わたしの百物語

薊野ざわり

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その7

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 Dさんは、リンゴのスケッチをしているとき、そのことに気付いた。左目を閉じ、効き目の右目だけでリンゴを見ると、視界の端、立体感が薄れて見切れそうな右端の部分に、人影が映っているのだ。女か男か、若いのか歳をとっているのかもわからない。両目で見るとそれは見えないし、左目で見たときもその姿は見えない。右目で見た時だけ、ぼんやりと、墨で描いたようなモノクロで、その人はひっそりと立っているのだ。
 それは今でも続いていて、目医者に行っても原因もわからない。不思議ではあるのだが、害はないし、面白いのでそのままなのだそうだ。
 


「これ、電池が液漏れしてないか」

 Pさんは友人の言葉で慌ててテレビのリモコンを確認した。言われてみるとたしかに、シルバーのボディの背面が黒っぽい液体で濡れていた。たぶん、電池を入れるところから液体は出ている。

「触っても大丈夫なのかな」

 不安に思いつつ、リモコンが壊れたら面倒だと、まずは電池を剥がすことにしたPさんだったが、カバーを外して電池を取り出してみると、汚れてもいなかった。念の為、残量のチェックをしたが、電池はまだまだ使える状態だった。
 きっとなにか、食べ物か飲み物で汚してしまったに違いないと、その場はそれで納得した。
 
 ところが、翌週また、友人が遊びに来たときも、その次の月に遊びに来たときも、なぜかリモコンは黒っぽい汚水にまみれていた。気味は悪いが、リモコン自体は問題なく動くし、今の所実害もないので、Pさんはのんびり構えている。それより、毎回、同じ友人が遊びにきたときに起こるのは、なぜなのだろう。もしや彼がいたずらをしているのでは、と疑って、彼が遊びに来るまえに隠してみたことがあるのだが、それでもリモコンは汚れてしまった。
 今現在も、理由はまったくわからないそうだ。
 


 Bくんの学校で流行っている「神さまの地図ちょう」というアプリがある。これは、位置情報を使ったアプリで、Bくんの住むZ市の全域が対象となっており、使用者が自分で行ったことのある場所でメッセージを残したり、写真や動画を残し、共有できるというシンプルなものだ。

 その「神さまの地図ちょう」アプリには噂がある。ときどき、Z市駅の目の前のスーパーに「神さま」が現れるのだという。

 アプリに投稿した自分の写真やメッセージは、後から任意で消せる。その機能を使っているのだろうが、スーパーに現れる「神さま」というアカウントは、駅前ロータリーを俯瞰した動画をアップして、数分で消えるのだという。その写真は、おそらくドローンかなにかを使ったものなのだろうが、都度内容が違うものになっている。なんのためにそういうことをしているのかはわからないが、Bくんが聞いた噂だと、ちょうど写真がアップされたとき、スーパーの上空を見ると、白っぽい人影が浮いているそうだ。動画はまさにリアルタイムで駅の様子を配信していて、もしかしたらその人影が見た景色をそのままアップロードしているのではないかというのだ。
 
 真偽の程はわからないし、アカウント「神さま」なんていかにもよくありそうなものだが、このアプリが有名になった経緯の、作成した高校生が配信開始一週間で不慮の事故で亡くなったという事実が、「神さま」の噂がひろまるきっかけになったのかもしれない、とBくんは考えているそうだ。



 Aさんは、冬のボーナスが入ったのをきっかけに、かねてから欲しかった自動お掃除ロボットを購入した。家に帰ってから自分で毎日掃除するのは、嫌ではないができれば省きたい手間だ。さてどのくらい快適なものだろうと期待し、数日使ってみた結果、それなりに満足できて、いい買い物をしたとほくほくしていた。
 
