21 / 92
本編
21
しおりを挟む
頭頂部を掴んで無理やり上を向かされるような、抗いがたい力を感じて、何度目かの覚醒がやってきた。
変わらず、地下の部屋。照明も空気のにおいも、周りに置かれたものの配置もすべて一緒だ。
ああ。
私は呻き、そのまま少しの間、自分の膝を眺めていた。
21、
ようやく脱出できて、これで悪夢も終わりだと思ったのがいけなかったのだろうか。やはり、これも油断に相当するのか。
慣れた手順で拘束を解き、バールを持って私は地下から続く階段をのぼり、一階のロビーまでやってきた。
束の間、別れを告げたあの廃墟の病院に、また戻ってきた。
右腕を含む体中の怪我は消え、着ているものも汚れたり破ける前の状態になっている。全てがなかったことのように。不可逆なのは、私の記憶だけ。
身体の痛みはないに越したことはないが、どうせならこの記憶もリセットされてくれれば、こんな喪失感を味わわなくて済むのにと思ってしまう。
もし私がこの先生き延びて、九十歳まで生きて、天寿を全うしたとしたら。病院だか自宅だかですうっと意識が遠のいて、――目が覚めたらこの地下室だった、となったら。
自らの思いつきに苦笑する。そんな先のことより、目先のことを考えるべきだろう。
あと、何度ここをやり直すのか。……あと何度、私は正気で耐えられるだろうか。
痛みや死に対する恐れ、ネガティブなことへの不安は、最初ほどではない。なにせ今、私の心拍はまったくもって平常だと、自信を持って言えるからだ。たとえ、ここで感染者に襲われたとしても、しばらく痛みに耐えれば、それが尾を引かず、そのときの失敗とともに消えることを知っている――死ぬことで。
私はどこか別の場所で死に瀕していて、これは長い長い走馬灯だという可能性は? あってもなくても、今の私には、それを知る術はない。
なんにせよ、私ができることといえば、ここから脱出し、九十歳で死ぬときまで戻ってこなくてすむようにすることだけ。
そのためにあと、何度かの死を経験しなければいけないのかもしれない。
気は進まないが仕方ない。私は過去の記憶は持てても、未来を見通す力はない。
病院を出て学園都市を抜けても、安全とは言えないことはわかった。治療を受けるために連れて行ってもらった病院で、まさかあんな事故に巻き込まれるとは思わなかった。あの様子のおかしい救急車は、もしかすると運転手が感染者に車内で襲われていたのかもしれないし、ただの偶発的な事故なのかもしれない。今となってはもうわからないことだが、あの病院に寄り付かなければ、事故に巻き込まれることはない。まずは、ここを出るまでに大きな怪我をしないことが大事だろう。
となると、自分の行動に気をつけなければいけない。
また塩野に撃たれたりしないように。
塩野とリアン。
彼らと合流して、脱出を目指すのは当然だと思っていたけれど。ため息が出る。
正直に言えば、塩野には一切関わりたくない気分だ。もちろん、彼が毎回私に敵意を向けたりするとは限らず、経緯によって彼との関係性は変化するというのはわかっている。一度は彼と肌を重ねることを自分で選んだし、そのあと、何度かショックなことがあったのも確か。
……しかし、心底憎めるかと言えば、どうだろうか。要するに、どう対応するのが正解かまったくわからない。憎みきれないところもあるが、会わなくて済むなら、関わらなくて済むなら、二度と顔を見たくないとも思う。どちらかといえば、避けておきたい気持ちのほうが強い。
このまま処置室に向かえば、おそらく、中で息を潜めている彼らに会えるだろう。
そうわかっていたけれど……。
処置室前の足跡を見る。ドアに手を伸ばす。指が強張って、まっすぐにならない。
私は躊躇した後、一人、階段へ向かうことにした。
私が一人で行動すれば、彼らは二人で無事に病院から出ることはできないとわかっていても、二人に会う決心がつかなかった。
再び死ぬかもしれないと考えた先ほど、動じもしなかった私の心臓は今、せわしなく動いている。
心が思うより、体が先に拒絶する。自分を守って、と助言してくれた楢原を思い出す。彼女の言葉を、口の中で繰り返す。少しだけ、心拍が落ち着いたように感じた。
楢原は、前回、無事ですんだのだろうか。もし、あの人が怪我をしてしまったのだったら、やはり、私はあちらの病院にいかないようにしなければならない。
そして、リアン。
いろいろ気遣って助けてくれて、せっかく二人で外に出られたと思ったのに。彼の努力が一瞬で無駄になった。
