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第二章 初夏
不運 前
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翌日の土曜日。朝は軽く胸焼けしていたけど、ぐっすりと眠れたので、疲れはだいぶ抜けていた。腕は予想通り、筋肉痛だった。
午後から会議があって、私たちはいつも通り会議ブースからのオンラインでの参加となった。
砂押さんと鹿瀬さんは、リアルで参加しているそうだ。
板橋の被害者宅を出たあとの犯人の足取りは、ぷっつりと途絶えていた。追えたのは、マンションを出るところまでで、マンション同士の狭間の隘路に潜り込んだあと、二度とカメラの撮影範囲に戻ってこなかった。
神前さんが報告を上げた、石川紗奈絵の件も報告があった。
彼女は、二年前に死亡していた。自宅で自ら首を吊って。
七年前の事件後、彼女は家族とともに群馬県に転居している。
その石川紗奈絵と、今回の事件の被害者二人は、濃い接点があった。
同じ学年。そして、同じクラスだったのだ。
これには、会議室がざわめいた。
「石川の件だが、気になるものを発見した」
立ち上がって話し始めたのは、学校側に聞き込みに行った捜査官だった。
「彼女は、いじめを受けていたようだ」
彼が手元の端末を動かして、ディスプレイに表示されている資料を動かした。昔のニュース記事だった。
「あの七年前の事件の記事だ。二件、こんな記事があがっていたが、結局その後すぐに起きた汚職事件にかき消されて、あまり話題にならずに終わったらしいな」
五百文字にも満たない小さな記事は、『女子高生暴行事件、発端はいじめ?』というタイトルだった。被害者の名前は伏せられていたが、被告人の秦野の名前は公表されていた。
記事によれば、被害者は学校でいじめに遭っており、無理矢理書き込みさせられた可能性があるということだ。
しかし、続報はなく、記事はそれだけだった。
「学校側に確認すると、その疑いは把握していたということだった。だが、この件は詳しい調査が入る前に、被害者たちが転居して、うやむやに終わっていた。それ以上騒ぎ立ててほしくないと、被害者側も強く希望したらしい。書き込みは石川の意思。その後気が変わったと説明していたそうだ。当時の事件の担当者にも話を聞いたが、石川自身がいじめはなかったと全否定し、自分の意思で、自分の端末から書きこんだと述べたという。念の為、端末を確認したが、サイトへのアクセス履歴や指紋等の物証も矛盾はなかった。しかしながら学校側の把握していた、いじめていた側の中心人物に、佐々木と湯沢の名前があがっている。本件と、過去の事件、そしていじめの件になんらかの関連性があると考えられるのではないか」
石川の両親に捜査官が話を聞きに行ったが、もうほじくり返してくれるなという態度だったという。ちなみに両親ともに事件前後のいわゆるアリバイは完璧だった。
「学校が個別面談を検討していた人物のリストはこれだ」
端末に共有されたリストには、三人の名前があった。
湯沢、佐々木、そして金田。
「三人目に名前があがっている金田逢花だが、まだ連絡がとれていない。今朝、近隣に住む両親に、友人のところへ行くと言い残し、市川の自宅を出ていったらしい。会いに行った相手は不明。会社には休みの連絡があったそうだ。今、彼女の家に捜査官を向かわせている。以上」
もし、石川の事件の発端がいじめだったなら、かなり悪質だ。
書き込みを本人にさせれば、指紋などの物的証拠があがらない。
たとえば、言うとおりにしないともっと酷い目に遭うぞ、などと脅したりし得た心理的な拘束力で、彼女を隷属させ、そのまま秦野の元に送り込んだとしたら。
自分で考えて、嫌な気分になった。
「では、この二件の殺人は復讐目的ですか」
若い刑事が手を上げてから発言した。会議の場は静まり返っている。誰も否定しようとしなかった。
