上 下
15 / 76
第二章 初夏

残滓 前

しおりを挟む
※この章には強姦・自殺・いじめ等の内容があります。
==============

 出来上がった申請データを窓口宛に送信する。時計を確認すると、ちょうど正午だった。
 私は、タバコを掴んで席を立とうとしている神前さんに声をかけた。

「神前さん、お昼ご一緒してもいいでしょうか」

 最近、私たちは一緒に昼食を取る。正しく言えば、勝手に私が神前さんにくっついていってるだけなのだが。

「タバコ吸ってくる」

 彼は財布をパンツのポケットにねじ込んですたすたと歩いていってしまう。
 あ、今日はだめかーと残念に思いつつ、バッグを持って立ち上がった。

「おい、さっさとエレベーター行かねえと混むぞ。間に合わなかったら置いていく」
「……一階の階段前で待ってますね」

 彼は体力づくりのために、基本的に階段を使うのだという。そういえば初日の朝も階段から出てきた。
 傷が縦断している眉を跳ね上げて、彼は部屋を出ていった。
 その背中を見て、私は口の端を上げた。

× × × × ×

 混み合い始めたエレベーターに乗り込み、下の階に停止するたび新たな人を拾っていく扉の開閉を見ながら、ぼんやり考える。

 ――平和だ。

 ここ三日ほど、やったことといえば、街頭防犯カメラの位置確認と、他の班から頼まれた補助的な作業だけ。ほとんど定時で帰宅できている。
 四日前までは、連続強盗事件の協力要請を受けてばたばたしていたが、その事件も落ち着いた。

 自分が暇だということは、世の中が平和だということだ。これほど素晴らしいことはない。
 このまま平和でいてほしい。世界中が。本心からそう思った。

 死体とかもう見たくない。
 時折、川辺美穂の夢を見る。
 体調の良くないときとか疲れているときはその確率が高い気がする。
 最中にこれは夢だとわかるときも多いが、いずれにせよ朝目が覚めるとものすごい疲労感で、一日ぐったりしてしまう。
 ああ、あとアルコールを飲んだときもそう。眠りが浅くなるから、かもしれない。

 エレベーターから降りて、人気のない階段下で待っていると、律動的な足音が聞こえてきて、やがて神前さんが階段から降りてきた。
 強盗犯を追いかけていたときは、始終皺がよりっぱなしだった彼の眉間も、今はフラットになっている。
 近づくと、やっぱりタバコのにおいがした。ニコチン・タールフリーのタバコじゃ吸った気がしないと言い、体力づくりの成果を自分で減らすのは意味があるのだろうか。

「今日はどこへ行きますか?」
「お前が行きたいところは」
「はい! 麺が食べたいです」
「そればっかりだな。一昨日は蕎麦屋だったじゃねえか」
「食べるのが楽なんです」

 神前さんはため息をつくと、歩き出した。
 麺、いいじゃないか。三食麺だっていいくらい。
 朝がうどんで昼がパスタで夜は蕎麦とか。夏が近いから、そうめんもいい。冷やし中華も好き。

「それじゃあパスタ屋。あのランチセットのあるところ行くぞ」
「はい、あそこの明太子と大葉のパスタ、美味しいですよね」
「それしか食わねえな。たまには他のも食えよ」
「いいじゃないですか、あれが好きなんですよ。神前さんだって飲み屋に行ったら一杯目はビールでしょ」
「比較対象がおかしいだろうが。あれは俺がどうこうする前からの慣例だろ」
「そういえばそうですね」

 くだらない会話をしながら足を動かし、初夏と言って差し支えない日差しの下に出た。
 歩きながら、神前さんの横顔を盗み見る。出会った頃より、随分彼は日に焼けた。そして、顔が明るくなった。

