悪役令嬢の乳母のお話

重田いの

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悪役令嬢の乳母のお話

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 悪役令嬢の乳母のお話


 思えば前世から、物心つくのが遅かった覚えがあります。

 子爵家の六番目の娘として生まれ、親のいうまま婚約者と結婚し、伯爵夫人となりました。

 子供は五人できました。一人目と三人目と四人目はよく育っています。二人目は死産でした。そして今、五人目の、たぶん末っ子を亡くしました。

 とはいえ、この世界ではさほど珍しいと言うことでもありません。医療があの世界ほど発達していないのですから……。

 は?

「あああああああああああ!」
 というところで前世の記憶を思い出し、三歳の息子の亡骸を抱えたまま昏倒。幸い、周囲は悲しみのあまりだと理解してくれました。

 呆然としたまま葬式を出しました。夫は二、三日家にいましたが、すぐ愛人の元へ帰っていきました。
 他の子供たちもそれぞれの乳母の膝元に甘え、私のところには寄り付きません。

 その方がいいのだと思います。あんまり実母に懐きすぎると、いざ旦那様が私をどこかの貴族へ人質に差し出したり、はたまた私を離縁して同盟のためになる新しい妻を迎える必要がでたとき、辛いのは子供たちですからね。

「ははは……」
 日本人の倫理観を思い出した頭には受け入れがたい現実ですこと。

 ティファニア大陸は戦争に満ちています。どこかの小競り合いが終戦したら次は違うところでのろしが上がります。
 血みどろの時代。子供も老人もころっと死ぬ時代、いいえ、普通の男女だって。
 なんてところに私はいるのでしょう。でも、今はそんなことはどうだっていいのです。

 今は。
 たぶんインフルエンザだった、特効薬があれば助かっただろう我が子の死を悼むことにいたします。

 数か月して喪が明けて、珍しく正装した夫が帰ってきたかと思うと、
「公爵家の姫君の乳母にならんか」
 と言います。

「公爵家といいますと……ドルザーク公爵様の?」
「そうだ。我が家の属する派閥のおまとめ役であられる。おいたわしや、以前よりお体のお悪かった奥方様が亡くなられ、姫君はあわれ母なし子となられた」
「まあ」
「お前はちょうど子を亡くしたばかり、姫君の御心に沿うだろう」

 ひどい言いざまです。とはいえ、言い返すことはできない。長年の貴婦人としての躾と鞭により私の心は折れています。

 私は深々と頭を下げ、夫に服従を示しました。
「謹んで拝命いたします――出発前に子供たちに事情を説明させてください」
「もちろん、許そう」
 夫はさも自分の寛大さに感服するように頷きました。

 しょうがない。ここはそういう世界なのです。
 女にはなんの社会的価値も権利もありません。とくに貴族の女は、刺繍も馬術も手慰み程度に収めることが美徳であり、生業をもつなんてとんでもない!
 女の価値とは、よろこびとは、ただただ子を孕み生み出すことにだけあります。

 むしろ子を産む以外なにもできない血統の正しい妻を養ってやることこそが、男の甲斐性とされているのです。

 正直、日本人だった頃の記憶なんて思い出さなきゃよかったと思っています。あの頃。自由があって、自分の仕事があって、家族はいなかったけれど細々と自分のすべてを自分のことに使えたとき……。

 幸せとは失ってはじめて気づくもの。そんなありふれた文言の意味に今更気づくとは。

「お母様は公爵家にお仕えすることになりました。みなさんとはしばらくお別れです。我慢できますか、私の子供たち?」
 と聞くと、集められた子供たちは口々に、はい、できますお母様と答えます。

「いいこたちですね」
 それ以上の内面を、この子たちが私に見せてくれることはありません。
 ええ、生涯ないでしょう。

 私も悪かったのです。生まれてすぐに乳母や姑の手によって奪われるように育児室に連れていかれる我が子を、立ち上がって追っていれば……。
 もう、本当に今更です。今更です。

 貴婦人は我が子に授乳すら許してもらえません。乳房のかたちが崩れるというので。
 私もこれまで、それが普通のことだと思っていました。周りの貴婦人は皆、そうしていたので。

