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第三章 中秋
The Tempest 2
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荷物を抱えなおして、駅に向かうと、改札のところで木下さんが待っていた。
「せっかくだから途中まで一緒に行こうぜ」
「私、すぐ乗り換えです」
「いいよ別に」
話すこともないのになあ、と思いながら改札を抜ける。
すでに遅延が発生しており、次の車両はあと十分で到着の予定だという。
ホームは時間のわりに混んでいた。帰宅ラッシュには早いが、帰宅困難になるのを危惧してみんな早めに動いているのだろう。
「今日はお疲れ」
「ありがとうございます」
木下さんは何を思ったのか、コーヒーを買ってくれた。
無糖だけど、苦味が少なくて飲みやすいやつだ。ホットだからちょっと飲むのに時間がかかる。
「すげー雨だな。電車止まりそうだから、途中からタクシー乗るつもりなんだけど、せっかくだし、家まで送ろうか。最寄り駅どこ?」
「いえ、お気持ちだけで。結構です」
「遠慮すんなよ。……あ、もしかして彼氏にバレるとまずい?」
どちらかと言えば、木下さんと密室で話をするのが嫌なんだが。流石にそれを本人に言う度胸はない。
曖昧に首を傾げてごまかす。
「それって神前のことだろ」
何も言わないのに、彼は一人で納得して、手を叩いて笑いだした。
「当たりだろ。昨日、お前に触ったときの神前の顔、わかりやす過ぎ」
これを言いたくて、この人はわざわざ改札で待っていたのかなあ。
誰と付き合おうと私の勝手だろうに、なんでそんな嘲笑されなきゃならないんだろう。
もらったコーヒーを今すぐ返品したい。開封して半分飲んでしまったけど。
「つーかあいつ、ちゃっかり後輩に手ぇ出してんの? 自分は真面目ですって顔しておいて、やることやってんじゃん。三小田もさ、あんな暴力男のどこがいいわけ。もしかして弱みでも握られてんの」
「あははなんかごめんなさい。おもちゃ横取りしたみたいで」
しまった。あまりにむかっとして、つい挑発するようなことを。
私はちらりと木下さんの方を見た。
彼はさっきまでの余裕をどこかに忘れてきたみたいに、無表情だった。
ぞっとした。
見てはいけないものを見ている。
それはぱっくりと彼の心に穿たれたうろだ。中にはドロドロしたものが詰まっていると思っていたのに、ただひたすらに空虚だった。
口にしてしまったからには、引けない。私は言葉を続けた。
「木下さんこそ神前さんと殴り合いになった時、どうして彼を挑発したんですか。わざわざ殴られて得もしないのに」
彼は再び笑顔を作った。瑕疵のない完璧な、人好きのする笑顔を。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「神前さんのことを嫌いなのはわかります。だからこそ不思議で。殴られたあと、木下さんがやり返さなければきっと神前さんはもっと立場が悪くなっていたと思うんです。左遷では済まなかったかも。あなたは多分、そのくらい考えつく。だから、なんで殴り返したのか、挑発はなんのためかずっと考えてました。もしかして、殴られると思ってなかったんですか」
「どうだろうねえ。まっ、左遷はちょっと驚いたけどな。オレよりずっと処分重いじゃん。オレ以外からも顰蹙買ってたんじゃないのか、あいつ」
「あー、まあ人によっては完全にアウトなタイプだとは思いますよ」
「わかってんのに付き合ってんの?」
「私は好きですから」
木下さんは鼻で笑った。ちょっと悔しそうに。
「あいつはすっげえ無神経なやつだぞ。常に正道で通そうとしてくる。一課に配属が決まった時、抜け駆けしやがってってオレが冗談で言ったら、あいつ、真顔で『木下が先に配属されると思ってた』ってぬかしやがった」
多分、神前さんはそれを本心から言ったんだと思う。木下さんも、わかっているからこそ余計に腹が立ったんだろう。
そうか、それがきっかけでこの二人の関係は崩れてしまったのか。
まさかその本心からの言葉が、自分と彼の間に亀裂を生むなんて思わなかっただろうな、あの人は。
私には、木下さんの気持ちもわかった。どちらかと言えば私も、いつも能力や境遇が、人より一歩後ろにある人間だから。選ばれなかったことも、捨てられたこともある。だから木下さんが、神前さんの心からの言葉を無神経と称した気持ちは、十分理解できた。
「あの時だって、まるで自分が正義だって顔をしてオレのこと殴りやがって。それまでの嫌味なんて全部流してたくせにだぜ。虫唾が走る。思わずこっちも殴っちまった。失敗だったなあ」
彼は面白いことを思い出したように、手で口元を押さえた。
