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本編
35
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自室のエアコンをつけた。むわっとした湿った熱風が部屋の中に滞留している。
私は荷物をベッドの上に投げ出し、冷蔵庫に入れておいた冷えた麦茶のペットボトルを取り出して、グラスに注いだ。すぐにグラスの周りが湿ってくる。
飲み干すと、からからに乾いた喉が少しだけ潤った。
35、
リアンから着信があったのは、夜十時。私は、音楽を流しているスマートフォンを手に取ることなく、じっと見つめていた。二十秒もすると、留守番電話に切り替わったのか、着信音は止まった。放っておくと、三十分後にまた電話がきたが、どうにも出る気にならなくて、私は薬を服用してベッドに潜り込んだ。
着信履歴を確認だけして、サイレントモードにし、枕元に置いた。
薬が効いて、ほどなく眠気が襲ってきた。逆らわずに目を閉じる。
眠る瞬間、駅で手を振り払ってしまったときの、リアンの心配そうな顔を思い出した。
◆
「妄想が現実になった……ねえ」
「はい。ただ単に、偶然の一致かもしれません。それでも、私は動揺してしまって」
「その友人は、どう反応していたの?」
「驚いていました」
「何か言ってた?」
「自分が、私にそのことを話したか? と。……私は、その、今回の記憶でそういった話を聞いたことはなかったので」
「そう答えた?」
「彼が答える前に、逃げました」
ブルーの壁紙に、メイプルのテーブルと椅子。窓は嵌め殺しで、青空が見える。
私の話を聞いていた医者は、考え考えパソコンになにかを打ち込んでいた。モニタに映った文字を読んでも、意味がわからない。ドイツ語だろうか。医師は、くすんだ金髪に青い目のドイツ系の顔立ち。マテウス・ピアソン医師。五十がらみの、やや太めの男性だ。
彼は私の精神科の担当医師で、私に妄想と記憶障害の診断を下したのは彼だ。すでに日本に来て長いようで、日本語はかなり堪能である。
ぎょろりとした目で私をじっと見た彼は、リラックスを促すように、微笑みを作った。
「そういうこともあります。君はもしかすると、記憶にないだけで彼のタトゥーを見たことがあったのかもしれない。彼がその話をしたのを忘れているだけかもしれない。ただの偶然なのかもしれない。いずれにせよ、そう不安がらなくても大丈夫です」
「そう……ですね」
よくよく考えてみればわかることだ。
死ぬ前に見たことがあるなんて、あり得ない。
きっと、動揺して、自分の記憶が曖昧になってしまっているだけだろう。もしかすると、ジムで彼と一晩明かしたときに、見ていたのかもしれない。
おそらく、そうだ。そうでない道理がない。
だとすれば、リアンには本当に失礼なことをした。謝る機会があるだろうか。愛想を尽かされていなければいいのだけれど。
「あとね、デジャヴという言葉を知っている?」
「ええ。既視感、でしょう」
「あれもね、一説では記憶障害の一つだと言われている。記憶にあるシーンと類似のものに相対したとき、脳が見たことがあると錯覚するという。君にもそういうことがときたまあるだろう? それが目が覚める前の、違う生のときの記憶だと。まあ、今回のことは、やや当てはまらないけれどね。おそらくは先ほど言った、見たときの記憶が抜けてしまっているだけだ」
つまり今回のことも、私の病気のせいだということ。病気だ、と言われてほっとするのはおかしいかもしれないが、なぜか私は緊張が解けた気がした。
「ほかに、なにか不便なことは? 動悸や発作は」
「最近は少し落ち着いています、たまにはありますけれど。薬のおかげでよく寝付けています」
「よかった。他にまた不安なことがあれば相談に来て。どんな些細なことでも。薬は継続で出すから、処方箋を薬局に持って行って」
彼はまた二行程、電子カルテに文字を打ち込んだ。
私は礼を言って診察室を出る。廊下には、他に数人の患者が待っていた。彼らの前を通り過ぎて、受付の前で待つ。処方箋を受け取って、受付のある一階まで向かった。
薬を受け取ったあとは、特にすることもない。
土曜日、午前十一時半。
家で、ゆっくり昼食をとり、あとは読みかけの本でも読もう。そう決めて、病院とマンションの途中にあるスーパーで食材を買い込んだ。
◆
