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番外編 初春

ユア・ハンズ・オン・マイン 4

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 移動先はカフェテリアだ。
 定時を過ぎているので、人は少ない。
 コーヒーを差し出すと、恐縮した様子で副嶋さんは頭を下げた。
 向かい合い、小さなテーブルを挟んで座る。
 副嶋さんは今、獣臭い。オパール号を抱きしめたせいだろう。タクシーの運転手も嫌な顔してたもんなあ。あれは仕事だと諦めて換気してもらう他ないな。

 私がコーヒーに口を付けても、彼はじっとテーブルを睨んでいる。彼の膝の上の拳は血管が浮き、細かく震えていた。

「さっきの話ですが、副嶋さんはわざとオパール号を放したんですか」

 副嶋さんはぎくっと頬をこわばらせた。本題に切り込むのが早すぎたか。
 だが、彼は一度大きく深呼吸し、落ち着いた声音で答えた。

「迷いがあったのは事実です。気が緩んでいました。木下さんのご指摘どおり、わざとだと言われても仕方ありません。……申し訳ありません」

 再び頭を下げ、彼はまたじっとする。
 私は首を横に振った。

「私は、副嶋さんがわざと逃したわけじゃないとは思います。もしそうなら、オパール号を再度捕獲したりしないでしょう、噛まれてまで」

 副嶋さんが、顔を上げた。面食らっている。
 わざとだと責められることを覚悟していたんだろうな。
 これまでも、散々なじられてきたんだろう。ミスが多い態度が悪いと。山本さんにがみがみ言われてるのが、私の席まで聞こえてきてた。

「しかし、主任まで怒鳴られて、怪我までしてしまったのは、やはり自分が仕損じたせいです」
「芝署の方に怒鳴られたのは、現場のものを壊してしまったので、仕方がないですよ。私が壊したんですし。怪我のことは事故ですから、お気になさらず。それより副嶋さん、だめですよ、私言いましたよね、オパール号の処遇については言及しないように」
「……はい」
「入れ込んで感情的になると失敗しますから。いつも、客観的になることを忘れないでください」

 神妙に頷く彼を見て、自分もだと振り返る。いつもいつもそれができなくて、反省を繰り返している。
 人を指導するって大変だ。目を逸している自分の欠点まで、まざまざと見せ付けられる。

「私もとても苦手ですが、今回のようなことを減らすためにも、なるべく平常心でいられるように、お互い努力しましょう。個人的な意見や見解を持つのは悪くありませんが、自分の首を絞めない程度にしないと。余計な摩擦を生んでしまうので」

 言いながら、自分もそうだとまた内省する。とくに、今日の木下さんへのぞんざいな態度には、副嶋さんも驚いていたし、良くなかった。平常心って難しい。
 副嶋さんは、何度か瞬きしていた。言われたことを承服できないというより、そんなもんで終わりかという物足りないような顔をしている。
 怒鳴られてさっぱりしたかったのだろうか。だが、それをしたら、言ったことに反することになる。

「召し上がってください」

 勧められたコーヒーを一口すすって、ようやく彼の顔に色が戻ったような気がした。
 彼はおずおずと口を開いた。

「どうしても、その……難しくてですね、気持ちの切り替えとか、平常心とか、そういうのが。この歳になってもお恥ずかしいことですが。主任のようにいつも穏やかでいられればいいのですが」
「私だってよく感情的になって失敗して、あとから反省してますよ。後輩の手前、押し隠しているだけで」
「そうですか?」
「そうですよ。たぶんみんなそんなものでしょう」

 断言できる。彼が思うほど、私は感情のコントロールができているわけじゃない。というか、駄目なほうだ。すぐネガティブになるし、大局を見失う。
 今日、シャフトの件で怒鳴られたときも、正直、がっくり落ち込んだし。何やってるんだろうと卑屈になりかけ、無理矢理そのことを頭からシャットアウトしたのだ。
 疲れているとその傾向は強くなる。徹夜明けの今日なんかは危ない。意識してないとつい引きずられてしまう。

