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本編
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呆然と自分の身体を見下ろす。
鉈が振るわれる前と、全く変わらない状況。怪我らしい怪我もなく、両手足首を椅子に拘束されている。
換気扇の音と、明滅する照明。照明のかちかちという不規則で耳障りな音にあわせて、私の鼓動は大きくなってきた。
さっきのは夢だろうか。夢だろう。夢であってほしい。
――夢にしては、生々しい。痛みも恐怖も。
「とにかく、ここを出ないと……」
左を見る。夢の通り糸鋸があった。
私は左に寄るために、体重を移動して右脚を椅子ごと浮かせる。
「わっ」
失敗してそのまま左に倒れた。
頭を強かに打ち付けて、視界が一瞬白くなる。強烈な痛みが引いて、ゆっくり目を開けた。
先ほどは見えなかった左後ろの工具箱に、ギザ刃の金切鋏があった。
2、
「よし、これで……」
右手の縄を切り落とすことができた。口で咥えて刃を開かせ、手首と肘掛けの間に差し込み、顎で刃を閉じたのだ。うまくいかず顎と右手首に軽い切り傷を作ったが、そんなことはどうでもいいから一秒でも早くこの状況を変えたい、と気持ちが急いている。右手首に食い込んでいた縄を落とし、今度は左手首の縄を切り落とす。金切鋏は大きく、片手で握るのはかなり苦労したものの、口で咥えるよりは断然スムーズに左手首も自由にすることができた。
「痛っ……」
紫色に鬱血してしまった手首足首をなでた。深呼吸、そして、身震いする。薄手のカットソーとショートパンツではこの部屋は寒い。そもそもこの格好はなんだろう、自分では絶対に選ばない服だ。
私は立ち上がり、……少し考えて先ほどの金切鋏を手に持ち、ドアをゆっくり開けた。そっと外の様子を伺う。
薄暗い廊下が続いており、左右にそれぞれ青く塗られた金属製のドアが並んでいた。奥には階段がある。ここが最下階なのか上り階段しかないようだ。
遠くでノイズのような雨音が聞こえる。人気はない。あの少女はいないらしい。ほっと息を吐いて、外に出る。
速やかにここを離脱すべきだ。私がどういう経緯でここに拘束されていたかよく思い出せないが、ここにいればあの少女にまた遭遇しかねない。
まずは外への出口を探そう。
どこかで漏水しているのか、廊下は濡れていた。スニーカーが滑りそうだ。慎重に、しかし一直線に階段に向かう。コンクリート製の階段には、かすれたペイントがあった。『B1』と書かれているように読める。もし読み違いがなければ、この上が地上階か。
階段の途中の踊り場は、横に細い窓が天井近くにつけられていた。外は雨のせいか暗く、様子は窺えなかった。人の気配もない。半地下だろうか、窓の上半分から差し込むわずかな光がある。夜ではないだろうが、何時なのかはよくわからない。
階段を上り終えると、床の材質が変わった。コンクリートから、塩ビタイルに。
果たしてそこは地上階だった。階段の向かいに自動ドアがあり、その金属の枠に嵌っていたガラスは、枠の周辺だけにかけらを残して打ち砕け床に飛び散り、雨と風をそのまま室内に迎え入れていた。
望んでいた出口だ。
私は恐る恐るそちらへ向かう。左右をきょろきょろ見回しながら。あの女の子がいやしないか、気が気ではない。
ここは、なんの施設なのだろう。目視できる限り人はいない。右手にカウンターがあった。カウンターの奥には埃を被った棚があり、ぎっしりとファイルが詰まっている。アルファベット順に並んでいるのはカルテか。しかも紙媒体のだ。
カウンターの先には、A診察室、B診察室、C診察室。その奥にA検査室、B検査室。
カウンターと反対側、左手側の通路には、レントゲン室、処置室、そしてトイレ。
病院か。それなりに大きいようで、壁にかけられた案内図を見ていると、一階は内科と循環器科、二階は形成外科と耳鼻科、三階以上六階までは入院設備で、七階建てだという。
しばらく人の手が入っていないようだ。床に湿気を吸った埃が付着しべたべたしているし、待ち合い用の椅子もすっかり埃を被っている。
出入り口のガラス扉も、近付いてみれば周りの金属の縁が腐食して赤っぽくなっている。
廊下には、茶色く変色したシーツのかかったストレッチャーが並べられている。
ふと、足下を見ると、まだ乾いていない泥が、湿った埃の間に足形になって残っていた。足跡は、処置室の方へ続いている。誰かがここを通ったのだろう、それもついさっき。
気にはなるけれど、誰のものか確認するより外に出たい。
私は小走りに、割れたガラスの自動ドアに駆け寄った。ここを出て、警察に行こう。そこで保護してもらい――。
ふと、雨音が途切れた。
天地が反転し、――どうやら私は、倒れたようだ。
雨音が戻ってくる。それに混じって、自分の荒い呼吸音が聞こえてきた。
胸が熱い。目の奥がちかちかする。
勝手に震えはじめた手で胸に触れると、べったりと血がついた。いつの間にか空いた穴からどくどく出血している。血ははじめは黒っぽく、徐々に鮮やかな赤に変化していく。それを他人事のように眺めた。
息ができない。
息ができない。
景色が真っ白に染まった。
