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第二章 初夏

劫火 後

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 いつの間にか、たくさんの人に囲まれていた。制服、私服、鑑識の作業着。

 一番前に出ていた禿頭の男性の制服警官が、緊張しきった顔をして、私の背後の人物に話しかけていた。離せとか、十分だとか、今ならまだ間に合うとかそういうことを。
 背後から聞こえる息は、手負いの獣のものだ。人の言葉なんて理解できないはず。

 背後の男に押され私が一歩前に出ると、人垣が一歩下がった。
 そうやって一歩ずつじりじり前進した背中の男は、敷地の外に走るのではなく、エレベーターに乗り込んだ。十六階のボタンを押すが、反応しない。屋上階に出るには、パネル下部の穴に差し込む鍵が必要なようだった。彼は瞬時に十五階のボタンを押した。焦っているだろうに、冷静な対応だと思った。
 エレベーターのドアが閉まると、追いすがるように何人かがドアに向かってきたけど、箱になだれ込んでくるなんてことはなかった。
 
 エレベーターの中には鏡があって、拘束されている自分の姿が見えた。
 背後の男の顔も。成長し、人相もだいぶ変わったが、駒田だ。頬のラインは変わってない。最前、録画映像で見たのより、追い詰められた表情をしている。もはや土気色の顔。彼の足の負傷の程度はわからないが、かなりひどいのかも。それだけでなくて、精神的な疲労もあるはずだ。

 エレベーターはかすかな振動とともに上がっていく。
 なぜ彼が外へ逃げなかったか、思い至った。
 もはや逃げ切れないと悟ったんだろう。怪我をしているし、警察に囲まれている。だから、終わらせる。

 そこまで考え、つうっと冷たいものが背筋を撫でていった。

「自首を、自首をして。何人殺したって無意味よ。石川紗奈絵は戻ってこない」

 婉曲な命乞いをすると、鎖骨の上に冷たいような熱いような感覚があった。血がたらりと垂れるのが鏡で見える。
 興奮して彼の息は荒くなっているが、それだけだった。話す気はない。交渉の余地もない。
 だからといって、黙ってもいられない。

「佐々木たちがしたことが許せなかったのはわかる」
「あんたにはわからねえよ。絶対に。それともレイプされて写真撮られて脅されたことあるのか? 毎日嘲笑されておもちゃにされて死んだらせいせいしたって言われる。そういう扱い受けたことあるのか。え?」

 初めて聞いた彼の声は、冷え切って掠れていた。
 怪我をしている脇腹を小突かれて、私は呻く。吐きそう。なんとか声を絞り出す。

「でも、あなた、が、こんなこと、する、のは」
「俺が…俺のしてやれることは、これくらいしかなかったんだ。それさえも、もう……」

 吐き棄てられたその言葉が、頭のなかで何度も反響して消えた。

 この人は、自分を責めていたのだ。
 自分がなにかできたのではないかと思い悩んできた。考えるだけ苦しくなるイフの世界をさまよい歩いてきたんだろう。絶対にたどり着けない、石川紗奈絵が生きているという未来を目指して。
 罪悪感がそうさせる。無力感がそうさせる。
 もはや生に期待も執着もなく、金田も殺すこともできない自分に価値はない。だから死ぬ。他のこと、たとえば私の生死なんて、些事。

「ねえ、聞いて、私は……」

 エレベーターのドアが開いた。十五階だ。

 秦野の部屋の捜査に来ていた捜査官たちが、緊迫した面持ちで待ち構えていた。三メートルほどの距離を置いて、こっちを見ている。
 駒田は私を引きずるようにしてエレベーターから降りると、人が少ない方を選んで進んだ。彼に睥睨されると、強面の捜査官たちですら気圧されて立ちすくんだ。放射熱のような彼の殺意が、私のうなじを焦がす。

「駒田、よせ。彼女を離すんだ。彼女は無関係だろ」

 声をかけたのは、知らない男性警察官だった。年齢的にベテランであろうその制服を着た人が、緊張した面持ちをしている。額に光っている汗は、暑さによるものかそれとも冷や汗か。
 無視して駒田は外廊下を歩くと、手すりを背にして私を引き寄せた。
 中庭に面した手すりの高さは私の胸ほどあって、無理やり乗り越えようとしなければ安全な高さだ。

