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「いいかい? 私の能力はそんなに強いわけじゃない。相手の心を読んで、相手が思ったものに変身するだけ。昔、まだここに囚われる前、金持ちのジイサンが若いころ死に別れた最初の妻に化けてやったこともあったし、かつての子供を死なせた後悔にさいなまれる女には子供に化けてやって、それぞれ慰めてやったさ」

「それでミラーは何を得たの?」

「人間の生気。いけそうなら血肉も。うまいんだよォ」

 ちろり、シャルロッテの顔でミラーは舌なめずりをした。

「たとえようもないんだよ、魔物にとって人間というものは。どうしようもなくおいしいんだ」

「へええ」

 私はミラーを恐れてもいいはずだった。けれど契約を交わしたからだろうか、それともアマルベルガの身体じゅうを駆け巡る、皇帝に連なる血という矜持のおかげだろうか、震えることも汗や涙が出ることもなかった。

「今も私を殺して血肉を啜りたいのかしら?」

「それはできない」

「なぜ?」

「私を封印しやがった修道院長が、人殺しと人を害することを封じる呪いで私を縛ったから……」

 ミラーはぷるぷる身体を震わせたかと思うと、とたんに輪郭がにゅるにゅる溶けてコロ太郎になった。ぐりんぐりん苛立たし気に首を振る。

「ああ、腹が立つ。魔物なのに人間を食べちゃいけないなんて。肉はそこにあるのに肉を食べちゃいけないなんて、耳が聞こえず鼻もきかない犬みたいなものだ」

「人間の魂を食べると、おまえはどうなるの? その人の記憶を得たりするの?」

 私がアマルベルガの記憶を保持しているみたいに。カムリとやらの行動原理はまったくわからないけれど、もしかしたら似たようなものかと思った。

 ミラーはピンと耳を立てる。

「その人間に変身できるようになるのさ。それもただ心を読んで思い浮かべたものに成り代わるのより、かなり精密に、ごく親しい伴侶でも見分けがつかないくらいに正確にだ。当然だろ、心を発生させる魂ごと食べちゃうんだから。昔、その人間に成りすますあまり自分が魔物だってことを忘れた同胞さえいたというよ」

「そうなの……ええ、わかったわ。それじゃあこうしましょう。最初のうちはおまえに頼るほかない、それを踏まえた上での作戦よ」

 それで新月の夜が来た。アマルベルガが暗殺される日だ。それは三つある月のいずれもがごく弱弱しい燐光を放つだけになる夜のことを指す。地球みたいに完璧に星明りだけになるということは、この世界では何百年に一度しかない。

 その仄暗い闇の中、塔の外壁にがっがと大きな爪のような鉄鉤をひっかけて、暗殺者は昇ってきた。アマルベルガである私はじいっと、粗末な寝台に横たわっている。

 アマルベルガは原作において脇役であるから、具体的に誰に殺されたのかといった明確な記述はなかった。ミラーはそれを残念がって、

「もしも対魔物用の封術を身に着けた魔術師だったら、勝ち目はないよう」

 と首を振ったものだ。私は首をすくめ、

「そのときはそのときよ。潔く飛び降りて死ぬから死体をお食べ。カムリが消え去らないうちに」

 などとすかしたものだけれど。やはり死ぬのは、怖い。死ぬのはいやだ。こんな満足に日の光も当たらない、塔で死ぬのなんて。私の死体を見つけるのがあのこっちを悪と決めつけている修道女たちだなんて。

 私は伏して待つ。それしかできることはないのだ。ミラーが天井に張り付いているのがわかる。実体すらなくして暗殺者を待っている。

 ふと不安になった。はたしてミラーは本当に、私の言う通りに動いてくれるのだろうか? 魔物というのは本気で信じてしまっていいものなのだろうか?

 でも、契約を交わした。人間以外の契約を交わせる生き物、魔物、神、精霊その他たくさんの、この世界に生きる生き物たちにとって、契約は絶対だ。それに賭けるしかない。

 契約を平気で破ることができるのは人間だけだ。例えば婚約なんていう、人生に関わる一大事でさえ人は破棄することができる……ちくしょうディートリヒ皇子め。気分が悪くなってきた。

 私はアマルベルガの感情と混乱する自分を感じ、息を吐いた、その瞬間、首筋に刃物の感触を感じた。動いちゃいけない――と、それだけを思った。私はぜんぜん、気づいていないのだ。息を乱すな、目を開けるな、なんにもない、そこにはなんにもない。

 そしてそれこそがアマルベルガの生き方で、彼女はこうやって屈んで丸くなって存在なんてありませんよという顔をして、必死に生き延びてきたのだとわかった。王妃になったら。皇帝の横に並び立つ存在になったら。そしたら、顔を上げることができる。そう思って。義理の母親となった父の妾にも、鼻持ちならない義弟、馬鹿の義妹にも耐えてきたのだ。