たっぷりの荷物を抱えマンションに到着すると、ロビーに見覚えのある後ろ姿があった。
「リアン?」
声をかけると、彼が振り返った。昨日と同じサングラスをして、ライトブルーのシャツにネイビーのデニムを着ている。手には、大きな買い物袋。外を歩いてきたからか、ロビーに冷房がないからか、額に汗をかいていた。奇しくも私も同じような状態だ。
リアンは眉を跳ね上げて、肩を竦めた。
「ミシカ、調子はどうだ。ちょっと気になって来てしまった」
昨日、連絡先と住所を、リーサとホセに伝えてもらうために、リアンに改めて教えた。それでこの住所がわかったんだろう。
「わざわざ、ありがとう。……お茶でもどう? ろくなものもなくて、申し訳ないけれど」
「迷惑だろうから、帰るよ」
「いえ、せっかくだから」
引き止めると、彼はやや迷ったが、やがて「それじゃあ、一杯だけ」と言った。私の荷物を代わりに持ってくれる。
私はリアンを伴って、自分の部屋のある階までエレベーターで上がった。鍵を開けて部屋に入り、まずはエアコンをつける。
私が靴を脱いでいたからか、彼も玄関で靴を脱ぎ、部屋に上がってきた。
鍵をかけるか、迷い――塩野のことは、私の妄想でしかないと思い直して、鍵をかけた。
所在なげに立っているリアンに、部屋の真ん中にあるテーブルとクッションを勧める。そして、キッチンにある小さな冷蔵庫に、買ってきたものと彼が持ってきてくれたものをしまって、冷やしておいたお茶を出してグラスに注いだ。氷も入れて、コースターと一緒に持って行く。
テーブルを挟んで彼の反対側に座り、グラスをそれぞれの前に置いた。
「きれいにしてるな」
グラスのお茶を半分程飲み、リアンはそう言った。
「ものが少ないから、まだ。それに、一昨日少し片付けたし。一番散らかった状態のときは、人を部屋にあげられない」
彼は軽く笑った。
「よかった、思っていたより元気そうだ。電話しても反応がなかったから、心配になって。具合が悪くなって倒れていたらなと思って、来てしまった。非常識かとも思ったんだが」
「ありがとう。それに、ごめんなさい。昨日はちょっと動揺していたの。でも、もう落ち着いたから。病院に行って、昨日のことを話した」
私もお茶を少し飲む。意識していなかったが、喉は十分乾いていたようだ。彼に謝ることができて、ほっとしたせいか、急にそれを自覚する。愛想はつかされていなかったらしい。
「医者はなんて?」
「私があなたのタトゥーを見たことがあるのを、忘れているんじゃないかって。あるいは、あなたから話を聞いたことを私もあなたも忘れているか」
「……そうか」
「どうかした?」
「いや、なんでもない」
それきり、彼は黙ってしまう。何かを考えているようにみえる。
私は立ち上がって、彼に尋ねた。
「お昼は食べた? 私はまだだから、よければなにか作るけれど」
「実はまだだ。いいのか? 面倒だったら、適当に外で食べて帰るから」
「あんまり料理は得意じゃないけれど、それでも良ければ」
「楽しみだ」
そう言われると、やや不安になる。簡単なパスタだったらいくつかレシピがあるが、あまり凝ったものは作れない。そもそも今ある材料で何を作れるか、まず考えなければいけない。
私は背中に彼の視線を受けながら、冷蔵庫を開けた。
◆
出来上がったグラタンをほおばって、リアンは笑顔になった。
「味噌を使ったのか。美味い」
「レシピサイトのおかげよ」
結局、私は、食料の在庫と照らし合わせて、作れるものをインターネットで検索して料理した。味噌を使った和風のグラタンと、アスパラガスなどを入れた、シンプルなコンソメスープだ。サラダは、リアンが買ってきてくれたものをお皿に盛っただけ。
それらを全部、そらで作れれば格好いいのだろうけれど、無理するとろくなことにならないと判断して、レシピサイトのお世話になることにしたのだった。彼の反応を見ると、その選択に間違いがなかったとわかる。
リアンは半分程食べると、ふっと笑った。
「グラタンは、同僚の得意料理でね。休みを取って、仲間でそいつの家に遊びに行ったときも振る舞ってくれた」
「同僚って、私が知ってる人?」
「いや、君が知らない人だ。楢原という」
私の心臓が、大きく音を立てた。リアンにもそれが聞こえたんじゃないかというほどに。
思わず、耐熱皿に強くスプーンを当ててしまって、かつんと音をたててしまった。
「どうした?」
「……楢原、みゆき?」
「なに?」
「その人の名前、楢原、みゆき?」
