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第一章 晩春

バラのひつぎ

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 その後数日仕事を一緒にしてみてわかったのは、彼が外見と態度でかなり損をするタイプの人間だということだ。
 私とは別のベクトルで要領が悪い。
 もうちょっと適当に笑って誤魔化すとか、見て見ぬ振りをすればいいのに。
 人によっては、相当鬱陶しがられるだろう、これは。

 新しく提出したレポートに、丁寧に入れられた赤を見て、私は苦笑を禁じえなかった。

× × × × ×
 
 私には、自分でも把握している文章の癖がいくつかある。
 とにかく石橋を叩いて渡るように、注意書きや補足を書きまくってしまうのもその一つだ。
 レポートを書くときは、これ読みづらいだろうなあと思ってなるべく抑えていた。それでも神前さんには突っ込まれた。読みづらい、と。

 被害者と関係の浅い女性の、物品の購入記録についての報告を書いて提出したところ、いちいちその文章につっこみが入っていた。そして自分の例文を添えて、
「下線一と下線二は統合可。下線三は不要、添付の購買データから判読できる」と。

 思わず、笑ってしまった。
 彼は読みづらいといいながらも、自分の冗長な文章を読み、添削してくれたのだと。
 にまで添削が入っていて、我慢がきかなくなった。にやにやしてしまい、ものすごく冷たい目で睨まれた。

 社会人になってある程度の年数が経っている人間相手に、ここまで「ちゃんと指導しなければ」と正面からぶつかってくるのは、真面目で責任感が強いからなのか、理想が高いからなのか。おそらくは前者寄りの両者で、彼は仕事にベストを尽くすことに疑問すら抱かないタイプだと見た。

 他の指導員は、そこまで熱心に取り組まないことは同期からの話でわかった。
 基礎と致命的なミスにつながりそうなポイントだけは教え、あとは本人が自分でポイントを抑えて発展させていけばいい。大抵の指導員はこんなスタンスらしい。マニュアルだけ読んでおいてって言われる人もいるとか。

 たしかに、このやり方は、自発的に勉強する機会を与えてくれるので、人によっては能力の向上につながることだろう。
 ただし、躓いてしまった原因を解きほぐすのに時間と労力がかかり、あるいはうやむやにしてしまってあとから致命的なミスにつながることもある。そしてお互いの手抜きにつながることがあるのは否めなかった。必要なことがちゃんと引き継がれないこともある。

 比較してみると神前さんの教え方は丁寧で、一度自分で実践してみて、次に私に同じことをやらせるという形をとる。まるでスポーツのフォームの練習のようだ。なにか間違えていると、逐一指摘してくれるので、修正が早くできて助かる。

 こちらのやり方だと、どうしても時間がかかってしまうので、他の同期より進捗が遅れるが、ひとつのことへの理解度はむしろ勝っていると自信を持って言える。だからあの操作テストの結果になったんだ。

 時間がかかって残業するのはちょっと問題かもしれないけど、きっちり仕事を覚えたいのならとてもありがたいことだ。
 
 真面目。そして世渡りが下手そう。
 それが彼に対する最新の感想だった。

× × × × ×

「神前、三小田。ちょっといいか」

 初出勤から三週間目。朝出勤するなり、班長の領家りょうけさんに声をかけられた。
 領家さんは、四十過ぎの小柄な男性で、白髪が多いためその顔は実年齢よりやや老けて見える。

 呼び出された先は個室などではなく、領家さんの席だ。
 私は神前さんと並んで立った。相変わらず彼は大きくて、隣に立つと圧を感じる。
 領家さんは自分の端末から顔を上げて、咳払いをひとつした。

「実は今しがた所轄から協力要請があった。目黒で変死体が発見されたらしい。――お前たち、やってみるか」
「やらせてください」

 間髪入れず、神前さんが答えた。
 ええええ待って待って。
 協力要請がくるような変死体ってことは事件?
 正直まだ心の準備ができてなかった。いつかはあるだろうとわかっておきながら。
 領家さんが私に目を向けた。

