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本編
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空気が肺を押し広げる。皮膚が感覚を取り戻し、心臓が急いで動き出す。
「っは……!」
深海から急浮上したように、身体が、精神が目覚める。
そこに爽快さはなく。もっと眠っていたかったと思わせる。
たとえ、悪夢を見ていたとしても。
12、
金切鋏とバールを持って、私は一階ロビーへ到着した。
相変わらず、処置室前には柏田と……塩野の足跡がある。
彼らが上の階に行くのを止めるために、合流しなければいけないのはわかる。
それでも一息つきたくて、私は受付カウンターの向かいにあるトイレに寄った。
水の蛇口を捻ると、赤いサビのようなものが混じった汚水が流れ出てきた。長期間使用されていなかったからだろう。顔を洗いたかったけれど、断念する。
曇った鏡には、なんとか自分の顔が写った。自分の記憶と変わらない姿がそこにあった。最悪の気分だけど、いつもと変わらない表情。
そもそも、最悪の気分だなんて言っても、結局それは自分が招いたことだった。塩野を責めるのも意味がない。彼に、恋人や妻がいるかを確認しなかったのは私だ。可能性を全く考えなかったわけではない――だって、出会って数時間の、よく知らない相手なのだから。聞いたところで教えてもらえたかもわからない。
でもそんな細かな計算もしないで――しなくてよいと判断して、彼に身を委ねた。それは、保身より、彼を慰めたいと思ったから。そちらの方が優先だと判断したから。
それで傷ついたような気持ちになるのは、なんだかとっても勝手で、みじめで、……人間臭いと思った。
ちょっとだけ、何度も生き死にを繰り返す自分が、まだまともなのかもしれないと。精神活動は、そこまで人間の基準から漏れていないと思えた。
そんなことを考えている時点で、十分おかしいし、傷ついたと思い込む自分をさらに責めたがる気持ちを擁護しようとしているんだろう。
「よし」
ぱん、と頬を張る。少しだけ、頭が整理できた。
今の塩野は、前回の私たちの結末なんて知らない他人だ。彼とは、前々回以前の関係が築けるはず。それでいい。
タフだね、と言った彼を思い出す。たしかに、タフかもしれない。鈍いだけかもしれない。そうでなきゃ、――耐えられない。
トイレ出口のドアを開け、私はたたらを踏んだ。鼻先を、唸りを上げて鈍い光が過ぎ去って行く。
「ひっ」
驚きに声が出た。
見覚えのある小花柄のワンピースの少女が、振り下ろした鉈をまた振り上げる。
慌てて、私は彼女の腕を掴む。細い少女の手首に、ぎりぎりと、自由を取り戻すための力が込められる。両手でその手首を押さえて体重をかける。とっさの思いつきで足を払うと、あっけないくらい簡単に彼女は後ろに倒れた。私もバランスを崩して、彼女の上に倒れ込む。鉈が回りながら床を滑っていく。
私は取り落としていたバールを掴み、めちゃくちゃに暴れて噛み付こうとする少女めがけて振りかぶった。殺さなきゃ、殺されるのは私。
発砲音が響いた。顔を上げると、廊下の角に銃を構えた塩野がいた。硬い表情、でも、生きている彼だ。
がらんと大きな音をたて、バールが離れた所に落ちた。右腕に焼けるような激痛。
「うっ……あぐっ……!」
歯を食いしばって、痛みに耐える。塩野が撃ったのは、私だ。
体勢を崩し、少女にマウントを取られる。彼女は後ろ手で鉈を掴んで振り上げた。
「くそっ」
悪態をつき、私は怪我をした右腕を顔の前にかざした。目をつぶる。鈍い衝撃がくる。遅れて、舌が硬直するような痛みが脊髄をかけあがった。断末魔の叫びのような声が、自分の口から漏れる。
ショックで赤く染まった視界の中、少女がまた鉈を振りかぶる。
「……私は感染してない!」
向けられた銃の主――私にとどめをさそうとした塩野に向けて怒鳴る。彼は鞭打たれたように動きを止め、驚愕の表情。
横薙ぎの一閃がくる。私は感覚がない腕で顔を庇って、目を瞑った。
乾いた音が二度響いた。
どっと何かが私の上に倒れ込んできて、目を開ける。
虚ろな目を開いた少女の顔が、胸の上にあった。彼女は後ろから撃たれたのだ。その細い首からとめどなく血が流れ出て、私のカットソーを赤黒く染めていく。
