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東方領 メルソにて
<01>厄介事は間に合っています
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リングリッド東方領、メルソ。
首都ラーバンより馬で半月の、特別田舎でもなければ都会でもない町である。
その目抜き通りには、レンガの外壁の背の低い建物が並んでいる。住居と店とが混在しているが、店には大抵、鋳造された看板が掛けられて、どんな店かが一目でわかるようになっているのだ。
定時の鐘が鳴り、夕陽が石畳の道を橙色染めていく。
前掛けをした女性が食品を買い求め、教会帰りの子供たちが笑いながらかけていく。男たちは最後の一仕事を片付けはじめる。
そんな町の西の外れに、交差するたがねの看板がかかったシャンテナの家はあった。
シャンテナは、仕事道具のたがねと槌を机の上に置いて、長大息を吐いた。
黒い髪と黒い目を持つ彼女は、年頃の娘には似つかわしくない色気のない格好をしている。
長い髪は銀の棒簪一本を挿しただけでひっつめだし、険のある目元や薄い唇に化粧気はない。
極めつけは、土色の地味な作業服だ。そこには繊細な刺繍などなく、ただただ実用的な分厚い生地の質感だけがあった。
窓から差し込む夕陽に、彼女は目を細めた。
夕食の支度をする時間だ。
立ち上がり、作業服の上から前掛けを被る。
その時、玄関のドアが控えめに叩かれた。
「タッセケイルさん、いらっしゃいますかぁ?」
ちょっと間の抜けた若い男の声だ。
作業場を出て、玄関横の小窓から外をうかがうと、見知らぬ男がドアを叩いていた。
女のひとり暮らしは何かと物騒だから、ついついこうして相手の様子を確認してからドアを開ける習慣がついてしまっていた。
シャンテナの眉間にしわが寄った。
男の顔は逆光でよく見えないが、纏っている制服には見覚えがあった。
インバネスの肩に、国紋である『二頭の踊る角馬と蘭を囲う蔦』の縫い取り。
軍人だ。しかも、あのインバネスの意匠は、東方領所属ではない。たぶん、都の。
腰に剣を佩いているのも見える。
シャンテナの最も嫌悪する人種だった。
この権力の走狗たちに、何度面倒を起こされたことだろう。この辺りに来る都の軍人はみな、相手を田舎ものだと端から馬鹿にしている。
数日前も、市場で商人に絡んで困らせていたのを目撃したばかりだ。
シャンテナ自身も、先日、市場でものをさばくとき、いちゃもんをつけられて、せっかく磨いた商品を手でべたべた触られたり、執拗に値引きを迫られたりしたのだ。品物の価値と提示価格が見合わないという理由の商談なら応じるが、このインバネスの紋章を見よと、自分の権力を盾にしたやりくちに、納得できるわけもない。結局値引きに応じなかったら、今度は商品の悪口を並べ立てて帰っていた。せっかく声をかけてやったのに、田舎の小娘風情が、とまで言われた。侮辱以外のなんでもない。
その都の軍人が、いったいどんな用があるのか。ドアを開けるのを、ためらう。
シャンテナと同じように、不信に満ちた目をした通行人たちが、彼をちらちら振り返って過ぎ去っていくのが見えた。
居留守を決め込もうかとも考えたが、
「あれー? いないのかな、困ったな。どうしよう。タッセケイルさーん? ええと、うーんと……。帰るまで待つしかないかなあ」
馬鹿でかい独り言が聞こえてきて、彼女はドアを開けた。
制服を着た職務中の、東方領所属ではない軍人が家を訪れただけでも好奇の目を引くのに、玄関前で待機などされたら、もっと沢山の人の目に止まってしまう。邪推されてはたまらない。たとえば何か良からぬことをしたのだ、とか。
