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本編
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水色のシャツと白いパンツ、それに五センチのヒールのパンプス。ショルダーバッグにはお財布とスマートフォン、それからハンカチなどのエチケットグッズ。
鏡の前で自分の服装と持ち物をチェックして、思わずため息をついた。
これではまるで、普通の女子だ。
30、
すでに七月。学園都市を出て三ヶ月になる。夏の日差しがまぶしい新宿駅で、私は人と待ち合わせをしていた。時刻は午後二時。駅構内は人でごった返している。そのなかには、スーツ姿のサラリーマンたちもいて、日曜日でも働く彼らを思うと、なんだか申し訳ない気持ちになった。
南口の改札前で立っていると、後ろから肩を叩かれた。振り返れば、記憶にある顔。
「ごめん、待たせちゃったかな。お疲れ様」
「こちらこそ、日曜日にごめんなさい」
ブルーのシャンブレーのシャツを着て、濃いグレーのスラックスをはいている。革ベルトの時計に、しっかり整えられた髪。黒い書類かばん。そして、杖。
塩野はじめ。
あの学園都市を脱出した後、リアンを介して、私は彼と連絡をとることに成功した。彼はリアンにも名刺を配っていたらしい。そのおかげで、こうして私たちは再会できた。
とはいえ、今回の私と塩野は、ほとんど会話をしたこともない。よければ話でも、と連絡を取ったとき、断られるのを覚悟していたが、予想外に彼は、少しの時間ならと了解してくれたのだった。
「とりあえず、あっちにカフェがあるから、そこでお茶でもどう? 実はお昼まだ食べてないんだよね、僕」
「今日も仕事?」
「そうなんだよ。といっても、緊急でちょっと得意先に顔を出すだけだったんだ。もう終わったよ」
「営業って、大変ですね」
そんな会話をしながら、塩野は私をカフェに案内した。混んではいたが、待ち時間なく席につけた。彼は魚介のパスタを注文し、私はアイスコーヒーを注文した。
客の話し声と、カフェのゆったりしたBGMが途切れず流れている。
「まさか、連絡あると思ってなかったから、驚いたよ」
「急にすみません。怪我の具合は?」
「なんとか。先週から、職場に復帰したよ。労災も認められたし、あとは完治を待つだけだよ。君が応急処置をしてくれたんだよね」
そういえばそうだった。
「ところで、磯波さんこそ、今どうしているの? 職場にもう復帰したの?」
私は肩をすくめた。
「いえ、いろいろあって。実は、私、身元不明で」
「えっ」
塩野がお冷のグラスを持ったまま固まる。
「記憶が混同していて、自分で覚えていた住所や職場が存在していなかったの。警察がいろいろ調べてくれたのだけれど、まだよくわからないみたい」
「そうなんだ……そりゃあ、大変、だね」
どう返したらいいのかわからないのだろう、塩野は、うんうんと頷いて、お冷を口に運ぶ。
「それじゃあ、今はどこで生活しているの?」
「水戸大学付属病院の借上住宅。今はそこでお世話になってる。国分寺に研究施設があって、そこの近くにある」
「ああ、あそこの」
さすがに、製薬会社の営業というだけあって、ぴんときたようだ。
運ばれてきたパスタを、塩野は受け取った。ムール貝の乗った、トマトベースのパスタだ。そこに粉チーズをたっぷり振りかけると、彼は顔の前で手を合わせて、フォークを手に取った。口にフォークを運ぶとき、彼が身を軽くかがめると、首筋に鈍く光るチェーンが見えた。
「もともと磯波さんも医療関係だったの? 病院に世話になるなんて」
「いや、記憶が怪しいから断定できないけれど、違うと思う。病院が今回のテロ事件のウイルスを研究していて、私はそこの被験者になることが条件で、今、宿と報酬を提供してもらってる」
「被験者?」
いぶかしげな顔をして、彼は手を止めた。