 今も、いい子のおすまし顔して居並ぶ子供たちを順繰りに撫でながら、はて、誰が内心どんな思いを抱えているのか、察してやることさえできないでいます。

 とはいえ前世でも結婚も子供もいなかったので、身悶えして泣けばいいのか誇り高く顔を上げていればいいのかも、判断できなかったりしますのです。

 ともあれ、乳母たちに任せておけば子供たちの安全と健康は大丈夫です。
 私は子供たちを解放すると(喜んでみんなでお庭に遊びに行きましたとも、ええ)、乳母と子供付きの侍女たちを呼びよせ、金一封を手渡しました。

「少ないけれど。あの子たちを頼みますよ」
 女性たちはつつましやかに目を伏せ、はい、奥方様、お任せくださいなどと言います。

 うちの一人が心から勝ち誇った目をしていましたので、ああ、前から薄々気づいていたけれども夫の愛人のうちの一人はこの人かあ、と思いました。

 三人目の子の乳母でした。これもよくあることです。
 というかこの家のメイドやら侍女やらの少なくない人数が、夫や一番目の男の子の御手付きです。
 貴族の男ってやつときたら。

 公爵家へは夫とともに馬車に乗り、結婚式のお披露目パレード以来のことだったのでちょっと嬉しくなり、そんな自分に呆れました。

「公爵家の方々と、公爵様について話してくださいまし」
 とおねだりして、確信しました。

 ここはやっぱり前世で読んでいた小説『ティファニア大陸物語』の世界のようです。
 そして私がこれから乳母になる公爵令嬢、お姫様というのが、主人公ユーグの最初の妻になるアデライード・フォン・ロザリア・ドルザーク公爵令嬢なのです。

 小説自体はよくあるお話です。
 戦争が続く大陸の片隅に生まれた主人公ユーグは、村を襲った傭兵に両親を殺されます。復讐を誓った彼は仇の傭兵を倒すべく自らも傭兵となり、各地を放浪するうちに、並外れた剣技と戦術指揮の才能を発揮します。

 彼はとある戦乱の中で王様の命を救い、褒美にお姫様を妻にもらいます。王様の娘たちはみんな嫁いでいたので、一番血が近い公爵家のお姫様を。

 それがアデライード様です。

 主人公ユーグは平民の生まれ、高貴なアデライード様は彼を嫌い尽くし、夫婦仲はうまくいきません。
 そのうちアデライード様はさる貴公子に恋をして、愛人ルイと共謀し夫ユーグを殺そうとします。しかし返り討ちにされ、愛人には逃げられ、失意のままたった一人で失血死。

 辛い結婚を乗り越えたユーグは、隣国の戦うお姫様と恋に落ちます。そして王様を弑逆して自分が新しい王になる。それからユーグと戦うお姫様は二人で力を合わせて同盟軍を組み、大陸を統一。今度こそ幸せになりましたとさ。

 というお話です。
 でもねえ。アデライード様の態度には理由があったんですの――。

「ついたぞ。降りろ」
 手つきばかりは優雅に夫が私に手を差し出します。私はその手を取って馬車から降ります。ひたすら典雅に優雅に見えるよう、スカートの裾を引きずって。

 そして公爵様にお目通りし、夫は早々に男同士の社交の渦に飛び込んでいき、私は侍女に案内されアデライード様の元へ向かいました。

 小さな、薄暗い、寒い部屋でした。
 お亡くなりになったアデライード様のお母上の失意と怨念が染みついているような、青い装飾の部屋でした。

「はじめまして、お姫様。新しい乳母になりましたカトリーヌと申します」
 と膝をついて目を合わせ、手を指しだします。

 アデライード様は子供とは思えないすさんだ、濁った眼で私を睨みつけました。
 ああ、やっぱり。

 その身体は年齢にそぐわないほど痩せっぽちであり、あちことにひっかき傷が見えました。
 彼女は私の手を振り払って家の奥へ駆けていきました。

 私はため息をついて立ち上がりました。
 戦いの幕が開きました。


 ***


 それからの日々は、まったく、山猫を躾けるようなものでした。
 お可哀そうに、六歳のアデライード様はなんの躾もされていませんでした。亡きお母上が彼女を手放さず、乳母も家庭教師も近づけなかったのだといいます。

