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首都 ラーバンへ

<25>秘められていたもの

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 停車した街道は、左右を手入れの行き届いた林に囲まれており、見通しがあまり良くなかった。薄暗くなってきて、視界が悪くなり、少し恐ろしげな雰囲気でもある。

 はじめ、その音がなんなのか、シャンテナにはわからなかった。口笛のような、高くて細い音だ。こんな声で鳴く鳥がいるのか、と間抜けなことを考えた。しかし、周辺を警戒していた兵士――サイクス家の私兵だという――が、緊張し、さっとサイクスとシャンテナを取り囲んだ。サイクスも顔を強張らせ、シャンテナを馬車に押し込む。
 何事か。体を硬くしたシャンテナに、サイクスが低い声で告げた。
 
「敵だ。鍵をかけ、中で静かにしてろ」

 そう言って、彼は座席のドアを閉めた。
 シャンテナは、言われたとおりに鍵をかけ、窓から外を覗いた。あのサイクスまで剣把に手を掛けている。彼は戦えるのか? クルトと違って、どう見ても文官一筋という感じだが。シャンテナは自分も武器になるものを探しながら、そんなことを考える。ばたばたと手荷物を探ったが、凶器になりそうなものは一つだけだった。ずっと身につけてきた銀の棒簪ピン。これは大切なものなので、絶対に使いたくない。とはいえ、命の危険が迫っているのに、そんな悠長なことを言ってもいられなかった。死んでは、工具も取り返せない。
 決意が固まったのを見計らったように、後ろのほうで怒号が上がった。剣戟の音もする。興奮した馬のいななきも聞こえた。
 
 本当に、誰か襲ってきたのか。心臓がぎゅっと縮み、手足の先が痺れるような心持ちになった。

「きゃっ……」

 派手な音ともに、座席が揺れた。つい、悲鳴が口からこぼれる。誰かが、思いっきり座席の壁に激突したのだ。大丈夫なのか、と恐る恐る窓の外を確認する。
 サイクスが馬車を守れと叫んでいる。その彼めがけて、闇に溶け込みそうな黒ずくめの格好の人物が飛びかかった。
 見覚えのある格好。いつか、自分の家に忍び込んでいた輩に似ている。嫌な予感がして、わずかに息が荒くなる。銀のピンを胸の前で握りしめた。
 
 サイクスは、なんとか第一撃を受け止め、鍔迫り合いに持ち込んでいたが、傍目から見てもわかるように力負けしていた。ずるずる押され、相手の細身の短剣が顔の前まで来てしまっている。彼の得物は、よく見る両刃の剣で、襲撃者たちのものより重量がありそうだ。切り払いの時は、威力が増すだろう。しかし、こうして上からのしかかるようにされれば、その重みが逆に不利になる。彼の顔に焦りが浮かぶ。もう少しでその喉笛に刃が到達してしまう。
 
「サイクスさん、しっかり!」

 考えている余裕はなかった。眼の前で彼に死なれるのは御免だった。誰の死に様も見たくはない。
 シャンテナは、座席のドアを蹴り開けた。ドレスにふさわしい上品さなど、元から持ち合わせていない。
 ちょうど目の前に来ていた襲撃者の体にドアが派手な音を立てて激突する。よろめかせる、まではいかなかったが、サイクスが体勢を立て直す程度の時間は稼げた。裂帛の気合とともに、サイクスが剣を振り、襲撃者の胸元からぱっと血が飛んだ。黒々した飛沫が、シャンテナのスカートの上にてんてんと落ちた。だが、浅かったのか、黒ずくめはすぐに短剣を構えなおす。
 
 襲撃者は、見たところ、六名だった。全員、顔を隠した黒ずくめの格好をしている。人数で言えばこちらが上だ。サイクスが用意した私兵たちは統率のとれた動きで応戦しており、このままであれば数で押し切れそうだった。黒ずくめの襲撃者たちは、防戦一方に見えたのだ。
 
「戻っていろ!」
「いたぞ、娘だ!」

 サイクスの声に被せて、誰かの声がした。
 その瞬間、光が轟音とともに爆ぜた。何が起こったのかわからない。シャンテナは手を掲げて、顔を背けた。まるで太陽を直接見たように、目がくらむ。
 
 その衝撃で、馬たちが一斉にいななき棹立ちになり、駆け出した。馬車馬もだ。急に動き出した馬車の座席に、シャンテナは慌ててしがみついたが、なにか強い力に足首を摑まれ、乱暴に外に引きずり出された。あちこちに体をぶつけた痛みが、一拍遅れてじんとした熱さになって襲ってくる。

 光でくらんでいた視力が回復すると同時に、先程まで優勢だったサイクスの私兵たちが、何人も、地面に蹴倒され切り捨てられていく光景が目に飛び込んできた。あの一瞬で、形成が逆転している。ぞっと血の気が引いた。
 そして、自分をまたぐようにして見下ろしている者と目が合った。黒い服の男。その手には、鈍く光る刃。
 
「くそっ!」

 一番近くにいたサイクスがこちらに来ようとするが、切り結んでいる相手がそれを許してくれない。
 シャンテナは、手放さずにいたピンを、自分をまたぐ男の足に突き立てようとしたが、その腕を軽々と摑まれてしまった。
 
