わたしの百物語

薊野ざわり

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その3

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 Rさんの買っているオウムは、いくつか言葉を覚えている。おはよう、おやすみ、いってらっしゃい、可愛いねえ。あとは他にもレパートリーがいくつかあるが、それはたいてい、Rさんがよく掛けてあげる言葉である。

 ところが、近頃、そのオウムが教えていない言葉を話すようになった。

 おはよう、たすけて。
 たすけて、おやすみ。
 いってらっしゃい、いたいよう。

 なんだか不気味に思っていたが、しばらくすると言わなくなったので、気にしないことにしたのだとか。
 


 Eさんが入院したときの話だ。

 彼女の旦那さんは背の高い人で、電車に乗ると中吊り広告に顔が当たるし、ちょっと古い日本家屋なんかでは、敷居をまたぐたびに頭を下げないといけない。旅館に泊まるとたいてい布団の長さが足りず、寒い思いをする。
 そんな旦那さんはお茶目な人で、入院はつまらないと嘆く妻を励まそうというのか、お見舞いのときいつもちょっとしたいたずらを仕掛ける。六人部屋のベッドを区切るカーテンの上部の、メッシュ部分からそっと中を覗き込んで、妻を驚かすのだ。
 子供のようなそのいたずらをEさんもはじめは驚いたり、怒ったりしていたのだが、入院が長引きすっかり慣れて、恒例行事のように「はいはい。お見舞いありがとう」と流すようになった。
 
 ある日、Eさんがいつものように本を読んでいるとき、気配を感じた。顔を上げ、やはりカーテンの上のメッシュ部分にあった目と目が合い、「はいはい、お見舞いどうもね」とぞんざいに挨拶して、栞を挟んで本を片付けた。
 しかし、いつになっても夫がカーテンをめくらない。どうしたのかと思いもう一度顔をあげると、そこには誰もいなかった。そういえば、いつもはカーテンにうつる体の影がなかったような。

 それからEさんは、旦那さんにカーテンの上から覗き込むのはやめてくれと強く言い、それは受け入れられたのだとか。
 


 その日は猛暑で、Lくんはあまりの暑さに参ってしまい、駄菓子屋さんの店先で少し休憩することにした。麦わら帽子を被って、これから虫取りに行く予定だったのだが、なんだか頭がくらくらしていた。そのせいかもしれないが、店の前に置かれたベンチに座っている女の人が、妙に黒く霞んでいるように見えた。白い肌にさらさらの黒い髪、白いワンピースの、若い女の人。うつむき加減で座っているので表情は見えないが、その顔のあたりも、むき出しの肩も、サンダル履きの足も、砂鉄をまとわりつかせたようにうっすら黒っぽく煤けて見える。その砂鉄は固着しておらず、さらさら、さらさらと流動している。
 
 まずいぞ、具合が悪いのかもしれない。こういうときは、飲み物を飲めと小学校の先生が言っていた。
 Lくんは、お店に入って、ラムネを一本買った。そして、その女の人の隣に座って、小気味いい音をたてて開封すると、冷たいラムネを一気に半分飲み干した。喉の奥で弾ける泡が気持ちいい。

「ぼく」

 急に声をかけられ、Lくんはびっくりした。隣の女の人だ。消え入りそうな、か細い声だった。

「それを、わけてくださらない」

 女の人は、うつむいたまま、髪の毛の間から、力のない声でそう言う。
 もしかしたら、この人、具合が悪いのかも。知らない人に自分の口をつけたものを渡すことに抵抗があったが、助け合いの精神は大切だと先生も言っていたので、Lくんはこくんとうなずいて、瓶を差し出した。

「ぼうず、暑いだろうからおっちゃんがアイスキャンディー奢ってやるよ」

 急に店主が店から出てきてそんなことを言ったので、注意がそれた。次にLくんが隣に目をむけたときには、どういうわけか、女の人はそこにいなかった。砂鉄のような黒い粉が、ベンチの上で小さな山になっていただけだ。
 
