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第四章 晩秋
タイトロープ 後
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ガードレールすれすれに、白い軽自動車が斜めに停まっている。
その軽自動車に追突寸前の状態で、私達の乗る覆面車両は停まっていた。
……停まっている。
ちゃんと、停まっている。
このタイミングでやってきた対向車の盛大なクラクションで、私はさらに大量の冷えた汗がどっと全身に吹き出るのを感じた。
「おー……、本当に停まった。だめかと思ってたぜ」
さっきの緊張感なんてもう忘れたような、鷹揚な態度で野田さんが外へ出ていく。車体が少し持ち上がった。たしかに、彼が軽自動車に飛び乗ったら、車体がひっくり返っただろうなあ。
私はしばらくその場でぐったりしていた。というか、動けなかった。すべての音が、遠く聞こえる。深呼吸を繰り返し、指先の震えが収まるのを待った。ちょっと吐きそう。
ようやく頭が回るようになる。吐き気も治まり、這うようにして外へ出た。
あの女の人と子供は無事だろうか。救急車呼んであげないと。
端末で、野田さんがなにか話している。応援を依頼したのだろうか、サイレンの音がこっちに向っている気がした。
交通整理ができていないため、後からきた対向車が、不満げにクラクションを鳴らして列を作り始めていた。
普通の事故なら、車を路肩に寄せるなりするのだが、この件では完全に安全と確認できるまでは、軽自動車のエンジンを再始動できない。
誰かそれを対向車の運転手に説明してくれないだろうか。今の私は、それを完遂する自信すらなかった。歯の根が合わないのだ。走ってもないのに膝もガクガクしてる。……そうだ、シャツ一枚だ、今。寒いわそりゃ。すっかり忘れていた。
夜道をオレンジ色の街灯が照らしている。その根本に、運転手の女性とその子供を誘導して、木下さんが戻ってきた。
上着を羽織った私は、彼のコートを差し出した。彼は疲れと興奮の入り交じった顔をこちらにむけた。
「お疲れ様です……。ご無事でなによりです」
「ほんっと、無事でよかったぜ。ぎりぎりすぎるぞ三小田ぁ」
「すみません、ちょっと色々と」
私は割れた窓から軽自動車内を覗き込んで、悲鳴を上げた。
「わ、わ、私の端末がっ」
助手席の足元に転がっていたそれは、何があったのかディスプレイにヒビが入っていて、電源も落ちていた。なんて無残な姿に。
「わりぃ、うっかり踏んづけて壊した。ごめんね。経費で落ちるか、上と掛け合ってみたら」
そんな。春先に、自分への就職祝いと景気付けで奮発して買ったのに。データはバックアップとってるからいい。問題は本体。自分の使い易いようにカスタムして育ててきたのだ。がっくり、悲しい気持ちになった。
「オレだって、せっかくオーダーメイドした靴、落としたんだぜ」
木下さんは、片方しか靴を履いていない。乗り込むときにした派手な音は、彼の靴が車体にぶつかったものだったんだろう。
二人分の嘆息が重なる。
耳に、子供の泣き声が入ってきた。
髪の毛をくちゃくちゃにした三歳くらいの女の子が、甘えてぐずって、母親に上着を着せられるところだった。
母親も、自分だって泣きたいだろうに、懸命に娘をあやしている。私と目が合うと、彼女は涙ぐんだまま、小さく頭を下げた。
じわと、胸が熱くなった。ようやく、実感が湧いてくる。なんとか助けられたのだという。
「……作業している最中、木下さんに車に乗せてもらったことをものすごく後悔したんですよ、私。だけど今は、頑張ってよかったなって思います」
くたくたで立ってるのも嫌だったのに、自然と笑顔になった。
直前の落ち込みはどこへやら、実に清々しい気分。