「馬鹿だから、あいつ、あの時まっすぐ顔狙ってきてさ。なんでそんな目立つところ狙うかね。自分が間違ってないっていう自信かもしれないけど。普通に考えて、見た目派手に怪我させた方が咎められるってわかるだろ。馬鹿だよなーほんと。吐くまで腹殴られておいて、自分は平気ですって上司に向かって言い切ったんだぜ、ガキかよ、うける」
うけると言っておきながら、心底憎々しげな声音だった。
「いや、全然うけないですよ。木下さんも、怪我に見合うだけのリターンはなかったんじゃないですか?」
「まあな。オレも始末書書いたり減給になったりしたしなあ。だが、あいつが異動になって、十分すっきりしたかな。せっかく念願かなって刑事になったのに、残念だったろうなあ。ああでも、一応刑事なんだっけ、今も所属は」
この人、いろいろいびつだ。
「前に喫煙室で会ったろ、そっちのオフィスの。あの時、あとちょっとだったんだよね。三小田が来なきゃなあ」
「何話してたんですか」
「オレが一課に配属になるって話。大嫌いなオレが、自分のやりたい仕事に就いているの見て、どんな気持ちって聞いたら顔色変わってさぁ」
「もういっぺん殴らせて、今度こそ完全に潰す気だったんですか」
「うん」
「はあ……そうですか」
ああ、あの時嫌われるの覚悟で首を突っ込んでよかった。
この人にはあんまり深入りしないようにしよう。引きずられたくないから。
私は残りのコーヒーを一気に飲み干し、空き缶をゴミ箱に捨てた。
気分が悪い。
「なあ三小田。どうしてオレが三小田にこの話をしたと思う?」
電車がホームに到着するというアナウンスが流れだした。椅子に座っていた人たちも、列に加わる。
「どうしてでしょう。……わかりません」
「三小田なら、オレの気持ちわかると思ったから。お前、オレに似てるところあるもんな」
「えっ。それはショックです」
目を眇め、私は木下さんから一歩後ろに下がった。
「失礼なやつだなー。でも、よく似てるよ。オレたち」
電車が来て、私たちは人の流れに乗ってそのまま車内に流れ込む。
並んで吊革に掴まると、ドアが閉まって豪雨の音がわずかに和らいだ。だが、雨粒は窓に叩きつけられて、硬い音を立てる。
電車は走り出し、徐々に加速する。
「だからお前と神前はきっとうまくいかない。お前があいつといるのが苦痛になるよ」
木下さんはこの雨粒みたいな人だ。雨具の隙間から容赦なく打ち付けてきて、衣服を濡らして体の熱を奪い、重みで動きを制限する。
一緒にいると、嵐の夜のように、不安を掻き立てる。
「せっかくだから途中まで一緒に行こうぜ」
「私、すぐ乗り換えです」
「いいよ別に」
話すこともないのになあ、と思いながら改札を抜ける。
すでに遅延が発生しており、次の車両はあと十分で到着の予定だという。
ホームは時間のわりに混んでいた。帰宅ラッシュには早いが、帰宅困難になるのを危惧してみんな早めに動いているのだろう。
「今日はお疲れ」
「ありがとうございます」
木下さんは何を思ったのか、コーヒーを買ってくれた。
無糖だけど、苦味が少なくて飲みやすいやつだ。ホットだからちょっと飲むのに時間がかかる。
「すげー雨だな。電車止まりそうだから、途中からタクシー乗るつもりなんだけど、せっかくだし、家まで送ろうか。最寄り駅どこ?」
「いえ、お気持ちだけで。結構です」
「遠慮すんなよ。……あ、もしかして彼氏にバレるとまずい?」
どちらかと言えば、木下さんと密室で話をするのが嫌なんだが。流石にそれを本人に言う度胸はない。
曖昧に首を傾げてごまかす。
「それって神前のことだろ」
何も言わないのに、彼は一人で納得して、手を叩いて笑いだした。
「当たりだろ。昨日、お前に触ったときの神前の顔、わかりやす過ぎ」
これを言いたくて、この人はわざわざ改札で待っていたのかなあ。
誰と付き合おうと私の勝手だろうに、なんでそんな嘲笑されなきゃならないんだろう。
もらったコーヒーを今すぐ返品したい。開封して半分飲んでしまったけど。
「つーかあいつ、ちゃっかり後輩に手ぇ出してんの? 自分は真面目ですって顔しておいて、やることやってんじゃん。三小田もさ、あんな暴力男のどこがいいわけ。もしかして弱みでも握られてんの」
「あははなんかごめんなさい。おもちゃ横取りしたみたいで」
しまった。あまりにむかっとして、つい挑発するようなことを。
私はちらりと木下さんの方を見た。
彼はさっきまでの余裕をどこかに忘れてきたみたいに、無表情だった。
ぞっとした。
見てはいけないものを見ている。
それはぱっくりと彼の心に穿たれたうろだ。中にはドロドロしたものが詰まっていると思っていたのに、ただひたすらに空虚だった。
口にしてしまったからには、引けない。私は言葉を続けた。
