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しおりを挟むアマルベルガが死んでしまった。私はそれでよみがえる。
私――私は社畜で、あの日も深夜まで残業していて疲れ果てて帰宅した。もう何年もずっとそんな調子だったからアパートの部屋は荒れ放題で、そう、あれはたぶんセルフネグレクトと言われる状態だった。コンビニに寄ってくる気力も知恵もなく、出せないままコバエがたかったごみ袋の山の中、かろうじて確保してある座椅子に座り、座卓に突っ伏してそのまま死んだのだった。
そうして気づいたときには、この子の身体の中にいた。彼女の記憶も知識も自然と私に引き継がれ、ここがどこなのか、私は誰なのかすんなり理解する。
ここは月が三つあって剣と銃と魔法がある世界。エイリーク帝国の公爵令嬢、アマルベルガ――アマルベルガ・クルーゼヴィッツ・ワルグナーが死んだのは、学園都市の寮。私が死んだアパートの部屋が四つは入りそうだけれど、天蓋のかかった羽毛布団の寝台と黒檀の机に繻子張りの椅子、全身が映せる金縁の姿見があるけれど、寒々しい彼女の部屋。
私は起き上がる。寝台はミシリともいわない。転げるように床に降りて、ふかふかの絨毯を踏みしめ、よろめきながら姿見へ向かった。埃除けの覆いをとる。そこには少女がいた。アマルベルガその人が。
窓から差し込む月の光のもと、いっそう白っぽく見える金髪を、今は結いもせず垂らしている。薄く青がかった灰色の目。こけた頬は最近の心労のためだろう。爪の先まで丁寧に整えられた手で鏡面に触れると、それが震えているのがわかった。寝間着のネグリジェの繊細なレースは、日本ならそのままオシャレな外出用ワンピースでも通りそうだ。
つまりはこういうことだった。ワルグナー公爵の娘であるアマルベルガは、半分だけ血のつながった妹に婚約者を取られた。絶望し、寝台に横たわり、カミソリで首を切って死んだのだ。……私の中にはアマルベルガの記憶が全部ある。物心ついたときから、魔物同士の食い合いみたいな公爵家の人間関係に揉まれ、豪華な衣装にくるまれながら愛されず育ち、学園に入学して……深い深い絶望と妹への憎しみ、悔しさで気も狂いそうになりながら、首に刃を当てたその瞬間まで。
――修道院に送られるくらいなら。そこで恥をさらすくらいなら。
それが私が覚えている、アマルベルガの最後の思考だ。
「っ!」
私は慌てて首に手を当てた。そこにぱっくりと大きな傷口が開き、血が迸り、アマルベルガは死んだのだった。なのに首は、なめらかなままだ。
姿見で確認してみると、まったく傷のひとつもない。今すぐイブニングドレスに着替え、首筋から肩まで露出して夜会に出ても大丈夫なほど、少女の肌は白いまま。
「どういうこと……?」
と私は呟く。その声が、言語が、全く私の知っているものではないことに驚愕した。
けれど驚いている場合ではなかった。はああ、と大きく息を吐いて、吸って。考えなくちゃいけないことはたくさんある。どうして私がこんな運命に? アマルベルガはいったいどこに? ほんとうに死んでしまったの?――そんなことをくよくよ考える前に。
私はこれからの展開を知っている。読んだこと、あるもの。
信じられないことに、この世界は小説の中の世界なのだ。私が子供の頃から社畜になる前くらいまで愛読していた、若年層に人気のファンタジー小説。月が三つあって剣と銃と魔法がある世界のお話。竜に選ばれた少年が腐敗した帝国を打ち倒し、仲間たちとともに新たな自由の国を築くストーリーだ。
アマルベルガはその中でも脇役中の脇役だ。そしてこの国こそが、主人公が倒す敵国、腐敗した五百年の歴史を誇る軍事国家なのだった。
「あああっ」
と首を振り、私は必死に考えをまとめた。頭の中を目まぐるしく記憶が右往左往する……お母さん、今頃何してるんだろ。お兄ちゃんは大丈夫かな。お父さんも。娘が孤独死したなんて聞いたら、家族は悲しむだろう。でも今は、降り注ぐ月光と知らない豪奢な部屋のにおいがそういう感傷を押し流した。
今、考えなくちゃいけないのはこれからのことだ。
このままだとアマルベルガは来月まで生きられないのだから。
「まず……まず、おかしいのはアマルベルガが自殺しようとしたってこと」
私は呟いた。
