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本編
28
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あの廃病院の廊下に立っている。陽がさんさんと降り注ぐ白い廊下は、他に誰もいない。
廊下はどこまでも伸びていて、しんと静まり返っている。
床には光る透明なものが撒かれていて、差し込む太陽光をきらきらと反射している。
28、
自分の姿を見下ろす。水色の病衣を着ていて裸足だ。足下が赤い。きらきらしている透明なものは、ガラス片だ。
急に痛みを自覚する。立っていられないほど。体勢を崩し前のめりになり、一歩右足を踏み出すと、新たに踏みつけたガラスが足の裏に刺さる。
呻いて、なんとかこの拷問から逃れようと、周りを見回した。
見覚えのある姿が廊下の向こうにあった。それは、リネン室で見た布にくるまれた男だ。頭からどす黒く染まった汚い布を被っている。布は膝まであり、そこから伸びた両足は、濃緑のユニフォームに包まれている。青黒い裸足が、私と同じようにガラスを踏んでいる。深く傷ついてぱっくりさけた右足の親指は、断面を見せるが血は出ていない。
彼はゆっくりと、右足を一歩踏み出した。私に向かって。
砂利を踏むのと同じ音を立てて、彼は私に近付いてくる。吐き気を誘う腐臭が強まっていく。
私は指一本動かせない。ただただ、近付いてくる彼を見つめるだけだ。
腕を伸ばせば届く距離まで来ると、彼は足を止めた。
花嫁のベールアップのように、私はその布を、そっとつまんで持ち上げる。
――それはだめ、それはだめなのに……!
耳鳴りとも、周囲を飛ぶハエの羽音ともとれる、ぶんぶんという不快な音が、耳元で聞こえる。まるで耳の中にハエが侵入したような音量。
布をすっかり払う。陽の光の下、私は、彼と対面する。
凸面がすべて均された、蛆と血と肉の顔面で、裂け目のような唇が開かれ、私は彼に口付けた。
◆
ショックで死ぬなら、きっと今だろう。
全身が強張って、心臓が爆発しそうだった。汗をぐっしょりかいている。
「おい、大丈夫か」
私の肩に手を置いた格好で、リアンが顔を覗き込んできた。
ようやく呼吸を思い出す。水面に久々に顔を出したときのように、咳き込みながら息を吐いて吸う。冷たく固まっていた手と足の指先に、熱い血液が送られる。
「ミシカ、深呼吸だ、ほら」
マットの上で横を向いて丸くなった私の背を、リアンが宥めるようになでてくれる。汗で冷えた背中を、温かい手のひらが往復する。咳がおさまると、ようやく体を起こして、私は目尻に浮いた涙を指で拭った。
「ごめんなさい、変な夢を見て」
「尋常じゃない魘され方だったぞ。急に叫んだりして」
「……そう」
叫んだ記憶はまったくない。むしろ、寝ていた人間が急に叫んだりしたら、リアンの方が驚いたんじゃないだろうか。
深呼吸をしながら、手足の強張りをとろうと、手を握ったり開いたりしていると、リアンがスポーツドリンクを差し出してきた。受け取ってペットボトルに口をつける。甘みのある液体が喉の奥に広がると、少し身体が楽になった。
その間、リアンはじっと私を見ていた。
壁の時計は、十一時十三分。二時間ほどしか寝ていなかった。
「落ち着いたか?」
「ありがとう。死ぬかと思った」
「ああ、こっちも、このまま死んでしまうのかと思うくらいの魘され方だった」
からかわれているのかと思ったが、リアンは真顔のままだった。
私はばつが悪くなって、ペットボトルに蓋をすると、汗で額に貼りついた前髪をかきあげた。まだ心臓はばくばくいっている。
「私、あなたたちに会う前に、あの病院で死体を見た。痛めつけられて顔がつぶれた男の死体で、リネン室でシーツにくるまれていた。臭いがきつくて、ハエが飛び回っていたの。私はそのシーツを摘み上げて、中を覗き込んだのよ。他の、今回の事件の被害者たちより、ずっと死体は傷んでいた。近くに別の死体があったけれど、全然状態が違ったの」
