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本編
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私は豪雨の中、地面に倒れている。うつぶせで、頬は冷たく硬いアスファルトに押し付けられている。
全身が雨でぐっしょり濡れていて、冷えきっていた。
息をする度に、身体が冷たくなっていく。激痛が走る。
しかし、それもすぐに曖昧な感覚になっていく。
視界を、白いノイズが、吹き付ける雪のように浸食する。
三、二、一――。
ホワイトアウトする世界。すべての感覚が消える。
私は、死んだ。
1、
横面を張り飛ばされたような衝撃に目を覚ました。
恐怖と、驚愕。心臓が、電気ショックを受けたように跳ねる。
飛び起きる――はずだったが、それは叶わなかった。
身体が動かない。座った姿勢で手首と足首を縄で椅子に括りつけられている。手首は肘掛けに、足首は椅子の脚に。
「なにこれっ……」
もがくものの、拘束はとても外せない。荒縄がぎちぎちに巻き付けられていて、力任せに引っ張ると硬い繊維が皮膚に食い込んで痛みを生む。
「なんなの」
もがくのをやめ、深呼吸する。現状を把握するため周りを見回す。
狭い部屋だ。物置だろうか。広さは六畳程で、全面コンクリート打ちっぱなしの内壁。天井には埃のつもった無骨なダクトが張り巡らされている。
窓はなく、正面に鉄製のドアが一枚。ドアの青い塗装は剥がれかけ、赤いサビが目立つ。今ではあまり見なくなっている、握って回すタイプの丸いドアノブがついていた。
ドアは薄っすら開いている。向こうの様子は暗くて見えない。人の気配はないように感じた。
黄ばんだ蛍光灯が、じりじりと明滅している。照らされる床は泥と埃がべったりとしていた。お世辞にも掃除が行き届いているとはいえない。
空気は湿っぽくカビ臭い。蛍光灯の音以外に、換気扇の音が聞こえる。
壁沿いにスチールシェルフが並べられている。そこには、スチールやプラスチック製のコンテナが並べられて、工具やチューブ、なにかの部品らしきものが雑多に突っ込まれている。
……ここはどこなんだろう。心当たりはない。長居したい場所ではない。
「誰か……誰かー!」
声を上げてみる。
「誰か、いないの!?」
返事はない。
ため息が出た。こんなところで、私はなんで監禁されているのだろうか。
好ましくない状況であることはわかる。
なにか、この工具箱のなかに使えるものがないか。拘束を外したい。
首を伸ばし見える範囲で探してみると、左手側のコンテナに糸鋸があるのが見えた。あれでなんとかこの縄を切れないだろうか。
結びつけられているのは四つ足の椅子なので、コロがついている椅子とは違って、地面を蹴って移動することもできない。子供の頃やったように、身体ごと椅子を傾けて、なんとか位置をずらせないか試みる。
左脚に体重をかけ、右脚を浮かせる。うまくいって、後方に半回転した椅子は、少しだけ左に移動した。
もう一度、と右脚を浮かせる。しかし、体重の割合を間違えた。
「あっ!」
左頭を強かに横のシェルフにぶつけた。目の奥に火花が散る。椅子ごと硬い床に叩き付けられる。派手な音がし、ぶつかったスチールシェルフに乗っていた工具箱が落ちてきて、右側頭部に激突した。
声にならない痛みに、しばらく悶絶するしかなかった。
痛みがようやく落ち着いてきて、目を開ける。ラッキーなのかどうなのか、目の前に例の糸鋸が落ちていた。
頬を地面につけたまま、ずりずりと顔を近づける。頬が摩れて新たな痛みが生まれたが、この状況が打破できるなら我慢する。
なんとか口に糸鋸を銜える。木でできている柄の部分をしっかり噛んで、まずは右手首から。かなりきつい。口で咥えて、倒れたままのこの姿勢。上手く前後に引けない。同じところに刃を当てるのもできない。涎がだらだらとこぼれ、顎もすぐ痛くなってくる。でも、やるしかない。
なんだってこんな目に。私が何をしたっていうの。畜生、畜生。
罵り言葉を心で吐きながら、なんとか縄を三分の一の太さまで抉れたとき。
足音がした。
私ははた、と動きをとめる。
半開きのドアの向こう、静かに、誰かが歩いてくる。もしかして、音を聞きつけて誰かが来てくれたのかもしれない。
糸鋸を放して、声を上げた。
「助けて! ここよ!」
足音は徐々に近づいてきた。これで、解放してもらえる。期待してほっとし、体の力が抜けそうになった。
ドアが軋んだ音をたてゆっくりと開いた。その向こうに立っていたのは女の子だ。長く黒い髪、白い肌。華奢な身体には、黄色い小花柄のワンピース。
「え……」
ワンピースには胸と腰に飾りがついていて、鈍く光っている。あれはナイフ? 斬新なデザインだ。でも、その部分を中心に赤黒く濡れたようになっているのは、どういうわけか。ハロウィンだってもうずいぶん前に過ぎたのに。ワンピース全体が、赤黒いシミと茶色の泥でべったりしている。全体的に水に濡れているようにも見える。穴があいている場所もたくさんあった。
女の子は裸足だ。華奢な足はドブを歩いてきたかのように汚れている。皮膚がめくれて出血してしまっているところもあって、……仮装には見えなかった。
長い物を持っている。私は以前、野良仕事をしている祖父の家で同じものを見たことがある。
あれは、鉈?