 暑すぎて、幻を見たのかもしれないとLくんはそのとき考えたのだが、店主に女の人のことを尋ねると「店の中からずっと見てたが、誰もいなかった」と言われた。あのとき、ラムネを渡していたら、果たして彼女は砂鉄にならずに済んだのだろうか。真夏には、そんなことをぼんやり考えることがあるそうだ。



 Pさんの通う中学校のプールは、ステンレス製だった。県内でも珍しい作りだ。そのプールには噂があった。悪い噂ではない。鈍く光るプールの底に、自分の影の上を、ゆらゆらと色とりどりの魚群が過ぎるのが映ることがあるらしいのだ。実際、水泳部のPさんも一度だけだがその魚群を見たことがある。とても幻想的な映像で、できればもう一度見てみたいと願ったが、二度はなかった。
 


 SさんのクラスメイトのDくんは、いつも目をじいっと細めている。それが人をにらみつけているというふうに見えるので、とっつきにくいとか、感じが悪いとか言われて、ひとりでいる事が多い。
 そんな彼と、Sさんは緑化委員で組むことになってしまった。話したことなどないので、どうしようとどきどきしていたSさんだが、委員会のあと話し合いをしていると、意外にも彼の受け答えは穏やかで、控えめだった。
 
 三回目の委員会が終わって、Sさんは思い切って聞いてみた。
 
「Dくんって、もしかして、目が悪いの? いっつも目を細くしてるでしょ。眼鏡かけたりしないの」

 すると彼は少し考えた後、

「いや、視力は悪くないけど……、うん。間が悪いというか、なんというか」

 なんだか煮え切らない答えだった。
 こうして話している時は、目を細めたりしない。他のクラスの男子となにも変わらない。そう思っていた矢先、彼は廊下の先を睨みつけるように、目を細めてじっと見つめた。しばらくそのまま、凝視している。
 
「別に、あそこなにもないよ。やっぱり、目が悪いんじゃないの」
「……そうかもね」

 やはり、はっきりしない答えだった。
 悪い子じゃないんだけど、なんだか噛み合わないなあと思いながら、Sさんは、ふと窓を見た。Dくんと自分が並んで立っているのが映っている。その、Dくんの隣に、着物姿のおばあさんが立っていた。学校に似つかわしくない服装にも驚いたが、それよりも、振り返ってみてそこには誰もいなかったことにSさんは身を強張らせた。口をぱくぱくさせていると、Dくんが煩わしそうに肩を手で払った。Sさんは恐る恐るもう一度窓を見たが……そこには、自分とD君以外、誰もいなかったのだ。
 
「Dくんってさあ……いや、なんでもないわ」
「うん?」

 もしかして、見える人? ととんでもないことを聞こうとして、Sさんは止めたそうだ。もし「そうだ」と言われてもどう反応したらいいかわからないし、「違う」と言われた場合、そんなことを聞く自分のほうがヤバイ人に認定されかねない。
 
 Sさんはその後も、Dくんとはとくに親しくはならなかったが、彼が目を眇めているところを見ると、つい、周囲の様子を伺ってしまうようになったそうだ。

◆ 
 
 駅に送ってきてくれた甥っ子が、スマートフォンでさっさと兄と連絡を取り合う様子を見て、Xさんは感慨深く思った。振り返ったところにある駅舎は、Xさんが若い頃とはまったく趣が違う。あのころ、ぼろぼろだった駅舎には、伝言板があって、待ち合わせの相手にメッセージを残したものだ。
 
 大学生のころ、Xさんは、二歳下の女性とお付き合いをしていた。清く正しいお付き合いだったのだが、いずれは結婚するつもりだった。彼女は、隣の県の子で、車を持っていなかったためどこかの駅で落ち合ってデートするのがいつものパターンだった。
 あの日、Xさんは、彼女を家族に紹介するつもりだった。ところが、急にお父さんの具合が悪くなってしまい、彼女に連絡する余裕もなく、病院へ行くことになった。幸いにも、お父さんは数日の入院で済むことになったのだが、彼女を紹介することはできそうになかった。