本来ならアマルベルガは、ここで自殺なんてしない。婚約破棄を言い渡された彼女は、堂々と己になすりつけられた罪を否定する。誹謗中傷に加担したことはない。妹に足をひっかけて転ばせたりなんてしていない。ましてやお茶に毒薬を入れたりなんて。そもそもそんなもの、どこで手に入るのかもわからない……。
婚約者の皇子はそんな言い分をひとつも信じず、彼女に謹慎を言い渡す。アマルベルガは王家の血筋に敬意を示してそれに従い、翌日、修道院に護送される。そして来月の満月の夜、修道院の中庭にある大きな池で溺れ死んだ彼女の遺体が見つかるのだった。
「どうして? どうして死のうなんて。しかも成功してしまうなんて。どうしてあなたはそんなことをしたの?」
私は両手で顔を覆った。手のひらは知らない女の子の柔らかい皮膚でできている。
たぶん、どこかでボタンが掛け違ったのだ。私の知っている展開じゃなくなった。そしてできた隙間に、いったいどうしてなのかはわからないけれど、日本で死んだ社畜の私の魂みたいなものが入ってしまった。きっとそうだ。
小説は常に主人公の少年視点で話が進むため、アマルベルガの情報といえば過去編の些細な描写と、連載十周年記念で発売されたファンブックのコラムくらいしか私は知らない。
物語の中盤、少年の敵として立ちはだかる帝国の皇子がいる。ディートリヒ・フォン・アドルフォス・ツィ・エイリーク。悪しき帝国、エイリーク帝国の第一皇子にして、昨日の親睦会で大々的にアマルベルガをフッた男である。その恋人、シャルロッテ・ピアーナ・ワルグナー。これがアマルベルガの腹違いの妹で、姉から男を奪ってその婚約者の座を射止めた女だ。そしてこの異母妹に、姉であるアマルベルガは暗殺されるのだった。
主人公はこの隠蔽された暗殺の真実を突き止め、ディートリヒとシャルロッテを追い詰めていく。宮廷陰謀劇にファンタジーが絡んだ怒涛の展開を、中学生だった私は手に汗握って読んだものだった。
アマルベルガの死の真相が突き止められると、皇子も妹も失脚する。でもそれじゃ遅いのだ。私は今、ここで、アマルベルガの身体の中に生きてるんだから。
「いたっ」
腰かけた寝台の厚い羽毛布団ごしに、おしりがチクリと痛んだ。布団をめくると、カミソリがそこにある。銀色に鈍く煌めき、血のあとなんてひとつもない。けれど私にはわかった。アマルベルガの感覚、痛み、悲しみを私は知っている。これで彼女は喉を切り裂き、確かに死んだのだ。
――突然、びっくりするほどの恐怖が襲ってきた。この手の中のカミソリの柄の細工も、羽毛布団の感触も、姿見で見た容姿、口の中がずっと恐怖で錆臭いの。目が乾燥してひきつった感じがするのも、刺繍の施された部屋履きの中、裸足の足が滑るのも。全部、現実だ。
どうしよう。これは全部、月が三つある世界の、私の現実なんだ。
「死にたくないよう……」
私はへなへな崩れ落ちる。
ああ、アマルベルガ。マール。
あなた、なんで死んじゃったのよ。なんで私が代わりに生きてるのよ。これから先、どうすればいいのかわからない。
でも明日、すべきことはわかっていた。逃げるのだ。逃げなければ来月、妹の放った暗殺者に殺される。主人公が謎解きしてくれたって、それじゃ私は救われない。
ちくしょう、シャルロッテ。小説で読んだ時でさえ、その傲慢さに腹を立てたものだけど。アマルベルガの記憶を通して改めて見る妹は、本当に心の底から憎い。
私は寝台に腰かけ、これからのことを考えはじめた。カミソリがあたたかくなり、手のひらにぬるく汗をかくまでずっと。
――死にたくない。死にたくない。死にたくない。
ただそれだけを思い、そしてこの思いが私のこれからの原動力になる。せっかく生き返ったのに、という気持ちがあった。本当は生き返ったわけではない、ただの神様の手違いかもしれない。さっき急に『私』が意識を取り戻したのと同じに、いつかふいにこの生も取り上げられるのかもしれない。アマルベルガの意識はどこかで怒り狂っているかもしれないし、そもそもこんな絶望的な状況で彼女の人生の続きをするなんて、どうしようもなく不安でしかない。
でも、死にたくない。生きていたい。この呼吸、この身体、この鼓動、顔も手足も髪もなにもかも。今、私は確かにここにいるのだから。
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