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しおりを挟む少しの間気を失っていたらしい。エクトルの手と濡れた冷たい布の感触、そしてほのかに甘酸っぱい少年の香りで目が覚めた。濃い青い目にさらさらと銀髪がかかる。少女のように美しい顔は心配そうに歪んでいた。
青い目はこの国の貴族の色である。リュシヴィエールは自身のそれより濃い、夏空の青を見て微笑んだ。
「エル」
「ごめんなさい、姉上」
さっきクロワ侯爵と話していたときとは打って変わって優しい声音だった。同一人物とは思えないほど。子供っぽく、労わりと自己嫌悪に満ちて揺らいでいる。
「俺があの男と喧嘩なんてしたから、姉上は具合が悪くなったんだね」
「そうじゃないわ」
と首を横に振っても信じていないようだった。
「ごめんなさい。もう二度と目の前で言い争いなんて見せないから」
「いいえ」
リュシヴィエールは諦めに浸りながら目を閉じる。じわじわと眼球の奥から涙が滲んできて、けれど彼女は泣くわけにはいかなかった。
「自分の身を守るためならどんなことでもしなくちゃ、だめよ。ありとあらゆる手段を使って最善の道を探るのよ」
リュシヴィエールは目を開けた。
「エル。わたくしのエクトル。何か隠していることがあるわね?」
エクトルの目はかすかに泳ぐ。やがて少年はほうっとため息をついて似合わない苦笑を浮かべた。真っ白でなめらかな顔がうっとりするほど綺麗な困惑に変化するのを、白鳥が飛び立つのを息を詰めて見守る気持ちで彼女は見つめた。――作られた笑顔でエクトルはただ、何を言われているのかわからないという様子を演じる。
「姉上? 急にどうしたの?」
「誤魔化さないで。わたくしの知っているエクトルは、大人の男とあんなふうに渡り合ったりしないのよ」
リュシヴィエールは寝台の上に身を起こした。胸元はくつろげられ、結い上げた髪の毛は解いてあった。アンナか、エクトルがしてくれたのだろう。自分の金髪に囲まれていると気持ちが落ち着いて、彼女は早口にならないよう自制しながら言葉を選ぶ。
「おまえはわたくしの知らない何かを身に着けているのね」
少年はただほのかに笑うばかりである。リュシヴィエールは彼の手を取って懇願した。
「お願い、教えて。お願いよエクトル。何もかも教えて。おまえがわたくしの知らないところで何を考えて、これからどう生きていくつもりなのか。教えてくれなきゃわたくし――わたくし、」
息が詰まった。泣きたくはなかった。ぐうっと喉が詰まって呼吸が困難になる。エクトルの手が伸びてきて彼が姉と呼ぶ女の背中を撫でる。
「姉上、もう一度眠ろう? 色んな事があって混乱してるんだよ。あなたはずっと屋敷に籠りっきりで、何も知らないから……」
「ええそうよ、好きで何も知らないできたわ。おまえと一緒に過ごすのが楽しかったからよ!」
呼吸を制御しろ、とリュシヴィエールは自分に命じた。決して無様を晒すな。それは、それだけは許されない。エクトルが愛してくれる理想像でいなくてはならない。わたくしたちはお互いに虚像を愛しているのだから。
彼に愛されない自分なんて信じられない、そうでしょう?
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その言葉は確かに、エクトルの心に染みたようだった。彼女の言う通り、二人の間に嘘や隠し事があってはならなかった。
「あなただって俺に言ってないことがあるでしょうに」
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だがエクトルはそれを追求せず、ただ淡々と話し始めた。
「――俺はティレルに人の殺し方を習ってるんだ」
リュシヴィエールは目の前がチカチカして、腰を落ち着けた寝台がなくなった気がした。浮遊感と頭痛と眩暈、そのすべてが憎たらしかった。
「いつから……?」
「もうずっと小さい頃から。むっつかななつか。短剣を持てるようになってすぐ訓練を始めた」
「何故?」
リュシヴィエールはひたすら彼を見つめる。
原作ゲームのエクトルは、暗殺術を仕込まれクロワ侯爵の密偵としてさまざまな暗い仕事を請け負う。それは父が宰相という立場にいて、政敵が多かったから。そしてリュシヴィエールをはじめ家の者たちが彼をいじめるので、対抗手段が必要だったからだ。
今は違う。父は飲んだくれの没落貴族であり、リュシヴィエールは彼をいじめてなんかいない。なのに、どうして。
「父上がそう命じたの」
「いや。俺自身がそうしたいと希望した。ティレルはときどき、北の塔の裏の空き地で他の密偵たちに稽古をつけるんだ。それを覗き見しているうちに自分でもできるんじゃないかと思い始めた。――ティレルを責めないでくれ、姉上。最初は本当に、ちょっとしたお遊びの延長のはずだったんだから」
リュシヴィエールは膝の上で組み合わせた手を強く握りしめた。痛みが現実を直視させてくれた。
「やっぱり家に入れるのだったわ。たとえ罵倒されたって、わたくしと同じ部屋で暮らして、成長して、わたくしの家庭教師に教育を受けさせるのだった。そしたらあなたはそんなことにならなかったのに」
「姉上の?」
エクトルの笑い声はいっそ嘲笑と呼んでいい温度だった。おとうとのそんな声をリュシヴィエールは聞いたことがなく、固まる。ひたすら美しい少年は陰気な微笑を浮かべ、夜に浮かぶランプの灯りに銀髪は新雪のように輝いた。
「俺が家に上がり込んだら、姉上、あなたも一緒になって使用人たちに迫害されていたでしょうよ」
「なん……、そんなことないわ。わたくしたちはれっきとした侯爵家の貴族なのだもの」
