【R18】Overkilled me

薊野ざわり

文字の大きさ
上 下
35 / 92
本編

35

しおりを挟む
 自室のエアコンをつけた。むわっとした湿った熱風が部屋の中に滞留している。
 私は荷物をベッドの上に投げ出し、冷蔵庫に入れておいた冷えた麦茶のペットボトルを取り出して、グラスに注いだ。すぐにグラスの周りが湿ってくる。
 飲み干すと、からからに乾いた喉が少しだけ潤った。


35、

 リアンから着信があったのは、夜十時。私は、音楽を流しているスマートフォンを手に取ることなく、じっと見つめていた。二十秒もすると、留守番電話に切り替わったのか、着信音は止まった。放っておくと、三十分後にまた電話がきたが、どうにも出る気にならなくて、私は薬を服用してベッドに潜り込んだ。

 着信履歴を確認だけして、サイレントモードにし、枕元に置いた。
 薬が効いて、ほどなく眠気が襲ってきた。逆らわずに目を閉じる。
 眠る瞬間、駅で手を振り払ってしまったときの、リアンの心配そうな顔を思い出した。



「妄想が現実になった……ねえ」
「はい。ただ単に、偶然の一致かもしれません。それでも、私は動揺してしまって」
「その友人は、どう反応していたの?」
「驚いていました」
「何か言ってた?」
「自分が、私にそのことを話したか? と。……私は、その、今回の記憶でそういった話を聞いたことはなかったので」
「そう答えた?」
「彼が答える前に、逃げました」

 ブルーの壁紙に、メイプルのテーブルと椅子。窓は嵌め殺しで、青空が見える。
 私の話を聞いていた医者は、考え考えパソコンになにかを打ち込んでいた。モニタに映った文字を読んでも、意味がわからない。ドイツ語だろうか。医師は、くすんだ金髪に青い目のドイツ系の顔立ち。マテウス・ピアソン医師。五十がらみの、やや太めの男性だ。

 彼は私の精神科の担当医師で、私に妄想と記憶障害の診断を下したのは彼だ。すでに日本に来て長いようで、日本語はかなり堪能である。
 ぎょろりとした目で私をじっと見た彼は、リラックスを促すように、微笑みを作った。

「そういうこともあります。君はもしかすると、記憶にないだけで彼のタトゥーを見たことがあったのかもしれない。彼がその話をしたのを忘れているだけかもしれない。ただの偶然なのかもしれない。いずれにせよ、そう不安がらなくても大丈夫です」
「そう……ですね」

 よくよく考えてみればわかることだ。
 死ぬ前に見たことがあるなんて、あり得ない。
 きっと、動揺して、自分の記憶が曖昧になってしまっているだけだろう。もしかすると、ジムで彼と一晩明かしたときに、見ていたのかもしれない。

 おそらく、そうだ。そうでない道理がない。

 だとすれば、リアンには本当に失礼なことをした。謝る機会があるだろうか。愛想を尽かされていなければいいのだけれど。

「あとね、デジャヴという言葉を知っている?」
「ええ。既視感、でしょう」
「あれもね、一説では記憶障害の一つだと言われている。記憶にあるシーンと類似のものに相対したとき、脳が見たことがあると錯覚するという。君にもそういうことがときたまあるだろう? それが目が覚める前の、違う生のときの記憶だと。まあ、今回のことは、やや当てはまらないけれどね。おそらくは先ほど言った、見たときの記憶が抜けてしまっているだけだ」

 つまり今回のことも、私の病気のせいだということ。病気だ、と言われてほっとするのはおかしいかもしれないが、なぜか私は緊張が解けた気がした。

「ほかに、なにか不便なことは? 動悸や発作は」
「最近は少し落ち着いています、たまにはありますけれど。薬のおかげでよく寝付けています」
「よかった。他にまた不安なことがあれば相談に来て。どんな些細なことでも。薬は継続で出すから、処方箋を薬局に持って行って」

 彼はまた二行程、電子カルテに文字を打ち込んだ。
 私は礼を言って診察室を出る。廊下には、他に数人の患者が待っていた。彼らの前を通り過ぎて、受付の前で待つ。処方箋を受け取って、受付のある一階まで向かった。
 薬を受け取ったあとは、特にすることもない。

