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 エトムント・トイフェル氏の話をしよう。
 御歳六十二、立派な御ひげの、素敵な紳士。四十年前、トイフェル家に婿養子にきた、気のいい御仁。
 奥方は十五年前に病で他界。あまりに奥方を愛していたため、彼の髪の毛は涙とともに抜け落ちた。
 手元には、可愛い子供と、莫大な資産が残された。城が二つに山一つ。
 彼には息子三人、娘が二人。
 長男は、先の戦争で名誉の戦死。次男は軍人になって、王都へ。三男は売れないもの書き。
 長女は玉の輿に乗って、領主様の奥様に。長男をもうけて、お幸せ。
 そして末っ子末娘。彼女がトイフェル氏の秘蔵っ子。トイフェル家の一番のお宝だと、みんな口をそろえて歌う。
 メーア・トイフェル、金のなる木。見た目はまずいが、金を生む。
 姉の婚家から預かった港を、金の海に変えた女。
 立派に嫁き遅れても、引く手あまたの、ふくよかな娘。



「また来ますから! お忘れなく!」
 ちょっと口調を崩したら、悪役のような台詞だわ、と思いながら、メーアは自分に捨て台詞を残して踵を返した、初老の男の背を見送った。
 雑踏に彼が消えた後、深いため息をつく。
「まったく……疲れるわねえ」
 あの初老の男――キストラー氏は、しつこくしつこく、港の使用料の値下げを請いに来ている。メーアはそのたび、それをうまくかわしているのだが、疲れてきていた。彼の会社への料金設定は、使用量に対して安いほうだ。だが彼は、自分の商会の赤字はメーアの搾取が原因だと憤慨しているのだった。なにを根拠にそう言っているのかは不明だ。
 さらに、なにかにつけて、彼は、メーアではなく、その父のエトムントを出せという。すでに、隠居した父を呼べというのは、嫌がらせに近い。今は減ったが、ちょっと前まで、商売に口を出す女として、もっと露骨な嫌がらせを受けることもあった。彼はそんな嫌がらせをする人間のうちの一人だ。
 メーアは潮風で崩れた髪をかきあげる。赤みの強い茶色の髪は、乾燥ぎみで、まとまりが悪い。お気に入りの薄絹のドレスは、ふわりと風をはらんでゆれる。薄茶のやや腫れぼったい目を伏せて、彼女はドレスのすそを払った。
 トイフェル家の門前の道は、夕方の、帰宅しようとする人たちでごった返していた。海の男たちが思い思いの方向へ消えていく。もう少しすれば、酒場以外の店は、閉店の時間だ。
 ため息をもうひとつ。踵を返そうとして、肩をたたかれた。
「トイフェルさん」
 メーアは驚いて飛び上がりそうになった。
「サウアーさま」
 肩を叩いたのは、顔見知りの男だ。
 色の薄い金髪を、ライオンのように逆立てて、鋭く青い目を笑みの形にしている。
 日に焼けた顔は、船乗りのように精悍だが、実のところ、サウアー商会という新進気鋭の会社を経営している、陸の男だった。がっしりした体躯は、いかにも船乗りのようだが。
「どうしました、我が家に御用でしょうか」
「ああ、もしよければ、少し散歩でも」
 サウアーは照れたように笑った。
 きっとなにか別の用件があるのだろう。メーアはうなずいた。
「あまり遅くならなければ、大丈夫です。支度してまいります」
 そういって、使用人に、厚手のショールを持ってこさせたのだった。
 
 メーアが父の仕事を手伝うようになって、十五年経つ。資産家の母の元に婿養子としてやってきた父は、残念ながら商才がまったくなく、メーアの姉のリデラが領主の妻となって港の管理を任せると言われたときに、店を畳んだ。
 だが、優しくて子煩悩な父は、そもそも、仕事全般があまり得意ではなかった。
 強く頼まれると、断りきれず、不利な契約をしてしまうし、そもそも損得の計算がきっちりできない。先の計画をするのも苦手だ。
 このままでは、管理を任せてくれた領主に顔向けできないし、姉の立場も悪くなる――それほどまでに管理が滞ったころ、十八になったメーアは、父の助けになることを決意したのだった。
 あれから、十五年。見識ある人を招いて助言をもらったり、相手に文句を言われながらいろいろな契約の見直しをしたりと、奔走しているうちにあっという間に時は流れ。港の管理はようやく軌道に乗りつつあった。