復讐。私は顔をしかめた。
「犯人はこの石川紗奈絵の恨みを晴らそうとしている、ということですか」
私の囁きに、隣席の神前さんが、小さく頷いた。
「両親は、アリバイがあったと」
「それ以外の人物という可能性はある」
「彼女には、友人がいたんでしょうか。いじめられていたのに。もしかして、学外にとか? あるいは中学時代の同級生とかでしょうか。それにしても、行動に出るのが遅いしやり過ぎではありませんか」
「ときには赤の他人なのに正義の味方ぶって鉄槌を下そうとする勘違い野郎もいる。自分が刑の執行人になったような気分でな。……別に自虐じゃねえぞ」
「わかってます」
その発言こそ、まさしく自虐的だ。
もし神前さんの言うとおりだとすると、被害者の人間関係から犯人にたどり着くのは難しい。
会議はお開きになり参加者がぞくぞくと部屋を出て行く。それを見送って、私たちも席を立った。
「……深く踏み込むのが嫌な事件ですね」
「警察が出張るような案件で清々しいもんは、ほぼゼロだろ」
「それはそうですが」
当たり前の回答に、私はちょっとむっとした。そういうことを言ってるんじゃないのに。
「むしろその、ぎりぎりゼロにならない要件に当てはまるのは、どの件ですか」
憂さ晴らしに、彼の揚げ足を取る。
神前さんは頭を掻いて、昔を思い出すような顔つきになった。
「俺が担当したなかには、独居老人の家に押し入った強盗が、家主の爺さんにナタで脅されて、自分で警察呼んだってのがあった。死傷者ゼロ」
「それはただのコントでは」
「爆発音がして、すわガス爆発だ発砲だとまくしたてられ駆け付けたら、冷蔵庫で炭酸飲料を凍らせて破裂させただけとか」
「だから、コントですよね? それって事件って言えないじゃないですか」
「そういうバカみたいな通報もあるんだよ、嘘じゃねえぞ」
「疑ってませんよ、別に」
真面目な顔でそんなことを言うんだもんなあ。
なに考えてるんだか。思わずくすりとしてしまった。
× × × × ×
午後六時半。こんな時間に帰宅することになったのには、事情があった。
泊まり込みで捜査を続けていた鹿瀬組にも休息が必要だという判断で、今晩から私と神前さんがビルに泊まり込むことになったのだ。
荷物を取ってすぐに戻ることになっている。
なのに運悪く、私の通勤で使っている路線は、架線トラブルで前線運休中。
ちょっと歩くが、いつもとは異なるルートで帰ることにした。中野駅経由だ。
電車内で、このルートなら、佐々木のアパート近くを通過することを思い出した。どうせならと、前を通ることにする。
確認したいこともある。
行方がわからない金田を探すため、捜査官たちは彼女の友人に総当たりで連絡している。今の所、手がかりはない。
でも、捜査官がまだ連絡していない友人が、二人いる。いた、というべきだろうか。
佐々木と湯沢だ。
数日間、全国版のニュースで大々的に報じられているこの事件を、金田が知らないとは思えない。友人二人が殺されたと知って、会社まで休んでのほほんと遊びに行くだろうか。
金田は、友人たちの訃報を聞いて、現場に向かったんじゃないか。
思いつきを話してみたところ、鹿瀬さんが所轄に話をしてくれた。所轄の人もそれは思いついていたようで、即座に両現場へ人をやってくれたのだが、空振りだった。
行き違いになった可能性もある。
いずれにせよ、近くを通るなら、念の為足を伸ばして確認し、手も合わせようという算段だった。
駅を出ていくらもしないうちに、曇天からぼたぼた大粒の雨がこぼれだした。太い道路を横断している途中でバケツを引っくり返したような夕立になる。
ここ数日は持ち直していたが、しばらく雨続きだったので、折り畳み傘は常備している。バッグから取り出したそれを差して、端末で経路を確認しながら歩いていると、傘無しびしょ濡れの学生服の子どもたちが笑いながら駅の方へ走っていった。元気だなあ。
