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第一章 晩春

終幕と過去 後

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 現場に駆けつけた神前さんたちに病院から被害女性に関する情報が寄せられた。解剖前のざっくりしたものだったが、胸部を刺された以外に、目立った外傷はないということ。性的暴行の痕跡があり、犯人の体液が検出されたということ。それから被害者の衣服からも犯人のものらしい微物が検出されたということ。
 それを共有した。木下さんもその場にいたので、一緒に話を聞いたのだ。
 彼は言った。

 手がかりが増えたじゃないか、神前。強姦されててよかったな。

 先輩が木下さんを窘めるより先に、神前さんは彼を殴り倒していた。それを皮切りに殴り合いになり、神前さんは署に戻された。木下さんは自力で病院に行ったという。彼は頬骨を折っていた。

 非常線の中、捜査関係者しかいない場所での出来事だった。

 しかし、木下さんもそれで処分を受けた。もしその言葉がどこかから漏れたら、それこそ大問題に発展する。さらに現場で殴り合いなんて、とんでもないと。
 後日、神前さんと木下さんは示談した。
 そして、神前さんは一課から放出されることになった。

× × × × ×

「あれ?」

 私は声をあげた。額に手を当てて何が気にかかったのかを思い出す。

「木下さん……、殴り返してきたんですか」
「あいつが殴られっぱなしになるタマかよ。一言反論しても、三倍返ししてくるやつだぞ」

 てっきり私は、神前さんが一方的に殴ったのかと……。あれだなイメージのせいか。噂と、彼の見た目の。

「神前さんも頬骨折ったんですか?」
「そんなやわな頬骨じゃない。それに木下はレバーばっかり狙ってきたしな」
「……さようで……」

 なんでそんなに得意げなんだ。子供か。というか、性格でるな、とっさの殴り合いでも。遠い目をしてしまう。
 私の心を読んだように、彼は言った。

「俺に腹芸はできねえ。ガキで悪かったな」

 話しているうちに、徐々に表情を引き締めた彼は、最後には顎を上げた。
 何が彼をそうさせたのかわからない。だがもう、先程まで打ちひしがれていた彼ではない。自分の過ちを受け止める覚悟ができたと、表情が物語っていた。

「なにすっきりした顔してるんですか。さっきまであんなに沈鬱な顔していたのに」
「話していて思い出した。俺はあの時は何を差し置いても、こいつを殴ると決めて殴ったんだ。処罰されても訴えられても構わない。そのことを忘れていた。腑抜けてた、情けないことに」

 だからもう大丈夫だとでも言いたそうな口ぶりだった。胸を張っていつもの調子で、いや、いつもよりも不敵な顔をして、彼は私を見つめ返す。

 馬鹿だな、この人。見た目だけでも反省したふりをした方が利口だと、気づかないわけじゃないだろうに。
 言葉通り、彼にとってはそれが何を差し置いても守りたい一線だったに違いない。その所業を否定するより、非難されることを選ぶ。
 ――その話聞いて納得している私はもっと馬鹿だ。

「よかったですよ、神前さんが想定通りの方で」
「……俺の話を信じるのかよ」

 眉を跳ね上げて彼はちょっと首を傾げた。

「まあ、七割は。フェアに行くには木下さんのお話も聞かないといけませんが、そんなことする度胸はありませんし、必要もないですよね。きっとお二人の話は噛み合わないでしょうし、私は裁判官じゃないし。信じたい方の話を信じることにしました」
「何様だよ。くそ、話して損した」

 言葉ほど、不快そうではない声音だった。
 きっと。彼から事情を聞こうとした人はほとんどいなかったんじゃないだろうか。その前に嫌厭されて、面と向かって肯定も否定もされなかった。彼もそれで他の人と関わるのを止めてしまった。
 他人に話すことで気持ちを整理するのは、誰にでも覚えのあること。そのプロセスもちゃんと踏めてなかったんだとしたら、不運だし辛かったんじゃないだろうか。

「まあまあ、そんなこと言わずに。私は、あなたがまた下手こく前に止められてよかったって、心の底からほっとしましたよ。いくら正義感強くても、暴力はいただけません。口で勝てないからって、手を出したらその場で反則負けです。そのくらいわかってるんじゃないですか。大体、他の人より体が大きいんだから、駄目ですよ気をつけなきゃ」
「うるせえ、そのくらいわかってんだよ。年上ぶって説教してるんじゃねえぞ。さっきだってお前が介入しなくたって、あいつの軽口なんか無視できた。お前から見たら、血の気の多いただの馬鹿野郎かもしれないがな」
「もう、そんな悪く取らないでくださいよ。ただ助けたかっただけなのに」
「嘘つけ。関わりたくないって顔に書いてあるぞ」

 伺うように、下から見上げられた。この視界、新鮮だなあ。いつも見下されているからなあ。

「どうでもいい人のために、わざわざ厄介事に首突っ込んだりしませんよ、私。あなたと違って熱血ではないですし。自分可愛いし。それでも、要領悪くて正直な神前さんが痛い目みるのを隣で見てるのは嫌なんで。まあ、そう露骨に鬱陶しがられると、ちょっと切ないですが」
「はあ? 要領悪い? 自分のこと棚に上げて、よく言う」
「そのドスの利いた声やめてくださいよ、怖いから。そういうところですよ、そういうところ。神前さん、もうちょっと穏便って言葉を覚えてくださいよ」
「どうしようと俺の勝手だろ。それに、今更、身の振り方改めたところで、もう遅いんだよ」
「そんなこと言わずに。私だけじゃなくて、この組織もまだ神前さんを必要としているんですから。もうちょっと周りと仲良くやりましょうよ。いじけてないで。ここに配属になったのも、頭を冷やせということであって、辞めろってことじゃないと思うんです。まだチャンスはあるって、そういうことじゃないんでしょうか」

