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本編
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結論から言うと、あの病院は半分軍の管理下にあったということだった。
リアンは、過去、あの病院にかかわった軍のプロジェクトなどを、人伝てに確認してくれたらしい。
塩野から聞いていた通り、精神科を新病院に開設することになったのは、軍からの要望があったからだということがわかった。
33、
サラダの後、デザートが運ばれてきた。バニラではなく、ミルク味のジェラートだった。天辺に小さなミントの葉が乗せられていて、口に運ぶと優しい甘みが広がって、束の間、幸せな気持ちになる。
デザートも終わると、二人してエスプレッソをいただく。
「管轄外だったからさほど詳しい話は聞けなかったが、病院移転には昨今の軍を取り巻く環境がかなり影響していたようだ」
「それはどういう?」
問いかけると、彼はちらりと周りを見回して、首を横に振った。あまり人気のあるところで話したい内容ではないのかもしれない。
私は話題をかえた。
「そういえば、あなたの出身地はどこなの? やっぱり、本土?」
強引過ぎる話題の転換だったが、彼は軽く微笑んで答えてくれた。
「いや、産まれは石川県だ。父方が代々そこの出身で、母はオハイオ出身だ。十歳まで日本で生活していたが、母の仕事の関係で引っ越した。それからは、軍に入隊するまで、オハイオで暮らしていた。……オハイオと聞いてもぴんとこないか?」
「ごめんなさい……、本土に行ったことないから」
アメリカに行ったことはない、と言いそうになる。たぶん、リアンだったら私が多少おかしな表現をしても、咎めたりしないとは思うのだが、なんとなく言葉を選んでしまった。
「まあ、そうだな。派手なイメージがないかな、オハイオは。本土にあまり関わらない人間からしたら、ニューヨークやワシントンのような目立つ場所以外は、ぱっとしないだろ。逆に俺も、日本の中でもぱっとわからない県がけっこうあるからな。正直、配属されるまで、茨城のことは全然知らなかった」
「うーん、茨城は海沿い……かな」
「あれで食べ物はなかなか充実しているんだ。君も、茨城にいる間に海の幸を食べに行ければよかったんだが」
「あれ、なんか、この話誰かともした気がする」
「そうか? 機会があれば今度、冬のアンコウを食べに行こう。結局、毎年次こそと思って、食べられずじまいだったんだ、俺は」
「アンコウ……、私も食べたことないと思う、多分。あの見た目が冒険だよ」
「君なら大丈夫だ」
「どういう確信?」
くすくす笑いながら、彼はアイスコーヒーを注文した。もう少しこの店で涼んで行くつもりなのだろう。
私は彼と他愛のない話をしながら、お腹が落ち着くのを待ち、その間、何度も笑いあった。
不思議な気分だった。
あの閉鎖された都市での関わりは、とても濃厚な記憶となっているけれど、思えば、得られた彼に関する情報はとても少なかったのだ。彼のプライベートな話を聞くたびにそう思う。
彼が昔飼っていた犬の名前が「ハチ」だったということを聞いた後、私たちは、駅近くの州営公園に散歩に行くことにした。
◆
公園は、レストランから歩いて十分ほどの場所にあり、平日だがそれなりに賑わっていた。165haという広さを誇るそこは、青々とした芝生が広がり、レンガを敷いた遊歩道が作られている。その道の上を、ジョギングや散歩をする人が行きかっている。芝生の上にレジャーシートを敷いて寝転んでいる人がいたり、球技やダンスをしている人が散見された。
私たちは、途中のコンビニエンスストアで飲み物とちょっとしたお菓子を買うと、カフェや資料館の入った建物のそばにある広い外階段に並んで腰を下ろした。他にもそうして、座り込んで本を読んだり子供をあやしている人たちが点々としている。
日差しが強いので、私はハンカチを頭に載せた。
隣に座ったリアンは日光対策のサングラスをかけ、コンビニの袋から缶ビールを取り出す。すっかり汗をかいた缶のプルトップを引っ張り、ぷしゅっという気持ちいい音をたて、溢れてきた泡をおいしそうに飲み込んだ。
アルコールなしのウーロン茶のペットボトルを取り出して、ちょっとだけ飲む。さらには、おつまみに持ってきたスナックの箱を開けて、リアンにすすめる。彼は嬉しそうにそれを摘んだ。