 すっかり暗くなったころ、彼女はもう帰ってしまっただろうと思い、自宅へ電話したところ連絡がつかなかった。心配になって、Xさんは駅へ向かった。伝言板になにかメッセージがあるかもしれないと期待して。駅のロータリーの前まで来て、警察官の姿を見たとき、胸騒ぎがした。伝言板の前でたむろしている人に「何があったんですか」と問うと、通り魔が出て、若い女性が犠牲になったのだという。病院に運ばれたが、あれはもうだめだな、とその人は言った。その女の人の特徴を聞いて、Xさんは悪い予感が的中したことを知った。伝言板には『目の前の喫茶店でお待ちしています』というメッセージが残っていた。彼女の字で、彼女の署名もあった。
 
 それからのことはあまりよく覚えていない。彼女の告別式が終わったあと、ふらふらと駅に来て、Xさんは伝言板の前に立っていた。当然、あの伝言はもう、消されていた。事件現場にはしおれた花が置かれていたのを、今でも覚えている。
 もう残っていない伝言を見たいと思ったとき、Xさんは人前にもかかわらず落涙した。涙で歪んだ視界のなか、不思議なことが起きた。白いチョークの後が残る伝言板に、じわじわと文字が浮き出てくる。

 『待っていたのに』
 『マッテイタノニ』
 『まっていたのに』

 乱雑に、怒りをぶつけたような殴り書きで、その字はXさんを責め立てた。伝言板いっぱいにびっしりと現れた、大きさも筆致もばらばらなたくさんの文字たち。
 迷惑そうに駅員が「いたずらは困りますよ」と注意して、目で黒板消しを示していった。その文字を消す間、Xさんは涙を止めることができなかった。
 
 Xさんは、大学卒業を機に、街を出た。この駅を毎朝使って通勤したくなかったからだ。この街にいたくもなかった。幸い、兄夫婦が両親と同居してくれるというので、自由だった。
 随分前に駅は改装され、あの日の伝言板も撤去されてしまい、今はもう、ロータリーにすら、当時の面影は残っていない。
 
 
 
 見送ってくれた甥っ子に礼を言って改札を抜け、Xさんの短い帰省は終わった。この後行くところは決まっていた。電車で数駅、その後タクシーで二十分、小さな墓地である。蝉しぐれのなか、夕日に照らされながら、その場所を目指した。
 毎年欠かさずこの日には、花を供えに来ていた。本当は、プロポーズのときに花を渡したかったと思いながら、毎年毎年、墓前に花を添えるのだ。

 ちょうど、あれから三十年だ。

 今日が命日だから、きっと親族が来ていたのだろう。新しくみずみずしい花が添えられたそこに、Xさんも手を合わせた。今更考えても仕方がないことだが、もしあの日、待ち合わせに遅れず駅に行っていたら、自分たちはどうなっていただろうか。
 
 ふと、誰かの気配を感じて、Xさんは目を開けた。ぴかぴかに磨かれた墓石に映り込む、不鮮明な自分の影に、寄り添うような誰かの影がある。だが、どうしてか、後ろを振り返ることができなかった。
 
 ――あの日のことを悔やんでくれるなら、今すぐ死んでよ。一緒になって。
 
 そう吐息が――冷たくて弱々しいそれが、耳元で囁いた気がした。ただの風鳴りかもしれない。だが、どうしてか、もうすっかり忘れてしまった、彼女の声のように聞こえた。

「あと少し猶予がほしい。お袋を看取ってから。そしたらすぐにでも」

 ――仕方ないね、Xくんは昔から親孝行だから。いいよ、あと少しくらい、待ってあげるから。
 
 背筋が凍るような悪寒を残し、声は消え、Xさんはようやく振り返ることができた。そこには、誰もいなかった。だが、たしかにあのとき、彼女と話したのだ、とXさんは確信している。
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