「三小田は? そう緊張しなくても、他の連中と協力しながらやっていけばいい。神前もいることだし。できるか?」

 そうは言っても。
 神前さんの顔をちらっと見上げる。ばっちり目があった上に、その目は言葉より雄弁に「できると言え」と促している。

「――はい。挑戦してみます」
 こう答えるしかないじゃない。
 やりたくない、とダダをこねるわけにもいかない。
「よし、では二人を捜査に加えてもらうよう伝えておく。他にも二人、ベテラン組が応援に向かっているから、協力してやるんだ。まずは現場に向かえ。東目黒署の連中が待ってる。カメラの分析が必要になるってな」
「げ、現場ですか」

 それ、生で死体を見るってことか。嫌だ。
 写真でもそんなものをめったに見ない。おばあちゃんが亡くなったときに、処置された遺体と対面したことはある。しかしそういうのじゃないんだ、今回のは。
 到着したらもうブルーシートがかけられている状態でありますように。心のなかで切実に祈る。

 神前さんはびしっと敬礼して、さっさと自席に戻り、準備を始めた。
「端末と筆記用具、手帳は忘れるな」
 そのあとも矢継ぎ早に持ち物を指示される。

 ……あれ。なんだか神前さんちょっと元気? やる気に満ちているって感じがする。やっぱり現場って行けたら嬉しいものなのか。
 
× × × × × 
 
 黄色いテープが張られた柵を越え、現場となったバラ園に踏み込んだ。
 既にちらほら報道の姿があった。道行く人たちは、訝しげな顔をしてその前を通り過ぎていく。物見高く、写真を撮ろうとしている人もいた。

 私は肩にかけたバッグの持ち手を握りしめて、神前さんの後ろを小走りに追いかける。彼、歩くの速すぎる。
 芝をつっきって移動するとき悲鳴を上げた。

「か、かかとが刺さる……」
 そんなに高くも細くもないヒールだけど、昨晩の雨でぬかるんだ芝にはずぼずぼ刺さる。歩き辛い、そして転びそうだ。
 もちろん神前さんは知らんぷり。私よりずっと先行して、人が集まっているあたりに行ってしまう。

 なんとか追いついて隣に並んだ。彼は鋭い双眸をさらに炯々とさせて、先を睨んでいる。
 そこには川があった。人工的なもので幅はそんなに広くない。深さもない。この水は目黒川の水です、と書かれた立て札がある。
 川の奥には、バラ。咲き誇る色とりどりのバラの後ろには、高さ三メートルほどの鉄の柵。そこがバラ園の敷地の終わりだ。
 川の手前には高さがちょうど私の胸ほどの手すりがあって、そこに鑑識の作業服姿の人や、所轄の刑事らしき人がいる。カメラを構えたり、相談している様子だった。

 その人垣の向こう、川の中に遺体はあった。

 最初、バラが溜まっているのかと思った。水面に落ちたバラが、なんかに引っかかっているのかと。
 しかし、違う。よく見ればそこに、ひなびた人の顔があった。
 老人。男性か女性か、一見判別できない。沢山のバラが老人の体を苗床に、花を咲かせている。
 お腹が開かれていて、そこにギュウギュウに色とりどりのバラが詰め込まれていた。大きく開いた口には、黄色のバラが。
 体の周りにも、舟のようにあるいは柩のように、バラが凝っている。

「随分、手の込んだ真似をしますね」
 神前さんの声が遠い。水中で聞いているみたい。
「全くだ。無理に引っ張ると、周りのバラが削げちまう。水は面倒だ、いろんなものが流れていっちまうし、拾い集めるのも一苦労だ」
 誰のものだかよくわからない男声も聞こえた。
 はあっ、と息を吐くとキンキンうるさい耳鳴りのせいで音がぼやけた。

「おい、平気か」

 肩を叩かれるまで、自分が声をかけられていると気付かなかった。顔をあげると、神前さんがじろっと見下ろしてくる。彼もちょっとだけ、表情が硬かった。

「はい……大丈夫です」

 返事をしたものの、血の気が引いてしまっていて、もう少しで貧血を起こしそうだとは思った。卒倒しなかっただけでも自分を褒めてやりたい。
 彼は「わかった」とだけ言って、踵を返した。
「まずは、周辺のカメラの位置を確認する。それから、このバラ園の入場記録のデータの開示を請求する。おら、しゃきっとしろ」
「ひゃあっ」
 ばっちーんと背中を叩かれて、私は悲鳴を上げた。痛い! 転ぶところだった。なんとか踏ん張ったけど、転んで端末落として壊したら、どうしてくれる。始末書もんじゃないか。
「大丈夫だって言ったじゃないですかあ」
 情けない声になってしまった。本当に痛い。これ、もしかして赤くなってたりしないか。