「……知っているのか?」
「私、どうして――だって、あれは妄想では?」
彼女の顔を思い出す。少しえらの張った、意志の強そうな顔立ち。笑うと人好きのする顔で、三十代前半くらいの。
彼女の特徴をあげる。すべてを聞いて、リアンは「そうだ」と言った。
「楢原と君は、いつ会ったんだ?」
「いつって言っても……。説明が難しいけれど、前回――今回目を覚ます前に、水戸の街で」
「それは、病院で目が覚めたと言っていた時の前、つまり、最初に病院に来る前ということは?」
「わからない。でも、覚えているのは、前回のことだけなの」
「ミシカ。楢原は、事件の一週間前に職務復帰したばかりだった。育児休暇明けだ。その前は二年程産休と育休で現場を離れている。そして、俺たちがジムにいる間に亡くなっている」
亡くなっている。彼女は、亡くなっている?
「それは……まさか、病院で車に轢かれたなんてことないわよね」
「いいや、その通りだ」
「うそ……」
「君は、茨城に来たことがあったのか? 覚えている範囲で」
「ないわ。計画したこともない。でも、だって、そんな、あり得ないでしょう。私、前回、あなたと一緒にあの街を出て、病院まで彼女と仲間に送ってもらったの。そこで、車に轢かれて死んだわ」
そのとき、リアンも死んでしまった。
ただ。それは私の妄想であって現実ではない。
「これは、妄想じゃなかったの? そうじゃなきゃ、説明がつかない」
「ミシカ、落ち着け」
スプーンを置いて、リアンが私を見る。
「理解できない。せっかく、せっかく――理由がわかってきたのに。何度も死んで死んで死んで――どうして」
「ミシカ。聞きたいことがある。君は俺のタトゥーについて、なにか他に記憶があるか」
スプーンを握りしめていた手を上から包まれた。彼の手は温かい。
私は、深呼吸をして落ち着こうと試みる。
「あなたは、学生時代に彼女と付き合っていて、結婚も考えていた。でも、フィールドワークで留守にして帰ってきたら、彼女は別の人と結婚していたって。でも、……そんなの、私のねつ造よね、リアン」
「いいや、全く事実と合っているよ」
「それじゃあ、私は誰か他の人にそれを聞いて、誰に聞いたか忘れてしまったの。ホセか、リーサか……」
「俺は、勝田に配属になってから、誰にもこの話をしていない。絶対に」
「でも、それじゃあ、話があわない。私は……私」
頭が破裂しそうになる。心臓がばくばく音を立てて、手足の先が冷たくなってくる。
ああ、私、パニックを起こしかけているのか。
どこか冷静にそう思う。
リアンが手に少し力を込める。
「落ち着くんだ。君、言ったじゃないか。自分のルーツを知りたいって」
彼は落ち着いた様子で、私に語りかける。
「だったら、わかりやすい枠に自分をはめ込むのはよせ。無理矢理、病気だとか、気のせいだとか思い込むのは不自然だろ。
少なくとも、俺は、簡単に自分のタトゥーを見せたり、それについての話を他人にしない。君は、いつかの俺に、あのタトゥーを見せられて、話をされた記憶はあるんだろ」
「ええ、でも、……だったら、私はなんなの? あの体験も全部本当にあったことだと」
「それはわからない。わからないことはわからないと認めた方が、楽になれないか?」
「なれない。全然、楽にはなれない」
怒鳴ってしまってからはっとする。リアンは、それでも表情を変えたりせず、じっと私を見つめている。
彼の顔を見ていると、少しだけ気持ちが落ち着く。深呼吸を三度して、私はお茶を口に含んだ。
「私、どうしたらいいのかな」
「とりあえず、グラタンを食べるんだ。冷めるぞ」
再びスプーンを持った彼は、おどけてそんなことを言った。
全く食欲は失せていただけれど、私はその言葉に従うことにした。味はもうわからなくなっていた。
私は荷物をベッドの上に投げ出し、冷蔵庫に入れておいた冷えた麦茶のペットボトルを取り出して、グラスに注いだ。すぐにグラスの周りが湿ってくる。
飲み干すと、からからに乾いた喉が少しだけ潤った。
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リアンから着信があったのは、夜十時。私は、音楽を流しているスマートフォンを手に取ることなく、じっと見つめていた。二十秒もすると、留守番電話に切り替わったのか、着信音は止まった。放っておくと、三十分後にまた電話がきたが、どうにも出る気にならなくて、私は薬を服用してベッドに潜り込んだ。