木下さんは面食らった顔をして私をまじまじ見た後、にやりとした。
「三小田、キスしてやろうか」
「お断りします。なんでこのタイミングで罰ゲームですか。そういうのは、ご自分の彼女としてください」
「緊張を解してやろうと思っただけだよ。睨むな睨むな。間に合わせで済ませないで彼女と会うときまで、とっておくことにする」
彼女、いるんじゃないか。間に合わせとか失礼極まりない。というかもし私が頭打ったせいで血迷って抱きついたりしたらどうする気だったんだ、この人は。とんでもないな、やっぱり。
私は星の見えない空を仰いで、タバコの煙を吐き出すみたいに息をした。
「木下さん、口は災いの元って言葉、知ってます?」
「それよく彼女にも言われる」
「反省しないんですか」
「そういう性分なの」
「さようで」
もはや何も言うまい。
応援で駆けつけた制服警官たちが、野田さんから事情を聞いて、それぞれ交通整理に駆け出す。一人が、運転手の女性の方へ走っていった。
私たちの前に、野田さんがやってきて言った。
「いいか、責任は俺がとってやる。全ては俺の指示で動いたんだ。お前たちはなにも心配することはないからな」
睨まれると怖い彼の力強い説得は、この上なく頼りになりそう。
いくつか指示を私たちに残し、彼はまた端末で誰かと話し始めた。
木下さんが苦笑した。
「あーあ、やられた」
なにを? と視線で問うと、彼は肩をすくめる。
「つまりさ、責任も手柄も全部野田さんに持っていかれたってことだよ、オレたちは。くっそ、ずりーよな、上司の立場使って」
ちょっと悔しげにそう言い、彼は路肩に覆面車両を動かすため、片方だけの靴で道を歩いていく。
「そうだ、三小田」
木下さんが振り返った。
「さっき、端末に神前からメッセージ来てたぞ。中身見る前に踏んづけたけど」
「……見なくていいですから」
彼はにやりとして、歩みを再開した。
手柄かあ。命が助かっただけでも、万々歳じゃないか。
おかげで、私にはまだ彼と話をする機会が残っている。
その軽自動車に追突寸前の状態で、私達の乗る覆面車両は停まっていた。
……停まっている。
ちゃんと、停まっている。
このタイミングでやってきた対向車の盛大なクラクションで、私はさらに大量の冷えた汗がどっと全身に吹き出るのを感じた。
「おー……、本当に停まった。だめかと思ってたぜ」
さっきの緊張感なんてもう忘れたような、鷹揚な態度で野田さんが外へ出ていく。車体が少し持ち上がった。たしかに、彼が軽自動車に飛び乗ったら、車体がひっくり返っただろうなあ。
私はしばらくその場でぐったりしていた。というか、動けなかった。すべての音が、遠く聞こえる。深呼吸を繰り返し、指先の震えが収まるのを待った。ちょっと吐きそう。
ようやく頭が回るようになる。吐き気も治まり、這うようにして外へ出た。
あの女の人と子供は無事だろうか。救急車呼んであげないと。
端末で、野田さんがなにか話している。応援を依頼したのだろうか、サイレンの音がこっちに向っている気がした。
交通整理ができていないため、後からきた対向車が、不満げにクラクションを鳴らして列を作り始めていた。
普通の事故なら、車を路肩に寄せるなりするのだが、この件では完全に安全と確認できるまでは、軽自動車のエンジンを再始動できない。
誰かそれを対向車の運転手に説明してくれないだろうか。今の私は、それを完遂する自信すらなかった。歯の根が合わないのだ。走ってもないのに膝もガクガクしてる。……そうだ、シャツ一枚だ、今。寒いわそりゃ。すっかり忘れていた。
夜道をオレンジ色の街灯が照らしている。その根本に、運転手の女性とその子供を誘導して、木下さんが戻ってきた。
上着を羽織った私は、彼のコートを差し出した。彼は疲れと興奮の入り交じった顔をこちらにむけた。
