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しおりを挟むリュシヴィエールの一日は身体の手入れから始まる。前とは違った意味で、目視できない部分の点検が必要だった。たとえば左の太ももは火傷のせいで皮膚が弱くなっており、湿疹や血が滲むことが多いのだった。
「アンナ、手鏡をちょうだい」
「は、はい、お姫様」
ついてきてくれたメイドはアンナだけだった。まだたった十六歳で家族と離れるのは悲しくないかと聞いたら、
「あたしの家族は……死んだおじいちゃんだけでした」
と顔を伏せたので、リュシヴィエールはむしろ、焼失した家に残すより一緒にいる方がいいと思ったのだった。
「背中を頼むわ。ごめんね」
「いいえ、いいえ、お姫様。ああ――」
と絶句しながら、恐る恐る軟膏を背中にすり込んでくれる。手つきはいつまでもたどたどしい。当たり前である。なかなか、自分で言うのもなんだが、悲惨な皮膚だから。
自分でできる範囲は自分でやるのが一番効率的だ。リュシヴィエールはもくもくとそのようにした。火傷は広範囲に渡っていたが、腹の中央や右足の外側はまだましだった。皮膚の黒ずんだ色や凹凸は、容姿に命をかけていた令嬢だったら気絶してしまいかねないほどだろう。
ただ――リュシヴィエールは周囲が思っているほど、悲しんでいなかった。傷口は今もたまに破けて痛いわ膿が溜まるわで、それは嫌だけど。
厄介な求婚者はもう二度と現れないだろう。忌々しい詩歌遊びや求婚歌に突き合わせようとしてくる貴公子たち、人の顔を見てわざわざ口笛を吹いたり覗き込んでくる騎士たちは、もういないのだ。侍従や郵便配達夫や出入りの厩係の不届きな視線を顔や身体に感じることもなくなった。なにもかもをもう一生、味合わなくていいのだ。
誰とも知らない男に尻を捉まれることもない。知らない男たち、何より実の父に乳房の大きさを吟味されるなんてことも生涯ないだろう。
エクトルにそれらを知られまいと死に物狂いになることも、ない。
寝台の上で傷に染みる雨の湿気に耐えるのは確かに、辛いことだ。けれど前の姿に戻りたいとは思わない。
たぶんこれは、エクトルを寂しさの埋め合わせに使おうとした罰なのだと、そう思い込もうとしている。
哀れなアンナはをからかう気持ちでリュシヴィエールは尋ねた。
「火傷跡、少しは薄くなったかしら」
「そりゃあもう! 毎日お化粧水をつけてるんですもん。大丈夫、お姫様は大丈夫です! すぐにまたお美しくなります」
大真面目にアンナはこくこく頷き、リュシヴィエールはかすれ声でくすくす笑った。
手鏡の中、リュシヴィエールの顔面は無惨に焼け崩れている。かつては母そっくりの美貌だとか、いやいや瞳は父方の曾祖母に似たのだとか言われたものだったが。とくに左側の損壊がひどく、左耳は燃えてなくなり小鼻の形が変わったほどだった。一度、溶けて冷えたガラス細工のような。
髪の毛はほんの一房、二房だけが残った程度。残りはまだらにハゲている。地肌だったところも赤味や黒い汚れが残ったものだから、初対面の人ならまだ怪我が完治していないのかとぎょっとすることだろう。びょろびょろと春先の荒野に生えてくるススキのような金の髪だけはかつての名残りを留めていたが、洗いにくいし、逆にみじめな気がして今は修道女のように短く刈り込んでいた。頭部を隠す頭巾が手放せない。
降ってきた炎つきの柱はリュシヴィエールの身体を押し潰し、砕いた。
美しさが残った部分はなかった、ほとんど。
肌にはまんべんなくみみず腫れのような赤い跡が這い、関節のところにかさぶたが瘤のようになって盛り上がる。横ざまに倒れた状態でリュシヴィエールは燃えたので、とくに左の腰から足にかけての傷が深かった。医者たちの心血注いだ治療が、たまたま魔力が身体に馴染んだことが、リュシヴィエールの命をつないだのだった。
視力が両目に残ったこともまた、奇跡だった。
(これは罰)
と思う、そして同時に、
(褒章)
とも思う。自分がやりたくてやったことの結果だもの。
あるいは言い換えれば――誇り、なのかもしれない。リュシヴィエールが初めて己の意志でいいことをした、ということの証。彼女が人としてなしえた、ひょっとしたら一生に一度の誠実さの証明。
(かみさまは褒めてくださるから。どこのかみさまかは分からないけれど――)
だから、いい。いいのだ。
リュシヴィエールは手鏡を膝の上に伏せた。億劫に思いながらも立ち上がり、支度をはじめる。
令嬢としての矜持のかけらは、ぼろぼろになった今でも残っている。朝の着替えをせず、きちんとした服装を着ずに一日を過ごすことなどありえなかった。