 アデライード様は近づく私を押しのけ、威嚇し、引っかき、殴りました。私はすべて受け止めました。
「あんたなんか嫌い! お母様を返して!」
「お母様はお亡くなりになってしまいました。お姫様はそれを受け入れなくてはなりません」
「嫌い! 嫌! ぶさいく! なんで男の子じゃなかったの! あんたなんか嫌い!」
「あっ」

 また引っかかれてしまいました。アデライード様はこの北の棟の、さらに奥深く日のささない部分に生息しています。
 私は腕まくりをして彼女を追いかけました。息つく間もなし。

「あんたもよくやるねえ――」
 と侍女が感心するくらい、私はアデライード様に全力で向き合います。

 小説のアデライード様の人生ときたら、悲惨そのものでした。実母には言葉で呪われ、実父には無視され、厳しい家庭教師には鞭打たれ。
 やっと心許せる恋人ができたと思ったら、(これは番外編でちらっと明かされることですが)それは敵国のスパイで、ユーグを失脚させるためアデライード様に近づいたのです。

 誰も、彼女を心から愛しませんでした。
 実の母親から受け取ったのは悪口と、人の言葉の裏を勘ぐる癖と、悪意と、涙と、嘔吐と、服従のやり方だけでした。

 私は私の子供たちの母親です。愛してあげられなかった代わり、なんていうのは子供たちにもアデライード様にも失礼でおこがましいことですけれど、それでも目の前に愛に飢えた子供がいたら助けたくなるのが女の本能です。

 たとえそれが我が身を削ることになったとしても。だって原作で私の立場にいただろう女性は、自分と家族を守るためアデライード様に深入りしなかったに違いありませんから。

 それでも私はします。
 アデライード様は痩せ細った可哀そうな六歳の女の子であり、私は大人の女性です。
 理由なんてそれだけで十分でしょう。

 たぶん料理人か誰かにアデライード様分の食料品が横領されていました。夫に手紙を書きました。こんなふうに。

「こんにちは~。うまいことやっております。公爵家にお仕えしている同じくらいの身分の貴婦人とも仲よくなりました。さて、女には女同士の社交というものがございます。少しは自由になるぶんがなくてはあなたが恥をかいてしまいますわ」

 ちっ。
 みたいな返信とともにお金が来ました。それで使用人を買収し、まともな食事がくるようにしました。

「お姫様、ちちち、ごはんですよう」
 と、その盆を持ってあちこちアデライード様を追いかけまわし、根負けして出てきたら褒めたたえながら食事を渡します。

「あんたなんかいらない。男の子じゃない」
「はいはい」

 実の母親に言われたことをそっくりそのまま繰り返す、可愛い女の子。銀と金のあわいの色の、くるくるの髪の毛。きらきら輝く海のように深い青い目。そばかすになりきらなかったごくちっぽけな肌の点を気にしてやたらと顔をこする。ふっくらした額と頬。

「可愛い子、新しい乳母が持ってくるドレスはいる? いらない?」
「……いる」

 娘の着なくなった服を伯爵家から(姑のイヤミ長文手紙つきで)送ってもらい、繕いつつ着せます。ついでに息子たちの文房具も送ってもらいました。というか子供たち、こんないいものもらってたんですのねえ。
 姑、私にはけちょんけちょんでしたけれども孫のことは我が子のようにかわいがっています。
 大事にしてもらえてて、よかった。私の子供たちは大丈夫。

 だから、今は目の前の、ようやく笑ってくれるようになったアデライード様を大事にします。

 さて、アデライード様がようやく膝の上で寝てくれるようになった頃。

 ……家庭教師がやってきました。これがまた皺まみれで縮んだお婆さんで、元は侯爵家のご令嬢だったそうですがそれにしても時代錯誤な躾をする人です。

 私は彼女の授業のすべてに同席し、アデライード様が鞭で叩かれそうになるたび間に入りました。そのたびにお婆さんとおばさんで髪の毛引っ張り合いになりそうなほどの口論です。