「当家に何か?」
軍人はぱっと顔を明るくした。
ドアに夕陽が遮られて、彼の容貌が明らかになる。
きっと、二十代半ば。癖が強く毛先が跳ねた赤い髪と、灰色の目を持っている。険が無く笑顔の似合う、なかなか整った顔立ちだ。
長身でほっそりして見えるが、肩から腕にかけての線はしっかりと張っており、かなり鍛えこんでいるのだと見て取れた。
「ああよかった! こんにちは。あ、こんばんはかな? 俺、近衛師団のクルトっていいます。あの、ご当主様いらっしゃいます?」
首を傾げる姿は大型犬を髣髴とさせる。シャンテナの知る居丈高な態度の都の軍人とは印象を異にした。
「私が当主ですが」
クルトと名乗った男はきょとんとした。灰色の双眸で、上から下までシャンテナを眺める。
「何のご用ですか」
冷ややかなシャンテナの声にはっとなって、彼は腰の鞄をごそごそしだした。手を動かすたびに、菓子や保存食を包む包装紙のごみがわさわさと落ちて、玄関の床に積もっていく。
思わずシャンテナは顔を顰め、半歩下がっていた。
汚いし、何よりこの軍人、変だ。
「あ、あったあった!」
たっぷり時間をかけたあと、男は得意げに包みを出した。ごみの中から現れたにしては美しい、光沢のある紺色の生地の包みである。男の大きな掌から少しはみ出る大きさだ。
彼が包みを解くと、黒い別珍が張られた箱が出てきた。指輪などを納めるのを、大きくしたものである。
それを目にした瞬間、シャンテナの背に、ひやりとしたものが走った。顔に動揺が出なかったのは、彼女が常からあまり感情を表に出さない性質だったからだ。
「あの、これの中身を取り出してもらえませんか?」
クルトが無造作な手つきで箱の蓋を開けた。
夕陽の斜光を反射して、輝きを纏ってそれは姿を現した。
拳大の水晶玉だった。
曇り一片無いそれは、暗い箱の中での眠りから目覚めて歓喜するように、輝き続けている。
クルトが水晶玉を無造作に箱から取り出した。シャンテナの目は、その水晶玉の中に釘付けになっていた。
夕陽を透かす透明な球体の中には、美しい森の景色が広がっている。
よく見ればそれは緑色の石を組み合わせ草木にし、紺碧の石をその上方へちりばめて空としている。
森の上、空の下――つまり中空には、日輪を表現しようとしたのか、金色に輝く円盤が浮いていた。
「これは……」
シャンテナの声はかすれてしまった。
彼女は、慌てて唾液を嚥下する。動揺を悟られてはいけない。
「水晶庭です。これの中身を取り出して欲しいんです……け、ど……」
まるで、自慢するように誇らしげな口調でクルトは話しだしたが、向けられたシャンテナの視線の厳しさに顔が引きつり、言葉尻が不明瞭になった。
「これは、禁じられた魔術師の芸術でしょう」
「え、あ、ええ、そうですね」
「私が、反逆者の技術を持っていると」
「えっ?」
水晶庭はエウス教が国教化される前に、王侯貴族の間で一級芸術として愛された品だ。
精霊の特別な加護を受けた道具を使い、宝石などを加工し水晶玉に封じ込んだそれは、貴重で高価な品だった。水晶以外にも透明度の高い石に、別の宝石を封印することもあったようだが、鑑賞を主目的とするこの品は、圧倒的に水晶を容器とすることが好まれ、名前も水晶庭となったのだった。
この品の制作には、芸術だけでなく、魔術の造詣の深さも必要とされるため、技師は限られていた。
以前は三大家が王宮に召抱えられ、技術を競っていたが、それも昔の話。
今ではその品を所持することすら、厳罰の対象となる重罪だった。
そんな代物をひょいと眼前につきつけ、この中に入っているものを取り出して欲しいというのだ、この男は。
それつまり、シャンテナが魔術に通じる罪人であると言いたいか、あるいはこれから罪人たらしめたいかのどちらかでしかない。