 そう、無理やり乗り越えなければ。

 首筋に引きつるような痛みがある。興奮した彼の手が震え、ナイフが皮膚に食い込んでいるのか。あとひと押しで、死ぬかもしれない。足が震えたら、自分でそれを手助けすることになる。唇を噛み締めて、考える。最善策を。
 たとえば私が、柔道とか空手の有段者で、この場で駒田をうまく確保できたら格好いいけど。そんなの絶対に有り得ない。
 言葉で誘導できるとも思えない。さっきから呼びかけ続けている男性の声は、完全に駒田の耳に入っていない。

 ……もう、だめなのかな、私。

 じわ、と諦念が胸に湧いた。
 最期の景色を目に焼き付けるため視線を巡らせる。

 はっとした。
 距離を置いてこっちを見ている人たちの中に、見覚えのある顔があった。
 見慣れた、鋭い視線。背後の駒田並に怖い。あの顔にほっとする日が来るなんて、人生分からない。しかしながら、私はもう、この人が結構中身は普通だって知ってる。できればもっと色々話をしてみたかったけど。もうそれも望めないのか。

 多分、私は泣き笑いの状態だったと思う。それまで必死こいて我慢していたものが吹き出しそうになって。

 ねえ、神前さん、この人、死んじゃうつもりなんですよ。どうにかしてくださいよ。せっかく私、気持ちも整理してこれから人生楽しもうと思ったのに、これはないんじゃないですか。会社なくなっちゃったり、結婚約束した元カレにあっさり捨てられたり、挙げ句の果てには巻き込まれで殉職なんてちょっと散々すぎません?

 あまりにもマヌケな言葉が喉元まででかかる。きっと彼なら聞いてくれるんじゃないかと期待して。

 神前さんが、ゆっくりと頷くのが見えた。
 お前が思うことをしろ、と言われた気がした。
 涙はそれで引っ込んだ。
 視界がクリアになる。

 そうだ。ようやく重い軛から解放されたのに。こんな痛くて怖い思いするだけして、ただで死ぬなんてごめん被る。

「駒田、早まるなっ」

 さっきの男性警察官が声を発したときだった。
 自分の背中に当たっていた駒田の胸が、ふっと膨らむのを感じた。
 驚愕の表情の同僚たちの顔が見えた気がする。走馬灯なのか、やたらはっきり、ゆっくりと。

 私は、体をひねった。
 後ろ手で駒田の衣服を掴み全体重をかけ、前に倒れようとする。腕が軋んで指先がぐっと熱くなった。腹部に激痛が走る。
 後ろ向きに反り返ろうとする駒田の右足に、思いっきり蹴りをいれた。

 喜ぶべきか残念に思うべきか、ここ最近ウエイトが落ちていた私は、駒田の体重に引きずられて足が浮いた。

 あ、しくじった。月が見えた。落ちる。

 ふわっと嫌な浮遊感が胃の腑を襲う。その瞬間をとても長く感じた。実際は、駒田が低いうめき声を上げるだけの短い時間だったというのに。
 ふと時間感覚が等速になり、全身をもみくちゃにされる。瞼の裏がスパークするほど強い衝撃が脳天に走った。自分の頭蓋骨がゴンっと鳴る音がした。

 死んだらしい。あーあ。
 しかし、想定より痛くないからラッキーだったのか。

「いたっ……」

 思った途端に激痛が腕に走って、私は目を開けた。
 そして硬直した。
 眼前に、茫然とした顔の駒田がいた。彼と目が合う。
 何があったか理解できず、私も駒田も瞬きを繰り返していた。
 彼の背後には、タイル敷きの床。ナイフを持っていた方の腕を掴み上げられて、仰向けに倒れ込んでいる。
 私は彼を上から覗き込む形で、立っていた。
 駒田の頬に、ぼたぼたと赤いものが溢れる。それが血だと理解し、反射的にその発生源を目で追った。駒田の腕を掴み上げている手、そのさらに先が源泉で、それは誰かの腕だった。腕の先に居たのは、神前さんだ。