悔しいのは、二人で過ごしていくうちに彼とは少しだけ仲良くなれた気がしたのに、その時間が失われてしまったことだ。その前提として、私がいろいろ辛い目にあったということがあったとしても。むしろそれを引き換えに得たものすら、一瞬で消えてしまったことが悔しい。
階段を上り二階へ向かう。
上の階を調べようと思ったのは、ただの気まぐれだ。死ぬかもしれないがそれでもかまわない。
二階は形成外科と耳鼻科。案内図にそうあったのを覚えている。
階段を上りきると、一階とほぼ同じ造りのフロアが広がっていた。違いと言えば一階ではカウンターがあった場所がなにもなく、外への出入り口だった場所には、ブラインドがかかった窓がある。ブラインドで外の様子はわからないが、雨音だけは聞こえてきた。
窓には近付かないことにした。狙撃されたくはない。
診察室と、処置室、検査室。階段を背にして右が耳鼻科、左が形成外科のスペースらしいが、やや形成外科の方が広い。
全部屋、見て歩こうか。……無駄なのはわかっている。
わずかな時間考え、結局また階段を上り始めた。
三階から六階は、入院設備だったはずだ。
そういえば、手術室がなくても入院はできるのか。どうしても入院は手術とセットのイメージがあったけれど、偏見だろうか。
三階は、今までの階とは趣を異にしていた。
下の階は、特筆することもないほど特徴のない内装だったけれど、三階は、壁紙が薄いグリーンで、しかも花柄だ。花はなんの花かわからないイラスト調。ピンクや黄色のかわいらしい五枚の花弁。日に焼けてはいるものの、雰囲気を和まそうとしたのは推測できた。
埃が積もってしまった床の色も、のっぺりとした無機質な感じではなくて、木目プリントの温かみのあるフロアタイルを使っている。明るい木目調の巾木に、腰壁。昔、祖母のいた老人ホームに訪問したときを思い出す。
見渡す限り無人だった。一階のカウンターのあった場所はナースステーションになっている。外への出入り口があった付近は、本棚やテーブル、椅子が置かれていて、患者の憩いの場所だったようだ。
そして、その憩いの場所には、人が倒れていた。
変わらず、地下の部屋。照明も空気のにおいも、周りに置かれたものの配置もすべて一緒だ。
ああ。
私は呻き、そのまま少しの間、自分の膝を眺めていた。
21、
ようやく脱出できて、これで悪夢も終わりだと思ったのがいけなかったのだろうか。やはり、これも油断に相当するのか。
慣れた手順で拘束を解き、バールを持って私は地下から続く階段をのぼり、一階のロビーまでやってきた。
束の間、別れを告げたあの廃墟の病院に、また戻ってきた。
右腕を含む体中の怪我は消え、着ているものも汚れたり破ける前の状態になっている。全てがなかったことのように。不可逆なのは、私の記憶だけ。
身体の痛みはないに越したことはないが、どうせならこの記憶もリセットされてくれれば、こんな喪失感を味わわなくて済むのにと思ってしまう。
もし私がこの先生き延びて、九十歳まで生きて、天寿を全うしたとしたら。病院だか自宅だかですうっと意識が遠のいて、――目が覚めたらこの地下室だった、となったら。
自らの思いつきに苦笑する。そんな先のことより、目先のことを考えるべきだろう。
あと、何度ここをやり直すのか。……あと何度、私は正気で耐えられるだろうか。
痛みや死に対する恐れ、ネガティブなことへの不安は、最初ほどではない。なにせ今、私の心拍はまったくもって平常だと、自信を持って言えるからだ。たとえ、ここで感染者に襲われたとしても、しばらく痛みに耐えれば、それが尾を引かず、そのときの失敗とともに消えることを知っている――死ぬことで。
私はどこか別の場所で死に瀕していて、これは長い長い走馬灯だという可能性は? あってもなくても、今の私には、それを知る術はない。
なんにせよ、私ができることといえば、ここから脱出し、九十歳で死ぬときまで戻ってこなくてすむようにすることだけ。
そのためにあと、何度かの死を経験しなければいけないのかもしれない。
気は進まないが仕方ない。私は過去の記憶は持てても、未来を見通す力はない。
病院を出て学園都市を抜けても、安全とは言えないことはわかった。治療を受けるために連れて行ってもらった病院で、まさかあんな事故に巻き込まれるとは思わなかった。あの様子のおかしい救急車は、もしかすると運転手が感染者に車内で襲われていたのかもしれないし、ただの偶発的な事故なのかもしれない。今となってはもうわからないことだが、あの病院に寄り付かなければ、事故に巻き込まれることはない。まずは、ここを出るまでに大きな怪我をしないことが大事だろう。