雨で濃く色が変わってしまった桃色のカーディガンを着て、前が見えるのかと疑問なくらい眼鏡にいっぱい水滴を付けた女性や、ネギをバッグから突き出した状態でタオルを頭に乗せ、しゃきしゃき歩くおばあちゃんとすれ違いながら、目的地を目指す。
古い商店街があるからなのか、どことなくのどかな雰囲気がある街だな、なんて思いながら。
現場アパートの前には、誰もいなかった。
アパートの敷地前に、花やお酒、お菓子なんかが小山になって供えられている。
急な雨に、弱っていた花は花びらを散らし、飲食物のパッケージは珠になった雨粒を乗せている。
最奥の一〇三号室前には、黄色いテープが貼られていた。昼間なら警杖を持った制服警官が立っているかもしれないが、現場検証も済んでいるし、夜は無人のようだ。
私は傘を肩に挟んで、ドアの前で手をあわせて黙祷した。
いろいろなことが頭に浮かんで消えていく。余計なことを考えそうになり、切り上げることにした。
ぱっと顔を上げたタイミングで、敷地の入口眼の前の一〇一号室から、年配の女性が顔を出した。傘を二本持っている。
彼女は私の顔を見、視線を下げて私の手を見て、悼むように目を伏せた。
私も黙礼する。
敷地を出たところで、その女性が、お供え物の小山に傘を差し掛けてあげていた。
「ありがとうございます」
私がついそういうと、白いものが混じっている髪を掻き上げ、彼女は首を横に振った。
「酷いことが起きちゃったわね。あなた、あのお嬢さんのお友達ですか?」
「いえ、仕事で関係があって」
「そうなのね。ほとんど話したこともなかったけど、やっぱり、若い子が亡くなるのって嫌なものよね。さっきも、お花持ってきた女の子が、びしょ濡れになって手をあわせていたわ。早く犯人が見付かってくれるといいんだけど」
言いながら、彼女は自分のハンドタオルを使って、お供え物のお菓子やお酒の上に溜まった水滴を払ってやる。
私もしゃがみこみ、同じことをした。ハンカチで、手近なところにあった、手紙と思しき二つ折りの紙片を手に取る。濡れてふやけたそれをそっと拭いた。
中を見るつもりはなかった。しかし簡単に二つ折りされたそれの口は薄く開いていた。
視界に飛び込んできた短い文字列が、見なかったふりをしようとする前に意味を成して私の脳に焼き付いた。
『みつき。ごめん、私のせい。あいか』
手帳の一ページを破って書き記したものだった。ちぎられた部分はぎざぎざしている。
「それ、さっきの子が泣きながら書いてて。見てて辛くなっちゃった」
「あの! その人って、どんな人でした? いつ頃、どっちへ行きましたか? あ、ええっと、私、警察のものです」
手帳をジャケットから引っ張り出して勢いよくにじり寄ったせいで、女性はぎょっと後ずさった。それでも、視線を一度上に向けて、考える素振りをしてくれた。
「ええと、十分くらい前に、そっちへ言ったわ。駅に向かうんじゃないの。薄いピンクのカーディガンを着た、二十代くらいの、細い子。髪の毛は長くて黒くて、赤い眼鏡をしてたけど……」
薄いピンクのカーディガン。
ちり、と後ろ頭のあたりが疼いた。
「ありがとうございます!」
「あ! あなた、傘!」
落ちた傘を拾っている余裕はない。
私は駆け出した。まだ間に合うだろうか。
ぶり返した靴ずれの痛みに耐えながら、全力で腿を上げた。一分もせず息が上がる。
端末で神前さんを呼び出したが移動中なのか出なかった。仕方なく、鹿瀬さんに連絡する。三コールでつながった。
「鹿瀬さん! 金田逢花がいました! 佐々木のアパートに顔を出していたみたいです! 今、追いかけてます」
走りながら話すって、苦行だ。口の中に雨が入り込んで気持ち悪い。
酸欠でぜえぜえ言いながらなんとか状況や金田の服装、行き先の予想を説明すると、
「よしわかった、駅の方へ連絡する。三小田も、追いかけてくれ」
鹿瀬さんが冷静にそう言った。
やっぱりそうなるよね! と嘆く余裕もなく通話を終了し、私は弱まった雨の中を突っ切って、駅の前の大きな道まで出た。
太い道が、ちょうど赤信号になってしまう。