「さっきはありがとう」
「ああ、どうだった? 満足してもらえたならいいんだが」
「とても美味しかった」
「それならよかった」
レストランの会計は、彼がさっさと済ませてしまい、私が財布を出そうとすると、ちっとも取り合ってくれなかったのだった。誘ったのは自分なんだからと。
それならばと、コンビニでは、飲み物とおつまみを代わりに私が購入した。額としては全く釣り合ってなくても、奢ってもらってなにもしないのは落ち着かなかった。
「もうすっかり、夏だな」
「そうね。あっという間に。水戸にいたときは、肌寒いくらいだったのに」
「年々、時の流れが早くなっていく気がするな」
彼は年寄りのようなことを言って、肩をすくめる。そしてふと真顔になった。
「君は旭日独立軍を知っているか?」
急な話題の変化に、私は首を傾げた。どこかで聞いたことがあるような響きだったが、思い出せない。
「反米と日本州独立を掲げている組織だ。歴史は古く、第二次大戦後組織され、これまでずっと活動を続けている」
「ああ、そういえば、今回逮捕された人たちも」
先日、水戸のテロ事件で逮捕された人たちも、その旭日独立軍との関係が疑われていると、メディアで報道されていたっけ。あとで調べてみようと思いつつ、先延ばしにしていた。
そこでようやく、これが昼食時に彼が止めた話の続きなのだと気づいた。
ここなら十分他の人たちとの距離もあるし、デリケートな話題でも口にしやすいのだろう。
「そうだ。彼らもその組織と関係があったとか。はっきりはしていないがな。その旭日独立軍はこれまでずっと、デモや署名などを中心に割と穏健でお行儀のよい活動を行ってきた。十年位前から選挙に出馬するようにもなって、わずかとはいえ議席を確保するようにまでなっている。その組織は近年分裂した」
「分裂?」
「ああ。このまま穏便な方法で啓蒙を続けようという穏健派と、武力行使をしてでも日本州をアメリカから独立させようという過激派にだ。それが六年ほど前」
六年前。たしか、塩野が言っていた、医療事故が起こったのも六年前じゃなかっただろうか。
「その直後、軍の兵士がPTSDで無関係な人々を殺害する、痛ましい事件がおきた。現場は本土だったが、彼の所属は勝田基地だったそうだ」
私はウーロン茶を飲みながら、彼の話に耳を傾け続けた。その話の内容には心当たりがあるが、それをおくびにも出さないよう、平静を装う。
「その事件のあと、旭日独立軍の過激派は殺気立った。場合によっては、その事件は、日本州内で起こったかもしれない、アメリカは即刻出て行け、と。残念ながら、自分たちもアメリカ国籍なんだがな」
リアンの声音には、揶揄や皮肉ではなく寂しさがにじんでいた。本土でもこの日本州でも長く暮らしている彼からすると、そういった排斥運動は辛く感じるものなのではないだろうか。自分のアイデンティティを揺るがすように。
「彼らはデモを行った。首都圏の各地で。ときには二万人を超す動員に至った。それまでぽつぽつ行われていたデモとは比べ物にならない求心力があったらしい。それで、軍は信頼回復や、兵士たちの人権尊重のアピールのために、新病院の精神科開設を強くプッシュしたのだとか。そう、実はデモには軍に所属している者の家族や友人なんかもかなり多く含まれていたらしい。軍は、きちんと兵士たちをケアしていないのではないかと――それが、そのまま、悪いアメリカという図式に結びついたのではないかと、俺が読んだ考察記事には書いてあった」
「そう……」
「俺が調べたのは、そのくらいだ。あまり、役に立つ情報はなかったな」
「ありがとう、でもこれで何かの手がかりになるかも」
私が軽く頭を下げると、リアンはビールをぐいっと煽ってから、言った。
「というと、君はまだこれからも、あの事件や病院について調べるつもりか」
「……わからない。調べるつもりだけれど、手詰まりというか、あまり成果は得られなさそうというか」
「記憶を取り戻したい、元の身分を取り戻したいと思う?」
「そう……だね、うん、どうなんだろう」
私は言い淀む。横顔に視線を感じながら、汗をかいたウーロン茶のペットボトルを見つめる。
「最初は、自分に起きた出来事を知りたくて、いろいろ考えたり探したりしていたのだけれど、今は……今は」
今は、どうなんだろう。