鉈が振るわれる前と、全く変わらない状況。怪我らしい怪我もなく、両手足首を椅子に拘束されている。
換気扇の音と、明滅する照明。照明のかちかちという不規則で耳障りな音にあわせて、私の鼓動は大きくなってきた。
さっきのは夢だろうか。夢だろう。夢であってほしい。
――夢にしては、生々しい。痛みも恐怖も。
「とにかく、ここを出ないと……」
左を見る。夢の通り糸鋸があった。
私は左に寄るために、体重を移動して右脚を椅子ごと浮かせる。
「わっ」
失敗してそのまま左に倒れた。
頭を強かに打ち付けて、視界が一瞬白くなる。強烈な痛みが引いて、ゆっくり目を開けた。
先ほどは見えなかった左後ろの工具箱に、ギザ刃の金切鋏があった。
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「よし、これで……」
右手の縄を切り落とすことができた。口で咥えて刃を開かせ、手首と肘掛けの間に差し込み、顎で刃を閉じたのだ。うまくいかず顎と右手首に軽い切り傷を作ったが、そんなことはどうでもいいから一秒でも早くこの状況を変えたい、と気持ちが急いている。右手首に食い込んでいた縄を落とし、今度は左手首の縄を切り落とす。金切鋏は大きく、片手で握るのはかなり苦労したものの、口で咥えるよりは断然スムーズに左手首も自由にすることができた。
「痛っ……」
紫色に鬱血してしまった手首足首をなでた。深呼吸、そして、身震いする。薄手のカットソーとショートパンツではこの部屋は寒い。そもそもこの格好はなんだろう、自分では絶対に選ばない服だ。
私は立ち上がり、……少し考えて先ほどの金切鋏を手に持ち、ドアをゆっくり開けた。そっと外の様子を伺う。
薄暗い廊下が続いており、左右にそれぞれ青く塗られた金属製のドアが並んでいた。奥には階段がある。ここが最下階なのか上り階段しかないようだ。
遠くでノイズのような雨音が聞こえる。人気はない。あの少女はいないらしい。ほっと息を吐いて、外に出る。
速やかにここを離脱すべきだ。私がどういう経緯でここに拘束されていたかよく思い出せないが、ここにいればあの少女にまた遭遇しかねない。
まずは外への出口を探そう。
どこかで漏水しているのか、廊下は濡れていた。スニーカーが滑りそうだ。慎重に、しかし一直線に階段に向かう。コンクリート製の階段には、かすれたペイントがあった。『B1』と書かれているように読める。もし読み違いがなければ、この上が地上階か。
階段の途中の踊り場は、横に細い窓が天井近くにつけられていた。外は雨のせいか暗く、様子は窺えなかった。人の気配もない。半地下だろうか、窓の上半分から差し込むわずかな光がある。夜ではないだろうが、何時なのかはよくわからない。
階段を上り終えると、床の材質が変わった。コンクリートから、塩ビタイルに。
果たしてそこは地上階だった。階段の向かいに自動ドアがあり、その金属の枠に嵌っていたガラスは、枠の周辺だけにかけらを残して打ち砕け床に飛び散り、雨と風をそのまま室内に迎え入れていた。
望んでいた出口だ。
私は恐る恐るそちらへ向かう。左右をきょろきょろ見回しながら。あの女の子がいやしないか、気が気ではない。
ここは、なんの施設なのだろう。目視できる限り人はいない。右手にカウンターがあった。カウンターの奥には埃を被った棚があり、ぎっしりとファイルが詰まっている。アルファベット順に並んでいるのはカルテか。しかも紙媒体のだ。
カウンターの先には、A診察室、B診察室、C診察室。その奥にA検査室、B検査室。
カウンターと反対側、左手側の通路には、レントゲン室、処置室、そしてトイレ。
病院か。それなりに大きいようで、壁にかけられた案内図を見ていると、一階は内科と循環器科、二階は形成外科と耳鼻科、三階以上六階までは入院設備で、七階建てだという。
しばらく人の手が入っていないようだ。床に湿気を吸った埃が付着しべたべたしているし、待ち合い用の椅子もすっかり埃を被っている。
出入り口のガラス扉も、近付いてみれば周りの金属の縁が腐食して赤っぽくなっている。
廊下には、茶色く変色したシーツのかかったストレッチャーが並べられている。
ふと、足下を見ると、まだ乾いていない泥が、湿った埃の間に足形になって残っていた。足跡は、処置室の方へ続いている。誰かがここを通ったのだろう、それもついさっき。
気にはなるけれど、誰のものか確認するより外に出たい。
私は小走りに、割れたガラスの自動ドアに駆け寄った。ここを出て、警察に行こう。そこで保護してもらい――。
ふと、雨音が途切れた。
天地が反転し、――どうやら私は、倒れたようだ。
雨音が戻ってくる。それに混じって、自分の荒い呼吸音が聞こえてきた。
胸が熱い。目の奥がちかちかする。
勝手に震えはじめた手で胸に触れると、べったりと血がついた。いつの間にか空いた穴からどくどく出血している。血ははじめは黒っぽく、徐々に鮮やかな赤に変化していく。それを他人事のように眺めた。
息ができない。
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景色が真っ白に染まった。
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