「なんだよ」

 視線に気付いた神前さんが睨んでくるので、私は肩をすくめた。

「神前さん、日焼けしましたよね」
「毎朝走ってるからな」
「元気ですねぇ」
「なんだよそのため息」
「いえ、べつに」

 もう夏なんだなあと思うとなんだかしみじみする。
 そして、どこかに置いてきたものが、強い日差しの下濃い影を落として、自分の背後に佇んでいる気がした。

× × × × ×

 むくんだ脚をどうにかしたくて、デスクの下でこっそりパンプスを脱いだ。
 既に午後九時を過ぎている。
 完成したデータを、神前さんに送信して、私は深いため息をついた。
 傷害事件の応援を頼まれて、急遽、残業することになったのだった。

「三小田、上がれ。後はこちらでやっておく」

 ヘッドセットを着けたまま、神前さんが言った。

「いいんですか?」

 返事はない。いい、ということなのか。ありがたいけど、申し訳ない。

「やっぱり、私も残りますよ!」
「おー、やる気あるならよかった。こっちの、体裁整えて提出してくれ」

 私は送付されたファイルの容量を見て、口を曲げた。

「う……。この量を今からですか」
「無理ならいい。自分でやったほうがはええし」

 そんなこと言われると、ここで引いたら負けな気がしてくる。

「やります。神前さんがそっちの作業終えるまでには終わらせてみせます」
「俺は自分のが終わり次第帰る」
「ええっ、チェックしてくださいよ」
「俺の作業が終わる前に完了すればいいだけだろ。自分で言いだしたんだ、やってみせろよ」

 私は眉間に皺を寄せた。

「うぐぐ……」

 隣で小さく吹き出す声がした。

 最近神前さんはよく笑う。にやりとしたやつだけじゃなくて、普通に。笑っているときは強面ぶりが緩んでなんか違う人みたい。ちょっとそわそわするのは、まだその顔に慣れないからだろう。
 
× × × × × 
 
 帰宅後、シャワーを浴び、ひとりわびしく食事していたら、端末で再生していた音楽が急に途切れて、着信音が流れ出した。

 甲高い電子音に、私はぎくりとした。心臓がばくばく鳴り出す。空調が効いているというのに、嫌な汗が背に浮いた。手足の先はやけに冷えている。
 恐る恐る見たディスプレイに表示されていたのは、母の名前だった。
 先日、今夏は帰省しないからとメッセージを送ったのだ。思い出し、ほっとした。きっとそのことについてだろう。
 数分後には、母の止めどなく流れる世間話に辟易するとも知らずに、私は端末を手に取った。
 
× × × × × 
 
 夕方の四時を過ぎたころだった。

「具合悪いのか?」

 私はぽかんと神前さんの顔を見た。
 今の今まで、ある処理の仕方を彼に相談していたところで、なんでそんな話になったのか全く理解できなかった。

「えっ、どうしてですか。別にどこも具合悪くないですけど」

 むしろ神前さんの方が大丈夫ですか、なんて失礼なことを思う。

「ミスだらけ」
「ええっ」

 慌てて立ち上がって、神前さんのデスク上のモニターを覗き込んだ。先程私が送った報告書の、添付データが開かれていた。
 神前さんが指さしたのはグラフ。カメラの設置数と検挙数の関係を説明するために、その地域の人口密度とか、商業施設の数、駅からの距離なんかのデータを使って何種類も描いたやつで、新人研修の課題になっているやつだった。
 なんでこんな統計チックなことするんだ分析ツール使うだけならもっと簡単な課題でいいじゃないですか鹿瀬さんの鬼ーっと、グチグチ言いながらやっていたんだが、それがいけなかったのか。

「うえ……本当ですね」

 見返すとそもそも用いるデータを間違えていた。なんて初歩的なミスだ。基準にするデータがテレコになっているためほぼ全部おかしい。それに対しての説明文からなにから、間違えていることになる。
 うわー、今日一日かけてやっておいてこれか。なぜ途中で気づかなかったんだ。
 とほほ、と照れ隠しに笑ってみせたが、神前さんにじっと見つめられ、無意識に私はのけぞっていた。