「検査の結果、私はどうやら、保菌者らしいわ」
さっと彼の顔色が青くなっていったので、私は慌てて手を振った。
「大丈夫、今のところ、発症の危険性はないと診断されているし、だからこそこうやって外出も許可されているんだから」
その説明に、塩野はやや動揺したまま、またお冷を飲んだ。彼の反応ももっともだ。彼はあの騒動で重症を負って、命の危険にさらされたのだから。
「記憶障害はおそらく、ウイルスのせいじゃないかと診断された」
「……なるほど。精神指向型ウイルスってつまり、脳内物質のコントロールや脳組織の破壊の効果だから、まあ、ありえなくないだろうけれど」
塩野はなんとか平静を保とうとしているようで、ことさらゆっくり言葉を選んで話した。
「ただもしかすると、君のように感染したけれど発症しない、あるいは発症が遅れている人がいるってことなのかな、他にも」
「それはわからない」
「……まあ、そうだよね」
彼は肩をすくめた。
「僕も磯波さんも、まったく面倒に巻き込まれたもんだよね。怪我したり、殺されかけたり。犯人は捕まったけれど」
そうなのだ。先月半ば、警察が今回のテロ事件の首謀者と思われる男を二人、逮捕した。彼らは私が学園都市を脱出した翌日に、犯行声明とさらに次の犯行予告を表明し、日本独立をメディアを使って訴えた。しばらく姿をくらませていたようだけれど、都内のマンションの一室に潜伏しているのが見つかって、逮捕されたのだ。彼らはどちらも、純日本人――この今の日本では、純日本州人となるのか――だと主張していた。
「正直に言うと、あのときのことはもう思い出したくもないんだよね。だから本当は、君からのこの誘いも断ろうかと思ったくらい。でも、磯波さんには助けられたしね。怪我の手当てのことも、ヘリの到着を助けてくれたことも。だから、会ってお礼を言いたかった」
「お礼なんて。こちらこそ、こうして対応してくれたことを、感謝しています」
「それで……何か僕に聞きたいことがあるの? そうじゃなきゃ、わざわざこんなところに呼び出したり、しないよね」
ちょっと構えた様子で、彼は首を傾げた。私は頷く。
「ええ。実は、あの旧水戸大学付属病院について知っていることがあれば教えてほしい。あなたなら、もしかしてなにか知っているんじゃないかと思って」
「あの病院のこと? まあ、少しは。といっても、メインの担当者が別にいて、僕は彼が長期の出張だったから、代わりに何度か出向いた程度だけれど。あ、でも、守秘義務にあたる部分は、なにも教えられないよ」
意外といっては失礼だが、彼はちゃんとした営業マンのようだ。
「あの病院が、移転になった理由を知ってる? 公表されているのは、建物老朽化と、最新設備の導入ということだったけれど、築二十五年で病院って移転とかするもの?」
「ええと……それを聞いて、君はどうするの?」
もっともな質問に、私は苦笑した。
「自分の素性がわかればと思って。私、気が付いたら、あの病院にいたの。その直前のことを覚えていないから」
「なるほど……」
塩野はなかなかに早食いで、あっという間にパスタをたいらげ、空になった皿をどかして、コーヒーを注文した。すぐにコーヒーが運ばれてくる。そのカップの中に、ミルクをたっぷりそそいでスプーンで掻き回す。
「まあ、これは、うちの会社のことじゃないから、多分セーフだと思うからさ、……ただもし誰かに聞かれたら、僕から聞いたって言わないでほしいんだけれど」
声を低くして塩野は言った。私はまじめな顔を作って頷く。
「たしか、六年前だったかな。ちょうど僕が入社してすぐごろ、うちの競合他社から逮捕者が出たんだ。取引相手に、認可されていない物質を含有した向精神薬を輸入販売し、しかもその成分などに虚偽の表示をした、ということで。その薬物を投与された人が、数名、健康被害を訴えて発覚したらしい。その薬を買い取った病院は、全国で数件あったけれど、新薬だったからか、そこまで出回っていなかった。たしか、五軒もなかったと思う。実験的に新薬を取り扱おうとした、先進的な治療を行っている数軒。そのなかに、あの水戸大学付属病院があった。でも水戸大学付属病院の患者で、健康被害を訴えた人はいなかったんだ。そもそも、あそこに精神科はないからね」