「前から気になっていたんですが、主任は、どうして自分の指導を引き受けてくれたんですか」

 副嶋さんは、手元のコーヒーを落ち着かない様子でいじくり回して、問うた。声に緊張が滲んでいた。

「鹿瀬班長に頼まれたら、断れませんしね。あの人には私も散々お世話になっていますから」
「そう……ですか。なんだか申し訳ないです、班長にも主任にも面倒かけてしまって」

 しゅんとしてしまった。ここはうまく持ち上げるべきだったか。
 私は慌てて取り繕った。

「経緯はどうあれ後輩ができたことは嬉しいですよ」
「経緯はどうあれ、ですか」

 これは余計な一言だったか。嫌なこと思い出させてしまったかな。
 副嶋さんと山本さんは今も関係を改善できてないようで、オフィスで二人が顔を合わせると、冷たい空気が流れるのだ。近くにいるとこっちが気まずくなるほどの。
 またコーヒーをすすって、副嶋さんは深く息を吐いた。

「山本さんとうまくいかなかったことは、自分でも反省してます。あの人は言うことが都度違っていて。黙って従えと自分でも思うんですが、我慢できず。それで口論になってしまって、引っ込みがつかなくなって。お恥ずかしい。ですから、なるべくかっとならないようにとは思うんですが……、つい」

 言い方は申し訳無さそうでも、ニュアンスは不服そうだった。
 私は同期の穏やかだけど裏がある笑顔を思い出す。あの人も癖が強いからなあ。
 分析係に戻ったとき、私は彼に「瓢箪から駒です」と言われた。冗談の中に、幾分本音も混じっていただろう。
 設計係に異動した時に、優しく送り出してくれたのは、目障りなのが一人減ったと思っていたのかも。当時の私は、言葉を掛けられて感動してしまったのだが。いや、あんまり悪い方にとらない方がいいか。

「そういうこともありますよ。アドバイスになるかわかりませんが、私はブチ切れそうになったときはトイレに退避してますよ」
「主任って怒ることあるんですか」
「あなた、私をなんだと思ってるんですか。ちゃんと怒るときは怒りますよ」

 私が睨むと、彼は「本当だ」なんて言って変に感動した。彼の中での自分の評価が気になる。よっぽどぼんやりして見えるのかな。

「正直、山本さんとはやっていけない、所轄に戻りたいと思ったことは何度もありました。なのに、鹿瀬班長から、指導担当の変更を聞かされたときすごく不安になりました。切り捨てられるのかと。使えないやつだとレッテルを貼られたら、この先やっていけないんじゃないかとか、変なことも考えてしまって。それで、後任が主任だと聞かされて……」
「がっかりしました? 山本さんみたいに優秀な人じゃなくて」
「いえ。鹿瀬班長から話を聞いて、安心しました」
「……あの、鹿瀬さんは、なんと」

 聞きたいような、聞きたくないような。怖いんですが。
 副嶋さんは肩をすくめた。

「主任は、自分のような癖のある人間に耐性あるから、大丈夫だろうと。実際、そのとおりでした。なんだかイライラしている自分が馬鹿馬鹿しくなったりします」
「ご自身で癖があるとか言っちゃうんですか」

 私は苦笑した。副嶋さんは至って真面目な顔をしている。今の、褒められたんだよね。素直に喜びにくいなあ。
 これでも、頭のなかでは色々考えているんですよ、副嶋さん。私なりに、扱いの難しい同僚や後輩とうまくやる方法を模索したりもして。
 そして、設計係に行っていた間のブランクを取り戻そうと努力してる。そう見えないだろうけど。
 あ、でもそう見えないってことは、私のポーカーフェイスもなかなかのものだってことでは。

 どうですか氣虎さん、と居もしない人に得意げに胸を張ってみたい気分になる。
 水鳥は、見えないところで必死に水を掻いている。よし、それでいこう。
 うーん、徹夜明けのせいか、テンションがおかしくなってきたな。深呼吸して、頭をすっきりさせる。