シャンテナの言いたいことをようやく理解したのだろう。しどろもどろになって、クルトが弁解した。
「ち、違うんです。これには深いわけがあって。あ、この水晶庭も俺のじゃなくて、ええと、誰のかは明かせないんですけど、その、でもとにかく中身が取り出せないことには、ラーバンに帰還できなくてですね、上司からあなたにこの中身を出してもらうように命令されて」
「私を異教徒だとお疑いでしたら、どうぞお確かめください」
「あ、ちょっと!」
踵を返し奥へ入った娘を、クルトが慌てて追いかける。
家の最奥の部屋は、狭い作業部屋だった。
たくさんのたがね、金槌、木槌にへらなど、雑多な道具が木の机の上に並べられている。
製作中らしい作品は茎を絡めあう薔薇の意匠で、机上に無造作に置かれていた。
赤に黄、青に白。燦燦と、それ自体が光を放っているように輝く宝石たちが別珍のクッションの上に並べられ、出番を待っている。
紙に描かれた詳細な絵は、作品の完成図だ。
壁に沿って並べられた棚には、道具や作品が並び、その最下段にはぎっしりと古びた本や巻物が詰まっている。意匠画集だろう。
「私は彫金を生業にしています。水晶庭作りなどいかがわしい商売はしていません。お疑いは晴れましたか。なんならこの家すべてをお調べくださって結構ですが」
「いやその……。俺は最初からそんな変な疑いは……。ここを訪ねて封印を解いてもらうように命じられただけで……」
「あなたの上の方は、当家に何か含むところがあるのですか」
「ど、どうしてそうなるんですかぁ!」
悲鳴を上げて、クルトが首を振った。
「そりゃうちの上司は、無茶も言うし、結構あれな感じですけど」
「ならば人違いでしょう。タッセケイルという姓は珍しくない。ですから、異教徒だなんて濡れ衣、即刻撤回してください」
「そんなもの、被せてません! お願いですから、この封印を解いてください」
「できないと言っております」
ぴしゃんと言われて、クルトが泣きそうな顔になる。
「お願いします。この中身がないと困るんです。本当に困るんです。お願いしますよう」
「私もこれ以上、あなたにここにいられると困ります。要らぬ噂を立てられかねません。客商売ですから、信用が第一なのです」
シャンテナはクルトの制服に目をやった。
「あ……」
視線の意味くらいは理解できたのだろう。クルトは硬い表情で肩の紋章を撫で、それでもまだ諦めきれないと、口を開いた。
それを制するように、シャンテナはじっと相手の目を睨みつけた。
眼光鋭い彼女の一睨みは、しつこく絡む酔っ払い男を一発で閉口させる威力がある。
案の定、クルトはぐっと言葉に詰まって、叱られた子供のような顔になった。
しばらくそのままシャンテナを見下ろしていたが、深いため息をつくと同時にがっくり肩を落とした。
「すみませんでした。急に押しかけて、変な事を言って。ですが俺は本当に、あなたを異教徒だと疑って来たんじゃないんです。多分、命令の聞き間違いだったんです」
「……」
今度はシャンテナのほうが面食らった。
彼女の中の軍人の印象は、とにかく悪い。自分たちに非があっても、絶対にそれを認めようとしないのが彼らだ。それが目の前の青年は、非を認め、謝罪までしている。
「俺、間抜けだから、こういうしくじり初めてじゃないんです。本当にごめんなさい」
とぼとぼ、背を丸めて歩く彼の後姿は妙に物悲しい。
ちくりとシャンテナの良心が痛んだが、やはり彼女はそれを表に出すことは無く、
「お勤め、ご苦労様です」
相手の返事も待たずに、ばたんと玄関の戸を閉めたのだった。
小窓から、玄関の外の様子をうかがうと、しょんぼりしたクルトが大事そうに別珍の箱を鞄に納め踵を返すところだった。