「放してっ」

 叫んだところで、意味がないのはわかっていた。無慈悲な刃が、空を切り裂いて振り下ろされる。
 衝撃が走る。息がつかえ、ぐわんと意識が遠のいた。

 ――ああ、死ぬのか。工具も取り戻せず、フラスメンに一矢報いることもできなかった。

「シャンテナさん!」

 鈍った意識の中で聞き覚えのある声がした。

 蹄の音、そして剣戟の音がする。
 誰かが自分の肩を強く揺さぶっている。
 この手の力強さを、知っている。
 翳む視界が、少し鮮明さを取り戻した。
 クルトが苦渋に満ちた表情をして、顔を覗き込んでいた。間近から。
 なぜここに。そういえば後から合流すると言っていた。あまりに遅いから、もう来ないのかと思っていたのに。

「しっかりしてくださいっ。大丈夫です、今、止血しますから!」

 早口でそう告げて、クルトはしっかりした厚みのあるドレスの生地を、易々と剣先で切り裂いた。そして乱暴な手つきでシャンテナの胸をまさぐる。
 シャンテナの呼吸は急に楽になったが、触れられるのが不快で手で払いのけようとし、鈍い痛みが胸の中心に走って、呻いて動きを止めた。自分の呼吸が荒いことに今更ながらに気付く。
 
「サイクス! 踏ん張れっ」
「うるさいっ」

 まだ生き残っている私兵の男たちの叫び声が交錯し、金属音や破砕音がそれに混じっていた。

「私、まさか、こんなとこ……で」
「いいえ、大丈夫。強く打たれて、ひどい打撲にはなっていますが、出血はしてない。これに当たったんです」

 クルトが見せてくれたのは、欠けた石だった。
 エヴァンス家の家宝、翡翠の首飾りだ。大切に、胸元にしまいこんでいた。

「これ……」

 怪我をしていることを忘れ、思わず飛びつこうとして、シャンテナはまた彼の腕に沈んだ。とても動けない。もしや、肋骨が折れているのではないかと思わせるほど、痛みが強い。

「割れてしまった……。家宝なのに」

 胸が痛い。怪我をしているからじゃない。
 こみ上げてくるものを見られたくなくて、シャンテナは顔を腕で隠した。父や母や祖父の顔が瞼の裏に浮かんでは消えていく。

「当主は……命をかけて、家宝を守らなければならないのに……。私は……」
「でも、そのおかげであなたは助かったんです」

 ぐいっと抱き起こされ、なんとか地面に座った状態になる。
 顔を隠していた腕を退かすと、正面にいたクルトの灰色の目と視線がぶつかった。励ますような力強さと、何かに対する強烈な怒りの混じった視線だった。彼は自分のインバネスをふわりと肩に掛けてくれた。シャンテナは、その前を自分の手で掴んだ。ふわ、と嗅ぎ慣れたクルトのにおいがして、どういうわけかまた涙が出てきた。
 ふと、視界を影がよぎった。

「クルトっ」

 クルトの背に、黒い影が迫っていた。だが、シャンテナが危険を知らせるのとほぼ同時に、黒い影は地面に仰向けに倒れた。
 音も無く、眉間を一突きにされて。
 いつ抜いたのか、クルトの右手には血の付いた剣がある。

「エーリング、そっちへ行った! ふたり!」

 サイクスの警告とほぼ同時に、黒い人影がクルトを挟み撃ちにした。
 しかしその刃は空を切って終わりだった。
 身を沈めたクルトが何気ないような仕草で立ち上がると、入れ違いにふたりの刺客が崩折れる。
 やはり眉間を一突きにされて。

 ――神速の剣。

 獅子剣神団の剣技は、目にも止まらぬ速さの神業だと聞く。
 クルトはその剣をしっかり受け継いでいるのだ。
 よく見れば、先程シャンテナに凶刃を振った男も、地面に伏していた。

 サイクスの私兵がもうひとりを仕留めた。それを見るやいなや、最後のひとりはさっと身を翻し、街道横の林に消えた。深追いするなと、サイクスの指示が飛び、私兵たちはそれに従って警戒しながら集まる。そして、地面に倒れた負傷者たちの介抱を始めた。
 
 クルトも、剣を片手に警戒していたが、やがてふと体の力を抜いて、
「……すみません、守れなくて」
 ぽそっと言った。その声に、血を吐くような苦渋の色が混じっているように感じたのは、シャンテナの気のせいだっただろうか。
 
「あなた、とても強かったのね。知らなかった」
「シャンテナさんほどじゃありませんよ」
「私は、守れなかったわ。とても大切なものを」

 手の内にある欠けた石の感触は、シャンテナに無力感を与えた。
 もし、クルトが今、同じ様な気分を味わっているのなら――それを取り除いてやりたかった。

「ありがとう。また命を助けられた」

 灰色の目が少し見開かれ、……嬉しそうな哀しそうな色に染まった。その目に微笑みかけて、手の中の石を指で辿る。石の欠けている部分が指に引っかかり――……。

「……え?」

 シャンテナは痛みを無視して前傾姿勢で、手元の翡翠をつぶさに観察し始めた。食い入るように石を見つめる。太陽に代わって空に輝く月と星の光にかざし、驚きは、確信に変わった。

「今は横になっていてください。すぐ、医者のところへ連れて行きますから」
「クルト!」
「は、はいぃっ?」

 青年の胸倉をがっと捕まえ、シャンテナは叫んだ。

「すぐに陛下に報告を。最後の一つ、見つけたわ」

 シャンテナは手の中の首飾りを握り締める。
 欠けた翡翠の下に、金色の板状のものが覗いていた。
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