先視姫は密かに憂う

薊野ざわり

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その7

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 暗い部屋に、薄ぼんやりとした獣脂の蝋燭の明りが灯っている。

「つかめたか」

 声は、尹延いんえんのものだった。彼を含めて人の気配は、全部で二つ。

「はい。三人ほど、えつの者が紛れ込んでおりました。今、他の者を吐かせているところです」
「ぬかるな。一人も残すなよ」
「御意」

 いらえとともに、気配が一つ消失する。
 残された尹延は、暗闇の中、長大息を洩らした。
 粤との戦は終わっていない。少なくとも、尹延にとっては。
 先ほどの男のような、尹延が飼っている『虫』たちは、粤の懐にもぐりこみ内情を探り、ときに行動に移す。
 しかし、それは粤も同じ。おそらくこの硝にも、粤の細作が複数もぐりこんでいることだろう。これは静かな戦であった。

 尹延がこういう細やかで汚れた仕事をこなすのも、総てはしょう、ひいては楊家の者たちのためだ。やがては、昂典もこれに携わるようになることだろう。

 ――昂典こうてん

 あの不遇で健気な青年を思うと、尹延は同情と期待を覚える。

 まず信頼に足る人物だ。たとえ、過去の事があろうとも、彼は誠実であり、よく分を弁えている。武の才もある。いずれ自分と比肩する殿の寵臣となるだろう。
 彼になら、楊喜ようきのことも任せられる。
 だが、楊喜を預けるなら、もっともっと強かになってもらわねばならない。
 調査によれば、粤ではこんな噂が広がっているらしい。

『先の敗戦は、硝の先視の巫女が搦め手を予言したためだ』

 楊喜の身が心配だった。奥に匿われていても、油断はならない。
 一刻も早く、敵の細作を洗い出さねば ……。



 楊喜が会ってくれない。

 とぼとぼと、無人の東屋を後にして、昂典は空を仰いだ。今晩は新月だ。
 あの晩から、毎日ここに通っているのだが、楊喜は現れてくれなかった。

 自分が礼を失して走り去るようなことをしたからか。
 あるいは、自分がこれから問いかけようとする内容を予測してなのか。

 のぼせていた頭も、流石に冷えてくる。

 なんとかして、話す事はできないだろうか。
 そう考えて思いついたのは、書庫だった。ふだに用向きをしたためて、竹簡に挟もう。

 誰もいない深夜の書庫にもぐりこみ、筆をとる。
 以前はよくここでこうして夜を明かしたものだと、懐かしく思う。

(どうかあの日のように、この牘が、あの方へ届きますように)

 磨ったばかりの墨の香りが、鼻腔をくすぐる。



 月がない夜は、やはり見通しがきかない。
 だが、東屋の人影が、しょんぼりした足取りで帰っていくのは見えていた。
 二階の外回廊から、帰っていく昂典の後姿を見送って、楊喜は唇を噛んだ。あの背に一つ声をかければいいのに、舌が凍り付いてしまう。

 そうこうしているうちに、何日がたっただろう。

 兄からは、明日、昂典に降嫁することを朝議で正式に決定すると通告された。
 その前に、せめて一言、言葉をかわしたかった。

(でも、一体何を言うというのか)

 苦笑しようとして、失敗する。諦めの吐息が夜の風に消える。
 踵を返し、私室に戻ろうとしたときだった。

 物音を聞いた。使われていない、開き部屋からだ。
 ねずみの足音にしては、重たい。

 好奇心に突き動かされて、楊喜はそっと格子窓を覗き込んだ。
 格子に、指先が触れたときだった。びりっ、と指先に小さな痛みが走った。

 警鐘だ。そう理解したときには、もう遅かった。

 格子の中、爛々と輝く双眸と、目が合ってしまった。
 黒装束の男が一人。その男の腕の中には、動かない歩哨が一人。血溜り。

「あっ……」

 悲鳴をあげようとした楊喜の首筋に、衝撃が走った。
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