感染者たちは、殺した相手に布をかけて隠蔽するようなことをするんだろうか。それも疑問だった。ホセに会ってから死体のことはすっかり忘れていた。
リアンは考え込むように顎に手をあてた。
「俺も気になったことがあった。あの病院は、しばらく前に新しい病院が完成し機能が完全に移されて、無人になったはずだ。基本的に人はいないはずだったんだが……エレベーターに乗り込むとき、医者や看護師の感染者に遭遇した。しかも、複数人だ。新病院のほうのスタッフだったとして、他にも救助ポイントが途中でいくつもあったはずなのに、距離のあるあそこに逃げ込むものだろうか」
「三階にも、病院のスタッフの格好をした女の人が死んでいたわ」
「それに、電気が通っていたのも不思議だ。廃墟に送電する必要があるのか……。あの旧病院は、昨夏には取り壊す予定だったんだが、その費用と、その後の土地活用の件で、県議会がもめて延び延びになっていたとは聞いている。そんな取り壊し予定の建物に、送電し続けるのは、普通無駄だろう」
気になる点は他にもいくつかあった。
地下に停まっていた車は、いったい誰のものだったのだろうか。この都市に入るときは、身分を証明しなければならない。通行記録がゲートで取られている。だとしたら、車を残した人間の身元もわかるだろう。取り壊し予定とはいえ、放置された車をそのままにしておくものだろうか。
七階の廊下は、やたらきれいだった。他の階の廊下は床に埃がつもっていたのに。
なにより――なぜ私はあそこの地下に?
「あの病院が立て替えることになったのって、なぜ? そんなにがたがきていたの?」
最新設備とはいえない内装だったけれど、建物の基礎の寿命が尽きているようには思えなかった。普通であれば、改装・設備入れ替えであの建物の新陳代謝を促して活用したほうがコスト的にましではないか。
しかし、私の問いに、リアンは首を横に振った。
「悪いが、俺もその理由を詳しくは知らない。直接あそこの病院に出入りしていたわけじゃないからな」
「そうよね……。誰か、医療関係者と話ができたら、このもやもやも解けたかもしれないけれど」
そういって、私ははっとする。
医療関係者。いたじゃないか。
塩野だ。彼は製薬会社の営業で、出張でこの都市にやってきた。もしかすると、この病院の移転の経緯を知っているかもしれない。
残念なことに、すでに彼は遠くへ行ってしまったわけだけれど――。
「何か、事件性を疑っているのか、君は」
リアンが、ゆっくり瞬きした。
「……どうかな、気にはなるけれど。あのリネン室の死体は、誰かが殺したあとに布をかけたんだと思う。感染者に殺されたのだとしても、布をかけたのが感染者だとは思えなくて。……もしかして、関係ない別の殺人でもあったのかと」
「……なるほど」
「あなたは気にならない?」
問うと、リアンは肩をすくめた。
「気にはなるが、どうしようもない。点と点をうまく結び付けられない。それに、うまく線になったとして、俺たちに有益だとはあまり思えない」
彼はそうだろう。けれど、私は違う。もしかして、この不可解なことがすべてクリアになったら、私がこの世界で繰り返し繰り返し死んでいることの説明もつくのではないだろうか。
そこまで考えて、私は唇を噛んだ。
ばかばかしい。説明なんてつくわけない。超常現象を頭から否定はしないけど、それは多分に『もしあったら面白いのに』という冷やかしの気持ちがあるからだ。切羽詰まっていないから。
現状の科学で説明のつかないこと、想像もつかない法則なんて、私の理解の範囲をとっくにこえている。それをどう説明するというのか。
説明されて、その途端、この狂った世界から解放されるのか。