「よくわからないけれど……ではなぜ、その薬を病院は購入したの」
「あの病院はね、軍と協力関係にあるんだよ。水戸大学の医学部では、軍とともにPTSDの治療や、任務に向かう兵士たちのメンタルケアの研究を行っていたんだ。だから、実はあの病院内に精神科はないけれど、勝田基地内に精神科があるんだよ。同じ系列の病院としてね」
そういえば、あの学園都市は軍と関係が深いと聞いていた。それでも私の頭のなかは、うまく点と点がつながらなかった。
「それで……病院が移転することになったのは、なんで?」
「事件は、本土で起こったらしい。勝田基地内の病院で、例の薬を処方された兵士が、本土の故郷に帰省して、レジャーの途中で急に暴れだして村民を虐殺して、本人は射殺された。その事件は、PTSDのせいだと処理されたけれど、うちの業界ではもっぱらのうわさだったよ。あの、禁止薬物のせいじゃないのかって。ちょっとだけ、一部のメディアがそう報道したかな。すぐに専門家の意見とかで否定されて、消えちゃったけれど。ちょうど日本でその健康被害が報じられたタイミングで、その事件が起こった。きっと海の向こうで、自分の服用している薬が、そんなことを報じられているなんて彼は知らなかったんだろう。
事件があってから、水戸大学は急に、精神科の拡充を掲げ、あっという間に新病院設立が決定したってうわさだよ。新病院内には、しっかり精神科があるんだ」
「健康被害というのは、その兵士のように凶暴化するようなものだったの?」
「うーん、どうだろう。詳しくは報道されなかったけれど、幻覚作用やパニック発作があったようなことは聞いたね」
私は、氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを飲み干した。
なるほど、その話の流れでは、直接、あの病院の名前が事件とリンクせず、インターネットで検索してもわからないだろう。
彼の話が真実かどうかは別として、病院の移転にまったく無関係とも言い切れない気はした。
「でも、この話と磯波さんの身元がつながっているとはとても思えないけれどね……」
彼はちょっと申し訳なさそうに、微笑んだ。
たしかに、その通りだ。
「なんだか、その薬ってちょっと思い出させるわ、例のウイルスのこと」
冗談めかして、私が笑うと、塩野が予想外に真剣な顔をした。
「……そうだね。それは僕も思うよ。それに、これはあんまり関係ないかもしれないけれどさ、あの事件の逮捕された二人の容疑者いたでしょう。彼ら、以前あの病院に勤めていた看護師らしいんだよね。今は無職だけれど」
「……それは、……」
どう反応すればいいのか。私はわからず、塩野の顔を見つめるほかなかった。彼はしばらくじっと私の顔を見ていたけれど、ふっと表情を緩めた。
「まあでも、その昔の話が今回のテロに関係あったら、とっくに警察やマスコミが動いてるって。僕らが期待しているような、二時間ドラマみたいな展開はないってことだよ。ごめん、役に立たないね僕の話」
「そんなことない、ありがとう」
頭を下げると、彼は照れたように頬を掻いた。
お互い会計を済ませて、新宿駅まで戻る。私はこれからマンションに帰り、彼も家族のところに帰るのだろう。
別れ際、彼は手を差し出してきた。
「よければ、また会おうよ。今度は怪我が治ったころに、お酒でも」
私は、躊躇って、首を横に振った。
「いえ、迷惑をかけるし、お互いもう忘れたほうがいいだろうから。今日は無理を言って、すみませんでした」
頭を下げる。彼はちょっとの間寂しそうな顔をして立ちすくんでいたけれど、やがて「そうだね」とかすかに笑んで、杖をついて駅の構内に消えていった。
