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番外編 初春

ユア・ハンズ・オン・マイン 7■

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「どうしたんだよ」

 ぎょっとして、氣虎さんが私を見つめた。伸ばされたその手が頬に触れる前に私は顔を背け、床に落ちていた自分のキャミソールを彼に投げつけた。かすりもしなかった。

「きょ、今日は、帰ってくるって言うから、楽しみにしてたのに。いっぱい話したいことも相談したいこともあって。でもそれより、お誕生日お祝いしたくてケーキも買って、シャンパンまで用意したのに、あ、あんな短いメッセージで、あっさり。話しもろくにしないで、こんな……ベッドなんて目と鼻の先なのに床で、ただの性欲処理みたいに。嫌だって言ったのに無理矢理、だ、出させるしっ」

 本当はお風呂場に閉じこもりたいのに、膝に力が入らない。その場でできる限り壁に寄って彼から距離をとった。
 ほとほとと涙がこぼれる。目元を手で拭って、ああ洗ってないよと余計涙が出た。酷い気分だった。

「……ごめんな」

 低く小さく謝罪した氣虎さんは、自分のシャツを私の肩にかけた。受け入れ先を失ってしまった彼の陰茎はまだいきり立っている。

「悪かった。調子に乗ってやり過ぎた。もうしない」 

 バツが悪そうにぼそぼそ言い、散らばった服を集めだす。
 私はうつむき、視界の隅にひっくり返った小さな袋とその中の白い箱を見つけた。彼の買ってきたケーキだ。放り出されて、おそらく中身はぐちゃぐちゃになってる。

 遠くに放り投げられた私のショーツを拾うため腕を伸ばす彼の横顔は、疲れてちょっとやつれていた。廊下からの光だけでは定かではないが、きっと見間違いではない。がっかりして、寂しげな顔。

 じわりと後悔が押し寄せてきた。
 彼も今晩を楽しみにしてたんだ、きっと。
 普段、甘い物なんて自分で買わないのに、ケーキまで用意して。結婚してはじめての誕生日だもの、浮かれてたんだろう。私だって同じように浮かれてた。
 帰りが遅くなると決まっても、言い訳のメッセージを送る時間も惜しんで全力で仕事を片付けて、おそらく最速で上がってきた。
 帰宅して、私が一人で処理してるのに気付いて、複雑な気持ちになったと思う。メッセージに返信もせず、そんなことしてるなんて。彼が一生懸命帰ってこようとしていたのに、私は待たなかった。当たり前のように仕事を優先するんだと決めつけた。どっちも蔑ろにしない彼の努力を、考えもしなかった。
 彼がさっきやり過ぎたのは、嫌よ嫌よも好きのうちと思ったのかもしれないし、多少無茶してもいつものように私が受容するという期待と、甘えとか信頼とか、そういったものがあったのかも。彼の、愛情表現という言葉を信じるなら。

 涙を肩にかかった彼のシャツで拭った。なぜか、プロポーズの少し前から禁煙をはじめた彼の身の回りからは、もうタバコのにおいはしない。氣虎さんだけのにおいがする。

「立てるか? 風呂、連れて行こうか」

 氣虎さんは服を集め終え、遠慮がちに手を伸ばしてきた。その薬指には、明かりを反射して鈍く輝く指輪が嵌められている。
 私は、自分の左手に嵌まる片割れの指輪を、右手で撫で約束を思い出す。
 彼の伴侶になるとき、どんなときも彼を愛すと、そして与えられた愛情を受け取ると誓った。それは一度きりではなく何度でも果たされるべきで、彼と共にある限り、常に生き続ける約束。
 私達は、お互いがっかりさせあうために一緒にいるわけじゃない。たまに失敗しながらも、手を取り合って、よりよい日を送るために一緒に歩むと誓いあった二人だ。

 眼前に差し出されている手に自分の指を絡ませ握り込む。氣虎さんがゆっくり瞬きしたのを見届け、肩口に額を埋めた。温かで乾いた肌の感触とにおいがする。これを求めていた。与えられないからと拗ねて、子供みたいに不満を爆発させた。

 やっぱり私には、副嶋さんを指導する資格はないな。いや、こうして同じ要素を持っているからこそ、彼に共感やアドバイスができるようになれるかも。そう前向きに考えよう。
 笑ってしまうほど、私の精神構造は単純だった。満たされた途端に気持ちが落ち着く。