あの倉庫で目覚めたときは、異常事態の中、なんとか生き延びる方法を見つけるために、状況を理解しようと必死に情報を集めてつなぎ合わせていた。状況に慣れてからは、自分の身に起きたことを理解したくて、危険を冒して一人で行動したり、余計なことに首を突っ込んだりした。
でも今は、差し迫った危険があるわけではなく。記憶が曖昧なのはウイルスのせいで、警察が調べても自分の身分がはっきりしないとわかってしまった。
それでも今も糸を手繰り寄せようとしてしまうのは、なぜ? 無意味かもしれないとも思うのに。
リアンの緑色の双眸が、サングラスのレンズの向こうに見えた。なぜか心が落ち着いて思考が纏まる気がする。
元々、私の中では、塩野と彼は別格で存在感のある人間だった。
あの病院で初めて出会い、短い時間だったけれどあらゆる意味で生死をともにした二人。
塩野とリアンは、そのアプローチの方向性は違っても、私の中での人間関係のウェイトは他と比べ物にならない。
出会いを繰り返すほどに、彼らとの記憶は増えていった。あの切迫した状況だったからこそ、一緒にいた時間はとても濃密だった。
塩野とは距離を置いたけれど、幾度となく命を救おうとしてくれたリアンとの時間はさらに濃く。
死と覚醒を繰り返すごとに薄れていった目覚める前の記憶の鮮明さとは対照的に、彼の記憶は降り積もっていった。
彼がどういうことで笑ったのか、どういうことで悲しんだのか。何がしたくて、何が嫌いなことなのか。今日の他愛のない話で嵩を増した彼の情報は、今現在もその体積を増やし続けている。こうして、隣にいることで。
今、彼に感じる存在の重み、厚み、温かさ。
曖昧な昔の記憶の中で、私の家族や、友人や、仲間たちが自然と持っていたものはこれだ。
そして、いつからか――多分、あの倉庫で目を覚ましたときから――薄い膜を隔てたように、鈍く感じられなくなっていたものは、きっとこれだ。
端的に表現するなら、それは、現実味という言葉が適しているだろう。
それを今、私はリアンに感じていた。
リアンにだけ。
彼だけが、今、私にとって、リアルだ。
そう、記憶も身分もすべて否定された私自身よりも。
「今は、多分、確かめたいだけ」
私は、目を伏せた。
「私は、私がここに確かに存在していると、確認したい」
リアンは、過去、あの病院にかかわった軍のプロジェクトなどを、人伝てに確認してくれたらしい。
塩野から聞いていた通り、精神科を新病院に開設することになったのは、軍からの要望があったからだということがわかった。
33、
サラダの後、デザートが運ばれてきた。バニラではなく、ミルク味のジェラートだった。天辺に小さなミントの葉が乗せられていて、口に運ぶと優しい甘みが広がって、束の間、幸せな気持ちになる。
デザートも終わると、二人してエスプレッソをいただく。
「管轄外だったからさほど詳しい話は聞けなかったが、病院移転には昨今の軍を取り巻く環境がかなり影響していたようだ」
「それはどういう?」
問いかけると、彼はちらりと周りを見回して、首を横に振った。あまり人気のあるところで話したい内容ではないのかもしれない。
私は話題をかえた。
「そういえば、あなたの出身地はどこなの? やっぱり、本土?」
強引過ぎる話題の転換だったが、彼は軽く微笑んで答えてくれた。
「いや、産まれは石川県だ。父方が代々そこの出身で、母はオハイオ出身だ。十歳まで日本で生活していたが、母の仕事の関係で引っ越した。それからは、軍に入隊するまで、オハイオで暮らしていた。……オハイオと聞いてもぴんとこないか?」
「ごめんなさい……、本土に行ったことないから」
アメリカに行ったことはない、と言いそうになる。たぶん、リアンだったら私が多少おかしな表現をしても、咎めたりしないとは思うのだが、なんとなく言葉を選んでしまった。
「まあ、そうだな。派手なイメージがないかな、オハイオは。本土にあまり関わらない人間からしたら、ニューヨークやワシントンのような目立つ場所以外は、ぱっとしないだろ。逆に俺も、日本の中でもぱっとわからない県がけっこうあるからな。正直、配属されるまで、茨城のことは全然知らなかった」
「うーん、茨城は海沿い……かな」
「あれで食べ物はなかなか充実しているんだ。君も、茨城にいる間に海の幸を食べに行ければよかったんだが」
「あれ、なんか、この話誰かともした気がする」