 副嶋さんは、じっと私を見て問うた。

「主任は、新人のとき、自分のように、しくじったことはありましたか」
「毎日叱られてました、しょうもないことで。字が汚い、文章が冗長だ、鈍くさい、にやにやすんなって。あと麺ばっかり食べるな運動しろとも」

 最後ので吹き出し、副嶋さんはとりなすように咳払いをしてみせた。別にいいのに、笑っても。変なところまで真面目なんだもんな。

「指導員を怪我させたこともありますよ」

 そう言うと、彼ははっとした。

「鈍くさいので、うっかり人質になってしまって。その私を救助するために怪我をさせてしまいました。あれは申し訳なかったです。下手したら、死んでいたかも」
「鹿瀬班長から聞きました。あの、都内連続殺人事件のときですよね」

 駒田の事件はすでに過去のことだ。彼はまだ裁判で係争中らしいが、そのニュースは殆ど聞かない。
 あれからもっと衝撃的な事件はいくつもあった。児童集団誘拐事件、合同庁舎占拠予告事件、残虐さでいったら中年男性の連続拷問殺人事件が群を抜いているか。

「当時、自分はニュースであの事件を見てました。凶悪犯が逮捕できて、同じ警察官として誇らしかったですよ」

 胸に疼痛が走った。あの事件の真相を思い出すと、やはり気が塞ぐ。それを悟られないように、私は口の端を上げた。

「まあ、生きてれば誰しもしくじりますよ、私も、あなたも。ですから、そう気を落とさずに、副嶋さんらしく頑張ってください」
「自分らしくですか。それでまたしくじりそうですが」
「大丈夫です。いつかうまいやり方が見つかりますから」

 断言したのは、自分に言い聞かせる意味もあった。
 まだ不承不承といった感じの副嶋さんの顔を見ると、自分の指導力のなさを痛感する。いつか、彼をうまく引っ張り上げられるようになれるのだろうか、私も。
 暗中模索だからか、不安になってくる。その不安を気取られないよう、笑顔で私は立ち上がった。

「さて、今日はもう帰りましょう。お互い、ちゃんと休まないと。明日から、またよろしくおねがいしますね、副嶋さん」

 私が頭を下げると、恐縮したように、副嶋さんも立ち上がりも腰を折った。

「こちらこそ、よろしくお願いします、神前主任」

 彼はまだ晴れ晴れとまではいかないものの、いくらかさっぱりした顔をしていた。
 気持ちを切り替える手助けができたのだろうか、私は。
 感情の振れ幅の大きな彼が心配になると同時に、自分の至らなさにため息が出そうになる。後輩を満足に励ますこともできず、叱ることもできないとは。
 課題は山積みだ。

 こんなんじゃいけないんだけどなあ。
 あくまで領家さんからの伝聞に過ぎないが、私がこの分析係に戻って来られたのは、鹿瀬さんと砂押さん、それから岡田さんが引っ張ってくれたからだという。
 その素地を整える段階、医師から配置転換終了可能のサインを貰うに至るまで、プライベートな部分で支えてくれたのは氣虎さんだ。
 そんなふうに、いろんな人にフォローされてここまで来たのに、その期待に応えられてない。
 すっ転んで怪我なんかして、なにやってるんだか。
 また氣虎さんに馬鹿にされてしまう。あるいは、心配されてしまうかも。お前大丈夫かよ、と。

 だめだ、しっかりしなくては。
 焦りと不安で暗くなる思考を強制的に切り上げて、副嶋さんと連れ立ってカフェテリアを出た。

× × × × ×


 到着した地下鉄のホームは、そこそこ混んでいた。
 空調の吐き出す生ぬるい風に、オパール号の吐息を思い出し――頭を振って、それを忘れる。この閉鎖的な環境が、昼間の地下施設を彷彿とさせたのかもしれない、と。

 色々課題もあるが、なんとか今日を乗り切った。無事に帰宅できることに感謝だ。
 そうだ、と思い出して端末でここから三駅先にあるホテルを検索する。まだ、この時間だとデザートのテイクアウトをやっているらしい。

 よかった。
 私は少し頬の力を抜いて、到着した電車に乗り込んだ。
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