先視姫は密かに憂う

薊野ざわり

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その5

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「姫、何か心配なことが?」

 しばらく雑談を楽しんだあと、昂典こうてんは尋ねた。
 楊喜ようきは表情を変えなかったが、それまで盛り上がっていた雑談の余韻の熱が、すっと引いていくようにまとう空気をかえた。相変わらず、笑顔だが憂いがある。
 長い沈黙の後、楊喜は重い口を開いた。

「昂典、お前はいきなり私を妻にと言われたらどうする」
「は……」
「そんなに嫌そうな顔をするな。……まあ、おそらくそう言われればどんな男もお前と同じような顔をするのだろう」
「嫌だなんて、そのようなこと、断じてありません。断じて!」
「ふふ、そんなに慌てて取繕わなくても、怒らん」

 楊喜はくつくつと笑った。

「ですから、本当に……! それより、なぜそんなことをお訊きになりますか。まさか」
「降嫁されることとなった。内密ゆえ、相手についてはお前にも言えないが」
「降嫁……」

 急に膝から力が抜けるような感覚を覚えて、昂典は必死にふんばった。
 形容し難い疼痛が、胸に生まれる。ぎこちない笑顔を浮かべるので精一杯だった。

「昂典?」

 楊喜が、なんともいえない顔をしている。
 昂典は後悔した。自分の気持ちは悟られただろう。なんとみじめなことか。

「姫の、幸せを祈っております」

 そう短く告げて、昂典は踵を返した。逃げるようにしてその場を去った。
 背中に楊喜の呼ぶ声がかかったが、振り返る勇気などなかった。



 走り去った昂典の背中を、茫然として楊喜は見つめていた。
 それまで穏やかに笑んでいた昂典の顔が、まるで仮面をはぐようにさっと青ざめていった。
 それは月下でも分かるほど、鮮やかな変化だった。
 胸が、圧迫されるように痛む。頬が熱い。

 ――まさか、そんな都合の良いことがあるのか。

 確かめようにも、彼女の繻子の靴では、軍靴の彼に追いつけるはずもない。
 一人になってしまった東屋を、池の漣の音と自分の心臓の音が支配している。
 やがて彼女は頭を振った。その顔は打って変わって、苦渋に満ちたものだった。
 楊喜は知っている。あらゆる意味で、別な男に嫁いでも自分に幸福などないことは。

『貴女は、しょうの未来を担う祝女はふりめ。硝のために生き、硝のために死ぬのです。何においても、硝を――楊家の存続を優先するのです。どれほど忌まわしいことをしてでも』

 寝台に臥せって楊喜が思い出したのは、おぼろげな母の顔だった。
 同じ様な力を持っていた母は、その言葉通り硝に尽くして死んだ。

 もう嫁いでしまった末の妹・こうを母が身籠ったとき、楊喜は五つだった。

 楊喜は産褥熱で母が死ぬ事を予知した。そして、香を隣国・ろくに嫁がさなければ、えつと麓との挟撃にあい、硝が滅すことも。

 母は迷わず香を産み、死んだ。
 幼いながら、楊喜は悟った。これが、自分も辿るのであろう未来だと。
 その言葉は、今でも杭となって楊喜の胸に残っている。

 目を閉じる。

 見えるのは、燃え盛る炎。自分は、誰かの力強い腕の中にいる。

 もう一つの光景が重なって見える。老人が喀血し倒れる瞬間。
 それは老いてはいるが、たしかに兄の楊崔ようさいで――。

 きつく目を閉じ、楊喜は自分の胸に手を当てた。たしかに心の臓が時を刻んでいる。

(こんなもの、止まってしまえばいい)

 そんなこと、楊崔や尹延いんえん、そして昂典の前で言えば叱咤されることだろう。
 わかっていても、楊喜はそう思わずにはいられなかった。
 おそらく、……いや、必ず自分は昂典との婚姻を承知するだろう。
 それが、忌まわしい未来――楊家断絶を回避するためのたった一つの道だから。
 だから、昂典のもとへ嫁ぐ。その為に、嫁ぐ。

(本当は……)

 本当は。そんな建前など、欲しくない。
 昂家の再興に力を尽くす彼に、そっと寄り添っていたい。
 それができたら、どれほど……。
 目を閉じていると、見える景色がふわふわと変わっていく。
 火の中の自分の意識は消え、代わりに兄の葬式を見る。
 兄の血族が、総て死に絶えていることが『視えた』。

 楊家断絶。硝の消滅だ。

(許されない。それだけは、許されない。父上から受け継いだ血脈を絶やすなど)

 もう一つの景色が見える。
 晴れた草原で、昂典が笑んでいる。足元を走るのは、小さな子供だ。

 ――昂典の子。そして、楊喜の子。楊家と昂家の血を未来へ繋ぐ、唯一の存在。

 穏やかで屈託なく笑う昂典の双肩に、やがて硝の王としての重責がのしかかるのが視える。
 豪族をまとめ、他国との力を拮抗させるという重責。
 昂典との婚姻は、楊家を繋ぐために必要な措置でしかない。
 それ以上でも、それ以下でもない。彼は楊家に利用されるためだけにある。

(苦しい)

 目を開くと、天井があった。未来の景色は消え去る。
 力が弱まったなどというのは、嘘だ。総ては昂典に嫁ぐための布石。
 昂典でなければならないのだ。硝を背負えるのは、彼しかいない。そう、天が示している。
 そんな打算で、あの誠実な青年を操るのは、苦痛だった。
 彼の一生を縛り付けることになる。その罪悪感に比べれば、自分の心を秘めたまま、彼に恨まれたほうがましだった。いや、それこそ、昂典への罪滅ぼしになるのではないか。
 昂典には、子を成した後、先視の総てを吐露しよう。そうして自分を嫌ってくれればよい。
 せめて、彼の心だけは自由にしてやりたい。自分なんかを想って、その為に死んでいくなど、哀しすぎる。

「――ふふ、それじゃあ、私の心はどこへいけばいいんだ」

 つぶやくと、眦から涙が一筋だけ零れた。
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