私は、ぬるい風を頬に受けながら、その後ろ姿を見送った。
今になっても、やはり、彼と握手をする勇気はでなかった。
鏡の前で自分の服装と持ち物をチェックして、思わずため息をついた。
これではまるで、普通の女子だ。
30、
すでに七月。学園都市を出て三ヶ月になる。夏の日差しがまぶしい新宿駅で、私は人と待ち合わせをしていた。時刻は午後二時。駅構内は人でごった返している。そのなかには、スーツ姿のサラリーマンたちもいて、日曜日でも働く彼らを思うと、なんだか申し訳ない気持ちになった。
南口の改札前で立っていると、後ろから肩を叩かれた。振り返れば、記憶にある顔。
「ごめん、待たせちゃったかな。お疲れ様」
「こちらこそ、日曜日にごめんなさい」
ブルーのシャンブレーのシャツを着て、濃いグレーのスラックスをはいている。革ベルトの時計に、しっかり整えられた髪。黒い書類かばん。そして、杖。
塩野はじめ。
あの学園都市を脱出した後、リアンを介して、私は彼と連絡をとることに成功した。彼はリアンにも名刺を配っていたらしい。そのおかげで、こうして私たちは再会できた。
とはいえ、今回の私と塩野は、ほとんど会話をしたこともない。よければ話でも、と連絡を取ったとき、断られるのを覚悟していたが、予想外に彼は、少しの時間ならと了解してくれたのだった。
「とりあえず、あっちにカフェがあるから、そこでお茶でもどう? 実はお昼まだ食べてないんだよね、僕」
「今日も仕事?」
「そうなんだよ。といっても、緊急でちょっと得意先に顔を出すだけだったんだ。もう終わったよ」
「営業って、大変ですね」
そんな会話をしながら、塩野は私をカフェに案内した。混んではいたが、待ち時間なく席につけた。彼は魚介のパスタを注文し、私はアイスコーヒーを注文した。
客の話し声と、カフェのゆったりしたBGMが途切れず流れている。
「まさか、連絡あると思ってなかったから、驚いたよ」
「急にすみません。怪我の具合は?」
「なんとか。先週から、職場に復帰したよ。労災も認められたし、あとは完治を待つだけだよ。君が応急処置をしてくれたんだよね」
そういえばそうだった。
「ところで、磯波さんこそ、今どうしているの? 職場にもう復帰したの?」
私は肩をすくめた。
「いえ、いろいろあって。実は、私、身元不明で」
「えっ」
塩野がお冷のグラスを持ったまま固まる。
「記憶が混同していて、自分で覚えていた住所や職場が存在していなかったの。警察がいろいろ調べてくれたのだけれど、まだよくわからないみたい」
「そうなんだ……そりゃあ、大変、だね」
どう返したらいいのかわからないのだろう、塩野は、うんうんと頷いて、お冷を口に運ぶ。
「それじゃあ、今はどこで生活しているの?」
「水戸大学付属病院の借上住宅。今はそこでお世話になってる。国分寺に研究施設があって、そこの近くにある」
「ああ、あそこの」
さすがに、製薬会社の営業というだけあって、ぴんときたようだ。
運ばれてきたパスタを、塩野は受け取った。ムール貝の乗った、トマトベースのパスタだ。そこに粉チーズをたっぷり振りかけると、彼は顔の前で手を合わせて、フォークを手に取った。口にフォークを運ぶとき、彼が身を軽くかがめると、首筋に鈍く光るチェーンが見えた。
「もともと磯波さんも医療関係だったの? 病院に世話になるなんて」
「いや、記憶が怪しいから断定できないけれど、違うと思う。病院が今回のテロ事件のウイルスを研究していて、私はそこの被験者になることが条件で、今、宿と報酬を提供してもらってる」
「被験者?」
いぶかしげな顔をして、彼は手を止めた。
「検査の結果、私はどうやら、保菌者らしいわ」
さっと彼の顔色が青くなっていったので、私は慌てて手を振った。
「大丈夫、今のところ、発症の危険性はないと診断されているし、だからこそこうやって外出も許可されているんだから」