 逆に座礁したのは、メーアの結婚である。
 すっかり嫁き遅れになった彼女は、もはや、結婚はあきらめていた。目が細くて鼻筋の通らない不美人だし、太っているし、年増だし。かわりに、仕事はあるから、寂しくはない。仕事に生きるのも、悪くないはずだ。そうしている女性はほとんどいないけれど――。
 ただときどき思うのは、一度くらい、好いた男に抱きしめて欲しかった、ということだった。
 もちろん、そんなはしたないこと、誰にも言えやしないのだが。

 サウアーはやや猫背の姿勢で、ヒメル港の桟橋のひとつの前に、メーアをいざなった。そこには、明日、処女航海を迎える、サウアーの新しい大型帆船が停泊している。
 小型帆船の一山の荷物で始まった彼の商売も、山あり谷ありだったが、ここまで成長した。
 八年前、後見人とともに挨拶に来た彼の熱心な計画を聞かされて、銀行に口利きしてはどうかと、一応街の有力者に当たる父に勧めたのはメーアだ。
 あのときの彼が、ここまで立派になったのだと思うと、メーアはなんだか誇らしかった。弟が成長する姿を楽しみにしている姉の気分だった。
「どうだ、立派なもんだろ!」
 得意げに胸を張るサウアー。その背後には、彼の陰に収まりきらない帆船の姿。帆はたたまれているが、明日の出港のときには、目一杯風をはらんで膨らむのだろう。その姿を想像すると、メーアは胸がすっとした。
「大きいわねえ。明日が、楽しみですね」
 太陽の照り返しに、きらきら光る水面。遠くなっていくヒメリアの街並。風が髪を揺らして――ときおりこうして、遠くへ行く夢を見る。
 サウアーは、顔を明るくして、言った。
「トイフェルさんも、いつかこいつに乗って、一緒に東の国へ行ってみねえか」
「それは素敵ですね、ぜひに」
 微笑むと、まるで少年のように相好を崩して、サウアーは頭を掻いた。
「今日は、あんたに、礼を言いたくて来たんだ」
「お礼、ですか?」
「ああ。そうだ」
 表情をひきしめて、サウアーはメーアの手を握った。急に手をとられて、メーアは驚く。が、嫌な気はしなかったので、そのままにした。彼の硬い手の感触が新鮮だった。
「八年前、あんたが親父さんに口利きしてくれなきゃ、俺はここまで来られなかった。あんたのおかげで、今の俺がある。ありがとう」
 万感のこもった言葉に、メーアは微笑んだ。
「どういたしまして。ますますのご活躍を、影ながら祈っていますわ」
 女が口を出すなとことあるごとに言われて、嫌な思いも沢山したが、こういう風に感謝されることがあるのであれば、それも悪くない。
 胸の奥がほっこりしたメーアだったが、彼の次の言葉で、凍りついた。
「影ながらじゃなくて、隣で、見守ってくれはしねえか」
「……はい?」
「俺の。妻になってくれないか」
 彼は、その場でひざまずいた。少なくない人の目が集まって、メーアはあせる。
「メーア・トイフェル、俺と結婚してくれ」
 真剣な青い目に見つめられ、メーアは頭の中が真っ白になった。
 なんだ、この展開は。
「……大切にする。絶対に」
「あの、ちょっと、ええと……」
 うれしいとか嫌だとか言う前に、ショックで頭が働かない。
 なにせ、彼と自分は恋人同士ではないし、そういう雰囲気になったこともない。年齢も七つも離れているし、自分の方が年上で、なにより――美人じゃない。
「なにか新しい商談でもあるのでしょうか」
 つい、そう言ってしまった。
 サウアーの表情が一瞬凍り付いて、すぐに、怒りの表情になった。
「そんなわけないだろ!」
 身がすくむ様な、恐ろしい表情で強く言われて、メーアはたじろいだ。
「あんたがいてくれなきゃ、俺は、今でも地べたをはいずっていたんだ。あんたのこの手が、俺を救い上げてくれた。いっぱしの男になったら、絶対あんたを嫁にするって決めてたんだ、商談なんてあるか!」
 サウアーの父は、小さな会社を経営していたが、借金にまみれて最終的に首をくくって清算した。そういう成り行きで、息子の彼は、あのままではどこからも融資を受けられず、起業すらできなかったはずだった。
 しかし、その事業計画を聞いて、メーアは彼にかけてみようとおもったのだ。
 七年分の計画は、三パターン用意されていて、目標の収益額の達成率によって、方向を変えられるようになっていた。