 土曜日、午前十一時半。
 家で、ゆっくり昼食をとり、あとは読みかけの本でも読もう。そう決めて、病院とマンションの途中にあるスーパーで食材を買い込んだ。
 


 たっぷりの荷物を抱えマンションに到着すると、ロビーに見覚えのある後ろ姿があった。
「リアン?」

 声をかけると、彼が振り返った。昨日と同じサングラスをして、ライトブルーのシャツにネイビーのデニムを着ている。手には、大きな買い物袋。外を歩いてきたからか、ロビーに冷房がないからか、額に汗をかいていた。奇しくも私も同じような状態だ。

 リアンは眉を跳ね上げて、肩を竦めた。

「ミシカ、調子はどうだ。ちょっと気になって来てしまった」
 昨日、連絡先と住所を、リーサとホセに伝えてもらうために、リアンに改めて教えた。それでこの住所がわかったんだろう。

「わざわざ、ありがとう。……お茶でもどう? ろくなものもなくて、申し訳ないけれど」
「迷惑だろうから、帰るよ」
「いえ、せっかくだから」

 引き止めると、彼はやや迷ったが、やがて「それじゃあ、一杯だけ」と言った。私の荷物を代わりに持ってくれる。
 私はリアンを伴って、自分の部屋のある階までエレベーターで上がった。鍵を開けて部屋に入り、まずはエアコンをつける。
 私が靴を脱いでいたからか、彼も玄関で靴を脱ぎ、部屋に上がってきた。
 鍵をかけるか、迷い――塩野のことは、私の妄想でしかないと思い直して、鍵をかけた。

 所在なげに立っているリアンに、部屋の真ん中にあるテーブルとクッションを勧める。そして、キッチンにある小さな冷蔵庫に、買ってきたものと彼が持ってきてくれたものをしまって、冷やしておいたお茶を出してグラスに注いだ。氷も入れて、コースターと一緒に持って行く。
 テーブルを挟んで彼の反対側に座り、グラスをそれぞれの前に置いた。

「きれいにしてるな」
 グラスのお茶を半分程飲み、リアンはそう言った。

「ものが少ないから、まだ。それに、一昨日少し片付けたし。一番散らかった状態のときは、人を部屋にあげられない」
 彼は軽く笑った。
「よかった、思っていたより元気そうだ。電話しても反応がなかったから、心配になって。具合が悪くなって倒れていたらなと思って、来てしまった。非常識かとも思ったんだが」
「ありがとう。それに、ごめんなさい。昨日はちょっと動揺していたの。でも、もう落ち着いたから。病院に行って、昨日のことを話した」

 私もお茶を少し飲む。意識していなかったが、喉は十分乾いていたようだ。彼に謝ることができて、ほっとしたせいか、急にそれを自覚する。愛想はつかされていなかったらしい。

「医者はなんて?」
「私があなたのタトゥーを見たことがあるのを、忘れているんじゃないかって。あるいは、あなたから話を聞いたことを私もあなたも忘れているか」
「……そうか」
「どうかした?」
「いや、なんでもない」
 それきり、彼は黙ってしまう。何かを考えているようにみえる。
 私は立ち上がって、彼に尋ねた。

「お昼は食べた? 私はまだだから、よければなにか作るけれど」
「実はまだだ。いいのか? 面倒だったら、適当に外で食べて帰るから」
「あんまり料理は得意じゃないけれど、それでも良ければ」
「楽しみだ」

 そう言われると、やや不安になる。簡単なパスタだったらいくつかレシピがあるが、あまり凝ったものは作れない。そもそも今ある材料で何を作れるか、まず考えなければいけない。
 私は背中に彼の視線を受けながら、冷蔵庫を開けた。



 出来上がったグラタンをほおばって、リアンは笑顔になった。
「味噌を使ったのか。美味い」
「レシピサイトのおかげよ」
 結局、私は、食料の在庫と照らし合わせて、作れるものをインターネットで検索して料理した。味噌を使った和風のグラタンと、アスパラガスなどを入れた、シンプルなコンソメスープだ。サラダは、リアンが買ってきてくれたものをお皿に盛っただけ。

 それらを全部、そらで作れれば格好いいのだろうけれど、無理するとろくなことにならないと判断して、レシピサイトのお世話になることにしたのだった。彼の反応を見ると、その選択に間違いがなかったとわかる。