「そうか? 機会があれば今度、冬のアンコウを食べに行こう。結局、毎年次こそと思って、食べられずじまいだったんだ、俺は」
「アンコウ……、私も食べたことないと思う、多分。あの見た目が冒険だよ」
「君なら大丈夫だ」
「どういう確信?」
くすくす笑いながら、彼はアイスコーヒーを注文した。もう少しこの店で涼んで行くつもりなのだろう。
私は彼と他愛のない話をしながら、お腹が落ち着くのを待ち、その間、何度も笑いあった。
不思議な気分だった。
あの閉鎖された都市での関わりは、とても濃厚な記憶となっているけれど、思えば、得られた彼に関する情報はとても少なかったのだ。彼のプライベートな話を聞くたびにそう思う。
彼が昔飼っていた犬の名前が「ハチ」だったということを聞いた後、私たちは、駅近くの州営公園に散歩に行くことにした。
◆
公園は、レストランから歩いて十分ほどの場所にあり、平日だがそれなりに賑わっていた。165haという広さを誇るそこは、青々とした芝生が広がり、レンガを敷いた遊歩道が作られている。その道の上を、ジョギングや散歩をする人が行きかっている。芝生の上にレジャーシートを敷いて寝転んでいる人がいたり、球技やダンスをしている人が散見された。
私たちは、途中のコンビニエンスストアで飲み物とちょっとしたお菓子を買うと、カフェや資料館の入った建物のそばにある広い外階段に並んで腰を下ろした。他にもそうして、座り込んで本を読んだり子供をあやしている人たちが点々としている。
日差しが強いので、私はハンカチを頭に載せた。
隣に座ったリアンは日光対策のサングラスをかけ、コンビニの袋から缶ビールを取り出す。すっかり汗をかいた缶のプルトップを引っ張り、ぷしゅっという気持ちいい音をたて、溢れてきた泡をおいしそうに飲み込んだ。
アルコールなしのウーロン茶のペットボトルを取り出して、ちょっとだけ飲む。さらには、おつまみに持ってきたスナックの箱を開けて、リアンにすすめる。彼は嬉しそうにそれを摘んだ。
「さっきはありがとう」
「ああ、どうだった? 満足してもらえたならいいんだが」
「とても美味しかった」
「それならよかった」
レストランの会計は、彼がさっさと済ませてしまい、私が財布を出そうとすると、ちっとも取り合ってくれなかったのだった。誘ったのは自分なんだからと。
それならばと、コンビニでは、飲み物とおつまみを代わりに私が購入した。額としては全く釣り合ってなくても、奢ってもらってなにもしないのは落ち着かなかった。
「もうすっかり、夏だな」
「そうね。あっという間に。水戸にいたときは、肌寒いくらいだったのに」
「年々、時の流れが早くなっていく気がするな」
彼は年寄りのようなことを言って、肩をすくめる。そしてふと真顔になった。
「君は旭日独立軍を知っているか?」
急な話題の変化に、私は首を傾げた。どこかで聞いたことがあるような響きだったが、思い出せない。
「反米と日本州独立を掲げている組織だ。歴史は古く、第二次大戦後組織され、これまでずっと活動を続けている」
「ああ、そういえば、今回逮捕された人たちも」
先日、水戸のテロ事件で逮捕された人たちも、その旭日独立軍との関係が疑われていると、メディアで報道されていたっけ。あとで調べてみようと思いつつ、先延ばしにしていた。
そこでようやく、これが昼食時に彼が止めた話の続きなのだと気づいた。
ここなら十分他の人たちとの距離もあるし、デリケートな話題でも口にしやすいのだろう。
「そうだ。彼らもその組織と関係があったとか。はっきりはしていないがな。その旭日独立軍はこれまでずっと、デモや署名などを中心に割と穏健でお行儀のよい活動を行ってきた。十年位前から選挙に出馬するようにもなって、わずかとはいえ議席を確保するようにまでなっている。その組織は近年分裂した」
「分裂?」
「ああ。このまま穏便な方法で啓蒙を続けようという穏健派と、武力行使をしてでも日本州をアメリカから独立させようという過激派にだ。それが六年ほど前」
六年前。たしか、塩野が言っていた、医療事故が起こったのも六年前じゃなかっただろうか。
「その直後、軍の兵士がPTSDで無関係な人々を殺害する、痛ましい事件がおきた。現場は本土だったが、彼の所属は勝田基地だったそうだ」
私はウーロン茶を飲みながら、彼の話に耳を傾け続けた。その話の内容には心当たりがあるが、それをおくびにも出さないよう、平静を装う。