ぐいっと彼女の襟首を掴んで退かしたのは、柏田だった。その手の拳銃からは硝煙が立ち上っている。
柏田は私の横にしゃがみ込むと、バックパックから止血帯を取り出して、私の右腕の付け根をきつくしばった。痛みに、思わず声が漏れる。
「君を撃った銃は殺傷力が低い。急所に当たらなければ大丈夫だ。気をしっかり持て。どこか手当のできる場所へ移動する。いいか」
柏田は難なく私を横抱きにして立ち上がった。そのまま処置室へと運び入れられる。
後ろから、呆然とした顔の塩野が着いてきた。視線をうろうろと彷徨わせて、撃たれた私よりよっぽど消耗している。
「その、申し訳ありません、……間違えて……」
「後にしろ、塩野。君はバックパックから救急セットを出してくれ」
塩野に声をかけてやりたいのは山々だけど、その余裕が今はない。ともすれば意識が飛びそうな強烈な疼痛に、歯を食いしばるのが精一杯。
柏田は、私を室内のストレッチャーに寝かせ、カットソーを慎重に切り開いた。自分で軽く身を起こして怪我の状態を見る。上腕部に銃創がひとつ、前腕部が裂傷と内出血、腫れ――多分、折れているだろう。銃で撃たれたところより、鉈で殴られたところのほうが見た目が酷い。ずたずたという言葉がぴったりで、直視するのが怖いほど。
「俺は柏田。軍では衛生兵をやっている。鎮痛剤をうつから、確認させてくれ。心疾患や持病は?」
「……ない」
「妊娠は?」
「してない」
「名前は」
「……磯波美鹿」
「ミシカ、これから注射を撃つ。痛みが和らぐはずだ。そのあと、弾を摘出する。君は、深呼吸することに集中しろ」
手早く彼は作業の準備を整えて、小瓶に注射器を刺すと液を吸い上げた。
ちくりとした痛みを腕に感じて、私は目を閉じる。自分の乱れている息を整えることに務める。
「……ありがとう。助けてくれて」
「そのために来た」
目を開けて柏田の顔を見ると、彼は表情を変えるでもなく落ち着いた様子で私にむかって頷いてみせた。
たぶん、これが柏田の任務だということだろう。それでも、その言葉が力強く胸に響いた。
こんなに痛いときに笑えるなんて、やっぱり私はタフなのかもしれない。
目を瞑って、痛みの波をやり過ごすことにした。
「っは……!」
深海から急浮上したように、身体が、精神が目覚める。
そこに爽快さはなく。もっと眠っていたかったと思わせる。
たとえ、悪夢を見ていたとしても。
12、
金切鋏とバールを持って、私は一階ロビーへ到着した。
相変わらず、処置室前には柏田と……塩野の足跡がある。
彼らが上の階に行くのを止めるために、合流しなければいけないのはわかる。
それでも一息つきたくて、私は受付カウンターの向かいにあるトイレに寄った。
水の蛇口を捻ると、赤いサビのようなものが混じった汚水が流れ出てきた。長期間使用されていなかったからだろう。顔を洗いたかったけれど、断念する。
曇った鏡には、なんとか自分の顔が写った。自分の記憶と変わらない姿がそこにあった。最悪の気分だけど、いつもと変わらない表情。
そもそも、最悪の気分だなんて言っても、結局それは自分が招いたことだった。塩野を責めるのも意味がない。彼に、恋人や妻がいるかを確認しなかったのは私だ。可能性を全く考えなかったわけではない――だって、出会って数時間の、よく知らない相手なのだから。聞いたところで教えてもらえたかもわからない。
でもそんな細かな計算もしないで――しなくてよいと判断して、彼に身を委ねた。それは、保身より、彼を慰めたいと思ったから。そちらの方が優先だと判断したから。
それで傷ついたような気持ちになるのは、なんだかとっても勝手で、みじめで、……人間臭いと思った。
ちょっとだけ、何度も生き死にを繰り返す自分が、まだまともなのかもしれないと。精神活動は、そこまで人間の基準から漏れていないと思えた。
そんなことを考えている時点で、十分おかしいし、傷ついたと思い込む自分をさらに責めたがる気持ちを擁護しようとしているんだろう。
「よし」
ぱん、と頬を張る。少しだけ、頭が整理できた。
今の塩野は、前回の私たちの結末なんて知らない他人だ。彼とは、前々回以前の関係が築けるはず。それでいい。
タフだね、と言った彼を思い出す。たしかに、タフかもしれない。鈍いだけかもしれない。そうでなきゃ、――耐えられない。
トイレ出口のドアを開け、私はたたらを踏んだ。鼻先を、唸りを上げて鈍い光が過ぎ去って行く。
「ひっ」
驚きに声が出た。
見覚えのある小花柄のワンピースの少女が、振り下ろした鉈をまた振り上げる。
慌てて、私は彼女の腕を掴む。細い少女の手首に、ぎりぎりと、自由を取り戻すための力が込められる。両手でその手首を押さえて体重をかける。とっさの思いつきで足を払うと、あっけないくらい簡単に彼女は後ろに倒れた。私もバランスを崩して、彼女の上に倒れ込む。鉈が回りながら床を滑っていく。
私は取り落としていたバールを掴み、めちゃくちゃに暴れて噛み付こうとする少女めがけて振りかぶった。殺さなきゃ、殺されるのは私。
発砲音が響いた。顔を上げると、廊下の角に銃を構えた塩野がいた。硬い表情、でも、生きている彼だ。
がらんと大きな音をたて、バールが離れた所に落ちた。右腕に焼けるような激痛。
「うっ……あぐっ……!」
歯を食いしばって、痛みに耐える。塩野が撃ったのは、私だ。
体勢を崩し、少女にマウントを取られる。彼女は後ろ手で鉈を掴んで振り上げた。
「くそっ」
悪態をつき、私は怪我をした右腕を顔の前にかざした。目をつぶる。鈍い衝撃がくる。遅れて、舌が硬直するような痛みが脊髄をかけあがった。断末魔の叫びのような声が、自分の口から漏れる。
ショックで赤く染まった視界の中、少女がまた鉈を振りかぶる。
「……私は感染してない!」
向けられた銃の主――私にとどめをさそうとした塩野に向けて怒鳴る。彼は鞭打たれたように動きを止め、驚愕の表情。
横薙ぎの一閃がくる。私は感覚がない腕で顔を庇って、目を瞑った。
乾いた音が二度響いた。
どっと何かが私の上に倒れ込んできて、目を開ける。
虚ろな目を開いた少女の顔が、胸の上にあった。彼女は後ろから撃たれたのだ。その細い首からとめどなく血が流れ出て、私のカットソーを赤黒く染めていく。
ぐいっと彼女の襟首を掴んで退かしたのは、柏田だった。その手の拳銃からは硝煙が立ち上っている。
柏田は私の横にしゃがみ込むと、バックパックから止血帯を取り出して、私の右腕の付け根をきつくしばった。痛みに、思わず声が漏れる。
「君を撃った銃は殺傷力が低い。急所に当たらなければ大丈夫だ。気をしっかり持て。どこか手当のできる場所へ移動する。いいか」
柏田は難なく私を横抱きにして立ち上がった。そのまま処置室へと運び入れられる。
後ろから、呆然とした顔の塩野が着いてきた。視線をうろうろと彷徨わせて、撃たれた私よりよっぽど消耗している。
「その、申し訳ありません、……間違えて……」
「後にしろ、塩野。君はバックパックから救急セットを出してくれ」
塩野に声をかけてやりたいのは山々だけど、その余裕が今はない。ともすれば意識が飛びそうな強烈な疼痛に、歯を食いしばるのが精一杯。
柏田は、私を室内のストレッチャーに寝かせ、カットソーを慎重に切り開いた。自分で軽く身を起こして怪我の状態を見る。上腕部に銃創がひとつ、前腕部が裂傷と内出血、腫れ――多分、折れているだろう。銃で撃たれたところより、鉈で殴られたところのほうが見た目が酷い。ずたずたという言葉がぴったりで、直視するのが怖いほど。
「俺は柏田。軍では衛生兵をやっている。鎮痛剤をうつから、確認させてくれ。心疾患や持病は?」
「……ない」
「妊娠は?」
「してない」
「名前は」
「……磯波美鹿」
「ミシカ、これから注射を撃つ。痛みが和らぐはずだ。そのあと、弾を摘出する。君は、深呼吸することに集中しろ」
手早く彼は作業の準備を整えて、小瓶に注射器を刺すと液を吸い上げた。
ちくりとした痛みを腕に感じて、私は目を閉じる。自分の乱れている息を整えることに務める。
「……ありがとう。助けてくれて」
「そのために来た」
目を開けて柏田の顔を見ると、彼は表情を変えるでもなく落ち着いた様子で私にむかって頷いてみせた。
たぶん、これが柏田の任務だということだろう。それでも、その言葉が力強く胸に響いた。
こんなに痛いときに笑えるなんて、やっぱり私はタフなのかもしれない。
目を瞑って、痛みの波をやり過ごすことにした。
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