ラッシュが始まった駅に、沢山の人が吸い込まれていく。ほとんどの人が傘を差していて、視界を遮る。
それでも、私の目は、ピンクのカーディガンを着た細身の後ろ姿を捉えていた。道の向こう、駅の改札に向かって歩いている。雨でずぶ濡れな彼女の背中は、今にも消えそうなくらい儚い。
信号が長くて焦る。早く早くと膝に手を突いて息をしながら、信号を睨む。
周囲の人が不審そうにこっちを見てる。気持ちはわかる。
車道の信号が赤になった途端、私は駆け出した。
保育園時代に、見切り横断は駄目、青信号を待とうねと教えてくれた優しげな女性の警察官の顔が急に頭の中に蘇る。
滑り込みで無理やり通過しようとした車が、タイヤを鳴らして急停止し、クラクションで私に抗議する。その鼻先をダッシュで通過。
タイルの凹みにできた水たまりを踏み越え、改札のゲートを踏み越えた。警告音と共にバーが下がるが、腿を強打しながらも突破する。転ばなくてよかった。
立ち当番の駅員が、いかめしい顔をして、こっちに体を向けた。
警察です! と格好良く宣言する息は残ってなくて、私は手帳を突き出して彼に見せた。駅員が嘘だろ、という顔をしたのを視界の隅にとどめ、走る。
人でごった返す構内で、走りながら金田の住所を思い出す。乗る線を予測して、そっちのホームへ駆けた。
よかった、さほど乗り入れの多い駅じゃなくて。それでも私は今にも吐きそうなほど息苦しく、下手したら過呼吸でも起こすんじゃないかというくらいの状態。
濡れたタイルで滑りかけながら、目当てのホームへ続くエスカレーターまでたどり着いた。
エスカレーターは長蛇の列。階段を選択する。十段登って後悔する。腿が上がらない、こんなことならエスカレーターに乗るんだった。ちょうどホームに到着した上りエスカレーターの先端に、目当ての人物の後ろ姿を認めたのに。
電車到着の音楽が聞こえてきた。乗り込まれたら、見失う。
神前さんのスパルタのせいで体中ガタガタだよ、と心中で文句を言いながら、階段を登り切った。
二両先の入り口に並んでいる彼女の姿を見つけた。乗り込む直前だ。出発の音楽も最終小節。無理、走っては間に合わない。
恥ずかしいとか、そういうことが思いつかないくらいには必死だった。
「金田さぁああん! 金田逢花さああんっ! 待ってぇえ!」
絶叫は声が裏がえって、酷い有様だった。
生涯で一度も出したことないというような大声だ。喉が裂けそう。
酸欠で白っぽくぼやけた視界の中、乗客が乗り込み、電車のドアが締まった。ぷしゅーっと無情な音がして、私はがくり膝を突いた。
駄目だったか……。これだけなりふり構わず走ったのに、なんてこった。
額から滴る雨とも汗ともつかない水分を、手の甲で拭う。ぜっぜっぜっぜと、自分で心配になるような怪しい呼吸音にあわせて、暴れ馬状態の心臓が跳ねている。学生時代だってこんなに必死に走ったことない。でも、目的は果たせなかった。無様だ。
ふと視界が陰って、顔を上げた。
「あの……」
困惑顔の、金田逢花が上から覗き込んでいた。ぐっしょりと濡れたカーディガン。水滴を拭った眼鏡の向こうの顔は、会議で提示された彼女の高校時代の顔写真の面影がある。憔悴しきってはいたけれど。やはり、雨の中道ですれ違った女性だった。
不審な女の呼びかけで立ち止まるなんて、根は素直なのかしら、などととっちらかった頭で思った。
「あ、……わたっ、げふっ、えと、……けいさつ、です」
爆発しそうな呼吸を落ち着かせながら、震える手で手帳を提示した。
私の声をかき消し、男声のアナウンスがホームに響き渡った。
『ただいま、お客様のお忘れ物を探しております、出発まで今しばらくお待ち下さい。ご迷惑をおかけして申し訳ございません』
車両のドアが再度開き、ホームの向こうから制服警官が二人走ってきた。なにか話しながら、手元の端末と私の傍らに立つ金田の顔を見比べている。
……もしかして、これ、私がここまでやらなくてもよかったパターン?