 リアンは半分程食べると、ふっと笑った。
「グラタンは、同僚の得意料理でね。休みを取って、仲間でそいつの家に遊びに行ったときも振る舞ってくれた」
「同僚って、私が知ってる人?」
「いや、君が知らない人だ。楢原という」

 私の心臓が、大きく音を立てた。リアンにもそれが聞こえたんじゃないかというほどに。
 思わず、耐熱皿に強くスプーンを当ててしまって、かつんと音をたててしまった。

「どうした?」
「……楢原、みゆき?」
「なに?」
「その人の名前、楢原、みゆき?」
「……知っているのか?」
「私、どうして――だって、あれは妄想では?」

 彼女の顔を思い出す。少しえらの張った、意志の強そうな顔立ち。笑うと人好きのする顔で、三十代前半くらいの。
 彼女の特徴をあげる。すべてを聞いて、リアンは「そうだ」と言った。

「楢原と君は、いつ会ったんだ?」
「いつって言っても……。説明が難しいけれど、前回――今回目を覚ます前に、水戸の街で」
「それは、病院で目が覚めたと言っていた時の前、つまり、最初に病院に来る前ということは?」
「わからない。でも、覚えているのは、前回のことだけなの」
「ミシカ。楢原は、事件の一週間前に職務復帰したばかりだった。育児休暇明けだ。その前は二年程産休と育休で現場を離れている。そして、俺たちがジムにいる間に亡くなっている」
 亡くなっている。彼女は、亡くなっている?
「それは……まさか、病院で車に轢かれたなんてことないわよね」
「いいや、その通りだ」
「うそ……」
「君は、茨城に来たことがあったのか? 覚えている範囲で」
「ないわ。計画したこともない。でも、だって、そんな、あり得ないでしょう。私、前回、あなたと一緒にあの街を出て、病院まで彼女と仲間に送ってもらったの。そこで、車に轢かれて死んだわ」

 そのとき、リアンも死んでしまった。
 ただ。それは私の妄想であって現実ではない。

「これは、妄想じゃなかったの? そうじゃなきゃ、説明がつかない」
「ミシカ、落ち着け」

 スプーンを置いて、リアンが私を見る。

「理解できない。せっかく、せっかく――理由がわかってきたのに。何度も死んで死んで死んで――どうして」
「ミシカ。聞きたいことがある。君は俺のタトゥーについて、なにか他に記憶があるか」

 スプーンを握りしめていた手を上から包まれた。彼の手は温かい。
 私は、深呼吸をして落ち着こうと試みる。

「あなたは、学生時代に彼女と付き合っていて、結婚も考えていた。でも、フィールドワークで留守にして帰ってきたら、彼女は別の人と結婚していたって。でも、……そんなの、私のねつ造よね、リアン」
「いいや、全く事実と合っているよ」
「それじゃあ、私は誰か他の人にそれを聞いて、誰に聞いたか忘れてしまったの。ホセか、リーサか……」
「俺は、勝田に配属になってから、誰にもこの話をしていない。絶対に」
「でも、それじゃあ、話があわない。私は……私」

 頭が破裂しそうになる。心臓がばくばく音を立てて、手足の先が冷たくなってくる。
 ああ、私、パニックを起こしかけているのか。
 どこか冷静にそう思う。
 リアンが手に少し力を込める。

「落ち着くんだ。君、言ったじゃないか。自分のルーツを知りたいって」
 彼は落ち着いた様子で、私に語りかける。
「だったら、わかりやすい枠に自分をはめ込むのはよせ。無理矢理、病気だとか、気のせいだとか思い込むのは不自然だろ。
 少なくとも、俺は、簡単に自分のタトゥーを見せたり、それについての話を他人にしない。君は、いつかの俺に、あのタトゥーを見せられて、話をされた記憶はあるんだろ」
「ええ、でも、……だったら、私はなんなの? あの体験も全部本当にあったことだと」
「それはわからない。わからないことはわからないと認めた方が、楽になれないか?」
「なれない。全然、楽にはなれない」

 怒鳴ってしまってからはっとする。リアンは、それでも表情を変えたりせず、じっと私を見つめている。
 彼の顔を見ていると、少しだけ気持ちが落ち着く。深呼吸を三度して、私はお茶を口に含んだ。

「私、どうしたらいいのかな」
「とりあえず、グラタンを食べるんだ。冷めるぞ」

 再びスプーンを持った彼は、おどけてそんなことを言った。
 全く食欲は失せていただけれど、私はその言葉に従うことにした。味はもうわからなくなっていた。
しおりを挟む
感想 18