「木下さんこそ神前さんと殴り合いになった時、どうして彼を挑発したんですか。わざわざ殴られて得もしないのに」
彼は再び笑顔を作った。瑕疵のない完璧な、人好きのする笑顔を。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「神前さんのことを嫌いなのはわかります。だからこそ不思議で。殴られたあと、木下さんがやり返さなければきっと神前さんはもっと立場が悪くなっていたと思うんです。左遷では済まなかったかも。あなたは多分、そのくらい考えつく。だから、なんで殴り返したのか、挑発はなんのためかずっと考えてました。もしかして、殴られると思ってなかったんですか」
「どうだろうねえ。まっ、左遷はちょっと驚いたけどな。オレよりずっと処分重いじゃん。オレ以外からも顰蹙買ってたんじゃないのか、あいつ」
「あー、まあ人によっては完全にアウトなタイプだとは思いますよ」
「わかってんのに付き合ってんの?」
「私は好きですから」
木下さんは鼻で笑った。ちょっと悔しそうに。
「あいつはすっげえ無神経なやつだぞ。常に正道で通そうとしてくる。一課に配属が決まった時、抜け駆けしやがってってオレが冗談で言ったら、あいつ、真顔で『木下が先に配属されると思ってた』ってぬかしやがった」
多分、神前さんはそれを本心から言ったんだと思う。木下さんも、わかっているからこそ余計に腹が立ったんだろう。
そうか、それがきっかけでこの二人の関係は崩れてしまったのか。
まさかその本心からの言葉が、自分と彼の間に亀裂を生むなんて思わなかっただろうな、あの人は。
私には、木下さんの気持ちもわかった。どちらかと言えば私も、いつも能力や境遇が、人より一歩後ろにある人間だから。選ばれなかったことも、捨てられたこともある。だから木下さんが、神前さんの心からの言葉を無神経と称した気持ちは、十分理解できた。
「あの時だって、まるで自分が正義だって顔をしてオレのこと殴りやがって。それまでの嫌味なんて全部流してたくせにだぜ。虫唾が走る。思わずこっちも殴っちまった。失敗だったなあ」
彼は面白いことを思い出したように、手で口元を押さえた。
「馬鹿だから、あいつ、あの時まっすぐ顔狙ってきてさ。なんでそんな目立つところ狙うかね。自分が間違ってないっていう自信かもしれないけど。普通に考えて、見た目派手に怪我させた方が咎められるってわかるだろ。馬鹿だよなーほんと。吐くまで腹殴られておいて、自分は平気ですって上司に向かって言い切ったんだぜ、ガキかよ、うける」
うけると言っておきながら、心底憎々しげな声音だった。
「いや、全然うけないですよ。木下さんも、怪我に見合うだけのリターンはなかったんじゃないですか?」
「まあな。オレも始末書書いたり減給になったりしたしなあ。だが、あいつが異動になって、十分すっきりしたかな。せっかく念願かなって刑事になったのに、残念だったろうなあ。ああでも、一応刑事なんだっけ、今も所属は」
この人、いろいろいびつだ。
「前に喫煙室で会ったろ、そっちのオフィスの。あの時、あとちょっとだったんだよね。三小田が来なきゃなあ」
「何話してたんですか」
「オレが一課に配属になるって話。大嫌いなオレが、自分のやりたい仕事に就いているの見て、どんな気持ちって聞いたら顔色変わってさぁ」
「もういっぺん殴らせて、今度こそ完全に潰す気だったんですか」
「うん」
「はあ……そうですか」
ああ、あの時嫌われるの覚悟で首を突っ込んでよかった。
この人にはあんまり深入りしないようにしよう。引きずられたくないから。
私は残りのコーヒーを一気に飲み干し、空き缶をゴミ箱に捨てた。
気分が悪い。
「なあ三小田。どうしてオレが三小田にこの話をしたと思う?」
電車がホームに到着するというアナウンスが流れだした。椅子に座っていた人たちも、列に加わる。
「どうしてでしょう。……わかりません」
「三小田なら、オレの気持ちわかると思ったから。お前、オレに似てるところあるもんな」
「えっ。それはショックです」
目を眇め、私は木下さんから一歩後ろに下がった。
「失礼なやつだなー。でも、よく似てるよ。オレたち」
電車が来て、私たちは人の流れに乗ってそのまま車内に流れ込む。
並んで吊革に掴まると、ドアが閉まって豪雨の音がわずかに和らいだ。だが、雨粒は窓に叩きつけられて、硬い音を立てる。
電車は走り出し、徐々に加速する。
「だからお前と神前はきっとうまくいかない。お前があいつといるのが苦痛になるよ」
木下さんはこの雨粒みたいな人だ。雨具の隙間から容赦なく打ち付けてきて、衣服を濡らして体の熱を奪い、重みで動きを制限する。
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