「どんな理由であれ鞭はだめです! こんなささいな間違いで鞭打っていては他人の顔色を伺う矮小なご令嬢になってしまいますよ!」
「どんな研究だか知りませんけどね、あたくしの躾は先祖伝来のやり方です。このやり方であたくしのお家はみごとな当主を輩出し栄えているのです!」

 ぎゃあぎゃあぎゃあ。
 アデライード様は目を丸くしていました。子供の目の前で喧嘩する大人なんて見たことなかったでしょうものね。ごめんね。

 クソババ……失敬、家庭教師と私はそのうち冷戦状態に突入しました。それでも授業の質ときたら大したもので、さすがは現ドルザーク公爵、アデライード様のお父上の幼少教育を請け負った凄腕ベテラン家庭教師だと感心したものでした。

「あんなに怒らなくってもいいじゃないですかしら。いやんなっちゃうわ」
 と冗談めかしてアデライード様に微笑んだことがあります。

 あの小さな暗いお部屋は、侍女たちに手伝ってもらって分厚いカーテンを取り去り、華やかな絨毯を敷き詰め、机をよく磨いて花など飾りましてなかなか住み心地のいい小さな家になっていました。

 私たちは絨毯の上、暖炉の前に二人で丸くなって、アデライード様の小さな身体を私は膝の上に抱き上げていました。

「乳母や、わたくしを庇い立てしすぎるといいことはないよ」
 利発な透明さのある青い目で彼女は言う。
「わたくしを愛しても、わたくしは何も返してやれないよ」

「こないだまで嫌い嫌いとおうるさかった方が、なんとまあ別人みたいなものいいですこと」
「あ、あれは……」
「ようございましてよ。私は夫に仕え子を産むために、その目的を果たしてからは夫のいいように使われるために、生まれてきたのです。私の『用途』がこんな愛らしい姫様のお世話だなんて、キスして差し上げたいほどの幸運です」

 彼女は目を見開いて私を見上げ、首に抱き着いてきました。

「いいですか、お姫様。あなたもいつかあなたのすべてを支配する権利を持つ殿方と結婚し、命を含むすべてをお捧げしなければならなくなるときがきます。恐ろしいでしょう。悔しいでしょう。けれど夫に対しては敬意をもって接するのです。そして彼を愛するふりをなさい。そのうち、本当にそれに似た気持ちが自分の中に湧いてきます。それを大切に持ち続けなさい。夫を見るときは最初に育てた愛のようなものを思い出して。そうすれば、結婚はうまくいくでしょう。そしてもし――もし、夫があなたに情だけでなく愛を持っていると確信できたら。そのときは、彼に全力でお応えしなさい」

 アデライード様は興味深そうに、頷きました。

 さて、公爵様が後妻を取りました。ドルザーク家にふさわしい高貴な花嫁。私の仕事の大部分の始まりです。

 とある戦役が始まって、公爵様が仕事に専念するべく王宮に籠り切りになってしまうと、後妻は小さな部屋にやってきてアデライード様に竪琴を弾かせます。そして指が怠けている音が小さいと難癖つけて鞭打つのです。

 たまに帰還した公爵様は後妻の言うことを全部真に受けて、鞭を片手に部屋を訪れます。
「母親に苦労をかける心のねじ曲がった娘だ!」
「違う、違う! わたくしではありません、信じて父上ー!」

 ……ね?
 そりゃ性格も曲がるし心は死ぬし、たらしこんでくるナンパ男みたいなスパイにも心を開いちゃうでしょ。

 原作だと誰も彼女を助けなかった。でも今は私がいます。

 私は鞭打たれるアデライード様の上に覆いかぶさり、決してどきません。肩を掴まれても髪の毛を引っ張られても、両腕をがっちり組み合わせて離れません。

「新興の伯爵家の妻ごときが邪魔だてするか!」
「申し訳ありません」

「おどきなさい、この子は悪魔つきですよッ。躾てやらなきゃそのうち本物の悪魔になるのォー!」
「申し訳ありません」

 脇腹蹴られたときにはさすがにオエッとなりましたけれども。
 まあ、生家で鞭打たれたときもこんなものでしたし。婚家で姑に下着姿のまま冬の庭に追い出されて夫が見てたのに助けてくれなかったときに比べたら、それほどでもない。

