40 / 76
第三章 中秋
Chemical burn 後
しおりを挟む
翌日。朝食をとりながら端末でニュースを見ていたら、榎沢の事件の専門家への取材が行われていた。
今回の事件で注目されているのは、被害者を傷つけた凶器だ。
鈍器や利器を使用した事件だったら、報道すらされなかったのではないだろうか。そのくらい、後日に起きた強盗殺人事件の方が大きく取り上げられてしまって、榎沢の事件を報道していた時間は短かった。
犯行に使われた塩酸は、濃度が高くなると有毒性も高くなる。目に入れば失明の可能性もあった。
今回は処置が間に合ったが、気管に入ったり、症状が重篤になれば、死亡していたかもしれない。
当然、一定以上の濃度の塩酸の取り扱いには規制がある。使用・処分のガイドラインも決められており、簡単に廃棄したりはできない。
となると、入手経路は自ずと狭まり、犯人に結びつくのではないか――コメンテーターの推論は概ね正しい。
だが、入手困難というだけで、一般人が入手できないわけではない。ついでにいえば、榎沢が取り扱う商材のなかに、あるのだ。塩酸が。
彼女が担当していた卸先に何軒か、それを使用している工業系の法人がある。
なかには、榎沢とトラブルになった取引先もあるらしい。これが警察が怨恨の線を消さない理由だった。
昨日、私がまとめた関係者のリストは、メッセージ内容のまとめを含むと、かなりのデータ量になってしまった。榎沢の公私あわせた交友関係の広さには、ただただ驚かされる。
彼女は連絡した相手のことを全て覚えているのだろうか。私には半分も無理そう。
これをひとりひとりアリバイや動機を探して潰していくとなると、相当大変だろう。メディアが言うほど簡単に絞込ができない状況だった。
文句を言っている暇はない。
そんな薬品を持ち歩いている危険人物が、まだ野放しになっているという事実は、たしかに報道の通りなのだから。
× × × × ×
出勤し共有を確認した。めぼしい情報はなし。
被害者の聴取担当によって、犯人の似顔絵の作成が行われていた。その絵を確認したが、冴えない男という印象で、あまりピンとこなかった。少なくとも、彼に似た人物の目撃情報は今のところない。榎沢も知人ではないというが、顔の広い彼女のことだ、覚えてないだけで面識や関わりがある可能性も十分あった。
× × × × ×
午前中、私たちは会議に参加することになった。
会議場になる芝署は近くなのだが、そちらには赴かずいつもどおりオンラインでの参加になった。移動の手間と時間を惜しめと砂押さんに言われたのだ。
会議は、今後の捜査方針と共有されていない情報の確認が主だった。
参加人数は少なかった。私以外で五人だ。ほか二人は出ていて戻れないとか。
画面越しで見る芝署の会議室に、見覚えのある参加者はいない。そのことに、少しだけ安堵した。
隣りに座った神前さんは、いつもと同じ難しい顔をしていて、何を思っているかはわからなかった。
被害者の榎沢は直近、金属の食刻を行っているアテリアメッキと、支払いの件で揉めたことが判明した。
検収日が約束と違うとか、支払日の設定が違うとかで、相手方の先日付小切手の銀行持ち込みのタイミングが示し合わせた日より早くなってしまい、不渡りが出た。
その上、請求金額が多かったとか請求書に誤りがあったとかで、揉めに揉めている。
榎沢は、社内での伝達ミスでうまくいかなかったと相手方に謝罪しているが、相手方は怒りが収まらず。連日榎沢と、彼女の上長は対応に追われていたという。
アテリアメッキとしては、被害者が保身のための言い逃れをしているように感じられただろう。
ここにも、濃塩酸は卸されている。
この会社の薬品の保管状態と、人の動きを確認するという方向に決まった。
また、被害者自身への聞き込みと、私達のメッセージの確認作業で、榎沢はここ一月ほどとある男性から「死ね」「殺すぞ」という脅迫じみたメッセージを何度か受け取っていたことがわかった。あの猥褻文章の男性二人とは別にだ。
それもあっさりブロック設定に切り替え、彼女は無視していた。