となると、自分の行動に気をつけなければいけない。
また塩野に撃たれたりしないように。
塩野とリアン。
彼らと合流して、脱出を目指すのは当然だと思っていたけれど。ため息が出る。
正直に言えば、塩野には一切関わりたくない気分だ。もちろん、彼が毎回私に敵意を向けたりするとは限らず、経緯によって彼との関係性は変化するというのはわかっている。一度は彼と肌を重ねることを自分で選んだし、そのあと、何度かショックなことがあったのも確か。
……しかし、心底憎めるかと言えば、どうだろうか。要するに、どう対応するのが正解かまったくわからない。憎みきれないところもあるが、会わなくて済むなら、関わらなくて済むなら、二度と顔を見たくないとも思う。どちらかといえば、避けておきたい気持ちのほうが強い。
このまま処置室に向かえば、おそらく、中で息を潜めている彼らに会えるだろう。
そうわかっていたけれど……。
処置室前の足跡を見る。ドアに手を伸ばす。指が強張って、まっすぐにならない。
私は躊躇した後、一人、階段へ向かうことにした。
私が一人で行動すれば、彼らは二人で無事に病院から出ることはできないとわかっていても、二人に会う決心がつかなかった。
再び死ぬかもしれないと考えた先ほど、動じもしなかった私の心臓は今、せわしなく動いている。
心が思うより、体が先に拒絶する。自分を守って、と助言してくれた楢原を思い出す。彼女の言葉を、口の中で繰り返す。少しだけ、心拍が落ち着いたように感じた。
楢原は、前回、無事ですんだのだろうか。もし、あの人が怪我をしてしまったのだったら、やはり、私はあちらの病院にいかないようにしなければならない。
そして、リアン。
いろいろ気遣って助けてくれて、せっかく二人で外に出られたと思ったのに。彼の努力が一瞬で無駄になった。
悔しいのは、二人で過ごしていくうちに彼とは少しだけ仲良くなれた気がしたのに、その時間が失われてしまったことだ。その前提として、私がいろいろ辛い目にあったということがあったとしても。むしろそれを引き換えに得たものすら、一瞬で消えてしまったことが悔しい。
階段を上り二階へ向かう。
上の階を調べようと思ったのは、ただの気まぐれだ。死ぬかもしれないがそれでもかまわない。
二階は形成外科と耳鼻科。案内図にそうあったのを覚えている。
階段を上りきると、一階とほぼ同じ造りのフロアが広がっていた。違いと言えば一階ではカウンターがあった場所がなにもなく、外への出入り口だった場所には、ブラインドがかかった窓がある。ブラインドで外の様子はわからないが、雨音だけは聞こえてきた。
窓には近付かないことにした。狙撃されたくはない。
診察室と、処置室、検査室。階段を背にして右が耳鼻科、左が形成外科のスペースらしいが、やや形成外科の方が広い。
全部屋、見て歩こうか。……無駄なのはわかっている。
わずかな時間考え、結局また階段を上り始めた。
三階から六階は、入院設備だったはずだ。
そういえば、手術室がなくても入院はできるのか。どうしても入院は手術とセットのイメージがあったけれど、偏見だろうか。
三階は、今までの階とは趣を異にしていた。
下の階は、特筆することもないほど特徴のない内装だったけれど、三階は、壁紙が薄いグリーンで、しかも花柄だ。花はなんの花かわからないイラスト調。ピンクや黄色のかわいらしい五枚の花弁。日に焼けてはいるものの、雰囲気を和まそうとしたのは推測できた。
埃が積もってしまった床の色も、のっぺりとした無機質な感じではなくて、木目プリントの温かみのあるフロアタイルを使っている。明るい木目調の巾木に、腰壁。昔、祖母のいた老人ホームに訪問したときを思い出す。
見渡す限り無人だった。一階のカウンターのあった場所はナースステーションになっている。外への出入り口があった付近は、本棚やテーブル、椅子が置かれていて、患者の憩いの場所だったようだ。
そして、その憩いの場所には、人が倒れていた。
0
お気に入りに追加
204
あなたにおすすめの小説
The Last Night
泉 沙羅
ホラー
モントリオールの夜に生きる孤独な少女と、美しい吸血鬼の物語。
15歳の少女・サマンサは、家庭にも学校にも居場所を持てず、ただひとり孤独を抱えて生きていた。
そんな彼女が出会ったのは、金髪碧眼の美少年・ネル。
彼はどこか時代錯誤な振る舞いをしながらも、サマンサに優しく接し、二人は次第に心を通わせていく。