「追い出して家に帰らせるぞ!」
 と言われたときはさすがに顔を上げて、
「どうぞお好きなように。夫に身体を見せて相談いたしますゆえ」
 と言い返しましたが。

 いくらなんでも考えが浅すぎて、まさか公爵家の高貴なご家族はアデライード様をいたぶるときだけ知能が下がるのかしら? とまで考えました。

 嵐が過ぎ去り。身を起こすと、私の下でアデライード様が震えて泣いていました。
 抱き寄せて、涙を拭い、子守歌を歌ってゆらゆらしていますと、誰かが入ってきます。

 家庭教師でした。老いてヨボヨボした足取りで、ぶつぶつ言いながら薬草入りのお湯に浸した布巾で私を拭いました。

「お姫様を看て。怪我してないかしら?」
「フン。お嬢様はご無事だよ。こんなことしてもなんにもならないよ」
「ええ。でもやるの」

 アデライード様は嗚咽します。私は彼女をますます抱きしめます。

 嵐は、月に一回以上は起こりませんでした。原作と違います。アデライード様はもっと殴られたはずです。……よかった。

「乳母や、乳母や」
「おお、お姫様がお綺麗でよかったですこと……」
 という感じで、抱きしめ合いながら私たちの耐える期間は続きました。

 戦争、戦争。小競り合い。破壊活動。また戦役。

 血生臭い時代の最中、アデライード様は美しく成長なさいました。後妻はそれが気に入らず、化粧品の購入を邪魔したり部屋にわざと鼠を入れたりせせこましい嫌がらせが続きます。もちろん、いちゃもんと鞭打ちも。

 とはいってもアデライード様はもはやそんなことではへこたれないのでした。
 一度など、後妻の手から鞭を奪い取り、
「これ以上同じことをするようなら父上を飛び越え国王陛下へお知らせします。お義母上様のなさったことをありとあらゆる知人に触れ回ります。嫌な噂が一度でも立ったら延々蒸し返されるのが貴族社会の常。――わたくしの異母妹にひどい噂がつきまとうのはお嫌でしょう」
 と宣言なさったくらいです。

 後妻は舌打ちして立ち去りました。確かに、彼女は春に生まれた娘に夢中でした。

 足音が消えると、アデライード様は立ちすくんだまま両手で顔を覆います。
「お姫様」
「ありがとう、乳母」
「え?」
「あなたがいてくれるから、あなたを守らねばと思うから、わたくしは強くなれるのだ」

 ――胸に満ちる愛情がどんな結末を連れてきても構わない、このお姫様に一生お仕えしよう。

 私は決意を新たにします。


 ***


 ユーグとの婚礼話が降ってわいてきました。
 こんな日もあるのか、と感慨深いくらい真っ黒な雨雲が立ち込め、雷鳴がして、でも雨は降ってこない奇妙で不吉な日でした。

 公爵様は、
「なんとめでたい! 国王陛下じきじきの御指名とは鼻が高いぃ」
 と踊り狂っていますし、後妻の方は、
「あはははは! みんなが嫌ってる平民の傭兵あがりとあんたが! キャハハハハア!」
 と足をバタバタさせてお腹を抱えています。

 どっちも高貴なお家出身の高貴なご夫婦なんだけどなあ。
 もうずいぶん会ってないうちの姑と夫の方が幾分かましだったなあ。

「素晴らしい縁組に感謝いたします。このアデライード、ドルザーク公爵家の家名と名誉を背負い、立派にユーグ様の妻となってみせましょう」

 アデライード様はほれぼれするような一礼。それから、ちらりと控える私を見て、
「連れていく使用人は、わたくしが選んでよろしいでしょうか?」
「選別代わりだ、好きなだけ連れていけ」

 それで、そういうことになりました。
 原作では泣きながら通った、と描写されていた嫁入りの道を、アデライード様と同じ馬車で私は通います。主人公ユーグが王から賜った領地へと。
 なんとあの家庭教師も一緒です。他にも選ばれた数人の侍女、騎士もいます。

 道中は、意外に楽しいものでした。知らない街や村へ寄り、お姫様のお嫁入りお嫁入りだと見物に来る平民に手を振ってやり、草地に布を広げて軽食をとる。思えばそれは、幼少期は考えもしなかったピクニックもどきでした。