泣き笑いの状態で、私はふにゃふにゃと脱力した。
午後から会議があって、私たちはいつも通り会議ブースからのオンラインでの参加となった。
砂押さんと鹿瀬さんは、リアルで参加しているそうだ。
板橋の被害者宅を出たあとの犯人の足取りは、ぷっつりと途絶えていた。追えたのは、マンションを出るところまでで、マンション同士の狭間の隘路に潜り込んだあと、二度とカメラの撮影範囲に戻ってこなかった。
神前さんが報告を上げた、石川紗奈絵の件も報告があった。
彼女は、二年前に死亡していた。自宅で自ら首を吊って。
七年前の事件後、彼女は家族とともに群馬県に転居している。
その石川紗奈絵と、今回の事件の被害者二人は、濃い接点があった。
同じ学年。そして、同じクラスだったのだ。
これには、会議室がざわめいた。
「石川の件だが、気になるものを発見した」
立ち上がって話し始めたのは、学校側に聞き込みに行った捜査官だった。
「彼女は、いじめを受けていたようだ」
彼が手元の端末を動かして、ディスプレイに表示されている資料を動かした。昔のニュース記事だった。
「あの七年前の事件の記事だ。二件、こんな記事があがっていたが、結局その後すぐに起きた汚職事件にかき消されて、あまり話題にならずに終わったらしいな」
五百文字にも満たない小さな記事は、『女子高生暴行事件、発端はいじめ?』というタイトルだった。被害者の名前は伏せられていたが、被告人の秦野の名前は公表されていた。
記事によれば、被害者は学校でいじめに遭っており、無理矢理書き込みさせられた可能性があるということだ。
しかし、続報はなく、記事はそれだけだった。
「学校側に確認すると、その疑いは把握していたということだった。だが、この件は詳しい調査が入る前に、被害者たちが転居して、うやむやに終わっていた。それ以上騒ぎ立ててほしくないと、被害者側も強く希望したらしい。書き込みは石川の意思。その後気が変わったと説明していたそうだ。当時の事件の担当者にも話を聞いたが、石川自身がいじめはなかったと全否定し、自分の意思で、自分の端末から書きこんだと述べたという。念の為、端末を確認したが、サイトへのアクセス履歴や指紋等の物証も矛盾はなかった。しかしながら学校側の把握していた、いじめていた側の中心人物に、佐々木と湯沢の名前があがっている。本件と、過去の事件、そしていじめの件になんらかの関連性があると考えられるのではないか」
石川の両親に捜査官が話を聞きに行ったが、もうほじくり返してくれるなという態度だったという。ちなみに両親ともに事件前後のいわゆるアリバイは完璧だった。
「学校が個別面談を検討していた人物のリストはこれだ」
端末に共有されたリストには、三人の名前があった。
湯沢、佐々木、そして金田。
「三人目に名前があがっている金田逢花だが、まだ連絡がとれていない。今朝、近隣に住む両親に、友人のところへ行くと言い残し、市川の自宅を出ていったらしい。会いに行った相手は不明。会社には休みの連絡があったそうだ。今、彼女の家に捜査官を向かわせている。以上」
もし、石川の事件の発端がいじめだったなら、かなり悪質だ。
書き込みを本人にさせれば、指紋などの物的証拠があがらない。
たとえば、言うとおりにしないともっと酷い目に遭うぞ、などと脅したりし得た心理的な拘束力で、彼女を隷属させ、そのまま秦野の元に送り込んだとしたら。
自分で考えて、嫌な気分になった。
「では、この二件の殺人は復讐目的ですか」
若い刑事が手を上げてから発言した。会議の場は静まり返っている。誰も否定しようとしなかった。
復讐。私は顔をしかめた。
「犯人はこの石川紗奈絵の恨みを晴らそうとしている、ということですか」
私の囁きに、隣席の神前さんが、小さく頷いた。
「両親は、アリバイがあったと」
「それ以外の人物という可能性はある」