着信履歴を確認だけして、サイレントモードにし、枕元に置いた。
薬が効いて、ほどなく眠気が襲ってきた。逆らわずに目を閉じる。
眠る瞬間、駅で手を振り払ってしまったときの、リアンの心配そうな顔を思い出した。
◆
「妄想が現実になった……ねえ」
「はい。ただ単に、偶然の一致かもしれません。それでも、私は動揺してしまって」
「その友人は、どう反応していたの?」
「驚いていました」
「何か言ってた?」
「自分が、私にそのことを話したか? と。……私は、その、今回の記憶でそういった話を聞いたことはなかったので」
「そう答えた?」
「彼が答える前に、逃げました」
ブルーの壁紙に、メイプルのテーブルと椅子。窓は嵌め殺しで、青空が見える。
私の話を聞いていた医者は、考え考えパソコンになにかを打ち込んでいた。モニタに映った文字を読んでも、意味がわからない。ドイツ語だろうか。医師は、くすんだ金髪に青い目のドイツ系の顔立ち。マテウス・ピアソン医師。五十がらみの、やや太めの男性だ。
彼は私の精神科の担当医師で、私に妄想と記憶障害の診断を下したのは彼だ。すでに日本に来て長いようで、日本語はかなり堪能である。
ぎょろりとした目で私をじっと見た彼は、リラックスを促すように、微笑みを作った。
「そういうこともあります。君はもしかすると、記憶にないだけで彼のタトゥーを見たことがあったのかもしれない。彼がその話をしたのを忘れているだけかもしれない。ただの偶然なのかもしれない。いずれにせよ、そう不安がらなくても大丈夫です」
「そう……ですね」
よくよく考えてみればわかることだ。
死ぬ前に見たことがあるなんて、あり得ない。
きっと、動揺して、自分の記憶が曖昧になってしまっているだけだろう。もしかすると、ジムで彼と一晩明かしたときに、見ていたのかもしれない。
おそらく、そうだ。そうでない道理がない。
だとすれば、リアンには本当に失礼なことをした。謝る機会があるだろうか。愛想を尽かされていなければいいのだけれど。
「あとね、デジャヴという言葉を知っている?」
「ええ。既視感、でしょう」
「あれもね、一説では記憶障害の一つだと言われている。記憶にあるシーンと類似のものに相対したとき、脳が見たことがあると錯覚するという。君にもそういうことがときたまあるだろう? それが目が覚める前の、違う生のときの記憶だと。まあ、今回のことは、やや当てはまらないけれどね。おそらくは先ほど言った、見たときの記憶が抜けてしまっているだけだ」
つまり今回のことも、私の病気のせいだということ。病気だ、と言われてほっとするのはおかしいかもしれないが、なぜか私は緊張が解けた気がした。
「ほかに、なにか不便なことは? 動悸や発作は」
「最近は少し落ち着いています、たまにはありますけれど。薬のおかげでよく寝付けています」
「よかった。他にまた不安なことがあれば相談に来て。どんな些細なことでも。薬は継続で出すから、処方箋を薬局に持って行って」
彼はまた二行程、電子カルテに文字を打ち込んだ。
私は礼を言って診察室を出る。廊下には、他に数人の患者が待っていた。彼らの前を通り過ぎて、受付の前で待つ。処方箋を受け取って、受付のある一階まで向かった。
薬を受け取ったあとは、特にすることもない。
土曜日、午前十一時半。
家で、ゆっくり昼食をとり、あとは読みかけの本でも読もう。そう決めて、病院とマンションの途中にあるスーパーで食材を買い込んだ。
◆
たっぷりの荷物を抱えマンションに到着すると、ロビーに見覚えのある後ろ姿があった。
「リアン?」
声をかけると、彼が振り返った。昨日と同じサングラスをして、ライトブルーのシャツにネイビーのデニムを着ている。手には、大きな買い物袋。外を歩いてきたからか、ロビーに冷房がないからか、額に汗をかいていた。奇しくも私も同じような状態だ。
リアンは眉を跳ね上げて、肩を竦めた。
「ミシカ、調子はどうだ。ちょっと気になって来てしまった」
昨日、連絡先と住所を、リーサとホセに伝えてもらうために、リアンに改めて教えた。それでこの住所がわかったんだろう。
「わざわざ、ありがとう。……お茶でもどう? ろくなものもなくて、申し訳ないけれど」
「迷惑だろうから、帰るよ」
「いえ、せっかくだから」
引き止めると、彼はやや迷ったが、やがて「それじゃあ、一杯だけ」と言った。私の荷物を代わりに持ってくれる。