以前、付き合いで参加したパーティーだかコンパだかで知り合った相手らしいが、そういうトラブルが何度かあってから、面倒を感じて、異性との出会いは結婚相談所の斡旋に頼ることにしたらしい。
「慣れていたのが、問題だったんでしょうか」
私は渋面で呟いた。
理由は様々考えられるが、彼女はどうも、こういうトラブルに巻き込まれやすい性質があるようだ。
こういうメッセージがあったことや、会社に男が待ち伏せしていた時点で、警察に相談していたら、違っていたかもしれない。
待ち伏せされていたときは、その場で男と話をして、帰ってもらったのだという。説得できる相手とそうでない相手がいることはわかっていただろうが、説得を試みること自体にリスクが有ることを彼女は正しく把握していただろうか。
仕事柄、トラブルの対応も慣れていて、私生活でもトラブルがあってもこれまではなんとかなっていた。
実際に胸ぐらをつかまれて殴られるような、命の危険にさらされることはなかったので、そのままきてしまった。
こういうことに変に場慣れしてしまったせいで、逆に警戒心が衰えていた可能性もある。
「被害者自身もそう言ってるな。声をかけられたときいつもと同じようなつもりでいたら、こんなことにって」
砂押さんが顎を撫でながら答えてくれた。彼は私の隣りに座って、渋い顔をしてディスプレイを眺めている。
「そういうことがあったとき誰か、相談を受けてくれる友人とかはいなかったんでしょうか」
「そもそも、相談するつもりがなかったのかもしれない。女性の親しい友人は、会社の後輩が一人だった。友人は榎沢がそんな脅迫状のようなものを受け取っているとは思わなかったとさ」
「榎沢が、警戒していなかったのか、それとも友人に話すのを憚ったのかのどちらかですか」
神前さんはこめかみを掻いた。砂押さんが、軽く首を傾げて答えてくれた。
「セキュリティがしっかりしているところに住んでいるし、結婚相談所には身元照会がしっかりしているところを選んでいるし、大丈夫だと思ったらしい」
その嫌がらせメッセージを送ってきた人間、それから待ち伏せしていた男にまずは当たるということで話がまとまり、会議が終わり映像が途切れた。
私達も機材を手早く片付けていく。
「今日はこれから、神前と三小田が外。所轄とやりとりしながら進めてくれ。俺は今日は中の作業をする。宿題が山ほどあるんだよ」
「中の方を私達がやったほうがいいのではないですか?」
これまで所轄の担当者たちとのやり取りなどは、基本的に砂押さんがやってくれていた。彼が私達の取りまとめ役だからというのと、やはりよそとの折衝は、それなりのものが求められるからだ。交渉力や協調性などが。
砂押さんは、確認するように神前さんにむかって顎をしゃくってみせた。
「いや、神前に任せる。できるだろ」
その口調に挑発的な部分はなかった。
私は軽く目を見張った。
「わかりました、やってみます」
神前さんは鷹揚に頷いてみせた。
彼らは会議が終わると連れ立って喫煙室に入っていった。小柄な砂押さんとでかい神前さんが並ぶと、正しく凸凹コンビな見た目で面白い。
駒田の事件の時は、彼が暴走しないようにって言ってた人だったんだが。なにか心境の変化があったのかなあ。
男の友情とかそういうものか。ちょっと疎外感があるけど、そういうことなら仕方がないか。
× × × × ×
今日のお昼はどうしようと、財布を片手にふらふらオフィスを出ると、向こうからやってきた久慈山さんと目があった。手を振られたので、私も振り返す。
「三小田さん、今日お昼一緒にどう?」
当然、歓迎だ。
彼女と近場の食堂に入った。
今日の日替わり定食はチキン南蛮、日替わり麺は刀削麺だった。刀削麺は前に食べた時イマイチだったので、チキンにする。
私達は窓際の席に座った。お店はそこそこ混んでいて、見知った顔もちらほらあった。徒歩圏内だと顔見知りに会うのはもはや避けられないのだろう。
正面に座った久慈山さんは、珊瑚色というのか、黄み帯びたピンクの硬化蛋白質ネイルを爪にあしらっていた。モーブカラーのアイシャドウがよく似合っている。
「あっという間に秋だね。ようやく衣替えしたわ。コートに虫食い穴見つけてショックよ」
