わたしの百物語

薊野ざわり

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その16

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 Rさんは、お父さんを水難事故で亡くしていた。お父さんは漁師だったのだが、ある日、帰ってきた漁船に姿がなかったのだ。そういう経緯があって、お母さんには反対されたのだが、Rさんは漁師になった。
 
 不漁の年、天気が崩れてきて港に引き上げるとき、うっかりRさんは海に転落してしまった。冬の海は冷たくて、すぐにもがく力もなくなった。仲間が助けようとしてくれたが、救命胴衣の中でどんどん体が強張ってきて、投げられた浮き輪に手をかけるのすらうまくいかなかった。波もじわじわ高くなる。そのうち腕も動かなくなり、Rさんはぼんやり、これはだめかもしれないと覚悟した。
 
 そのとき、波がざんぶり押し寄せて、Rさんは海の中に沈んでしまった。冷たい水を飲み込み、耳元でごわごわと水が鳴る音を聞きながら、「しっかりしろ」と言う誰かの声を聞いた気がした。

 次に気がつくと、Rさんは救助の人に引き上げられて、病院にいたのだ。



 Nさんは、長く、不妊で悩んでいた。年齢的にも厳しくなってきていたが、どうしても子供が欲しかった。そのことで夫と不仲になりつつあって、毎日毎日気分が重かった。医師には、もうあまり期待できないと言われていたのだが、諦めきれないでいた。
 いっそ神頼みと、近所の神社に毎日毎日参拝していたが、効果の程は、いまいちだった。
 
 そんなある日の夕方、買い物帰りに迷子に行き合った。黄色いレインコートを着込んだ、五歳くらいの男の子で、小さな手に、袋を抱えていた。袋からはみずみずしい桃が顔を覗かせていたが、彼の手には余るほどの量で、実際、運ぶのに難儀しているようだった。泣きべそをかきながら、一生懸命、まわりをきょろきょろしている。

「大丈夫? お母さんは?」

 尋ねると、男の子は、お母さんが風邪を引いてしまって寝込んでいるから、八百屋さんで桃を買ってきたのだというのだ。しかし、帰り道がわからなくなってしまった。詳しく聞いてみると、彼の家はいつも参拝している神社のあたりだったので、Nさんは神社まで送ってあげることにした。桃の袋も持ってあげようかと言うと、男の子は頑なに、これは自分で持つと言ってきかなかった。母を心配する気持ちや、使命感を可愛らしく思いながら、Nさんは男の子を目的地まで送ってあげた。

 男の子は、神社の前まで来ると、ぺこりと一礼し、満面の笑みで桃をひとつNさんに差し出した。Nさんは断ったが、男の子は強引に桃を押し付けて、神社の境内に走っていき、その後姿は、瞬きしたあいまに消えてしまった。驚いたNさんだったが、手にしていた桃も消えているのに気付いて、ああ、狐に化かされたんだなと思ったという。
 
 そのできごとがあった二月後、Nさんは子供を授かったことを知った。逆算してみると、あの男の子にあった日に授かったことになるのだとか。



 それは、Yさんが子供の頃、田舎の祖父母の家に泊まりにいったときの話。たしか、お盆のころだったという。夜、風呂を出て、九時頃。夜の早い祖父母はもう就寝しており、Yさんは客間に敷いた布団の上に寝転んで、本を読んでいた。古い日本家屋だが、畳は新しくしてあるのでい草の香りが心地よく、気付いたら枕に突っ伏して眠っていた。はっとしたときには、部屋は真っ暗だった。祖父母のどちらかが、電気を消してくれたのだろうか。雨戸を閉めた掃出し窓からではなくて、廊下側にある磨りガラスの嵌った引き戸から、薄っすらと月明かりが挿し込んでいた。
 ふと、そのとき、ガラスの向こうを人影が通り過ぎた。
「じいちゃん? ばあちゃん?」
 電気をつけっぱなしで寝てしまってごめんねと言うつもりだった。だが、聞こえなかったのか、人影はすっと通り過ぎてしまった。その先は玄関へ続いている。玄関の右手にはトイレがあるので、用を足しに行ったのだろう。近頃、祖父母も耳が遠くなってきてるからなあと、Yさんは思った。
 しばらくすると、また人影がガラスの向こうを通り過ぎた。小柄なので、祖母だろうと思った。
「ばあちゃん、トイレ?」
 声をかけたが、やはり聞こえなかったのか、反応はなく、玄関の方へ行ってしまった。歳をとると、夜中にもトイレに行きたくなるんだろう。
 電気の件は、明日の朝にでも謝ればいいか、とYさんはタオルケットを引き上げて、寝ようとした。
 目を閉じる瞬間、人影が磨りガラスの向こうを横切った。また、トイレか。頻尿だなあと思ったが、ふと気付く。そういえば、あれが祖父にしても祖母にしても、戻りにここを通っただろうか。この古い家で、足音を立てずに廊下を進めるものだろうか。
 
 翌朝、祖父母に昨晩トイレに行ったか? 何度行ったかと尋ねると、二人共、明け方一度だと言った。明るくなってから、一度だけ。
 


 Kさんは、本が好きだ。仕事帰りに図書館に寄り、本を借りて帰り、数日で読み切る。そういうのを四年ほど続けていた。その日も、Kさんは図書館の文庫の棚に歩み寄り、物色していた。ふと、新入庫の文庫本に目が行った。読んだことのない作者のもの。興味を引かれ、借りて帰った。そして、ご飯を食べながら本を開き、ページの間に一枚の紙が挟んであることに気付いたのだ。
 