あなたにおすすめの小説

The Last Night

泉 沙羅
ホラー
モントリオールの夜に生きる孤独な少女と、美しい吸血鬼の物語。 15歳の少女・サマンサは、家庭にも学校にも居場所を持てず、ただひとり孤独を抱えて生きていた。 そんな彼女が出会ったのは、金髪碧眼の美少年・ネル。 彼はどこか時代錯誤な振る舞いをしながらも、サマンサに優しく接し、二人は次第に心を通わせていく。 交換日記を交わしながら、ネルはサマンサの苦しみを知り、サマンサはネルの秘密に気づいていく。 しかし、ネルには決して覆せない宿命があった。 吸血鬼は、恋をすると、その者の血でしか生きられなくなる――。 この恋は、救いか、それとも破滅か。 美しくも切ない、吸血鬼と少女のラブストーリー。 ※以前"Let Me In"として公開した作品を大幅リニューアルしたものです。 ※「吸血鬼は恋をするとその者の血液でしか生きられなくなる」という設定はX(旧Twitter)アカウント、「創作のネタ提供(雑学多め)さん@sousakubott」からお借りしました。 ※AI(chatgpt)アシストあり

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

不労の家

千年砂漠
ホラー
高校を卒業したばかりの隆志は母を急な病で亡くした数日後、訳も分からず母に連れられて夜逃げして以来八年間全く会わなかった父も亡くし、父の実家の世久家を継ぐことになった。  世久家はかなりの資産家で、古くから続く名家だったが、当主には絶対守らなければならない奇妙なしきたりがあった。  それは「一生働かないこと」。  世久の家には富をもたらす神が住んでおり、その神との約束で代々の世久家の当主は働かずに暮らしていた。  初めは戸惑っていた隆志も裕福に暮らせる楽しさを覚え、昔一年だけこの土地に住んでいたときの同級生と遊び回っていたが、やがて恐ろしい出来事が隆志の周りで起こり始める。  経済的に豊かであっても、心まで満たされるとは限らない。  望んでもいないのに生まれたときから背負わされた宿命に、流されるか。抗うか。  彼の最後の選択を見て欲しい。

視える僕らのルームシェア

橘しづき
ホラー
 安藤花音は、ごく普通のOLだった。だが25歳の誕生日を境に、急におかしなものが見え始める。    電車に飛び込んでバラバラになる男性、やせ細った子供の姿、どれもこの世のものではない者たち。家の中にまで入ってくるそれらに、花音は仕事にも行けず追い詰められていた。    ある日、駅のホームで電車を待っていると、霊に引き込まれそうになってしまう。そこを、見知らぬ男性が間一髪で救ってくれる。彼は花音の話を聞いて名刺を一枚手渡す。 『月乃庭 管理人 竜崎奏多』      不思議なルームシェアが、始まる。

日常怪談〜穢〜

蒼琉璃
ホラー
何気ない日常で誰かの身に起こったかもしれない恐怖。 オムニバスの短編ホラーです。エブリスタでも投稿しています。

田舎のお婆ちゃんから聞いた言い伝え

菊池まりな
ホラー
田舎のお婆ちゃんから古い言い伝えを聞いたことがあるだろうか?その中から厳選してお届けしたい。

[全221話完結済]彼女の怪異談は不思議な野花を咲かせる

野花マリオ
ホラー
ーー彼女が語る怪異談を聴いた者は咲かせたり聴かせる 登場する怪異談集 初ノ花怪異談 野花怪異談 野薔薇怪異談 鐘技怪異談 その他 架空上の石山県野花市に住む彼女は怪異談を語る事が趣味である。そんな彼女の語る怪異談は咲かせる。そしてもう1人の鐘技市に住む彼女の怪異談も聴かせる。 完結いたしました。 ※この物語はフィクションです。実在する人物、企業、団体、名称などは一切関係ありません。 エブリスタにも公開してますがアルファポリス の方がボリュームあります。 表紙イラストは生成AI

赤い部屋

山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。 真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。 東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。 そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。 が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。 だが、「呪い」は実在した。 「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。 凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。 そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。 「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか? 誰がこの「呪い」を生み出したのか? そして彼らはなぜ、呪われたのか? 徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。 その先にふたりが見たものは——。

処理中です...