私はリアンを伴って、自分の部屋のある階までエレベーターで上がった。鍵を開けて部屋に入り、まずはエアコンをつける。
私が靴を脱いでいたからか、彼も玄関で靴を脱ぎ、部屋に上がってきた。
鍵をかけるか、迷い――塩野のことは、私の妄想でしかないと思い直して、鍵をかけた。
所在なげに立っているリアンに、部屋の真ん中にあるテーブルとクッションを勧める。そして、キッチンにある小さな冷蔵庫に、買ってきたものと彼が持ってきてくれたものをしまって、冷やしておいたお茶を出してグラスに注いだ。氷も入れて、コースターと一緒に持って行く。
テーブルを挟んで彼の反対側に座り、グラスをそれぞれの前に置いた。
「きれいにしてるな」
グラスのお茶を半分程飲み、リアンはそう言った。
「ものが少ないから、まだ。それに、一昨日少し片付けたし。一番散らかった状態のときは、人を部屋にあげられない」
彼は軽く笑った。
「よかった、思っていたより元気そうだ。電話しても反応がなかったから、心配になって。具合が悪くなって倒れていたらなと思って、来てしまった。非常識かとも思ったんだが」
「ありがとう。それに、ごめんなさい。昨日はちょっと動揺していたの。でも、もう落ち着いたから。病院に行って、昨日のことを話した」
私もお茶を少し飲む。意識していなかったが、喉は十分乾いていたようだ。彼に謝ることができて、ほっとしたせいか、急にそれを自覚する。愛想はつかされていなかったらしい。
「医者はなんて?」
「私があなたのタトゥーを見たことがあるのを、忘れているんじゃないかって。あるいは、あなたから話を聞いたことを私もあなたも忘れているか」
「……そうか」
「どうかした?」
「いや、なんでもない」
それきり、彼は黙ってしまう。何かを考えているようにみえる。
私は立ち上がって、彼に尋ねた。
「お昼は食べた? 私はまだだから、よければなにか作るけれど」
「実はまだだ。いいのか? 面倒だったら、適当に外で食べて帰るから」
「あんまり料理は得意じゃないけれど、それでも良ければ」
「楽しみだ」
そう言われると、やや不安になる。簡単なパスタだったらいくつかレシピがあるが、あまり凝ったものは作れない。そもそも今ある材料で何を作れるか、まず考えなければいけない。
私は背中に彼の視線を受けながら、冷蔵庫を開けた。
◆
出来上がったグラタンをほおばって、リアンは笑顔になった。
「味噌を使ったのか。美味い」
「レシピサイトのおかげよ」
結局、私は、食料の在庫と照らし合わせて、作れるものをインターネットで検索して料理した。味噌を使った和風のグラタンと、アスパラガスなどを入れた、シンプルなコンソメスープだ。サラダは、リアンが買ってきてくれたものをお皿に盛っただけ。
それらを全部、そらで作れれば格好いいのだろうけれど、無理するとろくなことにならないと判断して、レシピサイトのお世話になることにしたのだった。彼の反応を見ると、その選択に間違いがなかったとわかる。
リアンは半分程食べると、ふっと笑った。
「グラタンは、同僚の得意料理でね。休みを取って、仲間でそいつの家に遊びに行ったときも振る舞ってくれた」
「同僚って、私が知ってる人?」
「いや、君が知らない人だ。楢原という」
私の心臓が、大きく音を立てた。リアンにもそれが聞こえたんじゃないかというほどに。
思わず、耐熱皿に強くスプーンを当ててしまって、かつんと音をたててしまった。
「どうした?」
「……楢原、みゆき?」
「なに?」
「その人の名前、楢原、みゆき?」
「……知っているのか?」
「私、どうして――だって、あれは妄想では?」
彼女の顔を思い出す。少しえらの張った、意志の強そうな顔立ち。笑うと人好きのする顔で、三十代前半くらいの。
彼女の特徴をあげる。すべてを聞いて、リアンは「そうだ」と言った。
「楢原と君は、いつ会ったんだ?」
「いつって言っても……。説明が難しいけれど、前回――今回目を覚ます前に、水戸の街で」
「それは、病院で目が覚めたと言っていた時の前、つまり、最初に病院に来る前ということは?」
「わからない。でも、覚えているのは、前回のことだけなの」
「ミシカ。楢原は、事件の一週間前に職務復帰したばかりだった。育児休暇明けだ。その前は二年程産休と育休で現場を離れている。そして、俺たちがジムにいる間に亡くなっている」
亡くなっている。彼女は、亡くなっている?