 夫に手紙でお姫様の嫁ぎ先についていくと報せましたところ、三人目の子の乳母から好きにすれば? という返事がきました。夫は痛風で寝込んでいるそうです。お大事に。

 そうしてアデライード様はユーグと出会いました。
 正真正銘、初対面です。ほんとは子供の頃に会っていて一目惚れしていたとか、舞踏会で見かけてどうこうとか、一切ない。五歳から見ている私が証言します。

 アデライード様は堂々と背筋を伸ばし、高く澄み渡る声で挨拶します。
「お初にお目にかかります、ユーグ様。あなたの妻となるアデライードです」
 それだけ。

 そして目を見張るほど優雅な、私の仕草など及びもつかぬほどしなやかな一礼。
 公爵家のお姫様の名に恥じぬ典雅がそこにありました。

 ユーグ様はまっすぐな黒髪を短くして、切れ長の茶色の目をかすかに見開いて、それを見つめました。傭兵あがりらしい堂々とした体躯。いつだって手放さない、王を守った聖剣。

 そして――私は断言します、二人は恋に落ちました。

 古典的な物語にあるように、それがきたとき周囲の者にはそれとわかるのです。知らぬは当人たちばかりなり。

 アデライード様はあっという間に新しいお城に馴染みました。
 家政の面倒を見、出入りの商人には気前よく支払ってやり、古い城でしたので修繕も必要で、それから孤児院をもっと空気のよい場所に移動させ……結婚式の翌日から、目にも止まらぬお仕事ぶりでした。

 そして夫ユーグ様の配下の傭兵団から死人が出たときは弔問金と、家族が出せない場合は埋葬代も出しておやりになったことから、傭兵あがりの騎士たちの信頼を得ました。

 家庭教師も私もあれこれとお手伝いいたしましたけれども、やはりお若い方の発想と行動力にはかないませんね。せいぜいお金の計算くらいしかお助けできませんでしたとも。

「なんとも、いい具合にまとまったようじゃあないか」
「ほんとに。どうなることかと思ったけれど」
「あんな家にずっといるよりこっちの方がいいに決まっていますとも。ええ、この城はまるで古き良き時代の要塞じみていますこと」
 とけらけら笑っていた家庭教師は、翌日冷たくなって寝床の中で発見されました。

「先生……」
 と寝間着姿のアデライード様は夫に肩を抱かれて泣き伏し、それが彼が見た彼女の最初の涙となったのでした。

 ユーグ様の騎士団(そう、団長が叙勲されたので、もう傭兵団とは呼ばれないのです!)は何度か隣国の騎士団と共同戦線を張りましたが、あの戦うお姫様と出会ってもユーグ様はまったくなびかないようでした。

 どころか、私が聞きまわった限りではどうやら城内で彼に手を付けられた娘はいないらしく――あの貴族社会にいた私からすれば信じられないことですが、彼はそういう意味ではまったくもって『潔癖』だったのです。

 なんというか、肩の荷がどんどん降りていく感じがいたします。

 もう十分、働いた。そんな気持ちです。


 愛しい愛しい、アデライード様。あなたはきっと幸福になれる。あなたを踏み躙ることが生きがいの連中に潰されさえしなければ、あなたひつだって、愛らしい女の子。

 ご夫婦が轡を並べて朝の早駆けから戻ってこられました。二人きりのご朝食をすまされたあと。
 私はお二人の前に立ちました。

「そろそろ、子供たちや孫たちの顔を見にいこうと思っておりますのです。永らくお仕えさせていただきましたが――」

 アデライード様がひゅっと息を呑み、その悲しそうな瞳、初めて会ったときのような。それは私の心を貫きました。それでも。

「ええ――わかっている、乳母や。本当の子供たちに顔を見せておやりなさい。わたくしの大事な乳母や」
「はい。ありがとうございます。愛しいお嬢様。私のお姫様」

 ユーグ様は抱き合う私たちを眩しそうに眺めます。
「護衛の騎士と、馬車をつけるよ。道中気を付けて。俺の妻に長い間、よく仕えてくれたね」

 彼は家族の縁に薄い人です。アデライード様が彼の新しい支えとなり、彼らがたくさんの子供たちに恵まれることを私は願います。

 私はアデライード様が、子供たちがいて、幸せでしたから。

 見送りにはご夫婦のみならず、たくさんの人たちがきてくれました。一人一人に私は挨拶して、旅立ちました。
 もう戻っては来られないでしょう。高齢です。この時代、この世界、旅は命がけ。