「確保っ! 確保だ!」

 怒号とともに、私と駒田の間に人が殺到する。あっという間に駒田の姿は見えなくなって、叫び声だけがこだました。

 私は、神前さんに肩を抱きかかえられる形で、辛うじて廊下に留まっていた。
 どっちが凶悪犯かわからないよ、と言いたくなるような顔をして、ぎろりと彼がこっちを見る。当然、私は身を硬くした。
 両手でがっと肩を掴まれ、間近から顔を覗き込まれた。と思ったら、顔面から首肩背中、挙句は胸から背中、尻まで手荒にまさぐられる。シャツを破く勢いでめくられて、腹部の傷口を露出させられた。
 あまりの荒っぽさに悲鳴を上げた。

「痛い痛い! 神前さん痛い! ていうかやめてっ! 変なところ触らないでください」
「このっ、馬鹿がっ!」

 肌がびりびりするほどの怒声を至近距離からぶつけられて、私は縮み上がった。

「何考えてやがる、刃物持った相手に自分から掴みかかるなんて、死にたいのかっ」

 うああ、仁王様降臨だ。完全に怒ってる。
 恐怖からその場を離脱しようとして、動けなかった。
 指、めちゃくちゃ痛い。今になって肩も腕も痛んでくる。何よりお腹が熱い。こめかみがずきずきする。やたら視界が赤く目も痛む。

「馬鹿はお前だ小僧」

 すぱーんと、神前さんが後ろから頭をひっぱたかれて、ぐるぐる唸りそうな顔で猛然と振り返った。
 神前さんを叩いたのはさっき、駒田に語りかけた人だった。呆れ顔をしている。
 彼は神前さんの左腕を掴み上げた。裂けた上着から覗く手首を伝い、その指先までべったりと血が滴っている。ぼたぼたと音をたてる勢いで、赤い水玉模様が床に生まれた。

 私はぎょっとした。そうだ、あまりにいろいろ有りすぎて、頭からその事実がすっぽ抜けていたけど、さっきから彼まで出血している。

「け、け、怪我したんですかっ」

 彼は舌打ちしてこともなげに腕を振った。ぴゃっと血しぶきが床にできた。私は総毛立つ。

「大したことねえよ。こんなもん」

 心配で、駆け寄って彼を支えようと思ったんだが。
 滅茶苦茶腕が痛くて、もう一センチだって上がらない。動かそうとすると、奥歯で銀紙を噛んだような気分になる。

 神前さんを引っ叩いた男性警官はため息をついて、今度は私の腕に絡んだジャケットを外してくれた。そして鼻で笑う。これは神前さんに向かってだ。

「なにやせ我慢してる。そこでおとなしくしてろ、今、担架来るから。ちゃんと押さえてろよ、出血多すぎるとぶっ倒れるぞ。女の子の前で醜態晒したくはねえだろ。お前みたいなでかい奴担ぐのは、おれは御免だからな」

 神前さんは仏頂面で、大丈夫ですよとぼそっと言った。無事な方の手で、首の後を掻く。腕を上げ広がったジャケットの前から覗くシャツに、赤いものが見えた。

「か、か、神前さんんん! 血ぃ! シャツに血が! お腹も刺されたんですか?!」

 私は、もう立っていられなかった。腰に力がはいらず、べちゃりと床に這いつくばる。

「あー……? いや、これはお前の血だろ」

 シャツを引っ張って確認した彼は、呆れ顔を作った。
 さっきの男性警官がしゃがみこんで私の顔を覗き込んだ。彼に額を触られると、びりりと激しい痛みが走る。

「あー、額ばっくりいってんな、さっき相当いい音出してぶつけてたもんな。これはひどい。動くなよ、脳震盪も怖いし。腕も首も出血してるし、腹は……よかった内臓は出てなさそうだぞ。手で傷口押さえて、そこで横になってろ、担架来るから」

 なーんだ私の顔拓かあ。
 そうわかった途端、ふっと意識がとんだ。
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