「彼女には、友人がいたんでしょうか。いじめられていたのに。もしかして、学外にとか? あるいは中学時代の同級生とかでしょうか。それにしても、行動に出るのが遅いしやり過ぎではありませんか」
「ときには赤の他人なのに正義の味方ぶって鉄槌を下そうとする勘違い野郎もいる。自分が刑の執行人になったような気分でな。……別に自虐じゃねえぞ」
「わかってます」
その発言こそ、まさしく自虐的だ。
もし神前さんの言うとおりだとすると、被害者の人間関係から犯人にたどり着くのは難しい。
会議はお開きになり参加者がぞくぞくと部屋を出て行く。それを見送って、私たちも席を立った。
「……深く踏み込むのが嫌な事件ですね」
「警察が出張るような案件で清々しいもんは、ほぼゼロだろ」
「それはそうですが」
当たり前の回答に、私はちょっとむっとした。そういうことを言ってるんじゃないのに。
「むしろその、ぎりぎりゼロにならない要件に当てはまるのは、どの件ですか」
憂さ晴らしに、彼の揚げ足を取る。
神前さんは頭を掻いて、昔を思い出すような顔つきになった。
「俺が担当したなかには、独居老人の家に押し入った強盗が、家主の爺さんにナタで脅されて、自分で警察呼んだってのがあった。死傷者ゼロ」
「それはただのコントでは」
「爆発音がして、すわガス爆発だ発砲だとまくしたてられ駆け付けたら、冷蔵庫で炭酸飲料を凍らせて破裂させただけとか」
「だから、コントですよね? それって事件って言えないじゃないですか」
「そういうバカみたいな通報もあるんだよ、嘘じゃねえぞ」
「疑ってませんよ、別に」
真面目な顔でそんなことを言うんだもんなあ。
なに考えてるんだか。思わずくすりとしてしまった。
× × × × ×
午後六時半。こんな時間に帰宅することになったのには、事情があった。
泊まり込みで捜査を続けていた鹿瀬組にも休息が必要だという判断で、今晩から私と神前さんがビルに泊まり込むことになったのだ。
荷物を取ってすぐに戻ることになっている。
なのに運悪く、私の通勤で使っている路線は、架線トラブルで前線運休中。
ちょっと歩くが、いつもとは異なるルートで帰ることにした。中野駅経由だ。
電車内で、このルートなら、佐々木のアパート近くを通過することを思い出した。どうせならと、前を通ることにする。
確認したいこともある。
行方がわからない金田を探すため、捜査官たちは彼女の友人に総当たりで連絡している。今の所、手がかりはない。
でも、捜査官がまだ連絡していない友人が、二人いる。いた、というべきだろうか。
佐々木と湯沢だ。
数日間、全国版のニュースで大々的に報じられているこの事件を、金田が知らないとは思えない。友人二人が殺されたと知って、会社まで休んでのほほんと遊びに行くだろうか。
金田は、友人たちの訃報を聞いて、現場に向かったんじゃないか。
思いつきを話してみたところ、鹿瀬さんが所轄に話をしてくれた。所轄の人もそれは思いついていたようで、即座に両現場へ人をやってくれたのだが、空振りだった。
行き違いになった可能性もある。
いずれにせよ、近くを通るなら、念の為足を伸ばして確認し、手も合わせようという算段だった。
駅を出ていくらもしないうちに、曇天からぼたぼた大粒の雨がこぼれだした。太い道路を横断している途中でバケツを引っくり返したような夕立になる。
ここ数日は持ち直していたが、しばらく雨続きだったので、折り畳み傘は常備している。バッグから取り出したそれを差して、端末で経路を確認しながら歩いていると、傘無しびしょ濡れの学生服の子どもたちが笑いながら駅の方へ走っていった。元気だなあ。
雨で濃く色が変わってしまった桃色のカーディガンを着て、前が見えるのかと疑問なくらい眼鏡にいっぱい水滴を付けた女性や、ネギをバッグから突き出した状態でタオルを頭に乗せ、しゃきしゃき歩くおばあちゃんとすれ違いながら、目的地を目指す。
古い商店街があるからなのか、どことなくのどかな雰囲気がある街だな、なんて思いながら。