 なのに皇子は彼女の努力なんてひとつも見やしなかった。そして捨てた。

 怒りが沸いた。

 ミラーが模倣したのは暗殺者よりむしろ私の、アマルベルガの、私たちのそれだったのかもしれない。

「ぅっ!?」

 と呻く声。じたばた、藻掻く音。

 私は目を開ける。素早く身を起こす。暗殺者はミラーに巻きつかれ、必死に手足を動かし抵抗していた。ミラーは蛇になっていた。巨大な大蛇――大蛇? と脳裏をかすめる知識はあったけれど、今はそっちに気を取られていられない。私は彼が取り落とした短刀を拾い上げる。ぬらぬらと金属らしからぬぬめりがあってぞっとした、毒が塗られているのだ。

 ミラーは彼の恐れを読み取り、それになった。トラウマに固まったところ、物理的に手足を拘束され締め上げられ、暗殺者は息もできないでいる。

 私はその後ろに回り込んだ。もがく大人の男の身体は大きく、正直いって恐ろしい。ミラーの目が楽し気にきらきら輝いているのを見て、なぜだか不思議と安堵した――彼は私を裏切らない。今まさに私の味方をしているから、というだけではなく。それがわかった。これが人あらざるものとの契約の力だろうか?

 私は短刀を構える。ミラーが身を倒して、大蛇の胴体が渦巻くさなか、男の頭が見えた。

「ぐっ、がっ、がぁ!」

 と元気にそれでも抵抗の意思を見せ続ける身体に、人間として心からの尊敬を抱いた。私はきっと彼と同じ状況になったら泣きわめき、服従してしまうだろう。

 短刀を耳の下、大蛇に刺さらない角度でぐっと差し込んだ。男の身体は痛みで痙攣する。

 それはひどい体験だった。人間の肉をかき分けていく切っ先の感触が、両手からダイレクトに伝わってくる。筋肉を切り裂き、首の動脈に至る。どちらかというとリンゴやダイコンを切っているのに近い、ような気がした。

 血飛沫が飛び、顔にかかり口に入る。味わったら手が止まると直感して、息するのを止めた。

 それで私はやりとげた。首にほぼ直角に入り込んだ刃を、ぐりぐり外側に向かって推し進める。ひどく硬い手ごたえ、額に汗が浮かび手は震え――彼には苦痛を長引かせてしまった。

 やがて暗殺者が絶命すると、死体はビクビク傷口から血をまき散らしながら痙攣した。

「ふうっ、ふうううっ、はあああ……」

 私は悲鳴のような声を上げながらずるずる床に座り込む。粗末なカーペットに血が染みこみ、瞬く間に黒いしみが広がっていった。

 ミラーは大蛇の姿のまま、ずるずる蠢いてやがてコロ太郎の姿をとった。きゅうん、と鼻を鳴らしながらすり寄ってくるのがかわいくて、私はほっと肩の力を抜きながら、微笑む。

 それがいけなかったのだと思う。

 私たちは油断しすぎていた。きっとミラーだって嬉しかったと思うのだ、はじめて人間と心通わせることができて。私も嬉しかった、こんなわけのわからない状況ではじめて味方ができて。

 痙攣が落ち着いてきた、と思えた死体が起き上がった。私に背を向けるコロ太郎姿のミラーは気づかない、私は疲労のあまり警告を発することさえできなかった。

「――っ!」

 多くのことが同時に起こった。

 私はミラーを引き寄せ、庇おうとした。それより早く、暗殺者が投げたナイフが深々とミラーの首に突き刺さった。

「ギャワン!!」

「ああーっ!」

 と私たちの悲鳴は同時。暗殺者はそのありさまを見て、うんと一つ頷くと、不自然な姿勢のまま起き上がっていた上半身はどうっと倒れ、今度こそ本当にこと切れた。

「あーっ。いやーっ! いや、ミラー!」

 と私は半狂乱である。頭の中をぐるぐると保身が回る、どうしよう、これは私が持ってる唯一の力なのに。どうしよう、登場人物を殺してしまったら天罰が下るのかしら? どうしよう、これからどうやって戦えばいいの……。

 けれど、それ以上に。脳裏にはコロ太郎が老衰で死んだときのイメージがずっとこだましてならない。今、腕の中で死にかけているのはコロ太郎じゃないのに、恐るべき魔物のミラーなのに、私はそうとも思えない。混乱と恐怖でパニックになる。首に刺さったままのナイフを抜いていいのかもわからない。

 彼は目を上げた。うつろな目だった。

 何かを言おうとしたのかもわからない。私は震える手で彼のコロ太郎の顔に触れる。彼の素顔さえ、私は知らない。

 そうしてミラーは死んでしまった。一言も何も言うことなく。鏡映しの魔物は主人公を精神的に追い詰めた強敵だったけれど、たかが一本のナイフに勝てずことんと頭を落としたのだった。



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