「家令の爺はあなた用の予算を着服してるよ。他の使用人どもも菓子だの茶葉だの盗んでいるよ。屋敷の修繕費も保護魔法の代金も、正しくあなたの手元には届かない。だからあなたは年に一度しかドレスを仕立てられないくらい貧乏なんだ。自覚してないみたいだけど」
リュシヴィエールの方を見向きもせず、エクトルは続ける、続ける。恨みと憎しみを籠めた口調はおそらく自分でももう止められないのだろう。
「本来なら侯爵家の娘なんて毎日違うドレスを着て、それももっと刺繍や宝石をあしらった豪華なものであっていいはずだ。だが今着てるのはなんだ? まるで商人の妻みたいな麻のドレスだ。姉上、本当におかしいとは思わなかったの? それとも、麻痺していた?」
突然、強い力の少年の手が彼女の手を掴んだ。骨まで伝わるほどの激怒が熱かった。
「どうして自分が見下されているのに、平民どものことをまだ好きでいられるんだよ!? どうしてあんたはそうなんだ!!」
澄み渡る青の目がぎらぎらと白く光り、リュシヴィエールは呆然とその湖面の色を覗き込む。エクトルが彼女にこれほど怒り狂ったのなんて赤ちゃんのとき以来だった。あの頃だって彼女を見つければきゃあきゃあ笑っていた子だったのに。
彼は思い通りにならない何もかもに怒っていた。リュシヴィエールの境遇を。それと戦うことさえしない彼女の在り方を。
「だって……」
とリュシヴィエールは呟く。とうとう涙が頬を伝い、エクトルはぱっと手を放した。自分が彼女を泣かせたのだということが信じられないようだった。
「だって、だって……」
リュシヴィエールは日本人だったから。量産品の服に比べれば手縫いのドレスはどれもこれも民芸品のように綺麗で、刺繍の量が少ないだとか宝石がついてないだとか、そんなこと気にすることはなかった。
エクトルが彼女を侯爵家のお姫様として見ていたなんて、知らなかった。リュシヴィエールは骨の髄までただのエクトルの姉で、それだけで十分だった。
「……だから俺は、戦う力がない辛さを思い知ったんだ」
熱に浮かされたように彼は言う。
「力がなければされるがままだ、あんたのように。自分で自分を守れないなら、俺が守ってやる」
「いやよ」
リュシヴィエールは首を横に振る。ぱらぱらと零れる涙をエクトルの親指が乱雑に拭う。
「わたくしがおまえを守るのよ、エクトル。大人になるまで。立派な大人になるまでこの家で我慢して。そしたらわたくしのやってきたことは報われるわ」
「それこそ、いやだね」
彼は非情に笑った。驚くほど透明に清らかな美しい笑みだった。大理石の彫像のように白く、穢れを知らない者のように。
「侯爵は俺を王立魔法学園に入れるつもりだと言った。王太子を陰に日向にお守りする役目を果たせと。王家との密約なんだそうだ。あのぼんくら親父がどうやって王家と密約できたか知らないが……いい機会だと俺は思った。今は奴に従うしか道はない。このままじゃ俺はただの貴族女の隠し子以上でも以下でもないんだから。使えるものは全部使って、俺はこの家から自力で出ていく。もちろんあなたも連れて行く。それで誰も俺たちを知らないところでやり直すんだ」
「だからといって……、人を殺すなんて? ねえエル、考え直して。あなたはクロワ侯爵の子として戸籍に登録されているわ。その身分があればこの先、人を殺さなくてもやっていけるはずだわ」
「本当にそう思うの?」
少年の声は穏やかである。リュシヴィエールは凍り付く。まさか。
「あの男が俺のことを本当に身内にしてくれたと、信じてたのか? 戸籍に名前さえあれば貴族として扱われる? じゃあどうして領地を担保に入れた貴族には一気にみんな冷たくなるんだ? そいつがもう実質的に貴族じゃないからだよ。名前だけあったって実力が伴わなければ誰も敬ってなんかくれないよ。ああ、なんて――」
彼はふっと目元をなごませた。目の前の女には何を言っても通じないのだと、わかり切っているのだという態度だった。
「なんておめでたい、無邪気な女!」
泣いている彼女の小さなてを、少年にしては大きな手のひらが包み込む。どうして気づかないでいたのだろう? この硬い豆は剣ダコで、どんどん大きくなるか彼の体格も背丈も戦うために作られていくものなのだと。
リュシヴィエールは結局、見たいものしか見てこなかった。その罰がこれだというのだろうか? 守れていると思っていたエクトルを守ることはできなかった。そして二年後、彼は学園に入学し、ゲームの本編が始まるのだ。
「どうしようもない女。俺が守ってやらないと」
リュシヴィエールの白くまろやかな頬に、額に、それから赤い唇にエクトルは次々口づける。冷たい唇が火照った顔に心地よく、抱きすくめられる腕の力強さと相反する彼の身体の小ささにぞくりとした。そんな自分を彼女は恥じた。
ぐすぐす泣いたままの彼女に彼は何を見たのだろう? やがて少年は苦笑しながらリュシヴィエールを手放した。
「姉上。俺は俺のやり方で戦うから。あんたはここで、ここにいてくれ。いてくれるだけでいい」
部屋を出ていく少年の背中にリュシヴィエールは手を伸ばし、何を言うべきかもわからなかった。
「エクトル!」
とただ、名前を呼んだだけ。
扉は閉まり、彼女にはそれが永遠の別離のように感じられた。実際、彼女が信じてきたエクトルという名の少年はもういないのだ。もうどこにも。
二人だけの世界にたゆたうだけ日々は終わりを告げた。エクトルがそうするように、リュシヴィエールも自分の戦いを戦わねばならなかった。
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