現場アパートの前には、誰もいなかった。
アパートの敷地前に、花やお酒、お菓子なんかが小山になって供えられている。
急な雨に、弱っていた花は花びらを散らし、飲食物のパッケージは珠になった雨粒を乗せている。
最奥の一〇三号室前には、黄色いテープが貼られていた。昼間なら警杖を持った制服警官が立っているかもしれないが、現場検証も済んでいるし、夜は無人のようだ。
私は傘を肩に挟んで、ドアの前で手をあわせて黙祷した。
いろいろなことが頭に浮かんで消えていく。余計なことを考えそうになり、切り上げることにした。
ぱっと顔を上げたタイミングで、敷地の入口眼の前の一〇一号室から、年配の女性が顔を出した。傘を二本持っている。
彼女は私の顔を見、視線を下げて私の手を見て、悼むように目を伏せた。
私も黙礼する。
敷地を出たところで、その女性が、お供え物の小山に傘を差し掛けてあげていた。
「ありがとうございます」
私がついそういうと、白いものが混じっている髪を掻き上げ、彼女は首を横に振った。
「酷いことが起きちゃったわね。あなた、あのお嬢さんのお友達ですか?」
「いえ、仕事で関係があって」
「そうなのね。ほとんど話したこともなかったけど、やっぱり、若い子が亡くなるのって嫌なものよね。さっきも、お花持ってきた女の子が、びしょ濡れになって手をあわせていたわ。早く犯人が見付かってくれるといいんだけど」
言いながら、彼女は自分のハンドタオルを使って、お供え物のお菓子やお酒の上に溜まった水滴を払ってやる。
私もしゃがみこみ、同じことをした。ハンカチで、手近なところにあった、手紙と思しき二つ折りの紙片を手に取る。濡れてふやけたそれをそっと拭いた。
中を見るつもりはなかった。しかし簡単に二つ折りされたそれの口は薄く開いていた。
視界に飛び込んできた短い文字列が、見なかったふりをしようとする前に意味を成して私の脳に焼き付いた。
『みつき。ごめん、私のせい。あいか』
手帳の一ページを破って書き記したものだった。ちぎられた部分はぎざぎざしている。
「それ、さっきの子が泣きながら書いてて。見てて辛くなっちゃった」
「あの! その人って、どんな人でした? いつ頃、どっちへ行きましたか? あ、ええっと、私、警察のものです」
手帳をジャケットから引っ張り出して勢いよくにじり寄ったせいで、女性はぎょっと後ずさった。それでも、視線を一度上に向けて、考える素振りをしてくれた。
「ええと、十分くらい前に、そっちへ言ったわ。駅に向かうんじゃないの。薄いピンクのカーディガンを着た、二十代くらいの、細い子。髪の毛は長くて黒くて、赤い眼鏡をしてたけど……」
薄いピンクのカーディガン。
ちり、と後ろ頭のあたりが疼いた。
「ありがとうございます!」
「あ! あなた、傘!」
落ちた傘を拾っている余裕はない。
私は駆け出した。まだ間に合うだろうか。
ぶり返した靴ずれの痛みに耐えながら、全力で腿を上げた。一分もせず息が上がる。
端末で神前さんを呼び出したが移動中なのか出なかった。仕方なく、鹿瀬さんに連絡する。三コールでつながった。
「鹿瀬さん! 金田逢花がいました! 佐々木のアパートに顔を出していたみたいです! 今、追いかけてます」
走りながら話すって、苦行だ。口の中に雨が入り込んで気持ち悪い。
酸欠でぜえぜえ言いながらなんとか状況や金田の服装、行き先の予想を説明すると、
「よしわかった、駅の方へ連絡する。三小田も、追いかけてくれ」
鹿瀬さんが冷静にそう言った。
やっぱりそうなるよね! と嘆く余裕もなく通話を終了し、私は弱まった雨の中を突っ切って、駅の前の大きな道まで出た。
太い道が、ちょうど赤信号になってしまう。
ラッシュが始まった駅に、沢山の人が吸い込まれていく。ほとんどの人が傘を差していて、視界を遮る。