「久慈山さん忙しかったんですよね、もう落ち着きそうですか?」
「あと一息ってとこかなぁ。あ、この前の差し入れありがとう、美味しかったよー」
彼女が捜査本部が立った案件で、晩夏からずっと走り回っているのは知っていた。あまりに忙しそうで、声をかけるのをためらうほどだった。
「季節の変わり目ですし、無理なさらないでくださいね」
「平気平気。私、元気が取り柄だもの」
おおらかにそう言って、彼女はにこっと笑った。
「そういえばごめんなさいね。ほら、映画一緒に行こうって言ってたのに。延び延びになってて」
「いいですよ、そんな」
「チケット二枚あるから、神前くんと行きなよ。デートで」
「えっと……」
今のところ、誰にも神前さんとお付き合いしていることは言ってないのだが。
久慈山さんにも言わないのは水臭いかなと思いつつ、タイミングを逃していた。
「いつも断られるんだけど、神前君に紹介してほしいっていう友だちいて、とりあえず打診したら、彼女できたっていうからさー。ごめん、カマかけた」
にやっとされて、私は小さくなる。気まずい。顔が熱くなってくる。
「すみません、言いそびれてしまって」
「謝ることないでしょ! 安心して。他に喋ったりしないから。ところで、どっちから誘ったの?」
ぐっ。目をきらきらさせて聞かれても困る。
言葉に詰まっていると、彼女は両手を合わせて頬に当てた。そういうポーズがまた似合う。
「神前くんでしょ。絶対」
「あはは」
あれはどっちとも言えないような。強いて言えば両方では。
言うのも恥ずかしいので、笑ってごまかすことにした。
ふっと真剣な顔になって、久慈山さんは姿勢を正した。
「ところで神前くんが異動したときの話は聞いた……よね」
「ええ、本人から聞きました」
「そっか、よかった。ほっとした。これで私も安心しておせっかいおばさん辞められるわ」
「おせっかいだなんて」
久慈山さんのおかげで、神前さんと向き合うきっかけができたと思う。感謝しているくらいだ。
「ありがと。そう言ってもらえてよかったわ。正直、いい加減ちょっかいかけるの止めなきゃって思ってたんだ。三小田さんに神前くんのことお願いしたりとか、彼からしたら鬱陶しかったかなあって」
「久慈山さんと神前さんの仲良しさには、ちょっと妬きます」
冗談めかして言ってみたものの、多少本音も混じっている。このひとは私の知らない彼を知っているんだなと思うと、ちょっとだけ羨ましい。
彼女は軽く目を伏せた。
「仲がいいんじゃなくて、私が面倒見てもらってただけだよ」
どういうことだろう。私は首を傾げた。
「私、こんな性格だから、芝署時代に先輩に目をつけられちゃって。仕事はかなりやりづらかったんだよね、署では完全に浮いちゃって。腫れ物扱いってやつ。普通に接してくれる人もいたけど、辛かった。で、その普通に接してくれたのが同期では神前くんと、あと木下くんだったんだ。嬉しかったなー。その後すぐ異動になって、それからは気持ちがすごく楽になったの」
彼女は湯気をたてなくなった紅茶を少しだけ飲んだ。
「だから、あの二人があんなことになっちゃってショックだった。元々、木下くんって人に絡むのが好きというか、面倒くさい部分があってさ、神前くんがそれを受け流してる感じがあったけど、そんなに深刻に仲が悪いわけじゃないと思ってた。仕事ではふたりとも真面目だったし、息があってるときだってあったの。木下くんは神前くんを弟みたいに扱ってた。それが、木下くんより先に神前くんが希望の部門に行くことが決まって、亀裂が入っちゃったのかな」
以前、彼女と話をしたことを思い出した。
プライドの問題。それなのだろうか。
「私は神前くんには恩もあるし、力になりたかったんだけど、異動してきてからは話しかけても返答は業務連絡みたいだし、飲みに誘っても全然乗ってくれなくて、途方に暮れてたんだよね」
そんな経緯があったのか。
「だから、神前くんが元に戻ってくれて、本当に嬉しい」
彼だって、久慈山さんの存在をありがたく思っているはず。それがちゃんと彼女に伝わっているといいんだけど。
私は冷えてしまったスープを飲み干した。
