もあちこちおかしくなっていた。しかも、自分の身元がわからない」
彼は笑顔になった。子供のような笑顔だ。同じ悩みを持つ人間に出会えて嬉しかったのだろうか。やや前傾姿勢になって彼は話を続けた。
「僕もそうです、調べてもらったけれど、身元がよくわからなかったのも一緒です。しかも、日本が今も独立国だって思い込んでいた。あちこち変なんですよ、記憶が。今は、体調のこともあるから、病院にお世話になってます。ときどき、フラッシュバックっていうんですかね、あの学園都市での記憶がばっとよみがえって、動けなくなるから」
それも私と同じような状態だった。病院に世話になるというのは、彼も私と同じように被験者になっているということだろうか。
「あなたは……ええと……すみません、人の名前覚えられなくて」
「ああ、私は磯波です。磯波美鹿」
「みしか?」
「美しい鹿で美鹿です。記憶では両親がつけてくれた名前ですけれど」
「じゃあ、バンビちゃんですね」
「は?」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。しかし伊丹は気にした様子もなく、話し続けた。
「バンビちゃんは、どういう妄想があると診断されたんですか? 僕は、何度もやり直す妄想がありました」
やり直す。私は息を飲んだ。
「あの学園都市で、僕は、何度も死んでしまって。でも、その度生き返って、やり直した。毎回同じ場所で目が覚めるんです。病院の特別看護室で。死ぬ時にどんな怪我をしても、目が覚めると戻っている。夢のように。最初はすごく怖かったけれど、なんとか慣れてきて、途中で出会った看護士の人と一緒にあの場所を脱出したんです。バンビちゃんはどういう妄想を?」
「私も、……私も同じ妄想を。何度も死んで、何度もやり直して……でも、どうして」
驚きに、うまく言葉が出て来ない。もしかすると、同じ症状を持つ人がいるかもしれない、むしろそれを期待して今日ここにきたというのに。実際に全く同じとわかると、どう反応していいかわからなかった。
「本当に?! バンビちゃんも、僕と同じ?」
私の返事を聞くと、伊丹はますます興奮したように顔を上気させて、身を乗り出してきた。私は思わず後ろにのけぞった。それでもおかまいなしに、彼は私の手を掴む。汗ばんだ骨の細い手に強く拘束される。
「え、ええ……。今日はそれについて、聞きたくてここへ。同じキャリアなら、なにか知っているかと思って」
私はなるべく身を引いて、自分の妄想について話した。手を放してほしかったが、きついことを言うと、この不安定そうな人が傷付くのではという心配があってそのまま。
同じように、病院の地下室で目が覚め、何度も死んではやり直したこと。やり直す前のことも覚えていたこと。そして妄想のはずなのに、実は、その記憶の内容が現実と符牒が合っていたり、本来私が知り得ないことであったりしたということ。
記憶障害のせいで、覚えていた自分の家族の住所や名前も存在せず、自分がどういう存在だかもわからないという話も。
彼は、私が話を進める程に目を爛々とさせた。
「これは運命だね、バンビちゃん。僕たちはこうして出会う運命だったんだ」
彼の言動が、いちいち私をぎくりとさせる。元々こういう話し方をする人なのだろうか、それとも、後遺症が原因でこういう風に話すようになってしまったのか。
「僕が一緒に脱出した看護士の人は、僕に道中、いろいろなことを教えてくれたんだよ。僕は、彼らが意図的に作り出したキャリアだったって」
突拍子のない話だが、これが彼の妄想の一つだろうか。私はとりあえず、そう、と適当な相槌をうつ。
「彼らは、僕ともう一人、特別な人を作った。脳の機能を拡張して、思考のスピードも範囲も普通の人よりずっと優れた人を。彼らは、僕に言ったんだ。本当の君は、まだ病室で眠っていて、ずっとシミュレーションをしているんだよ、と。最善のルートを探すために。だから君は、この世界を創造しているようなものなんだよって。僕は、彼らが知覚できない、他のIFの世界を渡り歩いて、ベストな方法を見つけ出す力を得たんだと。
本当は、あのウイルスは、こうして思考の精度をあげるためのもので、これがうまく働けば、もう人は過ちを犯さなくて済むようになるはずだったってさ。
彼らは、アメリカから日本が独立する未来をみんながシミュレーションできるように、そして未来で自分たちの子孫が同じような重大な過ちを犯さないようあらかじめあらゆる可能性を検討できるようにしたかったんだって。でも、適合者は結局、僕ともう一人の女性だけだった。おそらくその適合と不適合をわけた原因は、体質だろうから、僕とその女性の遺伝子を研究すれば、いずれ誰もがこのウイルスに対する適合性を得られるはずだとも言っていた。
多分、僕らは、別の世界からの使者なんだって。この世界に変革をもたらすために呼ばれた。だから違う世界の記憶を持ち、他を超越した力を持っている」
ただ呆然としている私に、彼はさらに顔を近づけて、微笑んだ。うっとりと。口角には、細かな泡がついている。
「ねえ、バンビちゃん、僕らはアダムとイブになるんだ」
一気に話し終えて、伊丹はやや息荒く、私を見つめた。熱っぽい視線が肌に絡む。
どうしたらいいのかわからず、私は身を硬くして、掴まれた手を振りほどこうとした。だが、彼の力は強くなかなか解放してもらえない。
困惑しながら――例えようのない嫌悪感と不安がこみ上げてくる。この人、変だ。
「君はあのマッチョな男と付き合っているの?」
急に声のトーンを落として、そんなことを聞いて来る。なぜそんなことを聞くのだろう。返事をすぐにしなかったことが気に障ったのか、彼は顔を曇らせて、首を傾げた。
「昨日は彼とセックスしたの?」
伊丹を渾身の力で突き飛ばし、荷物を引っ掴んで部屋を飛び出した。彼が追いかけて来る様子はなかった。
すれ違った店員に、紙幣を会計分と無理矢理押し付けて、店から駆け出す。
ビルを出て駐車場に戻り、車を停めた場所まで来た。
荒くなっていた呼吸を整えようと、深呼吸を繰り返す。暑い日だというのに、鳥肌が立つような不快感は、なかなかぬぐえなかった。
私はスマートフォンを取り出した。リアンから着信とメールが入っていた。
震える指で、通話ボタンを押して折り返す。すぐに電話は繋がった。
『ミシカ? 体調が悪くなって退室したって聞いたが、大丈夫か? 今、どこだ?』
リアンの声を聞いて、ようやくまともに息がつけた。
「駐車場。車のところ」
『わかった、すぐに行く』
通話が切れて、五分もしないで、リアンが来た。走ってきてくれたようで、汗を掻いている。
「大丈夫か?」
しゃがみこんでいた私の前に、リアンが膝をつく。心配そうなその顔を見ると、力が抜けた。
頭を軽くなでられて、私は思わず彼の胸に顔を埋めた。リアンの匂いに、心底安心した。
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