その説明に、塩野はやや動揺したまま、またお冷を飲んだ。彼の反応ももっともだ。彼はあの騒動で重症を負って、命の危険にさらされたのだから。
「記憶障害はおそらく、ウイルスのせいじゃないかと診断された」
「……なるほど。精神指向型ウイルスってつまり、脳内物質のコントロールや脳組織の破壊の効果だから、まあ、ありえなくないだろうけれど」
塩野はなんとか平静を保とうとしているようで、ことさらゆっくり言葉を選んで話した。
「ただもしかすると、君のように感染したけれど発症しない、あるいは発症が遅れている人がいるってことなのかな、他にも」
「それはわからない」
「……まあ、そうだよね」
彼は肩をすくめた。
「僕も磯波さんも、まったく面倒に巻き込まれたもんだよね。怪我したり、殺されかけたり。犯人は捕まったけれど」
そうなのだ。先月半ば、警察が今回のテロ事件の首謀者と思われる男を二人、逮捕した。彼らは私が学園都市を脱出した翌日に、犯行声明とさらに次の犯行予告を表明し、日本独立をメディアを使って訴えた。しばらく姿をくらませていたようだけれど、都内のマンションの一室に潜伏しているのが見つかって、逮捕されたのだ。彼らはどちらも、純日本人――この今の日本では、純日本州人となるのか――だと主張していた。
「正直に言うと、あのときのことはもう思い出したくもないんだよね。だから本当は、君からのこの誘いも断ろうかと思ったくらい。でも、磯波さんには助けられたしね。怪我の手当てのことも、ヘリの到着を助けてくれたことも。だから、会ってお礼を言いたかった」
「お礼なんて。こちらこそ、こうして対応してくれたことを、感謝しています」
「それで……何か僕に聞きたいことがあるの? そうじゃなきゃ、わざわざこんなところに呼び出したり、しないよね」
ちょっと構えた様子で、彼は首を傾げた。私は頷く。
「ええ。実は、あの旧水戸大学付属病院について知っていることがあれば教えてほしい。あなたなら、もしかしてなにか知っているんじゃないかと思って」
「あの病院のこと? まあ、少しは。といっても、メインの担当者が別にいて、僕は彼が長期の出張だったから、代わりに何度か出向いた程度だけれど。あ、でも、守秘義務にあたる部分は、なにも教えられないよ」
意外といっては失礼だが、彼はちゃんとした営業マンのようだ。
「あの病院が、移転になった理由を知ってる? 公表されているのは、建物老朽化と、最新設備の導入ということだったけれど、築二十五年で病院って移転とかするもの?」
「ええと……それを聞いて、君はどうするの?」
もっともな質問に、私は苦笑した。
「自分の素性がわかればと思って。私、気が付いたら、あの病院にいたの。その直前のことを覚えていないから」
「なるほど……」
塩野はなかなかに早食いで、あっという間にパスタをたいらげ、空になった皿をどかして、コーヒーを注文した。すぐにコーヒーが運ばれてくる。そのカップの中に、ミルクをたっぷりそそいでスプーンで掻き回す。
「まあ、これは、うちの会社のことじゃないから、多分セーフだと思うからさ、……ただもし誰かに聞かれたら、僕から聞いたって言わないでほしいんだけれど」
声を低くして塩野は言った。私はまじめな顔を作って頷く。
「たしか、六年前だったかな。ちょうど僕が入社してすぐごろ、うちの競合他社から逮捕者が出たんだ。取引相手に、認可されていない物質を含有した向精神薬を輸入販売し、しかもその成分などに虚偽の表示をした、ということで。その薬物を投与された人が、数名、健康被害を訴えて発覚したらしい。その薬を買い取った病院は、全国で数件あったけれど、新薬だったからか、そこまで出回っていなかった。たしか、五軒もなかったと思う。実験的に新薬を取り扱おうとした、先進的な治療を行っている数軒。そのなかに、あの水戸大学付属病院があった。でも水戸大学付属病院の患者で、健康被害を訴えた人はいなかったんだ。そもそも、あそこに精神科はないからね」