 年末年始帰省し、マンションに戻ってきて、お掃除ロボットを確認した。ゴミの吐き出しも自動でやってくれるタイプなので、しばらく放っておいても大丈夫だとはわかっている。きちんと掃除しているかだけを確認したかった――しているとわかっているからこそ、とれたゴミの量を見て、自分の買い物は間違いなかったと思いたかったのだ。
 ゴミの排出ボックスにたまった中身を、袋に移して、おや、と思った。黒くてぷつぷつした、小さなビーズのようなものが入っていた。綿埃や髪の毛に交じって、かなりの量入っている。なんだろうこれは。どこかで見たことがあるような。
 気にはなったが、築十年のマンションなので、もしかするとそろそろ設備が傷みはじめているところがあって、錆が落ちているのかもしれないと結論づけた。
 次の休みにでも大掃除をして、メンテナンスが必要だったら管理会社に連絡しようと決めたのだ。
 
 そして次の休みに、Aさんは、少し遅れた大掃除をやったのだが、錆が出るような場所はなかった。水回りはとくに重点的にチェックしたが、日頃の手入れのかいもあって、なにかが錆びているようなことはない。
 冬場は乾燥しているから、土埃でも飛んできたのかもしれないなあと楽観的に思い、Aさんはそれ以上それを考えることはやめた。
 
 ところが、仕事が終わって帰宅して、ロボットの排出したゴミを確認すると、必ずあの黒いつぶつぶが入っているのだ。これは一体何なんだろうと思いながら、ふと、自分の手を見てAさんはもしやと思った。
 あかぎれで血が出てしまった右手人差し指の第二関節の外側、ぷっくりと盛り上がった瘡蓋かさぶた――これにそっくりじゃないか、と。
 


 その分譲マンションの最上階の六階の一番奥と、そのひとつ手前の六〇八号室は、住民たちにとって悩みのタネだった。というか、厄介者だった。者という相手ももういない無人の部屋なのだが。
 
 実は最奥の六〇九号室では、何年か前に夫が子供と妻を道連れに、無理心中したのだ。事業で失敗したらしいとか、妻が不倫したらしいとか、いろいろ噂が流れたが、どれも真偽の程は定かではない。
 そんなことがあって、六〇九号室は誰も住んでいない。築年数が古く、修繕費のかさむそのマンションでは、なんとか新規購入者を掴みたいところだったが、凄惨な事件があったせいもあり、なかなか買い手がつかないでいた。
 そのうえ、ひとつ手前の六〇八号室が、まれに六〇九号室の内見にくる住民を完全に追い払ってしまっていた。六〇八号室に住むおばあさんは、隣室で悲劇が起きた後から過敏になって、共用の廊下であるにもかかわらず盛り塩をし、塩をまき、しめ縄をかけ、ときには大声で祈祷をした。何度も他の住人と揉めたが、おばあさんは「ここにはいけないものがいる」と言って聞かなかった。
 やがて六〇八号室のおばあさんが体を壊し入院し、あっという間に亡くなった。遠くに住んでいた親戚がやってきて、六〇八号室を片付けていった。その部屋もすぐ売りに出されることになった。
 
 他の住人たちは、ほっとした。これで厄介者は片付いたし、買い手がつけば、自分たちの金銭的な負担も減るかもしれない、と。
 ところが、次の自治会で変なことを言う人が続出した。
 六〇九号室の真下にある、五〇九号室のおばさんは、ときどき誰かが上の部屋で暴れている音がすると気味悪そうに語った。もちろん、まだその部屋は買い手がついていない。
 共用の廊下を掃除していた六〇三号室の奥さんも、奥の部屋の前でずっと俯いて立っている男の人の姿を見たという。一家心中した旦那さんによく似ている、とか。
 六〇五号室の奥さんは、宅配便を受け取ろうとしたら、配達員さんが六〇九号室に向けて会釈していて、驚いてそっちを見たけれど誰もいなかった、と語った。
 道から見たとき、六〇九号室に明かりが灯っているのが見えたという人も、何人もいた。
 
 反対意見を押し切って、理事長が半ば自腹でやりくりしてお祓いをしてもらったのだが、今でもそう言った不可解なことは続いている。マンションの六階、それから五階の一部の住人は、自分の部屋の前に盛り塩をするようになったらしい。