「その事件のあと、旭日独立軍の過激派は殺気立った。場合によっては、その事件は、日本州内で起こったかもしれない、アメリカは即刻出て行け、と。残念ながら、自分たちもアメリカ国籍なんだがな」
リアンの声音には、揶揄や皮肉ではなく寂しさがにじんでいた。本土でもこの日本州でも長く暮らしている彼からすると、そういった排斥運動は辛く感じるものなのではないだろうか。自分のアイデンティティを揺るがすように。
「彼らはデモを行った。首都圏の各地で。ときには二万人を超す動員に至った。それまでぽつぽつ行われていたデモとは比べ物にならない求心力があったらしい。それで、軍は信頼回復や、兵士たちの人権尊重のアピールのために、新病院の精神科開設を強くプッシュしたのだとか。そう、実はデモには軍に所属している者の家族や友人なんかもかなり多く含まれていたらしい。軍は、きちんと兵士たちをケアしていないのではないかと――それが、そのまま、悪いアメリカという図式に結びついたのではないかと、俺が読んだ考察記事には書いてあった」
「そう……」
「俺が調べたのは、そのくらいだ。あまり、役に立つ情報はなかったな」
「ありがとう、でもこれで何かの手がかりになるかも」
私が軽く頭を下げると、リアンはビールをぐいっと煽ってから、言った。
「というと、君はまだこれからも、あの事件や病院について調べるつもりか」
「……わからない。調べるつもりだけれど、手詰まりというか、あまり成果は得られなさそうというか」
「記憶を取り戻したい、元の身分を取り戻したいと思う?」
「そう……だね、うん、どうなんだろう」
私は言い淀む。横顔に視線を感じながら、汗をかいたウーロン茶のペットボトルを見つめる。
「最初は、自分に起きた出来事を知りたくて、いろいろ考えたり探したりしていたのだけれど、今は……今は」
今は、どうなんだろう。
あの倉庫で目覚めたときは、異常事態の中、なんとか生き延びる方法を見つけるために、状況を理解しようと必死に情報を集めてつなぎ合わせていた。状況に慣れてからは、自分の身に起きたことを理解したくて、危険を冒して一人で行動したり、余計なことに首を突っ込んだりした。
でも今は、差し迫った危険があるわけではなく。記憶が曖昧なのはウイルスのせいで、警察が調べても自分の身分がはっきりしないとわかってしまった。
それでも今も糸を手繰り寄せようとしてしまうのは、なぜ? 無意味かもしれないとも思うのに。
リアンの緑色の双眸が、サングラスのレンズの向こうに見えた。なぜか心が落ち着いて思考が纏まる気がする。
元々、私の中では、塩野と彼は別格で存在感のある人間だった。
あの病院で初めて出会い、短い時間だったけれどあらゆる意味で生死をともにした二人。
塩野とリアンは、そのアプローチの方向性は違っても、私の中での人間関係のウェイトは他と比べ物にならない。
出会いを繰り返すほどに、彼らとの記憶は増えていった。あの切迫した状況だったからこそ、一緒にいた時間はとても濃密だった。
塩野とは距離を置いたけれど、幾度となく命を救おうとしてくれたリアンとの時間はさらに濃く。
死と覚醒を繰り返すごとに薄れていった目覚める前の記憶の鮮明さとは対照的に、彼の記憶は降り積もっていった。
彼がどういうことで笑ったのか、どういうことで悲しんだのか。何がしたくて、何が嫌いなことなのか。今日の他愛のない話で嵩を増した彼の情報は、今現在もその体積を増やし続けている。こうして、隣にいることで。
今、彼に感じる存在の重み、厚み、温かさ。
曖昧な昔の記憶の中で、私の家族や、友人や、仲間たちが自然と持っていたものはこれだ。
そして、いつからか――多分、あの倉庫で目を覚ましたときから――薄い膜を隔てたように、鈍く感じられなくなっていたものは、きっとこれだ。
端的に表現するなら、それは、現実味という言葉が適しているだろう。
それを今、私はリアンに感じていた。
リアンにだけ。
彼だけが、今、私にとって、リアルだ。
そう、記憶も身分もすべて否定された私自身よりも。
「今は、多分、確かめたいだけ」
私は、目を伏せた。
「私は、私がここに確かに存在していると、確認したい」
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