アンナは不器用な手つきでリュシヴィエールを手伝い、彼女なりに懸命に仕事に取り組んだ。
「それじゃあ、出かけましょうか」
木っ端が刺さったのを引き抜いたあと、左の瞼は垂れ下がってしまった。そのせいで左の視界は半分しかない。おまけに左半分の表情筋も死んでしまって、魔法でも戻らなかった。
リュシヴィエールはそれでも右半分だけ微笑を浮かべる。アンナはどうしたことだか、惚れ惚れするような気持ちで女主人の顔を見上げているようだった。リュシヴィエールの目に間違いがなければだが。
「お恐れ多いことですが、お供します。お姫様」
もしかしたらエクトルとティレルと北の塔で過ごすリュシヴィエールは、こんな顔をしていたのかもしれなかった。自分がまだ誰かにとって何かしらの感情の対象になると知ることは、今のリュシヴィエールには嬉しかった。
リュシヴィエールは壁にかかった頭巾を手早くかぶり、顎の下で結ぶ。
時刻はまだ早朝である。少しは歩いた方が筋肉が衰えないと医者から指示されたのだが、正直いって――頭巾で頭を、スカーフで首と肩を隠した老婆のような装いでよたよた歩くリュシヴィエールと出くわしたら、お相手は悲劇である。
実際、まだクロワ侯爵領キャメリアにいた頃、昼下がりに散歩して近隣の農村から卵を売りに来たらしい若い娘の集団と出くわし、悲鳴を上げて逃げられたこともある。おばけー、と叫ばれて四方八方に逃げ散った彼女たちの俊敏な動きを思い出すと今でも物悲しく、ちょっと面白い。
(まあしょうがないわね。こんな顔だもの)
悪いことをしたものである。
まだ薄暗い廊下と石造りの階段をアンナと二人、ひそかに足音しのばせて外へ出た。朝もやも引かないうちから騒いでは、悪霊を呼び寄せる。
屋敷の北側に【暁の森】が広がっている。神の森、災いの森、神々の息吹が残る森だ。
リュシヴィエールとアンナはしばらく黙って目をつむり、森に朝の挨拶をした。ロンド帝国の人間ならば生まれながらに持っている森への畏敬の念が、ふつふつと焼かれたあとのリュシヴィエールの肌を粟立てた。
まだ日の光も出ないうちから草原をそぞろ歩くだなんて、雪の降らない南部だからこそできることだった。リュシヴィエールが先に進み、アンナが付き従う形である。
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「あいつらの言うことなんていつもでたらめで……あ、でもお母さんが産む新しいお父さんの子は男の子って言われて、実際その通りになったもんだから――あ、」
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母の消息を、リュシヴィエールは知らない。まだ王様のお妾の侍女をしているのかしら? それとも恋人と再婚した? いずれにせよ、王立魔法学園にいるエクトルに迷惑をかけていなければいいと思う。王宮と王立魔法学園は目と鼻の先なのだから。
杖の先がぬかるみにはまり込み、アンナに助けてもらってリュシヴィエールは体勢を立て直す。
「森の先の小道を通ってから帰りましょうか。妖精に会えるかもしれなくてよ」
「はいっ。うふふ」
女主人がもう怒ってないと思ってアンナは軽やかに笑った。
リュシヴィエールとアンナは森の中へ続く小道をたどり、決して森の中へは踏み入らないよう気を付けながらその全景を見て回った。朝もやは徐々に晴れ、あたりがじわじわ明るくなっていく。下草についた露が杖やつま先でぱっと散る。
リュシヴィエールの心は静かだった。不吉な【暁の森】はその名の通り赤く色づいている。秋でもないのに、またどう見ても針葉樹の松の木の葉でさえも赤いから、紅葉はありえない。
この森が魔の森と呼ばれるゆえんは、その赤さにあった。人間が入ればたちまちのうちに血を吐いて死ぬとも言われ、立ち入ることは禁忌だった。
「もう行きましょ、お姫様。怒られます」
とアンナが首をすくめて哀願する。
「そうね。見ていて気持ちのいい森でもないわ」
と森に背を向けて踵を返そうとした、そのとき。森の中から音がした。獣だろう、と振り返らなかった。
そのときリュシヴィエールは厚手のウールのドレスに厚ぼったい頭巾をかぶり、さらにその上からスカーフを巻いていた。ほとんど頭髪がないので寒くて仕方なく、また遠目にも骸骨のような上半身の線は露わだったから。
だというのに。
「――うわぁ!?」
と少年の声がした。アンナが咄嗟にリュシヴィエールの前に出られたのは、上出来といったところだろう。
彼らは森から出てきた。この森の悪評を知らないのだろうか?――まさか!