 私が氣虎さんの背に腕を回し、広くてごつごつしたそこを撫でると、ようやく彼も私の肩口に鼻先を埋めた。吐息がくすぐったい。背中の怪我しているところに触れるのを憚ってか、彼の手は私の腕をするすると擦る。そこでようやく私は、自分の体が冷えていることに気付いた。熱源である氣虎さんの体に、できる限り密着する。

「すぐに許す私のこと、ちょろいって思ってますよね」
「寛容だと思ってるぞ」
「またいじめて楽しみたいからそうやって持ち上げるんでしょう」
「そんなつもりじゃねえよ。さっきのはお前が俺のこと考えながら一人でしたのかと思って、かっとなっただけだ。抱くの楽しみにしてた女に挑発されて奮い立たなきゃ、男じゃねーだろ」

 蒸し返されて、また顔が熱くなった。一人でしてたのは事実だけど、指摘されると死ぬほど恥ずかしい。

「誰もあなたのことなんて考えてません」
「してたのは認めるのか」

 にやりとされた。反省の色なしと見做す。
 私は氣虎さんの肩を掴んで押し倒そうとした。
 しかし、彼は倒れず、逆に私の腕を掴み引き寄せた。

「今日は舐めたいです。たまには私にもさせてくださいよ」
「噛み付かれそうで怖い」
「失礼な。そんな凶悪なことしません。気持ちよくさせてあげたいだけです。愛情表現ですよ、愛情表現」
「キスできなくなるから嫌だ」

 胸に抱き込まれ、頭を撫でながら背中の怪我してない上のほうをぽんぽん叩かれる。それで、私の怒りはあっけなく鎮火した。我ながらちょろい。

「寂しくさせて悪かったな」

 労る仕草と真剣な声音は、欲求不満を揶揄してるんじゃない。またちょっとこぼれた涙が、彼の唇に消えた。キスが顔中に落とされ、私はくすぐったさで笑う。

「氣虎さんは寂しかったですか」
「そりゃな。久々にタバコ吸いたくなったぜ。ガムもタバコも代替にもならねーけど」

 彼は唇を重ね、私の口内の粘膜を舌先でじっくりほぐした。慰めるように、丁寧に。
 彼の舌先が私の舌の付け根を繰り返しくすぐる。その懸命さに免じて応じると、彼の指が、嬉しさを伝えるように私の指に絡んできた。
 唇が離れ、見つめ合う。硬い指が、私の左手の薬指の指輪を何度も確かめた。

「それで。実際、どんなこと考えてしてたんだよ」
「え。まだ引っ張るんですかそれ。別になんでもいいじゃないですか。まさか、あなたのことですって言うまで納得しないとか?」

 口をひん曲げると、彼も似たような顔をした。

「違う男だったら凹む」

 素直すぎてびっくりして、思わず笑ってしまった。

「わがままですね。キスしたい、自分のことを考えてほしい」
「それはお前も同じだろ」

 むっとし照れたような口調だった。

「そうですよ。私はあなたのことが大好きですから。他の人なんて妄想もしないくらいには」

 氣虎さんは数回、瞬きする。口が半開きだ。
 意表を突けたみたいで、満足。意思に反し口元がにやつくほど恥ずかしいけど。
 彼が吹き出した。

「俺もお前が好きだ」
「知ってます」

 笑いながらキスをし、横抱きにされ、初夜の花嫁みたいにうやうやしくベッドに誘われた。

 冷えてしまった体を撫であい、口内の粘膜を慰めあう。これまで何度となく触れてきた互いの敏感な部分を、そっと官能を呼び覚ますよう刺激しあう。

 当然のような流れで、彼の唇は私の体中の傷痕に落とされ、私は彼の左腕の裂傷の痕に触れた。幾度も繰り返し、もはや疑問すら抱かなくなったその行為の意味を思い出す。はじまりは夏の夜、氣虎さんが癒やすよう慰めるように私の傷口に触れたときだ。

「ぁう……」

 乳首を舐められるだけで、ずきんと下腹部が疼いた。その快感の熱が籠もるところに近い古傷を、ねっとり彼の舌が這い、膣口がひくつき出す。

 えいっと氣虎さんの肩を全力で横に押し、今度こそひっくり返すことに成功した。彼は大の字で含み笑い。私はすかさずその腹部に跨がり、後ろ手で勃起した陰茎を擦りあげた。さっきあんなに憎まれ口叩かれて、触れられてもいないのに、彼のものはしっかり反応している。そのことが嬉しく気恥ずかしい。求められているのだと。