「ちょっと……なに」
刃こぼれした大きな鉈、ぬらぬら光る赤黒いなにかが付着したそれを重たげに引きずって、彼女は近づいてきた。
長い髪の毛が邪魔でうつむいた顔は見えない。
「やだ、こないでよ」
ひた、ひた、ひた、ひた、と、彼女の足が近づいてくる。
私は、無様に床に転がったまま。
「来るな! 来ないで!」
叫んでももがいても、その場から逃げ出せない。
彼女が立ち止まる。あと一歩の距離で。
私は叫んだ。なんて叫んだかわからない。叫ぼうと思って叫んだんじゃない。恐怖で、勝手に、声が出た。
振りかぶられた鉈が、空を切る音をたて――。
肩口に、重い衝撃があった。灼熱感が脳髄を焼く。
どこがどうなったのか、わからない。
痛い、怖い。痛い!
『ねえ、あっちで声がした! 行こう!』
遠くで、誰かの声が聞こえた気がしたが、定かではない。意味を飲み込む前に、再度、例えようもない衝撃を頭部に受け、私の意識は消失した。
◆
横面を張り飛ばされたような衝撃が、私の目を覚まさせた。恐怖と、驚愕。心臓が電気ショックを受けたように跳ねる。
飛び起きる――はずだったが、それは叶わなかった。身体が動かない。私は座った姿勢で、手首と足首を縄で椅子に括りつけられていた。手首は肘掛けに、足首は椅子の脚に。
「どういうこと……」
肩口には感覚が残っている。肉が抉られ、骨が折れる痛くて嫌な重い衝撃が。
致命傷だったはずだ。二撃目は間違いなく。
心臓が早鐘のよう。
周りを囲むシェルフ、明滅する蛍光灯、半開きのドア。左側の工具入れから見える、糸鋸も同じ。
私はまた、拘束されていた。
全身が雨でぐっしょり濡れていて、冷えきっていた。
息をする度に、身体が冷たくなっていく。激痛が走る。
しかし、それもすぐに曖昧な感覚になっていく。
視界を、白いノイズが、吹き付ける雪のように浸食する。
三、二、一――。
ホワイトアウトする世界。すべての感覚が消える。
私は、死んだ。
1、
横面を張り飛ばされたような衝撃に目を覚ました。
恐怖と、驚愕。心臓が、電気ショックを受けたように跳ねる。
飛び起きる――はずだったが、それは叶わなかった。
身体が動かない。座った姿勢で手首と足首を縄で椅子に括りつけられている。手首は肘掛けに、足首は椅子の脚に。
「なにこれっ……」
もがくものの、拘束はとても外せない。荒縄がぎちぎちに巻き付けられていて、力任せに引っ張ると硬い繊維が皮膚に食い込んで痛みを生む。
「なんなの」
もがくのをやめ、深呼吸する。現状を把握するため周りを見回す。
狭い部屋だ。物置だろうか。広さは六畳程で、全面コンクリート打ちっぱなしの内壁。天井には埃のつもった無骨なダクトが張り巡らされている。
窓はなく、正面に鉄製のドアが一枚。ドアの青い塗装は剥がれかけ、赤いサビが目立つ。今ではあまり見なくなっている、握って回すタイプの丸いドアノブがついていた。
ドアは薄っすら開いている。向こうの様子は暗くて見えない。人の気配はないように感じた。
黄ばんだ蛍光灯が、じりじりと明滅している。照らされる床は泥と埃がべったりとしていた。お世辞にも掃除が行き届いているとはいえない。
空気は湿っぽくカビ臭い。蛍光灯の音以外に、換気扇の音が聞こえる。
壁沿いにスチールシェルフが並べられている。そこには、スチールやプラスチック製のコンテナが並べられて、工具やチューブ、なにかの部品らしきものが雑多に突っ込まれている。
……ここはどこなんだろう。心当たりはない。長居したい場所ではない。
「誰か……誰かー!」
声を上げてみる。
「誰か、いないの!?」
返事はない。
ため息が出た。こんなところで、私はなんで監禁されているのだろうか。
好ましくない状況であることはわかる。
なにか、この工具箱のなかに使えるものがないか。拘束を外したい。
首を伸ばし見える範囲で探してみると、左手側のコンテナに糸鋸があるのが見えた。あれでなんとかこの縄を切れないだろうか。
結びつけられているのは四つ足の椅子なので、コロがついている椅子とは違って、地面を蹴って移動することもできない。子供の頃やったように、身体ごと椅子を傾けて、なんとか位置をずらせないか試みる。