目が覚めるような黒髪の美形の騎士と、その馬の轡を取った従者姿の青年である。声を上げたのは青年の方で、ちょうどさっき少年から脱皮しましたとでも言いたげな喉仏を晒して大げさにあえいだ。濃い砂色の髪が風に吹かれてぱさぱさと鳴る。
「な……っ、なんっ、」
「ロイク、やめろ。――失礼をいたしました、ご令嬢」
と彼は爽やかに笑うと、ひらりと馬を飛び降り胸に手を当てて腰を折る。
「俺はセルジュ・ゴドー・ヘスリング。ヘスリング家の子息です。といってもしがない五男ですが。今は武者修行の旅の途中なのですよ。有名な【暁の森】を見物し、度胸試しをしようとしたのでして」
裏表のないさっぱりした気性を伺わせる笑みだった。年の頃は三十路手前ほど。くるくるの肩までの黒髪をリボンでひとつに結い、緑の目が引き立つ少し暗めの上着に同色の糸で唐草模様の刺繡が施されている。地味だが仕立てのいいシャツとズボン、乗馬靴。どこから見ても良家の子息の朝の散歩の風情だった。時間が早すぎることを除けば。
リュシヴィエールは心臓がドクドクと音を立てるのを感じた。――人好きのする笑顔の青年には、ただならぬ危険な気配があった。
なんとか身分に相応しいカーテシーをこなせたのはひとえに幼少期から続いた鞭入りの躾のおかげだ。左足の大きな火傷あとが突っ張って、ピリピリと痛みが走った。
「お会いできて光栄です」
「ご丁寧にありがとうございます。名乗るほどの者ではございませんが、礼儀に感謝いたしますわ。散策のお邪魔をいたしまして、失礼いたしました。――従者の方も、驚かせて申し訳ございません」
「あ、いえ」
「――ひどい火事だったと聞きました」
侍従を押しのけるようにして令息はリュシヴィエールの前までくると、決してじろじろ眺めず瞼を伏せる。髭の一本もなく綺麗に処理された清潔すぎるほどの美貌。エクトルの天然の美とは方向の違った、丹念に丹念に汚いものを払拭した結果の美。
「わたくしをご存知なのですか?」
「もちろんですとも。リュシヴィエール・ル・ゼア・クロワ嬢ですよね?」
名乗りもしないのに、名前を全部知られている。リュシヴィエールは思わず杖で地面の土を強くえぐった。
「なんとお声がけていいのか……心よりお悔やみの言葉を。母君譲りのあなたのお美しさは俺の伺候する王都まで届くほどでした。この世の至宝のひとつが失われたことを残念に思います」
「……もうよろしいのです。すんでしまったことなのですもの」
リュシヴィエールは丁寧な一礼をした。貴婦人のドレスではなく、肌触りと通気性を重要視した中産階級のための簡素なドレスでそうすると、装飾の少なさが味気ない。
「お優しいヘスリング様。どうぞよい一日をお過ごしください」
ぱっと逃げるように身を翻すのはマナー違反なのだが、彼は呼び止めなかった。
リュシヴィエールは杖をつきながら丘を乗り越え、アンナもあとに続く。令嬢たちはもう行ったと思ったらしい従者が、早口に喋り出すのが聞こえた。
「わあ。びっくりしたぁ。あれが例の火傷の令嬢ですか。ありゃあひどいや。ほっぺに穴が開いて、歯が見えてる! バケモノかと思った」
セルジュが無言で従者を打擲したらしい音が聞こえたので、彼がいい人なのは存外本当らしかった。
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