 次に気合い入れするときは、肩を小突くぐらいでお願いしたい。
 でも、なぜか気分は少し回復していた。

× × × × ×


 同じ分析係の岡田さんと砂押さんが先んじて臨場していた。

 岡田さんは五十代くらいのダンディーな人で、警察官というよりバトラーをやっていそうな感じだ。ロマンスグレーの短髪を丁寧になでつけていて、スーツはパリッとしている。

 対して砂押さんは角刈りのスポーツマンタイプ、神前さんと比べても三段階くらい日焼けで黒い。小柄だけど、俊敏そうな体つきをしている。

 彼らに指示されて、神前さんと私は、園内のカメラの位置を確認してそのデータを抽出した。そのまま園周辺のカメラも確認してデータを受け取る。そしてバラ園の数日分の入場記録のデータも受け取った。

 神前さんにやってみろと言われて、入場記録のデータの授受は手続きから私が一人でやってみた。
 相手にデータの使用用途などの説明をするとき、ちょっとだけ言い回しや確認事項の抜けを指摘されたが、それ以外は概ねなんとかできた。初めてだったので、緊張しすぎて顔が真っ赤になっていたと思う。

 すべての手続が終わって、データを抱えて帰るころには、遺体は川から引き上げられて、検分されていた。

 被害者は、女性だった。腹腔内は内蔵がほとんど抜き取られ、代わりにバラを詰められていた。内蔵は発見されなかった。血液も抜かれていた。
 体の周りのバラは、透明なテグスで巻かれて固定されていた。棘は丹念に除かれていたという。
 遺体の腰には伸縮性のある包帯がまかれ、三十キロほどの石がくくりつけられていた。さほど重くないそれは、川底の石と噛み合って、遺体が流れるのを食い止めていた。
 遺体は、その『加工作業』に時間がかかったのと水に晒されたことで、やや傷んでおり、死亡推定時刻を割り出すのに時間がかかるとのことだった。
 被害者のものと思われる物品は、水を吸って膨張した左薬指に食い込んだ、ゴールドの結婚指輪だけだ。
 身元の確認や死因の特定のため、遺体は解剖される。詳しい解剖結果が分かり次第、情報共有のための招集があるはずだった。
 
 そのことを岡田さんと砂押さんと顔を突き合わせて確認した後、もう一度だけ現場に顔を出した。
 私は、シートを被せられた遺体に向かって、手を合わせた。神前さんたちはきっと最初に対面したときにしていただろう。あのとき私は自分のことで精一杯で、それどころじゃなかった。

 ふと、彼女の横に並べられたバラの花に目が行った。こんもり山になるくらいの量があるそれのなか、黄色い一輪のバラが気になった。記憶が確かなら、あれは口の中に入れられていたやつだ。ころんとした形が印象的で覚えていた。なんという品種なのだろう。

「三小田、帰るぞ」
 神前さんに大声で呼ばれて、私は立ち上がる。

 あれ、と思った。

 夕日が逆光になって目を細めた。その視界の中、彼はちょっと寂しそうな顔をしていた。彼の視線を追ってみると、所轄の刑事さんたちが集まって話している。

 ――もしかして、混ざりたいのかな。

 すっかり忘れていたけど、彼も元は所轄の刑事。もし異動にならなかったら、ああして、顔を突き合わせて、事件についての議論をしていたんだろう。

「オフィスに戻ったら、昨日説明した顔認証分析プログラムを使う。お前やってみろ」
「……はい」
 彼はすっかりいつもの仏頂面に戻っていた。さっきの表情は見間違いかも。
「んだよ。じろじろ見るな」
 イラッとした顔をされて、私は慌てて首を横に振った。
「あの、このくらいのデータ量だと、プラグラム完走までどのくらいかかるもんですか」
「全部となると一晩近くかかる」
「それって、明日の朝まで缶詰ですか」
「したけりゃしろ」

