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 さて、【奴隷人形】には決められたことを行う以外の機能はない。たとえばこの御者は御者として魔法術式――システムが組まれているのだから、それ以外のことをやらせたければ魔術師に頼んで術式を新しくしなければならない。

 つまり私の乗った馬車は正しく公爵邸についたってことだ。

 出迎えに走り寄ってきた門番の心が私に入り、かつて子供だった彼が死ぬほど憧れた近所の場末の酒場の娼婦の姿に、私はなる。

「えっ?」

 と間の抜けた顔をする使用人に微笑み、私は彼の横を素早く駆け抜けた。

 不思議と疲れは感じなかった……そう、実のところさっきからそれを不審に思っている。足はあのアンゼルとかいう男に変身したときより軽く、腕の力は強い。庭園の垣根の迷路に私は駆け込んだ。こうなっては誰も私に追いつけないだろう。

 身をかがめると娼婦の粗末なドレスの裾がざかざかした。迷路の外が騒がしくなる。馬車は確かにあるのだから、あの門番の勘違いではすまされない。夜半を過ぎて、とっぷりの闇の中で三つある月のうち一つが煌々と、残りがしずしずと光る。

 魔法灯と篝火を片手に巡回する男の使用人たちの間に私は忍び寄り、そうっと光の届かないところに滑り込んで歩き出した。呆れるほど大胆に。心臓は高鳴らない。息も上がらない。恐怖すら小さく、むしろスリルを楽しむほどだ。呆れたこと、私もアマルベルガもどっちかというと臆病な女の子だったというのに。

 これが魔物の気持ち、人間を喰らう側にいるものの感覚なのだろうか。

 だとしたら――なんて楽しいのだろう。アンゼルの足の速さに感激している場合じゃなかったわ。

 私はするすると男たちの間をすり抜け、いとも簡単に邸宅の裏口にたどりつくまでに数人の心を読んだ。そのたびに私は優しい母親、可愛かった弟、初恋の少女に姿を変える。食器係の心の中にシャルロッテがいて、そっちの姿に引っ張られそうになったときはさすがに殺してやろうかこのおっさんと思った。シャルロッテ、ああシャルロッテ、いいわねえ、こんな冴えないデブの裏方にさえ好かれてて。

 そこから先は王宮と同じく。こちらは原作に描写はないが、幼い頃に使用人通路で遊んだアマルベルガの記憶が役に立ってくれた。

 公爵の自室についたとき、まだ月は一つだけ煌々と扉を照らしていて、まるで本当のことではないかのようだった。さすがに公爵ともあろう者、護衛の兵士は部屋の前に控えている。その中の一人がシャルロッテに恋していた。

 だからわたくしは今、シャルロッテの姿をしているのである。

 ほんとに――何なんだろう、この異母妹の持つ吸引力は。劇場にいけばあの子にバラが差し出され、主演の俳優は一番支援した伯爵夫人を差し置いてシャルロッテに夢中になる。学生たちはシャルロッテが歩いた石畳にキスをする。山のような恋文。天真爛漫な笑顔で小首を傾げれば、ありとあらゆる男が彼女に跪く。

 ――あんなののどこがいいのよ、あんなガキのさあ。

 それでもわたくしがシャルロッテの顔でにっこり笑い、ドレスを裾をちょいと上げて足首を見せれば、剛健な衛兵の顔さえ緩むのだから結局、答えとはそういうことなのだ。この世とはこういうものなのだ。

「皇子様からお言いつけがあるの。お父様は起きてる?」

 それでまんまと部屋の中に入った。公爵は起きていた、起きて書類仕事をしていた。仕事仕事、仕事。この国の男たちにはあまりにもたくさんの仕事があって、それは婚約者や妻を構えないほど膨大で、けれどお気に入りの侍女や女優や妾を伴って遊びに行けるくらいの量ではあるのだ。

 ――そう、ふうん。

 と私の中で私が思い、アマルベルガはころころ笑い、おそらくミラーとカムリらしき残酷な嘲笑もまた、起こった。人間の中でももっともちっぽけで醜く惨めな感情だけが、今の私に寄り添ってくれていた。

「あのね、あのねェお父様……」

 と私はシャルロッテの顔で公爵の膝に乗った。彼は満面の笑みで愛おしげにシャルロッテの金髪を撫で、

「おお、どうした愛しい子。あの若造がまた無茶苦茶を言い出したか」

 と少女の身体を抱きしめる。

 狂っている、と思う。我が子を皇子に差し出して権力を得るのも、一方の娘を冷遇しもう一方を偏愛するのも、この男ははなからおかしい。

 そうこうしている間になんと、公爵の手がシャルロッテのドレスの裾を割った。ぞっと背筋が冷えると同時に、条件反射みたいにカン高い小娘の笑い声が自分の口から転がり出る。公爵の心は厚い雲のように幾重にも覆われて、使用人たちのようには見通すことができない――それでも彼が抱いている欲望は伝わった、こ、こいつら、まさか。まさか実の親子で。