足取りは蹌踉としていた。
彼の後姿が完全に見えなくなってから、シャンテナは大きく息を吐いた。そのままずるずると壁に背を預けて床に座り込む。
しばらく脱力していた。
背中がびっしょり汗で濡れていて、気持ちが悪い。水晶庭を見せられたとき、ぞわぞわと吹き出てきた嫌な汗だった。それが夜気に冷やされ、体温を奪い始めていた。
やがて彼女は徐に立ち上がり作業部屋へ向かった。
壁際の棚には、脚がついている。
シャンテナは棚の底板と床の隙間に手を入れて、床板に這わせた。
すぐにとっかかりを見つけ引っ張る。
床板の一部がはずれ、その下から古びた金属の箱が姿を現した。薄い箱だが、その装飾には目を見張るものがある。一対の一角獣が角を交差させる彫刻があり、獣の目は左が青玉、右が黄玉だった。
慎重にその箱を取り出し、蓋を開ける。
そこには鈍い、銀色の輝きが収まっていた。
盆に乗せられた、太さも長さも様々で先の形状も少しずつ違う針が十四本、三段階の大きさのピンセット、二種類の小刀に、へら。それらすべてが銀製だった。
表面に、蔓草が絡まったような、古代の文字が記されている。今では、読むことさえ禁じられた、魔法文字だ。
それらは、かつて水晶庭三大家として栄えたエヴァンス家の家宝、水晶庭用の工具そのものであった。
二年前、父が他界したとき、シャンテナはエヴァンスの家督を継いだ。エウス教国教化以来、伏せられてきた秘密の家名を継いだのだ。
同時に、受け継がれてきた二つの家宝も受け継いだ。
一つ目は銀の工具。
もう一つは、先々代の国王より賜った、翡翠の首飾りだ。
首飾りを下賜されたころ、エヴァンスは最盛期を迎えていた。国王一番のお気に入りだったと聞く。その代のエヴァンスは芸術家でありながら魔術師であり、国王のよき友だったという。
それも三十年前の国教制定までの話だが。
シャンテナは、胸元の首飾りを握りしめ、工具をじっと見つめた。唇を噛みしめて。
首都ラーバンより馬で半月の、特別田舎でもなければ都会でもない町である。
その目抜き通りには、レンガの外壁の背の低い建物が並んでいる。住居と店とが混在しているが、店には大抵、鋳造された看板が掛けられて、どんな店かが一目でわかるようになっているのだ。
定時の鐘が鳴り、夕陽が石畳の道を橙色染めていく。
前掛けをした女性が食品を買い求め、教会帰りの子供たちが笑いながらかけていく。男たちは最後の一仕事を片付けはじめる。
そんな町の西の外れに、交差するたがねの看板がかかったシャンテナの家はあった。
シャンテナは、仕事道具のたがねと槌を机の上に置いて、長大息を吐いた。
黒い髪と黒い目を持つ彼女は、年頃の娘には似つかわしくない色気のない格好をしている。
長い髪は銀の棒簪一本を挿しただけでひっつめだし、険のある目元や薄い唇に化粧気はない。
極めつけは、土色の地味な作業服だ。そこには繊細な刺繍などなく、ただただ実用的な分厚い生地の質感だけがあった。
窓から差し込む夕陽に、彼女は目を細めた。
夕食の支度をする時間だ。
立ち上がり、作業服の上から前掛けを被る。
その時、玄関のドアが控えめに叩かれた。
「タッセケイルさん、いらっしゃいますかぁ?」
ちょっと間の抜けた若い男の声だ。
作業場を出て、玄関横の小窓から外をうかがうと、見知らぬ男がドアを叩いていた。
女のひとり暮らしは何かと物騒だから、ついついこうして相手の様子を確認してからドアを開ける習慣がついてしまっていた。
シャンテナの眉間にしわが寄った。
男の顔は逆光でよく見えないが、纏っている制服には見覚えがあった。
インバネスの肩に、国紋である『二頭の踊る角馬と蘭を囲う蔦』の縫い取り。