今回の事件で注目されているのは、被害者を傷つけた凶器だ。
鈍器や利器を使用した事件だったら、報道すらされなかったのではないだろうか。そのくらい、後日に起きた強盗殺人事件の方が大きく取り上げられてしまって、榎沢の事件を報道していた時間は短かった。
犯行に使われた塩酸は、濃度が高くなると有毒性も高くなる。目に入れば失明の可能性もあった。
今回は処置が間に合ったが、気管に入ったり、症状が重篤になれば、死亡していたかもしれない。
当然、一定以上の濃度の塩酸の取り扱いには規制がある。使用・処分のガイドラインも決められており、簡単に廃棄したりはできない。
となると、入手経路は自ずと狭まり、犯人に結びつくのではないか――コメンテーターの推論は概ね正しい。
だが、入手困難というだけで、一般人が入手できないわけではない。ついでにいえば、榎沢が取り扱う商材のなかに、あるのだ。塩酸が。
彼女が担当していた卸先に何軒か、それを使用している工業系の法人がある。
なかには、榎沢とトラブルになった取引先もあるらしい。これが警察が怨恨の線を消さない理由だった。
昨日、私がまとめた関係者のリストは、メッセージ内容のまとめを含むと、かなりのデータ量になってしまった。榎沢の公私あわせた交友関係の広さには、ただただ驚かされる。
彼女は連絡した相手のことを全て覚えているのだろうか。私には半分も無理そう。
これをひとりひとりアリバイや動機を探して潰していくとなると、相当大変だろう。メディアが言うほど簡単に絞込ができない状況だった。
文句を言っている暇はない。
そんな薬品を持ち歩いている危険人物が、まだ野放しになっているという事実は、たしかに報道の通りなのだから。
× × × × ×
出勤し共有を確認した。めぼしい情報はなし。
被害者の聴取担当によって、犯人の似顔絵の作成が行われていた。その絵を確認したが、冴えない男という印象で、あまりピンとこなかった。少なくとも、彼に似た人物の目撃情報は今のところない。榎沢も知人ではないというが、顔の広い彼女のことだ、覚えてないだけで面識や関わりがある可能性も十分あった。
× × × × ×
午前中、私たちは会議に参加することになった。
会議場になる芝署は近くなのだが、そちらには赴かずいつもどおりオンラインでの参加になった。移動の手間と時間を惜しめと砂押さんに言われたのだ。
会議は、今後の捜査方針と共有されていない情報の確認が主だった。
参加人数は少なかった。私以外で五人だ。ほか二人は出ていて戻れないとか。
画面越しで見る芝署の会議室に、見覚えのある参加者はいない。そのことに、少しだけ安堵した。
隣りに座った神前さんは、いつもと同じ難しい顔をしていて、何を思っているかはわからなかった。
被害者の榎沢は直近、金属の食刻を行っているアテリアメッキと、支払いの件で揉めたことが判明した。
検収日が約束と違うとか、支払日の設定が違うとかで、相手方の先日付小切手の銀行持ち込みのタイミングが示し合わせた日より早くなってしまい、不渡りが出た。
その上、請求金額が多かったとか請求書に誤りがあったとかで、揉めに揉めている。
榎沢は、社内での伝達ミスでうまくいかなかったと相手方に謝罪しているが、相手方は怒りが収まらず。連日榎沢と、彼女の上長は対応に追われていたという。
アテリアメッキとしては、被害者が保身のための言い逃れをしているように感じられただろう。
ここにも、濃塩酸は卸されている。
この会社の薬品の保管状態と、人の動きを確認するという方向に決まった。
また、被害者自身への聞き込みと、私達のメッセージの確認作業で、榎沢はここ一月ほどとある男性から「死ね」「殺すぞ」という脅迫じみたメッセージを何度か受け取っていたことがわかった。あの猥褻文章の男性二人とは別にだ。
それもあっさりブロック設定に切り替え、彼女は無視していた。
以前、付き合いで参加したパーティーだかコンパだかで知り合った相手らしいが、そういうトラブルが何度かあってから、面倒を感じて、異性との出会いは結婚相談所の斡旋に頼ることにしたらしい。