もし、あの地下で初めて目覚める前の自分――毎日、当たり前のようにオフィスに顔を出して仕事をこなし、一人暮らしの狭い部屋で寝起きしていた生活に戻れたとして。でもそれは、すでにこの世界を知ってしまった私には、きっとまた別の世界のように見えるだろう。
現実感がわかない。世界の狭間に取り残されたような孤独感が、にわかに強まる。
私は今、どこにいるんだろう。
ぱちん、と目の前で手を叩かれた。はっとする。
リアンが、伺うような目をしてこちらを見ていた。
「ここ数日で、いろいろなことがあって、疲れているだろう。あまり思いつめないようにしたほうがいい。わからないことや、自分の手に負えないことからは、あえて目を反らしたほうが、うまくいくこともある」
「それも、実体験から?」
「ああ。いくら考えてもわからないものはわからない。そこに注視しすぎて、他の大事なものを見落とすことになるなら、あえて、わかるときがくるまで、無視する事だって、おそらく悪くない」
「もし、わからなかったら? 死ぬまで――死んでもわからなかったら?」
私流の皮肉に、彼は気付いてないだろう。神妙な顔で続けた。
「それならそれでいいだろう。つまり、それは自分には理解できない、大きななにかだったというだけのことだ。君は生まれた理由や、生きる理由を明確に持っているか? もちろん、確信している人も中にはいるかもしれないが――わからなくても、ほぼ支障はない。これが自分の人生だと、諦め半分、大体の人間が過ごしていくんじゃないのか」
「すごく、壮大なはなし」
思わず笑ってしまった。まるで哲学者のように言うものだから、彼が。
私が、死ぬまで、だなんて大げさな言葉を選んだのがいけなかったのだろう。
「じじいみたいか?」
「まあ、ややそんな感じかも。そんな風に考えるようになったきっかけは?」
「じいさんの説教みたいなものだと、適当に流してくれ。きっかけはそうだな……失恋か」
そのことはちょっと想像していた。私は苦笑する。
婚約者に振られた話、きっと彼には相当の打撃だったのだろう。今はそれを笑い話にできるというのは、時間の経過が彼を癒し、彼もそれを受け入れたせいだ。
「こんなときにする話じゃないんじゃない?」
からかうように言うと、彼は笑った。
「軽口は必要さ。張り詰めていたらいつか糸が切れてしまう」
そうだろう? と、目で問うてくる彼に、私は頷いた。
こうして、くだらない話をしているとき、なぜだろう、現実感だのなんだのということは、頭から消えるのだ。
廊下はどこまでも伸びていて、しんと静まり返っている。
床には光る透明なものが撒かれていて、差し込む太陽光をきらきらと反射している。
28、
自分の姿を見下ろす。水色の病衣を着ていて裸足だ。足下が赤い。きらきらしている透明なものは、ガラス片だ。
急に痛みを自覚する。立っていられないほど。体勢を崩し前のめりになり、一歩右足を踏み出すと、新たに踏みつけたガラスが足の裏に刺さる。
呻いて、なんとかこの拷問から逃れようと、周りを見回した。
見覚えのある姿が廊下の向こうにあった。それは、リネン室で見た布にくるまれた男だ。頭からどす黒く染まった汚い布を被っている。布は膝まであり、そこから伸びた両足は、濃緑のユニフォームに包まれている。青黒い裸足が、私と同じようにガラスを踏んでいる。深く傷ついてぱっくりさけた右足の親指は、断面を見せるが血は出ていない。
彼はゆっくりと、右足を一歩踏み出した。私に向かって。
砂利を踏むのと同じ音を立てて、彼は私に近付いてくる。吐き気を誘う腐臭が強まっていく。
私は指一本動かせない。ただただ、近付いてくる彼を見つめるだけだ。
腕を伸ばせば届く距離まで来ると、彼は足を止めた。
花嫁のベールアップのように、私はその布を、そっとつまんで持ち上げる。
――それはだめ、それはだめなのに……!