 ドアから漏れ入る光の中で彼の喉仏が上下して、熱いため息が上がる。鈴口に指の腹で触れ滲み出ているものを確かめる。くびれの部分を指で作った輪で刺激すると、彼の腹筋がうねった。

「気持ちいいですか?」
「ああ。逆光なのが残念だが」

 逆光でよかった。今の私は欲情しきって直視に耐えない顔をしているはず。下腹部の疼きを我慢できず、秘処を彼の腹部に擦り付けてしまってる。粘膜が彼の肌にこすれるもどかしい快感で、はしたなくも腰を動かしてしまう。

「今度は明るいところでしてくれよ」
「嫌ですよ……、っあ、ひぁ」

 手を伸ばした氣虎さんが、私の腫れ上がった陰核に指で触れた。強烈な性感に追い立てられ、悲鳴じみた嬌声が口から溢れる。

 口付けを交わし、鼻にかかった声を吐息に交じらせて互いの性器を愛撫する。
 先に根を上げたのは、氣虎さんの方。

「今度は優しくする。だから、お前をくれ」

 誓うように左手の薬指にキスをされた。熱のこもった目が、私を見つめている。その唇に、キスを返す。

「私にもあなたをください」

 準備を整え私達はつながった。
 怪我してるから後ろからと思ったのに、顔が見えないから嫌だと彼は私を膝に乗せた。一貫してる嗜好に、もはや諦めの境地だ。
 じっくり粘膜を馴染ませ、彼が腰を突き上げた。ゆったりと。

「はぁ……っん……あっ」

 もう十分なはずが、私の内壁は彼の侵入に素直に喜び、快感を享受してしまう。隙間なく埋められているという安堵と、性急さのない抽挿で、じんわり体の芯が再燃する。

「氣虎、さん、気持ちいい、……です」
「俺も」

 目が合うと優しいキスが与えられる。
 髪を指で梳いてもらうの、好き。
 今はちょっとぴりぴりするけど、背中を撫でられるのも好き。
 爪の先でかりかり乳首を掻かれるのも、好き。気持ちいい。
 触れ合っている肌は、汗が滲んでしっとりしている。そこから伝わる温かさがなにより優しく好ましい。こうして抱きしめられて体温を感じるだけで、不安だったことが全部うまくいくような気になってくるから不思議。寂しくてたまらなかったのに、今は満たされ溢れそう。胸が疼く。それが甘いような、酸いような、言いようがない心地よさ。

 キスが途切れて間近で見つめ合う。切なげで劣情を帯びた氣虎さんの目が私を見ている。
 普段は誰の手助けも必要としてないような顔をしている彼の、子供のような一面や、こんな懇願するような表情を見るのが私だけだと思うと、たとえようのない充足感を覚えた。

 彼の耳の形を、顎のラインを、首筋の皮膚のはりと滑らかさを、そして鎖骨の出っ張りを指で確かめ、力強く拍動している心臓の上に口付けし、乳首を舐めて甘噛みした。しばらくそうして、揺すりあげられながら彼を愛撫した。彼の口からは小さな吐息がこぼれ落ち、締まった腹筋は緊張している。

 左手をぎゅっと握りしめられ、顔を上げる。

「真藍、……いくか」

 ゆるい抽挿の合間の、問いの形の低い囁きは、彼の方も追い詰められているとわかる掠れ声。気遣う言葉に彼の願望も潜んでいる。
 彼の首に腕を回し、囁き返した。

「あなたも一緒に」

 彼の吐息には悩ましい声が混じり、気遣いとか微塵もない動きで、腰を打ち付けてくる。都度、私の背がたわんだ。
 彼の頭を優しく撫でる。繰り返していると、肩口から問いかけられた。

「なん、だよ」
「っあ、一生懸命で……可愛いっ……です」

 回答が不服だったのか。肩を甘噛みされ乳首を爪で引っかかれる。ちくっとした痛みがむず痒い快感に変わり、一気に上り詰めた。

「あっ、氣虎、いくっ……!」

 頭の奥が痺れ、腰が痙攣した。自分ではどうしようもなく、氣虎さんにしなだれる。

「あぁ、あ、あ……」

 はあ、と耳元で熱い息があがった。臀部を掴まれ、隙間がないくらい彼の腰に押し付けられて、放出寸前の男根をねじ込まれる。数度の抽挿で、私を追うように彼も達した。

「真藍」

 呼ばれて顔を上げ、口付けを受け取る。
 二人できつく抱き合いシーツの海に沈んで、また口付けた。
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