 初めてだからわからなくて聞いたのにと、少々むっとして、私は出口そばにあった園のパンフレットを見た。
 さっきの黄色いバラを探すが、園内の取扱品種紹介のページには載っていなかった。ウェブ版にはもっと詳しい紹介があると但し書きされている。

「それその辺に捨てたりすんなよ」
「そんなことしませんよ、マナーの悪い花見客じゃあるまいし」
 なんだろう、今日の彼は機嫌がいいのか悪いのか、やたら絡んでくる気がする。ただ元気なだけかな。ちょっと対応に困る。
 
× × × × × 
 
 オフィスに戻って、神前さんに見てもらいながら、分析プログラムにデータをセットした。
 本当に一晩かかるみたいだ。

 どうするんだろう、と思ってちらっと隣席の彼を見る。既に定時は過ぎている。他の新人はとうに仕事を切り上げて帰ってしまった。また最後だ。
「なんだよ」
「いえ、この後どうするんですか?」
「このプログラムが分析完了するのを待つ」
 というと、本当に缶詰ですか。
 うえっという顔をしてしまった。すると、神前さんは鼻で笑った。
「帰っていい」
「えっ」
「なんだよ」
「だって、捜査が――」
「急いだところで、俺たちに与えられてんのはこの分析なんだからしょうがねえだろ」

 他にも色々やることはあるが、今回は岡田砂押ペアの補助と決まっているので、私たちは彼らの下で指示された処理を淡々と行うことを求められいるという。神前さん曰く。

「そんな感じなんですね。意外。もっとがつがつやらなきゃいけないのかと」
「やりたきゃやれ。どうするかは知らねえがな」

 たしかに、他のデータ類は岡田さんたちが持っていて、私たちにあるのはこのカメラ映像だけだ。
 そりゃそうか。私みたいな新人に、いきなり重要な案件ポンッと投げたりしないわ。
 ほっとした。

「よかったー。いきなり何日も泊まり込みとかは勘弁してって思ってたところです」
「やろうと思えばいくらでもできる。十二階の道場に布団敷いて泊まり込む連中もいるし、そこにシャワーもある」
 聞きたくなかったー。
 いつかそこにお世話になる日が来るのかな。
「椅子で寝てもいいんでしょうか」
「腰痛くなるだろ」
「いえ、パイプ椅子をこう、何台か並べて寝ると結構快適ですよ」
「俺は寝れん」
「まあ、神前さんはそうかもしれませんね」
 でかいもんね。はみ出るね。寝返りとかまず無理だよね。
 くすくす笑うと、睨まれた。せっかく世間話させてくれるのかなって嬉しかったのに、駄目か。残念。

「神前さんはどうするんですか? もうあがります?」
「お前は?」
「残っていても残業付いちゃうから帰ります。お腹減ってきたし」
「……わかった」
 彼は素早く荷物をまとめると、私より先に立ち上がった。
「お疲れ様でした」
 声をかけると「お疲れ様です」と返ってきた。

 面白いことに、彼はどんなに態度があれでも挨拶は丁寧だ。私が「おはようございます」というと「おはようございます」と返してくる。

 途中ですれ違った女性にも神前さんは「お疲れ様でした」と頭を下げたけど、彼女は手元の端末からちらっと目を上げて戻し、気づかないふりをした。いくらなんでも、感じ悪いなあと思ってしまう。先日の男性もそうだけど。
 私が「お疲れ様でした」というと、彼女はにこやかに「おつかれさまあ」と返してくれた。なんだろうこの温度差。嫌だな。

× × × × ×
 
 くさくさした気分でビルを出て、さて帰ろうと駅の方向へつま先を向けると、見覚えのある立ち姿。いやいや見間違いであってほしい。

「三小田、ちょっと面貸せ」
「……はぁい」
 腰に手を当てた神前さんがそこに立っていた。ちょうどいい感じに通りかかった車のヘッドライトが、カッと彼を後ろから照らす。
 この場合、告白かリンチか悩むのは野暮ってものでしょう。

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