 『雨傘を忘れぬよう』
 
 それだけ書かれていた。誰かの覚書だろう。そう思ってそのメモは捨てた。四角張った、男性的な文字だったことは記憶に残った。
 
 翌日、天気予報では降水確率は三十パーセントだったが、なんとなしに雨傘を持って出かけた。夕立が帰宅時間を直撃したけれど、傘を持っていたKさんは運良く立ち往生せずに帰ることができた。
 
 また、夕食時に、昨日の続きを読もうとあの本を開いたところ、
 
 『階段注意』
  
 ぽつんと書かれたメモが入っていた。何枚挟んであるんだと思い、ぱらぱら本をめくったが、他にはないようだった。
 翌日、事務所に続く階段で滑り、危うく転倒しそうになったKさんは、あのメモのことを思い出していた。
 
 帰宅し、どきどきしながら本をめくる。
 
 『頭上注意』
 
 やはり、あった。四角張った字で綴られた、メモ。頭上注意とはなんだろう。なにか降ってくるとでも言うのか。
 翌日の通勤時、どことなくそのメモの内容が頭に引っかかっていて、そろりそろりと頭の上を気にしながら歩いていた。とあるマンションの隣の道を通過したとき、危ないと鋭い声がして、Kさんは転がるようにその場を退避した。硬い音とともに落下してきたのは植木鉢だった。土を撒き散らして粉々に砕け散った。
 マンションの住民が不注意で落としてしまったのだという。
 
 Kさんはそれから、毎日文庫本を確認した。とうに読み終えていたが、返却する気にならなかった。
 
 本は毎日メモを吐き出し、警告をくれた。信号無視の車が横断歩道で突っ込んできたり、会社の倉庫で荷崩れに巻き込まれそうになったり、駅のホームで誰かに押されて線路に転落したり。どれも間一髪、メモのおかげで助かったのだ。
 本を返す期限はとっくに過ぎ、図書館からは督促がきていた。それでもその本を手放せなかった。
 
 ある日、久々に遠方から恋人が遊びに来て、Kさんはその話を聞かせた。Kさんの話を胡乱げに聞いていた彼女は、そんなことありえないと鼻で笑った。それどころか、酷いことを言うのだ。
 まるでその本が、不幸を連れてきているようじゃないか、と。
 
 言われて、目が醒めた。
 Kさんは、その日のうちに図書館に本を返却した。随分期限が過ぎていて、もう貸出できないと言われてしまったが、構わなかった。本を手放すと、ほっとしたような気がしたのだ。
 
 そして帰宅し、Kさんは愕然とした。食卓の上に、あの本が鎮座しているではないか。
 震える指でページをめくり、メモをみつけた。
 
 『返却厳禁』
 
 と、書いてあったらしい。



 Vさんは、家事をしている最中、ノートパソコンを起ち上げて、動画配信サービスを使う。その動画配信サービスで行われているリアルタイム配信の音楽を聞きながら、洗濯や掃除をするのが好きなのだ。お気に入りのチャンネルをいくつかリストに登録していて、その日の気分で使い分けていた。

 その日もVさんは、アイロンがけをしながら、音楽を聞いていた。南国のイメージを沸かせるボッサ。ゆったりした気分で、自分のブラウスとハンカチ、夫のワイシャツにアイロンを掛けていた。ハワイに行ってみたいなあ、と思いながらしゅっとスチームを一吹きしたとき、きいいっという、金属をこすりつけたような甲高い、そして耳障りな音が鳴り響いた。インターネット接続のエラーかと思い、彼女はテーブルの上に置いたパソコンを確認した。

 いじった記憶がないのだが、知らないチャンネルに切り替わっていた。青い空に白い雲、カラフルなパラソルの並んだ映像から、薄暗い灰色の天井と窓のない壁、汚れたコンクリートの床の映像。なんだろう、映画の予告広告だろうか。Vさんはそう思い、広告をスキップしようとしたが、パソコンの調子が悪いのか、操作を受け付けなかった。ぐるぐる、考えていることを示すように輪っかのアイコンが回転するだけ。
 映像は無人だった。ただ、きいきいという油の足りないブランコを揺らしたときのような音、それから間近で聞こえるような、切羽詰まった荒い息の音が聞こえてきて、手ブレが酷い。気持ち悪いなあ、ホラー映画はよそでやってよ、と思いながらVさんはパソコンが調子を取り戻すのを待った。下手にがちゃがちゃいじると、フリーズするかもしれないと考えたからだ。

 突如、悲鳴があがった。カメラがぐるりと回転し、おそらく背後にひっくり返る。そこに映っていたのは、光の加減で顔が見えない、数人。年齢も性別もわからない。黒っぽい服を着ていて、首以外の肌の露出は一切ない。ただ、汚らしい壁や廊下に、悲鳴が――おそらくは撮影者というか、この視点の持ち主の――こだまする。

「ちょっと、やめてよ……」

 顔の見えない人物たちは鈍く光る大きなナイフのようなものを振り上げて、そのままこともなげに振り下ろした。Vさんは顔を背け、耳を塞いだ。しかし一瞬遅く、湿った音と、途切れ途切れの絶叫を聞いてしまった。
 恐る恐る目を開けると、ちょうどカメラがごとんと床に落ちるところだった。まるでこの映像の主人公が事切れ、床に頭を落としたように。画面いっぱいに湯気を上げる赤いものが映し出され、じわじわと白っぽくフェードアウトしていく。

 Vさんは完全に頭にきて、動画配信サービスの運営にクレームを入れることにした。こういうグロテスクだったりホラーなものは大嫌いだ。視聴履歴から、その動画のサムネイルを探し出し(それすら嫌悪感があったが)通報してやると思ったのだが、履歴にはそれらしきものが見当たらなかった。あるのは、南国風のボッサのチャンネルだけ。
 PCの方の履歴を確認しても、件の動画はなかったそうだ。
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