軍人だ。しかも、あのインバネスの意匠は、東方領所属ではない。たぶん、都の。
腰に剣を佩いているのも見える。
シャンテナの最も嫌悪する人種だった。
この権力の走狗たちに、何度面倒を起こされたことだろう。この辺りに来る都の軍人はみな、相手を田舎ものだと端から馬鹿にしている。
数日前も、市場で商人に絡んで困らせていたのを目撃したばかりだ。
シャンテナ自身も、先日、市場でものをさばくとき、いちゃもんをつけられて、せっかく磨いた商品を手でべたべた触られたり、執拗に値引きを迫られたりしたのだ。品物の価値と提示価格が見合わないという理由の商談なら応じるが、このインバネスの紋章を見よと、自分の権力を盾にしたやりくちに、納得できるわけもない。結局値引きに応じなかったら、今度は商品の悪口を並べ立てて帰っていた。せっかく声をかけてやったのに、田舎の小娘風情が、とまで言われた。侮辱以外のなんでもない。
その都の軍人が、いったいどんな用があるのか。ドアを開けるのを、ためらう。
シャンテナと同じように、不信に満ちた目をした通行人たちが、彼をちらちら振り返って過ぎ去っていくのが見えた。
居留守を決め込もうかとも考えたが、
「あれー? いないのかな、困ったな。どうしよう。タッセケイルさーん? ええと、うーんと……。帰るまで待つしかないかなあ」
馬鹿でかい独り言が聞こえてきて、彼女はドアを開けた。
制服を着た職務中の、東方領所属ではない軍人が家を訪れただけでも好奇の目を引くのに、玄関前で待機などされたら、もっと沢山の人の目に止まってしまう。邪推されてはたまらない。たとえば何か良からぬことをしたのだ、とか。
「当家に何か?」
軍人はぱっと顔を明るくした。
ドアに夕陽が遮られて、彼の容貌が明らかになる。
きっと、二十代半ば。癖が強く毛先が跳ねた赤い髪と、灰色の目を持っている。険が無く笑顔の似合う、なかなか整った顔立ちだ。
長身でほっそりして見えるが、肩から腕にかけての線はしっかりと張っており、かなり鍛えこんでいるのだと見て取れた。
「ああよかった! こんにちは。あ、こんばんはかな? 俺、近衛師団のクルトっていいます。あの、ご当主様いらっしゃいます?」
首を傾げる姿は大型犬を髣髴とさせる。シャンテナの知る居丈高な態度の都の軍人とは印象を異にした。
「私が当主ですが」
クルトと名乗った男はきょとんとした。灰色の双眸で、上から下までシャンテナを眺める。
「何のご用ですか」
冷ややかなシャンテナの声にはっとなって、彼は腰の鞄をごそごそしだした。手を動かすたびに、菓子や保存食を包む包装紙のごみがわさわさと落ちて、玄関の床に積もっていく。
思わずシャンテナは顔を顰め、半歩下がっていた。
汚いし、何よりこの軍人、変だ。
「あ、あったあった!」
たっぷり時間をかけたあと、男は得意げに包みを出した。ごみの中から現れたにしては美しい、光沢のある紺色の生地の包みである。男の大きな掌から少しはみ出る大きさだ。
彼が包みを解くと、黒い別珍が張られた箱が出てきた。指輪などを納めるのを、大きくしたものである。
それを目にした瞬間、シャンテナの背に、ひやりとしたものが走った。顔に動揺が出なかったのは、彼女が常からあまり感情を表に出さない性質だったからだ。
「あの、これの中身を取り出してもらえませんか?」
クルトが無造作な手つきで箱の蓋を開けた。
夕陽の斜光を反射して、輝きを纏ってそれは姿を現した。
拳大の水晶玉だった。
曇り一片無いそれは、暗い箱の中での眠りから目覚めて歓喜するように、輝き続けている。
クルトが水晶玉を無造作に箱から取り出した。シャンテナの目は、その水晶玉の中に釘付けになっていた。
夕陽を透かす透明な球体の中には、美しい森の景色が広がっている。