「慣れていたのが、問題だったんでしょうか」
私は渋面で呟いた。
理由は様々考えられるが、彼女はどうも、こういうトラブルに巻き込まれやすい性質があるようだ。
こういうメッセージがあったことや、会社に男が待ち伏せしていた時点で、警察に相談していたら、違っていたかもしれない。
待ち伏せされていたときは、その場で男と話をして、帰ってもらったのだという。説得できる相手とそうでない相手がいることはわかっていただろうが、説得を試みること自体にリスクが有ることを彼女は正しく把握していただろうか。
仕事柄、トラブルの対応も慣れていて、私生活でもトラブルがあってもこれまではなんとかなっていた。
実際に胸ぐらをつかまれて殴られるような、命の危険にさらされることはなかったので、そのままきてしまった。
こういうことに変に場慣れしてしまったせいで、逆に警戒心が衰えていた可能性もある。
「被害者自身もそう言ってるな。声をかけられたときいつもと同じようなつもりでいたら、こんなことにって」
砂押さんが顎を撫でながら答えてくれた。彼は私の隣りに座って、渋い顔をしてディスプレイを眺めている。
「そういうことがあったとき誰か、相談を受けてくれる友人とかはいなかったんでしょうか」
「そもそも、相談するつもりがなかったのかもしれない。女性の親しい友人は、会社の後輩が一人だった。友人は榎沢がそんな脅迫状のようなものを受け取っているとは思わなかったとさ」
「榎沢が、警戒していなかったのか、それとも友人に話すのを憚ったのかのどちらかですか」
神前さんはこめかみを掻いた。砂押さんが、軽く首を傾げて答えてくれた。
「セキュリティがしっかりしているところに住んでいるし、結婚相談所には身元照会がしっかりしているところを選んでいるし、大丈夫だと思ったらしい」
その嫌がらせメッセージを送ってきた人間、それから待ち伏せしていた男にまずは当たるということで話がまとまり、会議が終わり映像が途切れた。
私達も機材を手早く片付けていく。
「今日はこれから、神前と三小田が外。所轄とやりとりしながら進めてくれ。俺は今日は中の作業をする。宿題が山ほどあるんだよ」
「中の方を私達がやったほうがいいのではないですか?」
これまで所轄の担当者たちとのやり取りなどは、基本的に砂押さんがやってくれていた。彼が私達の取りまとめ役だからというのと、やはりよそとの折衝は、それなりのものが求められるからだ。交渉力や協調性などが。
砂押さんは、確認するように神前さんにむかって顎をしゃくってみせた。
「いや、神前に任せる。できるだろ」
その口調に挑発的な部分はなかった。
私は軽く目を見張った。
「わかりました、やってみます」
神前さんは鷹揚に頷いてみせた。
彼らは会議が終わると連れ立って喫煙室に入っていった。小柄な砂押さんとでかい神前さんが並ぶと、正しく凸凹コンビな見た目で面白い。
駒田の事件の時は、彼が暴走しないようにって言ってた人だったんだが。なにか心境の変化があったのかなあ。
男の友情とかそういうものか。ちょっと疎外感があるけど、そういうことなら仕方がないか。
× × × × ×
今日のお昼はどうしようと、財布を片手にふらふらオフィスを出ると、向こうからやってきた久慈山さんと目があった。手を振られたので、私も振り返す。
「三小田さん、今日お昼一緒にどう?」
当然、歓迎だ。
彼女と近場の食堂に入った。
今日の日替わり定食はチキン南蛮、日替わり麺は刀削麺だった。刀削麺は前に食べた時イマイチだったので、チキンにする。
私達は窓際の席に座った。お店はそこそこ混んでいて、見知った顔もちらほらあった。徒歩圏内だと顔見知りに会うのはもはや避けられないのだろう。
正面に座った久慈山さんは、珊瑚色というのか、黄み帯びたピンクの硬化蛋白質ネイルを爪にあしらっていた。モーブカラーのアイシャドウがよく似合っている。
「あっという間に秋だね。ようやく衣替えしたわ。コートに虫食い穴見つけてショックよ」
「久慈山さん忙しかったんですよね、もう落ち着きそうですか?」
「あと一息ってとこかなぁ。あ、この前の差し入れありがとう、美味しかったよー」