 Zさんは、椅子で食事するときは座面の上で正座し、ソファに座る時は足を全部座面に乗せてあぐらをかくか、膝を抱える。なるべく、床には直で座らない。それはもう日常生活に染み付いた癖になっていた。
 
 数年前、Zさんは犬を一匹飼っていた。やんちゃな子で、いつも遊んでとねだってくる活発な性格だった。その子が、時折、なにもない空間にむかってプレイバウ――頭を低くして、お尻だけ上げた、遊んでほしいときのボディランゲージ――をしていることがあった。はじめは気にしなかったのだが、そのうち、変なことが起きるようになった。
 
 Zさんが食事をするとき、しつけの意味もこめて、犬はケージに入れていた。たまに、物欲しそうに鼻鳴きすることはあったが、暴れたりはしない。だから、椅子に座った足元に、ぺたぺたとなにか温かいものが触れたとき、驚いて下を見た。もしかしてケージのドアを閉めなかったのかと思ったからだ。
 犬は相変わらず、ケージにいた。Zさんの足を撫でていたのは、小さな手だった。人間の手、赤ん坊くらいの大きさで、爪が青緑色になっていた。
 
 悲鳴をあげて、立ち上がると、その手はすでにいなくなっていた。
 
 どこから何が紛れ込んだのかわからないが、以来、椅子に座っているとき、ソファに腰掛けているときなど、床に足をついてじっとしていると、ぺたぺたと生温かい小さな手が張り付いてくる。
 一定の高さ以上には自力で登って来られないようなのだが、たとえばベッドに寝ていて、うっかり床面に毛布を垂らしたりすると、それを登って上に乗ってくることがある。手自体は赤ん坊の大きさなのに、上に乗られるとまるで大人のように重たく、身動きが取れなくなってしまうのだ。だから、脚付きマットレスのベッドに別売りの柵をとりつけて、毛布のずり落ち防止にした。
 
 犬が虚空にむかってプレイバウをする場所から想定するに、いつもは部屋の隅でじっとこちらの様子を伺っているようだ。姿が見えないそれが、這い寄るための機会を伺っている視線のようなものも感じる。やがてZさんは、神経がささくれだって、不眠からくる体調不良に陥ってしまった。
 
 お祓いをしてもらったが、効果はいまいちで、数日するとまたあの手は家の中に出現した。Zさんが階段を降りきって、背後を振り返ると、ずるりずるり這うようにして小さな手が着いてくることもあった。
 
 半年もすると、本格的に体にきて、このままではまずいと自覚するようになった。Zさんは引っ越しをすることにした。
 両親から譲り受けた家は、解体して土地だけ売りに出すことにした。
 
 荷物を積んだ引っ越しのトラックが出発したあと、Zさんは愛犬とともに自家用車で新居へ向かうことにした。愛犬をキャリーケースごとトランクに乗せ、車で二十分の距離の新居へ出発する。
 背後に、明かりの落ちた、どこかよそよそしい雰囲気のある住み慣れた家があったが、ちらっと振り返っただけで、ゆっくり別れを惜しむ気にはならなかった。
 
 アクセルを踏んでいた足に違和感を覚えたのは、出発して十分か十五分かしたころだ。ああ、見たくない。そう思いながらも、ぎりぎりと万力かと思うような強さで足首を摑まれたら、見ずにはいられない。ゆるく開いた膝頭の間に、髣髪ほうはつの隙間から真っ黒な目を覗かせた赤ん坊の顔があった。次の瞬間、Zさんは全身に強い衝撃を受け、意識を失った。
 
 
 
 目が覚めたときには、病院にいた。Zさんは、民家の塀に突っ込んで、あちこちを骨折したり切ったりして、大怪我を負ってしまったのだ。幸いにもZさん以外に負傷者はなく、愛犬も無事だった。
 
 退院後、もう、あの小さな手は見なくなった。それでも、Zさんの癖は治らない。おそらくだが、二ヶ月の入院中、他の入院患者から「椅子に座っていると誰かが足を掴む」という怪談なのか夢なのかわからない噂を聞いて、ベッドから足を降ろさないように、毛布を落とさないように気をつけていたから、体に染み付いてしまったのだろう。
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