「な、なんですか」
「顔色、悪いぞ。本当に具合悪くねえのか?」

 ぐああ、顔を覗き込まないでこの時間は駄目だ。色々直視に耐えられない状態だから!
 動揺を押し隠して、私はにーっと笑って顔の前で手を振ってみた。

「実は寝不足で。昨日、親と電話していたら遅くなってしまって」
「……体調管理はしっかりしろよ」
「はい、気をつけます」

 差し戻しされたデータを見直しているうちに、神前さんは領家さんに呼ばれて席を外した。
 こっそりため息をついた。色々振り回されている。
 仕事でやらかすなんて、一番駄目じゃないか。とにかく、集中力高めてやっていかねば。
 気合を入れるために、本日二本目の栄養ドリンクに手を付けた。

「三小田!」

 口に含んだものを吹き出しそうになる。
 神前さん、声が大きい。
 慌てて領家さんのデスク前に向かった。領家さんは端末で誰かと会話しているところだった。
 神前さんは腰の後ろで手を組んで、領家さんが話し終わるのをそのデスクの前で番犬のようにじっと待っている。私もその隣で、待つ。
 会話が終わると、領家さんは内線を使って誰かを呼び出したようだった。

 すぐに呼び出された人がやってきた。新人の教育もしてくれている太っちょの鹿瀬さんと、目黒のバラ園事件でもお世話になった角刈りの砂押さんだ。

「鹿瀬、この前の傷害、終わったか?」
「あとは所轄に任せるところです」

 鹿瀬さんが額の汗をハンカチで拭って答えた。彼にはこの部屋は暑すぎるようだ。

「砂押は。今新しい事案に対応できるか」
「はい。何かあったんですか」

 砂押さんが問うと、領家さんはまた鳴り出した端末を操作しながら、言った。

「中野で、殺しだ」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

憧れの童顔巨乳家庭教師といちゃいちゃラブラブにセックスするのは最高に気持ちいい

suna
恋愛
僕の家庭教師は完璧なひとだ。 かわいいと美しいだったらかわいい寄り。 美女か美少女だったら美少女寄り。 明るく元気と知的で真面目だったら後者。 お嬢様という言葉が彼女以上に似合う人間を僕はこれまて見たことがないような女性。 そのうえ、服の上からでもわかる圧倒的な巨乳。 そんな憧れの家庭教師・・・遠野栞といちゃいちゃラブラブにセックスをするだけの話。 ヒロインは丁寧語・敬語、年上家庭教師、お嬢様、ドMなどの属性・要素があります。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

オークションで競り落とされた巨乳エルフは少年の玩具となる。【完結】

ちゃむにい
恋愛
リリアナは奴隷商人に高く売られて、闇オークションで競りにかけられることになった。まるで踊り子のような露出の高い下着を身に着けたリリアナは手錠をされ、首輪をした。 ※ムーンライトノベルにも掲載しています。

【完結】【R18】淫らになるというウワサの御神酒をおとなしい彼女に飲ませたら、淫乱MAXになりました。

船橋ひろみ
恋愛
幼馴染みから、恋人となって数ヶ月の智彦とさゆり。 お互い好きな想いは募るものの、シャイなさゆりのガードが固く、セックスまでには至らなかった。 年始2日目、年始のデートはさゆりの発案で、山奥にある神社に行くことに。実はその神社の御神酒は「淫ら御神酒」という、都市伝説があり……。初々しいカップルの痴態を書いた、書き下ろし作品です。 ※「小説家になろう」サイトでも掲載しています。題名は違いますが、内容はほとんど同じで、こちらが最新版です。

【R18】同級生のエロアカをみつけたので、いろんな「お願い」をすることにした

黒うさぎ
恋愛
SNSを眺めていた俺はとあるエロアカをみつけた。映りが悪く顔すら映っていない下着姿の画像。さして珍しくもないその画像に俺は目を奪われた。女の背後に映っている壁。そこには俺と同じ高校の制服が映りこんでいたのだ。 ノクターンノベルズにも投稿しています。

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

処理中です...