「よくわからないけれど……ではなぜ、その薬を病院は購入したの」
「あの病院はね、軍と協力関係にあるんだよ。水戸大学の医学部では、軍とともにPTSDの治療や、任務に向かう兵士たちのメンタルケアの研究を行っていたんだ。だから、実はあの病院内に精神科はないけれど、勝田基地内に精神科があるんだよ。同じ系列の病院としてね」
そういえば、あの学園都市は軍と関係が深いと聞いていた。それでも私の頭のなかは、うまく点と点がつながらなかった。
「それで……病院が移転することになったのは、なんで?」
「事件は、本土で起こったらしい。勝田基地内の病院で、例の薬を処方された兵士が、本土の故郷に帰省して、レジャーの途中で急に暴れだして村民を虐殺して、本人は射殺された。その事件は、PTSDのせいだと処理されたけれど、うちの業界ではもっぱらのうわさだったよ。あの、禁止薬物のせいじゃないのかって。ちょっとだけ、一部のメディアがそう報道したかな。すぐに専門家の意見とかで否定されて、消えちゃったけれど。ちょうど日本でその健康被害が報じられたタイミングで、その事件が起こった。きっと海の向こうで、自分の服用している薬が、そんなことを報じられているなんて彼は知らなかったんだろう。
事件があってから、水戸大学は急に、精神科の拡充を掲げ、あっという間に新病院設立が決定したってうわさだよ。新病院内には、しっかり精神科があるんだ」
「健康被害というのは、その兵士のように凶暴化するようなものだったの?」
「うーん、どうだろう。詳しくは報道されなかったけれど、幻覚作用やパニック発作があったようなことは聞いたね」
私は、氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを飲み干した。
なるほど、その話の流れでは、直接、あの病院の名前が事件とリンクせず、インターネットで検索してもわからないだろう。
彼の話が真実かどうかは別として、病院の移転にまったく無関係とも言い切れない気はした。
「でも、この話と磯波さんの身元がつながっているとはとても思えないけれどね……」
彼はちょっと申し訳なさそうに、微笑んだ。
たしかに、その通りだ。
「なんだか、その薬ってちょっと思い出させるわ、例のウイルスのこと」
冗談めかして、私が笑うと、塩野が予想外に真剣な顔をした。
「……そうだね。それは僕も思うよ。それに、これはあんまり関係ないかもしれないけれどさ、あの事件の逮捕された二人の容疑者いたでしょう。彼ら、以前あの病院に勤めていた看護師らしいんだよね。今は無職だけれど」
「……それは、……」
どう反応すればいいのか。私はわからず、塩野の顔を見つめるほかなかった。彼はしばらくじっと私の顔を見ていたけれど、ふっと表情を緩めた。
「まあでも、その昔の話が今回のテロに関係あったら、とっくに警察やマスコミが動いてるって。僕らが期待しているような、二時間ドラマみたいな展開はないってことだよ。ごめん、役に立たないね僕の話」
「そんなことない、ありがとう」
頭を下げると、彼は照れたように頬を掻いた。
お互い会計を済ませて、新宿駅まで戻る。私はこれからマンションに帰り、彼も家族のところに帰るのだろう。
別れ際、彼は手を差し出してきた。
「よければ、また会おうよ。今度は怪我が治ったころに、お酒でも」
私は、躊躇って、首を横に振った。
「いえ、迷惑をかけるし、お互いもう忘れたほうがいいだろうから。今日は無理を言って、すみませんでした」
頭を下げる。彼はちょっとの間寂しそうな顔をして立ちすくんでいたけれど、やがて「そうだね」とかすかに笑んで、杖をついて駅の構内に消えていった。
私は、ぬるい風を頬に受けながら、その後ろ姿を見送った。
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