 山を越え河を越え、懐かしい伯爵家の領地が見えてきました。
 私は邸宅に入ります。内装は覚えていたのとはまったく違っていましたが、はたして、子供たちは、いました。

 全員。


 五人産んだうちの、一人目と三人目と四人目。私の三人の子供たち!

 私は嬉し涙を流して彼らと、それから彼らの家族に駆け寄りましたが、子供たちの反応は冷めたものでした。あ、そう。この人が。ふうん。あ、これ孫ね。じゃあ、解散。
 といったものです。

 とはいえ悪いのは私です。
 私は公爵家に仕えに行って、以来、帰ってこなかったのですから。
 乳母たちに子供たちを押し付けて、あとはプレゼントや手紙くらいで。顔を見に来なかったのですから。もちろん夫が許さなかっただろうということもありますけれども、積極的に動かなかった。

 私の罪です。

 思えば前世から、物心つくのが遅かった覚えがあります。
 人の気持ちに疎く、ああ――こういう状況になってしまったものは、もうこういうものだから、仕方ない、と。諦めてしまうところが私にはありました。

 諦めるんじゃなかった。取り返せないことだった。ああ。

 姑はとっくに亡くなっていました。墓参りを済ませ、痛風と老齢で寝込む夫を見舞い、お部屋をひとつもらって腰を落ち着けました。
 侍女を一人、今は当主となった長男がつけてくれました。

「ありがたいことです。ありがとう、ありがとう」
 と口をもごもごさせ、私は言いました。

 ほどなくして寝込みました。
「疲れが出たんでしょう」
 と医者は言いました。

 違う、のはすぐわかりました。
 というのもアデライード様はあの後妻や公爵家の政敵に何度か毒を盛られており、私はその症状を知っておりました。身代わりや、一緒になって毒に犯されたこともありました。

 ああ。
 私は本当に、取り返しのつかないことしたのです。

 死にかけた私の枕元に子供たちが集まりました。大人が三人、子供が二人。

「もう死んだ?」
「まだだ。でも明け方までに死ぬ」
「じゃあひと眠りしてこようかな」

 大人たちの目は無感動で、無表情で、貴族の立ち居振る舞いでした。
 子供たちは仕方ないなあ、という顔で両手を広げていてくれます。

「公爵家で死ねばよかったのに」
「姫様の嫁ぎ先についてったんだろ?」
「ああ、あの傭兵あがりの人殺し!」

 三人は笑い合いました。息の合った家族のだんらんでした。

 そのようにして死にました。まったく、人の、母親の死に水とりながらこの子たちときたら。

 埋葬の間、雨が降っていました。私は三人の子供たちの額に順繰りにキスをして、それから二人の子供たちとともにアデライード様のところへ向かいました。

 報せの手紙を足元に落として、アデライード様は号泣しておられました。
 ユーグ様が痛ましげに寄り添い、心からの慈しみでもって彼女を慰めておられます。

 ――まあっ。
 お腹に小さな命が宿っています。もう肉体がないからでしょうか、私にはそれがわかります。

 嬉しいねえ。と、子供たちと顔を見合わせました。
 彼らがきゃあきゃあ笑いながら私を引っ張るので、それに従います。
 そうして私は永遠にこの地を離れ、どこか知らないところへ意識は溶けていきました。永遠の安らぎがそこにありました。

 精一杯、やれたと感じています。私の愛も罪もすべて、胸を張って認めることができます。私はそれが、誇らしい。

 だから――
 いつかまた、長い長い年月が経ったときに全部お話しましょう。
 またお会いできるのを楽しみにしております、アデライード様。
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みんなの感想(1件)

nebcad
2025.02.15 nebcad

こんな素晴らしいお話が読めるなんて

2025.02.16 重田いの

お読みいただきありがとうございました!!!

解除

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