 表情筋までシャルロッテ並みに制御できていたとは思えない。私の笑顔には確かに怯えが混じったはずだ。それを公爵はとっくり見つめ、舌なめずりでもしそうな下卑た顔つきになった。伝わる、弱いものをいたぶりつくすことへの快感。その結果を知っているものの顔を公爵はした。

 私の中にはまだアマルベルガの倫理観が残っており、つまりは父親も母親も敬うべきものだからこうした不敬な感情を抱くべきではないとするこの国の宗教的価値観が、確かにあった。だから自制しようとする部分が、まだ、あった。それが消えた。

 残ったのは魔物由来の残虐性と、体力と膂力のみである。

 私は公爵に抱き着いた。奴はシャルロッテのかたちの尻を鷲掴みにしながら、じりじり膝でドレスをかきわける。

「どれ、お父様があの皇子の残り汁でも見てやろう……」

 ――うぎゃああああああああ。キモイキモイキモイキモイキモイ!

 私は両手を公爵の首に絡め、全身全霊で力を込めた。ふつうであれば小娘の力なんてたかが知れている。こんなことしてもちょっと度の過ぎた戯れ以上にはならないはずだったけれど……私はすでに人間ではない。

「おい? 何をしておる。離れろ!」

 と、この父の焦った声など初めて聞いた。ああ……。

 そのとき私ははじめて、シャルロッテにも彼女なりの地獄があったのかもしれないと、アマルベルガをいじめないとやってらんない苦しみがあったのかもしれないと思った。同情はしなかったし決して許すことはない、むしろそれで、闘志が沸いた。

 ――二度と他人に、心の隙間を埋めるために、わたくしを使わせてはならない。

 そういう、気持ち。かつて日本人だった頃にさえ覚えたことのない感情。あの頃の私は社会と会社に最初から屈服して、戦うことすらしなかった。

 私は腕に力を籠め続ける。頭を抱えるような形で腕を喉笛に入れ、決して外れないように下半身で公爵の身体に組み付く。プロレス技にこういうの、あった気がする。公爵はさすがにがっしりした成人男性だけあってしぶとい。シャルロッテをひっつけた公爵は暴れまわり、ついには椅子ごと後ろに倒れ込んだ。衛兵たちがなだれ込んでこないということは、つまりはそういうことなのだろう。はじめてじゃないのだ、シャルロッテが入ったあとの部屋でどっすんばったん音やら声やらがするのは。それでも尚、心に浮かべるほど愛されるとはどんな気持ちなのだろう?

 やがて公爵の身体が限界に近づき、びくびく痙攣し始めるにあたって、はじめてその心の覆いがすとんと剝がれ落ちた。私は驚きに目を見張りながら、一人の美しい女性の姿に変身が移り変わっていくのを感じる。ほとんど白に近いまっすぐな金髪が、髪留めもなくするすると床まで流れ落ちた。きっと目は仄暗い曇り空の青灰色をしているのだろう、アマルベルガと一緒に。

 最後の最期で公爵は、静かにアマルベルガの母の名を呟き、死んだ。

 私は機械的に手を動かし、公爵本人のベルトから短剣を取り出して喉と心臓を刺す。念入りに何回か刺して、完璧に死ぬのを待った。万が一生きていてもらっては困るから。

 血が溢れる。ゆっくりゆっくり、賢く気高きオフェリアのドレスにそれはしみ込んだ。絨毯にも、机にも椅子にもそうなった。赤黒い色と鮮烈な鉄のにおいが部屋を満たす。衛兵たちが気づかないのがいっそ不思議だ。

 机の引き出しから手鏡を取り出す。オフェリアの顔はアマルベルガにそっくりだった。二人は母娘、アマルベルガがどれほどオフェリアに憧れ恋焦がれ愛していたことか。もしここにアマルベルガを呼び戻せるなら、私はぜんぶ失って死んでもかまわない。

 けれどそんなことにはならなかった。私が今ここにいるのはカムリの性質、その呪いのせいだ。アマルベルガの願いや想いが実を結んだ結果ではない。アマルベルガもオフェリアも、決してその人生で何かを成し遂げたことはなかった。ないまま死んでいってしまった。

 私は死体の横にへたり込み、ふううっと手のお椀にため息を吹き込んだ。なんだかどっと疲れていて、けれど魔物たちの本能がさらなる復讐と血を求めるし、――何より私もここで止まることはできない、まだ本命が残ってるんだから。シャルロッテが。そしてその母親が。あの妾どもが、まだ生きているんだから。

 アマルベルガは死んだのに、オフェリアは死んだのに。ディートリヒもエーデルもドミニクもアスランもドーリアも公爵も死んだのに、っていうか私が殺したんだけど。うん。

 シャルロッテは生きていてはいけない。ジェラールも。

 すべてアマルベルガをこの状況に追い込んだもの、私が殺しつくしてやらなきゃ気が済まない。そうして立ち上がった。魔物の力は底知れず、まだまだ手は動くし顔は笑った。空気は鉄錆のにおいに変化して、吸い込むととんでもなく芳しくおいしそうに思えた。

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