左脚に体重をかけ、右脚を浮かせる。うまくいって、後方に半回転した椅子は、少しだけ左に移動した。
もう一度、と右脚を浮かせる。しかし、体重の割合を間違えた。
「あっ!」
左頭を強かに横のシェルフにぶつけた。目の奥に火花が散る。椅子ごと硬い床に叩き付けられる。派手な音がし、ぶつかったスチールシェルフに乗っていた工具箱が落ちてきて、右側頭部に激突した。
声にならない痛みに、しばらく悶絶するしかなかった。
痛みがようやく落ち着いてきて、目を開ける。ラッキーなのかどうなのか、目の前に例の糸鋸が落ちていた。
頬を地面につけたまま、ずりずりと顔を近づける。頬が摩れて新たな痛みが生まれたが、この状況が打破できるなら我慢する。
なんとか口に糸鋸を銜える。木でできている柄の部分をしっかり噛んで、まずは右手首から。かなりきつい。口で咥えて、倒れたままのこの姿勢。上手く前後に引けない。同じところに刃を当てるのもできない。涎がだらだらとこぼれ、顎もすぐ痛くなってくる。でも、やるしかない。
なんだってこんな目に。私が何をしたっていうの。畜生、畜生。
罵り言葉を心で吐きながら、なんとか縄を三分の一の太さまで抉れたとき。
足音がした。
私ははた、と動きをとめる。
半開きのドアの向こう、静かに、誰かが歩いてくる。もしかして、音を聞きつけて誰かが来てくれたのかもしれない。
糸鋸を放して、声を上げた。
「助けて! ここよ!」
足音は徐々に近づいてきた。これで、解放してもらえる。期待してほっとし、体の力が抜けそうになった。
ドアが軋んだ音をたてゆっくりと開いた。その向こうに立っていたのは女の子だ。長く黒い髪、白い肌。華奢な身体には、黄色い小花柄のワンピース。
「え……」
ワンピースには胸と腰に飾りがついていて、鈍く光っている。あれはナイフ? 斬新なデザインだ。でも、その部分を中心に赤黒く濡れたようになっているのは、どういうわけか。ハロウィンだってもうずいぶん前に過ぎたのに。ワンピース全体が、赤黒いシミと茶色の泥でべったりしている。全体的に水に濡れているようにも見える。穴があいている場所もたくさんあった。
女の子は裸足だ。華奢な足はドブを歩いてきたかのように汚れている。皮膚がめくれて出血してしまっているところもあって、……仮装には見えなかった。
長い物を持っている。私は以前、野良仕事をしている祖父の家で同じものを見たことがある。
あれは、鉈?
「ちょっと……なに」
刃こぼれした大きな鉈、ぬらぬら光る赤黒いなにかが付着したそれを重たげに引きずって、彼女は近づいてきた。
長い髪の毛が邪魔でうつむいた顔は見えない。
「やだ、こないでよ」
ひた、ひた、ひた、ひた、と、彼女の足が近づいてくる。
私は、無様に床に転がったまま。
「来るな! 来ないで!」
叫んでももがいても、その場から逃げ出せない。
彼女が立ち止まる。あと一歩の距離で。
私は叫んだ。なんて叫んだかわからない。叫ぼうと思って叫んだんじゃない。恐怖で、勝手に、声が出た。
振りかぶられた鉈が、空を切る音をたて――。
肩口に、重い衝撃があった。灼熱感が脳髄を焼く。
どこがどうなったのか、わからない。
痛い、怖い。痛い!
『ねえ、あっちで声がした! 行こう!』
遠くで、誰かの声が聞こえた気がしたが、定かではない。意味を飲み込む前に、再度、例えようもない衝撃を頭部に受け、私の意識は消失した。
◆
横面を張り飛ばされたような衝撃が、私の目を覚まさせた。恐怖と、驚愕。心臓が電気ショックを受けたように跳ねる。
飛び起きる――はずだったが、それは叶わなかった。身体が動かない。私は座った姿勢で、手首と足首を縄で椅子に括りつけられていた。手首は肘掛けに、足首は椅子の脚に。
「どういうこと……」
肩口には感覚が残っている。肉が抉られ、骨が折れる痛くて嫌な重い衝撃が。
致命傷だったはずだ。二撃目は間違いなく。
心臓が早鐘のよう。
周りを囲むシェルフ、明滅する蛍光灯、半開きのドア。左側の工具入れから見える、糸鋸も同じ。
私はまた、拘束されていた。
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