 これには、多分に私の希望が含まれている。
 山本さんの言葉に信憑性はないとしても、ここの課長を含め色んな人が神前さんがまだ必要だと判断してくれているから、彼はここにいられるんだと思いたい。彼の前にはまだ道はあるんだって。でなければ、現場に出されたり、新人を任されることなんてないはず。

「今度は勝手に俺を評価して説教か? お前ほんと、態度でかすぎる。ビジネスマナー研修でも受けてこい」
「じゃあ、神前さんも一緒に行きましょう。まずは言葉遣いから」
「断る。なんで俺が。一人で行きやがれ」

 鼻の頭に皺を寄せて、彼は私の横を通り過ぎる。
 肩で風を切るよう歩く背に、私は呼びかけた。

「ちょっと待って下さいよ! 神前さん歩くの速すぎます」

 あ、待ってくれるんだ。
 私が追いつくと、彼は歩くのを再開した。わざとらしく舌打ちなんかして。

「お前、俺がかっとなって殴りかかってきたらどうするつもりだったんだよ」

 私は大げさに肩をすくめて見せた。

「その程度のことで怒る人じゃないの、知ってますし」
「人の性格把握した気になってんじゃねえぞ」
「痛い! 前言撤回します」

 肩を小突かれた。暴力反対。骨折れてたらどうしよう。
 通常の立ち位置になって見上げた彼の横顔は、笑っているように見えた。

× × × × ×

 オフィスに戻ると、デスクの上に書類を投げ出して、領家さんがコーヒーを飲んでいた。
 彼は背筋を伸ばし、デスクの前にやってきた私たちに頷いてみせた。

「岡田がさっき電話でお前たちのこと褒めていたぞ。お前たちのフォローのおかげで、長引かずに済んだってな」
 領家さんが私の方を見た。
「三小田。しっかり着いてきていたようだな。これからも、精進するように」
「はい」

 ああだめだ、つい頬が緩んでしまう。
 領家さんは、続いて、神前さんに体を向けた。

「神前」
「はい」
「よくやった。送致までの間、お前の仕事が早くて正確だったから随分助かったと、岡田が特に褒めていた。自信を持て」

 一拍遅れで、神前さんが深く息を吸い込んで、唇を引き結んだまま、目を伏せた。

「二人共かなり疲れた顔しているな。とりあえず、今日はもう帰宅して、休め。まだ明日も仕事があるんだから」
 領家さんが微笑み、神前さんも口の端を上げた。

× × × × ×

「三小田」

 自席に戻って、荷物を片付けていると、神前さんに呼ばれた。目の前に分厚くて大きな右手が差し出されていた。
 私はその手を握り返した。
 熱い手のひらだった。
 
× × × × × 
 
 あー、本当に怒涛の三日間だったなあ。
 そんなことを思いながら、買い込んできたビールを開封して口に含む。
 今日は飲み過ぎないよう、本数は抑えめだ。
 飲みながら、忘れないうちにとアラームをセットする。これで遅刻は回避。
 端末を確認すると、山本さんから連絡が来ていた。今度の日曜日に同期で集まるから、一緒にどうかというお誘いのメッセージだ。その日用事はないが、わざわざ休日を返上して飲み会もなあと思い、丁寧なお断り文を書いた。送信完了。
 ベッドの上に端末を放る。今度誰かから連絡が来たら、朝、確認したふりをしよう。もう十一時だし。
 もうすぐ六月ということもあり、部屋の中に空気がこもる。ちょっと湿気ぽい感じ。
 夏が来る前に、空調設備の掃除をしなければ。

 ふと、端末が鳴り出した。電話だ。こんな時間に誰だ。
 相手だけ確認しようと画面を覗き込んで、息を飲んだ。

 拓人。
 この番号は、彼のものだ。

 背に、気配を感じた。振り返る。
 まず目に入ったのは、妙に青白い裸の足だ。筋張っていて、人差し指が長い。
 徐々に視線を上げていく。
 見覚えのあるデニムパンツに、見覚えのあるカットソー。ちょっと下がり気味で、女性よりは当然のように幅のある肩。
 首筋には索痕。
 僅かに開いた唇、涙に濡れたほほ、そして、虚ろな左右の目。
 
 自分の悲鳴で、目が覚めた。
 背中が汗で濡れていた。ベッドにつっぷしていつの間にか、落ちていたようだ。
 端末は、鳴っていない。誰からの着信もなかった。
 安堵と同時に、心臓が痛む。
 
× × × × × 
 
「なんだ三小田、ひでえ顔だな。顔色真っ白だぞ」
「あはは、寝不足で……。ちょっと昨日、興奮しすぎて眠れなくて。おはようございます」
「おはようございます」

 いつものようにきっちりと挨拶を返してくれた神前さんは、しかし、まだ訝しげに私の顔を伺っていた。
 その視線に気づかないふりをして、私は自分のデスクに向かう。

「おい。本当に大丈夫か」

 神前さんが、ふいにそんなことを聞くからいけない。
 うっかり泣きそうになりながら、私は笑った。

 また、夏が来る。今年も。
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