それでも、私の目は、ピンクのカーディガンを着た細身の後ろ姿を捉えていた。道の向こう、駅の改札に向かって歩いている。雨でずぶ濡れな彼女の背中は、今にも消えそうなくらい儚い。
信号が長くて焦る。早く早くと膝に手を突いて息をしながら、信号を睨む。
周囲の人が不審そうにこっちを見てる。気持ちはわかる。
車道の信号が赤になった途端、私は駆け出した。
保育園時代に、見切り横断は駄目、青信号を待とうねと教えてくれた優しげな女性の警察官の顔が急に頭の中に蘇る。
滑り込みで無理やり通過しようとした車が、タイヤを鳴らして急停止し、クラクションで私に抗議する。その鼻先をダッシュで通過。
タイルの凹みにできた水たまりを踏み越え、改札のゲートを踏み越えた。警告音と共にバーが下がるが、腿を強打しながらも突破する。転ばなくてよかった。
立ち当番の駅員が、いかめしい顔をして、こっちに体を向けた。
警察です! と格好良く宣言する息は残ってなくて、私は手帳を突き出して彼に見せた。駅員が嘘だろ、という顔をしたのを視界の隅にとどめ、走る。
人でごった返す構内で、走りながら金田の住所を思い出す。乗る線を予測して、そっちのホームへ駆けた。
よかった、さほど乗り入れの多い駅じゃなくて。それでも私は今にも吐きそうなほど息苦しく、下手したら過呼吸でも起こすんじゃないかというくらいの状態。
濡れたタイルで滑りかけながら、目当てのホームへ続くエスカレーターまでたどり着いた。
エスカレーターは長蛇の列。階段を選択する。十段登って後悔する。腿が上がらない、こんなことならエスカレーターに乗るんだった。ちょうどホームに到着した上りエスカレーターの先端に、目当ての人物の後ろ姿を認めたのに。
電車到着の音楽が聞こえてきた。乗り込まれたら、見失う。
神前さんのスパルタのせいで体中ガタガタだよ、と心中で文句を言いながら、階段を登り切った。
二両先の入り口に並んでいる彼女の姿を見つけた。乗り込む直前だ。出発の音楽も最終小節。無理、走っては間に合わない。
恥ずかしいとか、そういうことが思いつかないくらいには必死だった。
「金田さぁああん! 金田逢花さああんっ! 待ってぇえ!」
絶叫は声が裏がえって、酷い有様だった。
生涯で一度も出したことないというような大声だ。喉が裂けそう。
酸欠で白っぽくぼやけた視界の中、乗客が乗り込み、電車のドアが締まった。ぷしゅーっと無情な音がして、私はがくり膝を突いた。
駄目だったか……。これだけなりふり構わず走ったのに、なんてこった。
額から滴る雨とも汗ともつかない水分を、手の甲で拭う。ぜっぜっぜっぜと、自分で心配になるような怪しい呼吸音にあわせて、暴れ馬状態の心臓が跳ねている。学生時代だってこんなに必死に走ったことない。でも、目的は果たせなかった。無様だ。
ふと視界が陰って、顔を上げた。
「あの……」
困惑顔の、金田逢花が上から覗き込んでいた。ぐっしょりと濡れたカーディガン。水滴を拭った眼鏡の向こうの顔は、会議で提示された彼女の高校時代の顔写真の面影がある。憔悴しきってはいたけれど。やはり、雨の中道ですれ違った女性だった。
不審な女の呼びかけで立ち止まるなんて、根は素直なのかしら、などととっちらかった頭で思った。
「あ、……わたっ、げふっ、えと、……けいさつ、です」
爆発しそうな呼吸を落ち着かせながら、震える手で手帳を提示した。
私の声をかき消し、男声のアナウンスがホームに響き渡った。
『ただいま、お客様のお忘れ物を探しております、出発まで今しばらくお待ち下さい。ご迷惑をおかけして申し訳ございません』
車両のドアが再度開き、ホームの向こうから制服警官が二人走ってきた。なにか話しながら、手元の端末と私の傍らに立つ金田の顔を見比べている。
……もしかして、これ、私がここまでやらなくてもよかったパターン?
泣き笑いの状態で、私はふにゃふにゃと脱力した。
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