「お疲れ様です……。ご無事でなによりです」
「ほんっと、無事でよかったぜ。ぎりぎりすぎるぞ三小田ぁ」
「すみません、ちょっと色々と」
私は割れた窓から軽自動車内を覗き込んで、悲鳴を上げた。
「わ、わ、私の端末がっ」
助手席の足元に転がっていたそれは、何があったのかディスプレイにヒビが入っていて、電源も落ちていた。なんて無残な姿に。
「わりぃ、うっかり踏んづけて壊した。ごめんね。経費で落ちるか、上と掛け合ってみたら」
そんな。春先に、自分への就職祝いと景気付けで奮発して買ったのに。データはバックアップとってるからいい。問題は本体。自分の使い易いようにカスタムして育ててきたのだ。がっくり、悲しい気持ちになった。
「オレだって、せっかくオーダーメイドした靴、落としたんだぜ」
木下さんは、片方しか靴を履いていない。乗り込むときにした派手な音は、彼の靴が車体にぶつかったものだったんだろう。
二人分の嘆息が重なる。
耳に、子供の泣き声が入ってきた。
髪の毛をくちゃくちゃにした三歳くらいの女の子が、甘えてぐずって、母親に上着を着せられるところだった。
母親も、自分だって泣きたいだろうに、懸命に娘をあやしている。私と目が合うと、彼女は涙ぐんだまま、小さく頭を下げた。
じわと、胸が熱くなった。ようやく、実感が湧いてくる。なんとか助けられたのだという。
「……作業している最中、木下さんに車に乗せてもらったことをものすごく後悔したんですよ、私。だけど今は、頑張ってよかったなって思います」
くたくたで立ってるのも嫌だったのに、自然と笑顔になった。
直前の落ち込みはどこへやら、実に清々しい気分。
木下さんは面食らった顔をして私をまじまじ見た後、にやりとした。
「三小田、キスしてやろうか」
「お断りします。なんでこのタイミングで罰ゲームですか。そういうのは、ご自分の彼女としてください」
「緊張を解してやろうと思っただけだよ。睨むな睨むな。間に合わせで済ませないで彼女と会うときまで、とっておくことにする」
彼女、いるんじゃないか。間に合わせとか失礼極まりない。というかもし私が頭打ったせいで血迷って抱きついたりしたらどうする気だったんだ、この人は。とんでもないな、やっぱり。
私は星の見えない空を仰いで、タバコの煙を吐き出すみたいに息をした。
「木下さん、口は災いの元って言葉、知ってます?」
「それよく彼女にも言われる」
「反省しないんですか」
「そういう性分なの」
「さようで」
もはや何も言うまい。
応援で駆けつけた制服警官たちが、野田さんから事情を聞いて、それぞれ交通整理に駆け出す。一人が、運転手の女性の方へ走っていった。
私たちの前に、野田さんがやってきて言った。
「いいか、責任は俺がとってやる。全ては俺の指示で動いたんだ。お前たちはなにも心配することはないからな」
睨まれると怖い彼の力強い説得は、この上なく頼りになりそう。
いくつか指示を私たちに残し、彼はまた端末で誰かと話し始めた。
木下さんが苦笑した。
「あーあ、やられた」
なにを? と視線で問うと、彼は肩をすくめる。
「つまりさ、責任も手柄も全部野田さんに持っていかれたってことだよ、オレたちは。くっそ、ずりーよな、上司の立場使って」
ちょっと悔しげにそう言い、彼は路肩に覆面車両を動かすため、片方だけの靴で道を歩いていく。
「そうだ、三小田」
木下さんが振り返った。
「さっき、端末に神前からメッセージ来てたぞ。中身見る前に踏んづけたけど」
「……見なくていいですから」
彼はにやりとして、歩みを再開した。
手柄かあ。命が助かっただけでも、万々歳じゃないか。
おかげで、私にはまだ彼と話をする機会が残っている。
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