よく見ればそれは緑色の石を組み合わせ草木にし、紺碧の石をその上方へちりばめて空としている。
森の上、空の下――つまり中空には、日輪を表現しようとしたのか、金色に輝く円盤が浮いていた。
「これは……」
シャンテナの声はかすれてしまった。
彼女は、慌てて唾液を嚥下する。動揺を悟られてはいけない。
「水晶庭です。これの中身を取り出して欲しいんです……け、ど……」
まるで、自慢するように誇らしげな口調でクルトは話しだしたが、向けられたシャンテナの視線の厳しさに顔が引きつり、言葉尻が不明瞭になった。
「これは、禁じられた魔術師の芸術でしょう」
「え、あ、ええ、そうですね」
「私が、反逆者の技術を持っていると」
「えっ?」
水晶庭はエウス教が国教化される前に、王侯貴族の間で一級芸術として愛された品だ。
精霊の特別な加護を受けた道具を使い、宝石などを加工し水晶玉に封じ込んだそれは、貴重で高価な品だった。水晶以外にも透明度の高い石に、別の宝石を封印することもあったようだが、鑑賞を主目的とするこの品は、圧倒的に水晶を容器とすることが好まれ、名前も水晶庭となったのだった。
この品の制作には、芸術だけでなく、魔術の造詣の深さも必要とされるため、技師は限られていた。
以前は三大家が王宮に召抱えられ、技術を競っていたが、それも昔の話。
今ではその品を所持することすら、厳罰の対象となる重罪だった。
そんな代物をひょいと眼前につきつけ、この中に入っているものを取り出して欲しいというのだ、この男は。
それつまり、シャンテナが魔術に通じる罪人であると言いたいか、あるいはこれから罪人たらしめたいかのどちらかでしかない。
シャンテナの言いたいことをようやく理解したのだろう。しどろもどろになって、クルトが弁解した。
「ち、違うんです。これには深いわけがあって。あ、この水晶庭も俺のじゃなくて、ええと、誰のかは明かせないんですけど、その、でもとにかく中身が取り出せないことには、ラーバンに帰還できなくてですね、上司からあなたにこの中身を出してもらうように命令されて」
「私を異教徒だとお疑いでしたら、どうぞお確かめください」
「あ、ちょっと!」
踵を返し奥へ入った娘を、クルトが慌てて追いかける。
家の最奥の部屋は、狭い作業部屋だった。
たくさんのたがね、金槌、木槌にへらなど、雑多な道具が木の机の上に並べられている。
製作中らしい作品は茎を絡めあう薔薇の意匠で、机上に無造作に置かれていた。
赤に黄、青に白。燦燦と、それ自体が光を放っているように輝く宝石たちが別珍のクッションの上に並べられ、出番を待っている。
紙に描かれた詳細な絵は、作品の完成図だ。
壁に沿って並べられた棚には、道具や作品が並び、その最下段にはぎっしりと古びた本や巻物が詰まっている。意匠画集だろう。
「私は彫金を生業にしています。水晶庭作りなどいかがわしい商売はしていません。お疑いは晴れましたか。なんならこの家すべてをお調べくださって結構ですが」
「いやその……。俺は最初からそんな変な疑いは……。ここを訪ねて封印を解いてもらうように命じられただけで……」
「あなたの上の方は、当家に何か含むところがあるのですか」
「ど、どうしてそうなるんですかぁ!」
悲鳴を上げて、クルトが首を振った。
「そりゃうちの上司は、無茶も言うし、結構あれな感じですけど」
「ならば人違いでしょう。タッセケイルという姓は珍しくない。ですから、異教徒だなんて濡れ衣、即刻撤回してください」
「そんなもの、被せてません! お願いですから、この封印を解いてください」
「できないと言っております」
ぴしゃんと言われて、クルトが泣きそうな顔になる。
「お願いします。この中身がないと困るんです。本当に困るんです。お願いしますよう」