交換日記を交わしながら、ネルはサマンサの苦しみを知り、サマンサはネルの秘密に気づいていく。
しかし、ネルには決して覆せない宿命があった。
吸血鬼は、恋をすると、その者の血でしか生きられなくなる――。
この恋は、救いか、それとも破滅か。
美しくも切ない、吸血鬼と少女のラブストーリー。
※以前"Let Me In"として公開した作品を大幅リニューアルしたものです。
※「吸血鬼は恋をするとその者の血液でしか生きられなくなる」という設定はX(旧Twitter)アカウント、「創作のネタ提供(雑学多め)さん@sousakubott」からお借りしました。
※AI(chatgpt)アシストあり

不労の家
千年砂漠
ホラー
高校を卒業したばかりの隆志は母を急な病で亡くした数日後、訳も分からず母に連れられて夜逃げして以来八年間全く会わなかった父も亡くし、父の実家の世久家を継ぐことになった。
世久家はかなりの資産家で、古くから続く名家だったが、当主には絶対守らなければならない奇妙なしきたりがあった。
それは「一生働かないこと」。
世久の家には富をもたらす神が住んでおり、その神との約束で代々の世久家の当主は働かずに暮らしていた。
初めは戸惑っていた隆志も裕福に暮らせる楽しさを覚え、昔一年だけこの土地に住んでいたときの同級生と遊び回っていたが、やがて恐ろしい出来事が隆志の周りで起こり始める。
経済的に豊かであっても、心まで満たされるとは限らない。
望んでもいないのに生まれたときから背負わされた宿命に、流されるか。抗うか。
彼の最後の選択を見て欲しい。
[全221話完結済]彼女の怪異談は不思議な野花を咲かせる
野花マリオ
ホラー
ーー彼女が語る怪異談を聴いた者は咲かせたり聴かせる
登場する怪異談集
初ノ花怪異談
野花怪異談
野薔薇怪異談
鐘技怪異談
その他
架空上の石山県野花市に住む彼女は怪異談を語る事が趣味である。そんな彼女の語る怪異談は咲かせる。そしてもう1人の鐘技市に住む彼女の怪異談も聴かせる。
完結いたしました。
※この物語はフィクションです。実在する人物、企業、団体、名称などは一切関係ありません。
エブリスタにも公開してますがアルファポリス の方がボリュームあります。
表紙イラストは生成AI
視える僕らのルームシェア
橘しづき
ホラー
安藤花音は、ごく普通のOLだった。だが25歳の誕生日を境に、急におかしなものが見え始める。
電車に飛び込んでバラバラになる男性、やせ細った子供の姿、どれもこの世のものではない者たち。家の中にまで入ってくるそれらに、花音は仕事にも行けず追い詰められていた。
ある日、駅のホームで電車を待っていると、霊に引き込まれそうになってしまう。そこを、見知らぬ男性が間一髪で救ってくれる。彼は花音の話を聞いて名刺を一枚手渡す。
『月乃庭 管理人 竜崎奏多』
不思議なルームシェアが、始まる。
赤い部屋
山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。
真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。
東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。
そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。
が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。
だが、「呪い」は実在した。
「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。
凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。
そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。
「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか?
誰がこの「呪い」を生み出したのか?
そして彼らはなぜ、呪われたのか?
徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。
その先にふたりが見たものは——。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる