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本編
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研究学園都市として、つくば市に引き続き、首都東京の機能分散と土地活用を目的として開発が進んできた水戸市は、2010年から本格的に『みと研究学園都市』という名をアピールするようになっていた。
総合大学をはじめとして、医療やITの研究施設が広大な敷地に建設され、全国――いや、世界から研究者や企業が集まっていた。
私は、今、水戸大学付属病院の一棟にいるのだという。
4、
処置室は廊下と同じく床に埃が積もり、湿っぽい臭いが充満していた。びっちりと閉められていたブラインドを開けると、ガラス窓の向こうには大雨にかすんだ景色が見えた。十階建てほどの高さのビルが何棟も立ち並び、そのビル同士の間には、常緑樹が植えられている。動いている人の姿は見えない。
怪我の手当などをするために置かれたのであろうストレッチャーに腰を降ろし、私は両手首と両足首を柏田に診てもらっていた。
たしかに、擦過傷がひどい部分は血豆ができたり、出血したりしているものの、行動が制限されるほど重症ではない。塩野が、ばい菌が入ると大変だというので柏田が診てくれることになったのだ。
柏田は大きな手で私の手首と足首を確認して、持っていた救急キットから消毒スプレーを取り出すと、患部に噴霧した。びりびりと傷に滲みるが、我慢する。
「これで大丈夫だろう」
「柏田君、ありがとうね! よかったよかった」
塩野はまるで自分のことのように大げさに喜ぶ。私は軽く頭を下げた。柏田は目を伏せて、言葉少なに片付け始める。
「その、ここが大学病院の一角だというのはわかったけれど、閉鎖はどうして」
そして、なぜ私はここにいるのだろう。住まいも仕事も縁者もない、こんな街に。というか、『みと研究学園都市』なんて聞いたこともない。そんな街づくりがされていたのか、この関東の片田舎で。
「それがねえ、二日前に急に避難勧告が出たのさ。いままでこんなことなかったんだけれどね」
塩野があまり困っているように見えないのは、彼の明るい雰囲気のせいだろうか。
「避難勧告?」
「エピデミックだって」
「え……いったいなんの?」
そもそも、エピデミック状態になった地域の人間を避難というのは、どういうことなんだろう。普通は隔離するのではないのか。
「指向性精神汚染ウイルスだよ。アメリカ本土で騒がれたと思ったら、今度はまさか日本でねえ」
「指向性せいしん……? なにそれ」
「もしかして、ミシカちゃんってニュース見ない人?」
そういうわけではないが聞き覚えがない単語だ。
驚いた表情を隠しもせず、塩野は柏田を見る。柏田は大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。
「感染した人間の精神に影響し、行動や生存に甚大な被害を与えるウイルスだ。先月、本土でのテロで使用されて騒がれた。そのときは、集団自殺が相次いでいたが、今回は感染者の攻撃性の増大が報告されている」
やはり初耳だった。そんな変なもの本当に存在するのか。ふと脳裏によぎるのは、あのワンピースの少女のことだ。彼女は、もしや――。
さらに、もう一つ、聞き慣れない単語があったように思う。
「あの……本土って」
「そりゃ、アメリカ本土だよ。こんな離島の日本州よりはるか西のね」
日本州。
担がれているんだろうか。そうか。そうでなければ、夢かなにかだ。もし夢でないというのであれば、はやく、一刻も早く病院へ行きたい。こんな廃墟ではなくて、きちんとした病院に。
「ミシカちゃん?」
「ちょっと、混乱していて、その、私どうも調子が悪いみたいで」
「ええ?! 大丈夫? どこかほかに痛いところでも?」
「そういうわけじゃないんだけれど……記憶がところどころ怪しくて。ごめん、変だ、私」
追求を逃れたいために、私は天井を仰いで目を瞑る。
「無理しないで、わからないことがあったら聞いて」
塩野が励ますように、私の肩をぽんぽんと叩いた。……あまり接触したくないが、無碍にもできない。曖昧に頷いて済ませようとしたのに。
「ミシカ」
柏田に視線を向けると、彼は少しうつむいた。
「失礼、ファーストネームで呼ぶ癖があって。……磯波さん、君はここに来た経緯を、全く覚えていないのか?」
「全く。気付いたら、ここの地下で拘束されていて、なんとか逃げてきたのだけれど」
「拘束? なぜ」
「……わからないよ……」
強い視線に、私はなぜだかいたたまれなくなって下を向く。責められているわけではないとわかっている。だが彼の淡々とした口調は、曖昧な答えを許さないような印象がある。
「まあまあ、柏田君。そんな怖い顔したら、ミシカちゃんがおびえちゃうって」
「いや、そうもいかない。彼女がキャリアだという可能性だって、ゼロではないのだから」
保菌者――。頭頂部に灼けた杭を打ち込まれたような衝撃だった。
「そんなっ」
思わず立ち上がった私に、柏田は相変わらず凪いだ視線を寄越す。
「あくまで可能性であって、確定したわけじゃない。それに今発症していないのだったら、単純に、なんらかの理由があって拘束されただけという可能性もある」
でも。
私は唇を噛んで、その先の言葉を続けなかったが、こう思った。
キャリアだからこそ、ここで拘束・隔離されていたと考える方が自然じゃないか?
胸に手をあてて、緊張に高鳴っている鼓動を感じる。
記憶が怪しいところ以外、おかしなところはないけれど、その記憶こそ一番大事なものじゃないか。
「たとえば、私がその感染者だったとして、……助かるのかな」
塩野は何度も頷いた。
「大丈夫大丈夫! 致死性じゃないらしいし、発症までは数日の潜伏期間があるみたいだから。発症しなければきっと」
「だが、治療法は確立されていない。発症後は脳の損傷で元の人格に戻れないという話を聞く」
「柏田君!」
塩野の尖った声にも、柏田は怯まなかった。
私を真っ直ぐ見て、続ける。
「気休めばかり聞いて、気が楽になるとは思えない」
愕然と口を半開きにして、私は彼の顔を見返す他になかった。緑色の目は、臆することなく私の糾弾の視線を受け止めている。
「だが、まだ君は発症していない。それならばまだ、望みはある」
「それこそ……それこそ気休めじゃないの」
声が震えてしまった。怒っているのか泣きたいのか、もうわけがわからない。わけがわからないことだらけで、いっそ、気が狂った方が楽だと思った。いや、すでにどうかしているのか。
「そうでもない。俺たちはすでに救助の要請をして、むこうからの回答は得ている。今日の十六時に、この病院の屋上のヘリポートに救助が到着することになった。無事救助されれば、助かる可能性はあるのではないか」
冷静に考えれば、助かる可能性はゼロではない……のだろう。感染していると断定されたわけでもなく、脱出の手立てもある。
でも、言い方や言うタイミングってものがあるんじゃないだろうか。ちっとも、気分がよくならなかった。
「この屋上に向かえば、きっとなんとかなるんだって! ミシカちゃん、この通り柏田君はこういうことのプロだ、大丈夫、大船に乗ったつもりで、一緒に屋上に向かおうよ!」
塩野が私の手をとって、一生懸命励ましてくれる。その横で、柏田がトドメの一言をくれた。
「俺はプロだが、俺の部隊はすでに感染者に壊滅させられている。安心はできない」
総合大学をはじめとして、医療やITの研究施設が広大な敷地に建設され、全国――いや、世界から研究者や企業が集まっていた。
私は、今、水戸大学付属病院の一棟にいるのだという。
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処置室は廊下と同じく床に埃が積もり、湿っぽい臭いが充満していた。びっちりと閉められていたブラインドを開けると、ガラス窓の向こうには大雨にかすんだ景色が見えた。十階建てほどの高さのビルが何棟も立ち並び、そのビル同士の間には、常緑樹が植えられている。動いている人の姿は見えない。
怪我の手当などをするために置かれたのであろうストレッチャーに腰を降ろし、私は両手首と両足首を柏田に診てもらっていた。
たしかに、擦過傷がひどい部分は血豆ができたり、出血したりしているものの、行動が制限されるほど重症ではない。塩野が、ばい菌が入ると大変だというので柏田が診てくれることになったのだ。
柏田は大きな手で私の手首と足首を確認して、持っていた救急キットから消毒スプレーを取り出すと、患部に噴霧した。びりびりと傷に滲みるが、我慢する。
「これで大丈夫だろう」
「柏田君、ありがとうね! よかったよかった」
塩野はまるで自分のことのように大げさに喜ぶ。私は軽く頭を下げた。柏田は目を伏せて、言葉少なに片付け始める。
「その、ここが大学病院の一角だというのはわかったけれど、閉鎖はどうして」
そして、なぜ私はここにいるのだろう。住まいも仕事も縁者もない、こんな街に。というか、『みと研究学園都市』なんて聞いたこともない。そんな街づくりがされていたのか、この関東の片田舎で。
「それがねえ、二日前に急に避難勧告が出たのさ。いままでこんなことなかったんだけれどね」
塩野があまり困っているように見えないのは、彼の明るい雰囲気のせいだろうか。
「避難勧告?」
「エピデミックだって」
「え……いったいなんの?」
そもそも、エピデミック状態になった地域の人間を避難というのは、どういうことなんだろう。普通は隔離するのではないのか。
「指向性精神汚染ウイルスだよ。アメリカ本土で騒がれたと思ったら、今度はまさか日本でねえ」
「指向性せいしん……? なにそれ」
「もしかして、ミシカちゃんってニュース見ない人?」
そういうわけではないが聞き覚えがない単語だ。
驚いた表情を隠しもせず、塩野は柏田を見る。柏田は大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。