「私もこれ以上、あなたにここにいられると困ります。要らぬ噂を立てられかねません。客商売ですから、信用が第一なのです」
シャンテナはクルトの制服に目をやった。
「あ……」
視線の意味くらいは理解できたのだろう。クルトは硬い表情で肩の紋章を撫で、それでもまだ諦めきれないと、口を開いた。
それを制するように、シャンテナはじっと相手の目を睨みつけた。
眼光鋭い彼女の一睨みは、しつこく絡む酔っ払い男を一発で閉口させる威力がある。
案の定、クルトはぐっと言葉に詰まって、叱られた子供のような顔になった。
しばらくそのままシャンテナを見下ろしていたが、深いため息をつくと同時にがっくり肩を落とした。
「すみませんでした。急に押しかけて、変な事を言って。ですが俺は本当に、あなたを異教徒だと疑って来たんじゃないんです。多分、命令の聞き間違いだったんです」
「……」
今度はシャンテナのほうが面食らった。
彼女の中の軍人の印象は、とにかく悪い。自分たちに非があっても、絶対にそれを認めようとしないのが彼らだ。それが目の前の青年は、非を認め、謝罪までしている。
「俺、間抜けだから、こういうしくじり初めてじゃないんです。本当にごめんなさい」
とぼとぼ、背を丸めて歩く彼の後姿は妙に物悲しい。
ちくりとシャンテナの良心が痛んだが、やはり彼女はそれを表に出すことは無く、
「お勤め、ご苦労様です」
相手の返事も待たずに、ばたんと玄関の戸を閉めたのだった。
小窓から、玄関の外の様子をうかがうと、しょんぼりしたクルトが大事そうに別珍の箱を鞄に納め踵を返すところだった。
足取りは蹌踉としていた。
彼の後姿が完全に見えなくなってから、シャンテナは大きく息を吐いた。そのままずるずると壁に背を預けて床に座り込む。
しばらく脱力していた。
背中がびっしょり汗で濡れていて、気持ちが悪い。水晶庭を見せられたとき、ぞわぞわと吹き出てきた嫌な汗だった。それが夜気に冷やされ、体温を奪い始めていた。
やがて彼女は徐に立ち上がり作業部屋へ向かった。
壁際の棚には、脚がついている。
シャンテナは棚の底板と床の隙間に手を入れて、床板に這わせた。
すぐにとっかかりを見つけ引っ張る。
床板の一部がはずれ、その下から古びた金属の箱が姿を現した。薄い箱だが、その装飾には目を見張るものがある。一対の一角獣が角を交差させる彫刻があり、獣の目は左が青玉、右が黄玉だった。
慎重にその箱を取り出し、蓋を開ける。
そこには鈍い、銀色の輝きが収まっていた。
盆に乗せられた、太さも長さも様々で先の形状も少しずつ違う針が十四本、三段階の大きさのピンセット、二種類の小刀に、へら。それらすべてが銀製だった。
表面に、蔓草が絡まったような、古代の文字が記されている。今では、読むことさえ禁じられた、魔法文字だ。
それらは、かつて水晶庭三大家として栄えたエヴァンス家の家宝、水晶庭用の工具そのものであった。
二年前、父が他界したとき、シャンテナはエヴァンスの家督を継いだ。エウス教国教化以来、伏せられてきた秘密の家名を継いだのだ。
同時に、受け継がれてきた二つの家宝も受け継いだ。
一つ目は銀の工具。
もう一つは、先々代の国王より賜った、翡翠の首飾りだ。
首飾りを下賜されたころ、エヴァンスは最盛期を迎えていた。国王一番のお気に入りだったと聞く。その代のエヴァンスは芸術家でありながら魔術師であり、国王のよき友だったという。
それも三十年前の国教制定までの話だが。
シャンテナは、胸元の首飾りを握りしめ、工具をじっと見つめた。唇を噛みしめて。
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