耳鳴りとも、周囲を飛ぶハエの羽音ともとれる、ぶんぶんという不快な音が、耳元で聞こえる。まるで耳の中にハエが侵入したような音量。
布をすっかり払う。陽の光の下、私は、彼と対面する。
凸面がすべて均された、蛆と血と肉の顔面で、裂け目のような唇が開かれ、私は彼に口付けた。
◆
ショックで死ぬなら、きっと今だろう。
全身が強張って、心臓が爆発しそうだった。汗をぐっしょりかいている。
「おい、大丈夫か」
私の肩に手を置いた格好で、リアンが顔を覗き込んできた。
ようやく呼吸を思い出す。水面に久々に顔を出したときのように、咳き込みながら息を吐いて吸う。冷たく固まっていた手と足の指先に、熱い血液が送られる。
「ミシカ、深呼吸だ、ほら」
マットの上で横を向いて丸くなった私の背を、リアンが宥めるようになでてくれる。汗で冷えた背中を、温かい手のひらが往復する。咳がおさまると、ようやく体を起こして、私は目尻に浮いた涙を指で拭った。
「ごめんなさい、変な夢を見て」
「尋常じゃない魘され方だったぞ。急に叫んだりして」
「……そう」
叫んだ記憶はまったくない。むしろ、寝ていた人間が急に叫んだりしたら、リアンの方が驚いたんじゃないだろうか。
深呼吸をしながら、手足の強張りをとろうと、手を握ったり開いたりしていると、リアンがスポーツドリンクを差し出してきた。受け取ってペットボトルに口をつける。甘みのある液体が喉の奥に広がると、少し身体が楽になった。
その間、リアンはじっと私を見ていた。
壁の時計は、十一時十三分。二時間ほどしか寝ていなかった。
「落ち着いたか?」
「ありがとう。死ぬかと思った」
「ああ、こっちも、このまま死んでしまうのかと思うくらいの魘され方だった」
からかわれているのかと思ったが、リアンは真顔のままだった。
私はばつが悪くなって、ペットボトルに蓋をすると、汗で額に貼りついた前髪をかきあげた。まだ心臓はばくばくいっている。
「私、あなたたちに会う前に、あの病院で死体を見た。痛めつけられて顔がつぶれた男の死体で、リネン室でシーツにくるまれていた。臭いがきつくて、ハエが飛び回っていたの。私はそのシーツを摘み上げて、中を覗き込んだのよ。他の、今回の事件の被害者たちより、ずっと死体は傷んでいた。近くに別の死体があったけれど、全然状態が違ったの」
感染者たちは、殺した相手に布をかけて隠蔽するようなことをするんだろうか。それも疑問だった。ホセに会ってから死体のことはすっかり忘れていた。
リアンは考え込むように顎に手をあてた。
「俺も気になったことがあった。あの病院は、しばらく前に新しい病院が完成し機能が完全に移されて、無人になったはずだ。基本的に人はいないはずだったんだが……エレベーターに乗り込むとき、医者や看護師の感染者に遭遇した。しかも、複数人だ。新病院のほうのスタッフだったとして、他にも救助ポイントが途中でいくつもあったはずなのに、距離のあるあそこに逃げ込むものだろうか」
「三階にも、病院のスタッフの格好をした女の人が死んでいたわ」
「それに、電気が通っていたのも不思議だ。廃墟に送電する必要があるのか……。あの旧病院は、昨夏には取り壊す予定だったんだが、その費用と、その後の土地活用の件で、県議会がもめて延び延びになっていたとは聞いている。そんな取り壊し予定の建物に、送電し続けるのは、普通無駄だろう」
気になる点は他にもいくつかあった。
地下に停まっていた車は、いったい誰のものだったのだろうか。この都市に入るときは、身分を証明しなければならない。通行記録がゲートで取られている。だとしたら、車を残した人間の身元もわかるだろう。取り壊し予定とはいえ、放置された車をそのままにしておくものだろうか。
七階の廊下は、やたらきれいだった。他の階の廊下は床に埃がつもっていたのに。
なにより――なぜ私はあそこの地下に?