「それは……まさか、病院で車に轢かれたなんてことないわよね」
「いいや、その通りだ」
「うそ……」
「君は、茨城に来たことがあったのか? 覚えている範囲で」
「ないわ。計画したこともない。でも、だって、そんな、あり得ないでしょう。私、前回、あなたと一緒にあの街を出て、病院まで彼女と仲間に送ってもらったの。そこで、車に轢かれて死んだわ」
そのとき、リアンも死んでしまった。
ただ。それは私の妄想であって現実ではない。
「これは、妄想じゃなかったの? そうじゃなきゃ、説明がつかない」
「ミシカ、落ち着け」
スプーンを置いて、リアンが私を見る。
「理解できない。せっかく、せっかく――理由がわかってきたのに。何度も死んで死んで死んで――どうして」
「ミシカ。聞きたいことがある。君は俺のタトゥーについて、なにか他に記憶があるか」
スプーンを握りしめていた手を上から包まれた。彼の手は温かい。
私は、深呼吸をして落ち着こうと試みる。
「あなたは、学生時代に彼女と付き合っていて、結婚も考えていた。でも、フィールドワークで留守にして帰ってきたら、彼女は別の人と結婚していたって。でも、……そんなの、私のねつ造よね、リアン」
「いいや、全く事実と合っているよ」
「それじゃあ、私は誰か他の人にそれを聞いて、誰に聞いたか忘れてしまったの。ホセか、リーサか……」
「俺は、勝田に配属になってから、誰にもこの話をしていない。絶対に」
「でも、それじゃあ、話があわない。私は……私」
頭が破裂しそうになる。心臓がばくばく音を立てて、手足の先が冷たくなってくる。
ああ、私、パニックを起こしかけているのか。
どこか冷静にそう思う。
リアンが手に少し力を込める。
「落ち着くんだ。君、言ったじゃないか。自分のルーツを知りたいって」
彼は落ち着いた様子で、私に語りかける。
「だったら、わかりやすい枠に自分をはめ込むのはよせ。無理矢理、病気だとか、気のせいだとか思い込むのは不自然だろ。
少なくとも、俺は、簡単に自分のタトゥーを見せたり、それについての話を他人にしない。君は、いつかの俺に、あのタトゥーを見せられて、話をされた記憶はあるんだろ」
「ええ、でも、……だったら、私はなんなの? あの体験も全部本当にあったことだと」
「それはわからない。わからないことはわからないと認めた方が、楽になれないか?」
「なれない。全然、楽にはなれない」
怒鳴ってしまってからはっとする。リアンは、それでも表情を変えたりせず、じっと私を見つめている。
彼の顔を見ていると、少しだけ気持ちが落ち着く。深呼吸を三度して、私はお茶を口に含んだ。
「私、どうしたらいいのかな」
「とりあえず、グラタンを食べるんだ。冷めるぞ」
再びスプーンを持った彼は、おどけてそんなことを言った。
全く食欲は失せていただけれど、私はその言葉に従うことにした。味はもうわからなくなっていた。
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