 肝心な初年度の分に関しては、自分の船は持たず、他の商会の船に商品を混載してもらい、それを売買するというものだった。商品は、航海の難易度と見込めるリターンの金額で四つにわけてあり、リスクを分散するように配分されていた。どれかひとつが失敗しても十分利益が得られるし、二つまでであれば、赤字にならない。保険になっている織物は、危険な海域を通過しない航路をとるため、ほぼ確実に利益を回収できるというものだった。
 もちろん、百パーセントの勝率のものなどはない。だが、これだけきちっとした計画を立てられる、そして立てる熱意がある人間には、チャンスがあるべきではないか。当時、メーアはそう父を説得したのだった。
 サウアーは、険しい表情をしていた。どこか、寂しそうなその表情に、メーアはようやく自分の頭のなかが正常に動き出すのを感じた。
「でもね、エルンスト」
 彼のファーストネームを呼ぶのは、初めてかもしれない。そう思いながら、メーアは続けた。
「私は、あなたよりかなり年上だし、……あなたが笑われるのは忍びないわ」
「笑われる?! 誰に!」
「あなただって、私の歌を、知っているでしょう? あの『エトムント・トイフェル氏の話をしよう』っていう歌よ」
 サウアーは、きっと知っていたのだろう。唇をかみ締めた。怒りに耐えるように。
「あれが酒場の船乗りがつくった、替え歌だっていことは知っているわ。そんな歌が作られるということは、ある意味、父の名代として、私が認められているってことだとは思う。でも」
 その歌は、悪意の塊だ。
 引く手あまただったことは一度もなく、歌われているほど、トイフェルの家が突き抜けた富んだわけではない。たしかに、まっかっかだったころより、港の管理は上向きになって、近頃は設備の拡充などにも着手し、それが評価されてきたからメーアの理解者も増えた。
 だがこの歌は、そのために、父に代わって口うるさく、商人たちに契約の条件変更を求めていったメーアを、揶揄する歌だった。つまり、自分の評判がかなりよくないことを、彼女はよく把握していた。
「やっぱり、……あなたは未来があるし、別のいいところのお嬢さんをもらった方がいいわよ」
「もういい」
 メーアの手を離すと、サウアーはぷいとそっぽを向いて、そのままざくざく歩き出してしまった。
 だが、急にくるりと振り返ると、メーアにびしりと指をさして、大声で怒鳴った。
「明日! ……明日、もう一度、あんたに結婚を申し込む! 今度はすっかり準備を整えて、だ! それまでによーく考えておけ!」
 まるで首を洗って待っていろ、といわんばかりの勢いでそういわれて、メーアは目をしばたたかせた。
 雑踏に消えていくサウアーを、ぽかんとしたまま見送る。
 いつの間にか、メーアたちを見ていた人たちも、いなくなっていた。
 メーアは、ひとり、大きな帆船を見上げた。海のむこうに落ちていく太陽のせいで、逆光になった、威風堂々たるその姿を。
 その甲板で、サウアーと並んで夕日を見つめる自分を想像する。それは、胸の奥が甘酸っぱくなる光景だったが――やはり、そうはならないだろう。
 メーアがまだ二十代前半から半ばのころは、父も一生懸命、縁談を持ってきた。だが、それも今はない。
 持ってこられた縁談を片っ端から断っていったせいで、相手がいなくなったのかもしれない。今思えば、相手は、自分のような醜女に断られて、さぞ気分が悪かっただろう。会うことすらせずに、破談にしたことが何度かあった。
 手をつないで歩いている母子を見かけると、どこか疎外感を覚えることもよくあったが、自分で選んだ道だから仕方がない。そう思うことにした。
 それに、そうしてきたことで、今日はこんなどきどきすることもできたし。
 あらゆる手順を吹き飛ばして、急に結婚を申し込まれるなんて、恋愛小説で読む甘い物語のようだ。一生自分には訪れないだろうと思っていたことだったので、今になってみれば、少し嬉しくもあった。
 明日は、彼になんと言って断ろう。
 そう思うと、少しだけ、胸がちくりとした。

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