「感染した人間の精神に影響し、行動や生存に甚大な被害を与えるウイルスだ。先月、本土でのテロで使用されて騒がれた。そのときは、集団自殺が相次いでいたが、今回は感染者の攻撃性の増大が報告されている」
やはり初耳だった。そんな変なもの本当に存在するのか。ふと脳裏によぎるのは、あのワンピースの少女のことだ。彼女は、もしや――。
さらに、もう一つ、聞き慣れない単語があったように思う。
「あの……本土って」
「そりゃ、アメリカ本土だよ。こんな離島の日本州よりはるか西のね」
日本州。
担がれているんだろうか。そうか。そうでなければ、夢かなにかだ。もし夢でないというのであれば、はやく、一刻も早く病院へ行きたい。こんな廃墟ではなくて、きちんとした病院に。
「ミシカちゃん?」
「ちょっと、混乱していて、その、私どうも調子が悪いみたいで」
「ええ?! 大丈夫? どこかほかに痛いところでも?」
「そういうわけじゃないんだけれど……記憶がところどころ怪しくて。ごめん、変だ、私」
追求を逃れたいために、私は天井を仰いで目を瞑る。
「無理しないで、わからないことがあったら聞いて」
塩野が励ますように、私の肩をぽんぽんと叩いた。……あまり接触したくないが、無碍にもできない。曖昧に頷いて済ませようとしたのに。
「ミシカ」
柏田に視線を向けると、彼は少しうつむいた。
「失礼、ファーストネームで呼ぶ癖があって。……磯波さん、君はここに来た経緯を、全く覚えていないのか?」
「全く。気付いたら、ここの地下で拘束されていて、なんとか逃げてきたのだけれど」
「拘束? なぜ」
「……わからないよ……」
強い視線に、私はなぜだかいたたまれなくなって下を向く。責められているわけではないとわかっている。だが彼の淡々とした口調は、曖昧な答えを許さないような印象がある。
「まあまあ、柏田君。そんな怖い顔したら、ミシカちゃんがおびえちゃうって」
「いや、そうもいかない。彼女がキャリアだという可能性だって、ゼロではないのだから」
保菌者――。頭頂部に灼けた杭を打ち込まれたような衝撃だった。
「そんなっ」
思わず立ち上がった私に、柏田は相変わらず凪いだ視線を寄越す。
「あくまで可能性であって、確定したわけじゃない。それに今発症していないのだったら、単純に、なんらかの理由があって拘束されただけという可能性もある」
でも。
私は唇を噛んで、その先の言葉を続けなかったが、こう思った。
キャリアだからこそ、ここで拘束・隔離されていたと考える方が自然じゃないか?
胸に手をあてて、緊張に高鳴っている鼓動を感じる。
記憶が怪しいところ以外、おかしなところはないけれど、その記憶こそ一番大事なものじゃないか。
「たとえば、私がその感染者だったとして、……助かるのかな」
塩野は何度も頷いた。
「大丈夫大丈夫! 致死性じゃないらしいし、発症までは数日の潜伏期間があるみたいだから。発症しなければきっと」
「だが、治療法は確立されていない。発症後は脳の損傷で元の人格に戻れないという話を聞く」
「柏田君!」
塩野の尖った声にも、柏田は怯まなかった。
私を真っ直ぐ見て、続ける。
「気休めばかり聞いて、気が楽になるとは思えない」
愕然と口を半開きにして、私は彼の顔を見返す他になかった。緑色の目は、臆することなく私の糾弾の視線を受け止めている。
「だが、まだ君は発症していない。それならばまだ、望みはある」
「それこそ……それこそ気休めじゃないの」
声が震えてしまった。怒っているのか泣きたいのか、もうわけがわからない。わけがわからないことだらけで、いっそ、気が狂った方が楽だと思った。いや、すでにどうかしているのか。
「そうでもない。俺たちはすでに救助の要請をして、むこうからの回答は得ている。今日の十六時に、この病院の屋上のヘリポートに救助が到着することになった。無事救助されれば、助かる可能性はあるのではないか」
冷静に考えれば、助かる可能性はゼロではない……のだろう。感染していると断定されたわけでもなく、脱出の手立てもある。
でも、言い方や言うタイミングってものがあるんじゃないだろうか。ちっとも、気分がよくならなかった。
「この屋上に向かえば、きっとなんとかなるんだって! ミシカちゃん、この通り柏田君はこういうことのプロだ、大丈夫、大船に乗ったつもりで、一緒に屋上に向かおうよ!」
塩野が私の手をとって、一生懸命励ましてくれる。その横で、柏田がトドメの一言をくれた。
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