「あの病院が立て替えることになったのって、なぜ? そんなにがたがきていたの?」
最新設備とはいえない内装だったけれど、建物の基礎の寿命が尽きているようには思えなかった。普通であれば、改装・設備入れ替えであの建物の新陳代謝を促して活用したほうがコスト的にましではないか。
しかし、私の問いに、リアンは首を横に振った。
「悪いが、俺もその理由を詳しくは知らない。直接あそこの病院に出入りしていたわけじゃないからな」
「そうよね……。誰か、医療関係者と話ができたら、このもやもやも解けたかもしれないけれど」
そういって、私ははっとする。
医療関係者。いたじゃないか。
塩野だ。彼は製薬会社の営業で、出張でこの都市にやってきた。もしかすると、この病院の移転の経緯を知っているかもしれない。
残念なことに、すでに彼は遠くへ行ってしまったわけだけれど――。
「何か、事件性を疑っているのか、君は」
リアンが、ゆっくり瞬きした。
「……どうかな、気にはなるけれど。あのリネン室の死体は、誰かが殺したあとに布をかけたんだと思う。感染者に殺されたのだとしても、布をかけたのが感染者だとは思えなくて。……もしかして、関係ない別の殺人でもあったのかと」
「……なるほど」
「あなたは気にならない?」
問うと、リアンは肩をすくめた。
「気にはなるが、どうしようもない。点と点をうまく結び付けられない。それに、うまく線になったとして、俺たちに有益だとはあまり思えない」
彼はそうだろう。けれど、私は違う。もしかして、この不可解なことがすべてクリアになったら、私がこの世界で繰り返し繰り返し死んでいることの説明もつくのではないだろうか。
そこまで考えて、私は唇を噛んだ。
ばかばかしい。説明なんてつくわけない。超常現象を頭から否定はしないけど、それは多分に『もしあったら面白いのに』という冷やかしの気持ちがあるからだ。切羽詰まっていないから。
現状の科学で説明のつかないこと、想像もつかない法則なんて、私の理解の範囲をとっくにこえている。それをどう説明するというのか。
説明されて、その途端、この狂った世界から解放されるのか。
もし、あの地下で初めて目覚める前の自分――毎日、当たり前のようにオフィスに顔を出して仕事をこなし、一人暮らしの狭い部屋で寝起きしていた生活に戻れたとして。でもそれは、すでにこの世界を知ってしまった私には、きっとまた別の世界のように見えるだろう。
現実感がわかない。世界の狭間に取り残されたような孤独感が、にわかに強まる。
私は今、どこにいるんだろう。
ぱちん、と目の前で手を叩かれた。はっとする。
リアンが、伺うような目をしてこちらを見ていた。
「ここ数日で、いろいろなことがあって、疲れているだろう。あまり思いつめないようにしたほうがいい。わからないことや、自分の手に負えないことからは、あえて目を反らしたほうが、うまくいくこともある」
「それも、実体験から?」
「ああ。いくら考えてもわからないものはわからない。そこに注視しすぎて、他の大事なものを見落とすことになるなら、あえて、わかるときがくるまで、無視する事だって、おそらく悪くない」
「もし、わからなかったら? 死ぬまで――死んでもわからなかったら?」
私流の皮肉に、彼は気付いてないだろう。神妙な顔で続けた。
「それならそれでいいだろう。つまり、それは自分には理解できない、大きななにかだったというだけのことだ。君は生まれた理由や、生きる理由を明確に持っているか? もちろん、確信している人も中にはいるかもしれないが――わからなくても、ほぼ支障はない。これが自分の人生だと、諦め半分、大体の人間が過ごしていくんじゃないのか」
「すごく、壮大なはなし」
思わず笑ってしまった。まるで哲学者のように言うものだから、彼が。
私が、死ぬまで、だなんて大げさな言葉を選んだのがいけなかったのだろう。
「じじいみたいか?」
「まあ、ややそんな感じかも。そんな風に考えるようになったきっかけは?」
「じいさんの説教みたいなものだと、適当に流してくれ。きっかけはそうだな……失恋か」
そのことはちょっと想像していた。私は苦笑する。
婚約者に振られた話、きっと彼には相当の打撃だったのだろう。今はそれを笑い話にできるというのは、時間の経過が彼を癒し、彼もそれを受け入れたせいだ。
「こんなときにする話じゃないんじゃない?」
からかうように言うと、彼は笑った。
「軽口は必要さ。張り詰めていたらいつか糸が切れてしまう」
そうだろう? と、目で問うてくる彼に、私は頷いた。
こうして、くだらない話をしているとき、なぜだろう、現実感だのなんだのということは、頭から消えるのだ。
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