彼女が捜査本部が立った案件で、晩夏からずっと走り回っているのは知っていた。あまりに忙しそうで、声をかけるのをためらうほどだった。
「季節の変わり目ですし、無理なさらないでくださいね」
「平気平気。私、元気が取り柄だもの」
おおらかにそう言って、彼女はにこっと笑った。
「そういえばごめんなさいね。ほら、映画一緒に行こうって言ってたのに。延び延びになってて」
「いいですよ、そんな」
「チケット二枚あるから、神前くんと行きなよ。デートで」
「えっと……」
今のところ、誰にも神前さんとお付き合いしていることは言ってないのだが。
久慈山さんにも言わないのは水臭いかなと思いつつ、タイミングを逃していた。
「いつも断られるんだけど、神前君に紹介してほしいっていう友だちいて、とりあえず打診したら、彼女できたっていうからさー。ごめん、カマかけた」
にやっとされて、私は小さくなる。気まずい。顔が熱くなってくる。
「すみません、言いそびれてしまって」
「謝ることないでしょ! 安心して。他に喋ったりしないから。ところで、どっちから誘ったの?」
ぐっ。目をきらきらさせて聞かれても困る。
言葉に詰まっていると、彼女は両手を合わせて頬に当てた。そういうポーズがまた似合う。
「神前くんでしょ。絶対」
「あはは」
あれはどっちとも言えないような。強いて言えば両方では。
言うのも恥ずかしいので、笑ってごまかすことにした。
ふっと真剣な顔になって、久慈山さんは姿勢を正した。
「ところで神前くんが異動したときの話は聞いた……よね」
「ええ、本人から聞きました」
「そっか、よかった。ほっとした。これで私も安心しておせっかいおばさん辞められるわ」
「おせっかいだなんて」
久慈山さんのおかげで、神前さんと向き合うきっかけができたと思う。感謝しているくらいだ。
「ありがと。そう言ってもらえてよかったわ。正直、いい加減ちょっかいかけるの止めなきゃって思ってたんだ。三小田さんに神前くんのことお願いしたりとか、彼からしたら鬱陶しかったかなあって」
「久慈山さんと神前さんの仲良しさには、ちょっと妬きます」
冗談めかして言ってみたものの、多少本音も混じっている。このひとは私の知らない彼を知っているんだなと思うと、ちょっとだけ羨ましい。
彼女は軽く目を伏せた。
「仲がいいんじゃなくて、私が面倒見てもらってただけだよ」
どういうことだろう。私は首を傾げた。
「私、こんな性格だから、芝署時代に先輩に目をつけられちゃって。仕事はかなりやりづらかったんだよね、署では完全に浮いちゃって。腫れ物扱いってやつ。普通に接してくれる人もいたけど、辛かった。で、その普通に接してくれたのが同期では神前くんと、あと木下くんだったんだ。嬉しかったなー。その後すぐ異動になって、それからは気持ちがすごく楽になったの」
彼女は湯気をたてなくなった紅茶を少しだけ飲んだ。
「だから、あの二人があんなことになっちゃってショックだった。元々、木下くんって人に絡むのが好きというか、面倒くさい部分があってさ、神前くんがそれを受け流してる感じがあったけど、そんなに深刻に仲が悪いわけじゃないと思ってた。仕事ではふたりとも真面目だったし、息があってるときだってあったの。木下くんは神前くんを弟みたいに扱ってた。それが、木下くんより先に神前くんが希望の部門に行くことが決まって、亀裂が入っちゃったのかな」
以前、彼女と話をしたことを思い出した。
プライドの問題。それなのだろうか。
「私は神前くんには恩もあるし、力になりたかったんだけど、異動してきてからは話しかけても返答は業務連絡みたいだし、飲みに誘っても全然乗ってくれなくて、途方に暮れてたんだよね」
そんな経緯があったのか。
「だから、神前くんが元に戻ってくれて、本当に嬉しい」
彼だって、久慈山さんの存在をありがたく思っているはず。それがちゃんと彼女に伝わっているといいんだけど。
私は冷えてしまったスープを飲み干した。
0
お気に入りに追加
90
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる