23 / 27
23
しおりを挟む教会の記録簿はすべてを記録する。アガットが死ねばその旨も当然、レオの配偶者の死として記録簿は指し示すし、レオはそれを閲覧することができる。
――妻を裁判もなしに処刑されたともなれば、十分決起の理由に足る。
よってアガットの命にはしばらくの猶予があるはずだった。嘘でもいいから証拠を集め、貴族を裁くための法廷を開き、判決を出すまでに冬がまるごと必要だろう。アガットは生まれてはじめて、祖父が得た子爵の地位に感謝した。貴族と平民では法律上の扱われ方も大いに違うからだ。
あのお姫様が暴走する可能性も考えられないでもないが、付き従う人間が諫めれば大丈夫、なはず。
部屋に残る毒は間諜のうちの一人が処分したはずだ。かつて滅んだ氏族の生き残りの一人で、宮殿の中で居場所がない若い侍女。レオの名の許に身分を保証してやったのでかなり生きやすくなり、それに多少の恩義を感じてくれていた。彼女は裏切らないだろう。仕事をきちんとこなすことで生き残ってきた娘だから。
アガットはレオが今どこで何をしているのか知らない。王と森の中で二人きり、あるいは護衛はいるのかもしれないが、決して和やかな話し合いにはならないだろう。
(さて、さて、さて。――どうなるのかしらね、父さん?)
「お前の取れる手段を考えてごらん、アガット。この暗い牢屋の中で、お前のできることはなんだ?」
アガットはノミに食われた腕の傷を掻き毟る。当然のように不潔なこの狭い空間の中、母親たちに物置小屋に閉じ込められたり椅子に縛り付けられた経験がなければどうなっていたことやら。
(毒の生成)
結局のところ、アガットにできることといったらそれだけだ。
「うん、なんの毒なら使える?」
(黴から毒素を抽出できれば、使えるものができるかも……)
「うん。そのために必要なのは?」
「蒸留装置。魔力で動く繊細な動作ができるやつ」
「それはここにあるのかい?」
「ない。手に入れる方法もない……」
アガットは上を向いて寝台に横たわる。ばっと埃が散って喉と目が痛み、彼女は力なく腕で目を覆った。
「――いいえ。道はあるはずだわ」
そうでなければならなかった。ここまで生き延びてきたのだ。生き残らなければ、なんのために人を殺したのかわからないじゃない。
アガットは決意した。しかし決意がどれほど硬かろうがどうにかなるものとならないものがある。
石壁の比較的柔らかい、湿気にやられて粘土状になっているところに爪であとを付け日付を数えた。魔力を練って体内に蓄えようと思ったが、牢全体に特殊な結界魔法が張られているらしくそれはできなかった。そもそもアガットの魔力自体、ちょっとした起爆になる程度の薄っぺらいものだ。
エレオノーラ姫はあれ以来訪れなかった。あの態度は失敗だった。もう少しだけここに足を向けさせることができれば、なんらかのきっかけになったかもしれない。
……思い出すのは、レオとの日々。不思議なことだ。これまではこうして時間ができるたび、脳裏に占めるのはつらかった思い出だけだったのに。
自分が甘い思い出に浸って身を捩る女になったとは、つくづく運命とはわからない。これまでのアガットはそんなことをするのはその役目に生まれついた女、つまりは実の母親や継母や、学院で話すこともなかった美しい少女たちだけだと思っていた。彼女たちは生まれたときからそれらのやり方を知っており、知らない自分には縁ないものだと。
レオの髪や指先を思い出す。声が低くなると腰に響いたこと、うなじの毛がぞくぞく逆立つほどのまなざしを思い出す。アガットはいつの間にかレオのことを深く愛していたが、夫である人がそうだという確証はない。また、夫婦なのだから必ず互いに思いあわなければならないということもないのだ、悲しいことに。
さて、そのようにして二週間が過ぎた。アガットはげっそりと痩せた、というかやつれた。何せ食事が硬くなったパンと水だけである。最低限、死なせないための量だ。
思考は分散し、まとまらない。ただときどき視界の端に金色が煌めくので、レオかと思ってそっちを見ては、また膝の上の手に戻す。
(また、会いたい)
と思う。死にたくない、以上に強い思いを抱いたのは人生で初めてだった。
(また会いたいから、生きる)
石の隙間を埋める漆喰をひっかいて集め、砂のかたまりにして握り込んだ。いざというとき、目つぶしくらいにはなると思って。そのせいで爪が割れたけれど、なに、薬屋の仕込み稽古はもっとキツかった。
レオがこの先敗北せず、勝利したとして――待っているのはたくさんの愛人を持つレオとそれを見ているしかないだけの自分だろう。血筋を残すのは高位の男性の義務だ。そしてアガットの義務は愛人と子供たちとの生存競争に打ち勝つこと。アガットが子供に恵まれたとしても父親は死んでなんの後ろ盾もない子爵家の娘が母親では、もっと高位の家から来た愛人の子供に勝つのは難しいだろう。
子供ともども家を追い出され、ドロの中で死ぬのかもしれないし、もっと悪いと政争に負けて利用される駒に落ち、子供は殺されるか引き離されアガットは子産みの道具にされる。
レオと正式に離婚できればまだましな方。だから、かつてはそれを目指していた。
けれど。
(会いたい――こんなにも会いたいのに、離婚なんて無理だわ)
アガットは苦く笑った。自分を嘲る気持ちで。頭の片隅で薬屋がクックと笑い、ああ――これこそ彼の復讐が成就した証なのかもしれないとさえ思う。
アガットは恋に狂った女に成り下がった。こうならないために武器を、毒を覚えたのに。
(愛人も無理。もしレオが連れてきたら殺してやる。この手で)
狂気はぐつぐつと煮込まれて凝縮していく。
(ここから生きて出られたら、そうできるだけの力と立場を手に入れよう)
どこか遠い上の方でガタンと音がした。牢の鍵が外れたのだ。
意識の外で鳴っていた暗渠の水の音は変わらずゴウゴウと、泣きわめく男の声は止まった。
牢の中の人間たちみんなが神経を張り詰め、誰が来たのかと期待している――その空気をアガットは感じ取った。そこまで牢に馴染んでいた。
果たして足音は、アガットの牢の前で止まった。ギイイ、と扉そのものが開く。
牢番の横、そこに立っていたのは魔法使いリュドヴィックだった。
「まあ……先生」
「アガット。……おお、」
老人は深いため息をつき、小さな目をしょぼしょぼさせたかと思うと口を震わせ、
「なんということに。……おお、儂を許してくれ!」
大仰に泣き出した。
アガットは困った。ここにきてこの老人の相手をすることになるとは思わなかったのである。
25
お気に入りに追加
171
あなたにおすすめの小説
毒を盛られて生死を彷徨い前世の記憶を取り戻しました。小説の悪役令嬢などやってられません。
克全
ファンタジー
公爵令嬢エマは、アバコーン王国の王太子チャーリーの婚約者だった。だがステュワート教団の孤児院で性技を仕込まれたイザベラに籠絡されていた。王太子達に無実の罪をなすりつけられエマは、修道院に送られた。王太子達は執拗で、本来なら侯爵一族とは認められない妾腹の叔父を操り、父親と母嫌を殺させ公爵家を乗っ取ってしまった。母の父親であるブラウン侯爵が最後まで護ろうとしてくれるも、王国とステュワート教団が協力し、イザベラが直接新種の空気感染する毒薬まで使った事で、毒殺されそうになった。だがこれをきっかけに、異世界で暴漢に腹を刺された女性、美咲の魂が憑依同居する事になった。その女性の話しでは、自分の住んでいる世界の話が、異世界では小説になって多くの人が知っているという。エマと美咲は協力して王国と教団に復讐する事にした。
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
この度、猛獣公爵の嫁になりまして~厄介払いされた令嬢は旦那様に溺愛されながら、もふもふ達と楽しくモノづくりライフを送っています~
柚木崎 史乃
ファンタジー
名門伯爵家の次女であるコーデリアは、魔力に恵まれなかったせいで双子の姉であるビクトリアと比較されて育った。
家族から疎まれ虐げられる日々に、コーデリアの心は疲弊し限界を迎えていた。
そんな時、どういうわけか縁談を持ちかけてきた貴族がいた。彼の名はジェイド。社交界では、「猛獣公爵」と呼ばれ恐れられている存在だ。
というのも、ある日を境に文字通り猛獣の姿へと変わってしまったらしいのだ。
けれど、いざ顔を合わせてみると全く怖くないどころか寧ろ優しく紳士で、その姿も動物が好きなコーデリアからすれば思わず触りたくなるほど毛並みの良い愛らしい白熊であった。
そんな彼は月に数回、人の姿に戻る。しかも、本来の姿は類まれな美青年なものだから、コーデリアはその度にたじたじになってしまう。
ジェイド曰くここ数年、公爵領では鉱山から流れてくる瘴気が原因で獣の姿になってしまう奇病が流行っているらしい。
それを知ったコーデリアは、瘴気の影響で不便な生活を強いられている領民たちのために鉱石を使って次々と便利な魔導具を発明していく。
そして、ジェイドからその才能を評価され知らず知らずのうちに溺愛されていくのであった。
一方、コーデリアを厄介払いした家族は悪事が白日のもとに晒された挙句、王家からも見放され窮地に追い込まれていくが……。
これは、虐げられていた才女が嫁ぎ先でその才能を発揮し、周囲の人々に無自覚に愛され幸せになるまでを描いた物語。
他サイトでも掲載中。
転生悪役令嬢に仕立て上げられた幸運の女神様は家門から勘当されたので、自由に生きるため、もう、ほっといてください。今更戻ってこいは遅いです
青の雀
ファンタジー
公爵令嬢ステファニー・エストロゲンは、学園の卒業パーティで第2王子のマリオットから突然、婚約破棄を告げられる
それも事実ではない男爵令嬢のリリアーヌ嬢を苛めたという冤罪を掛けられ、問答無用でマリオットから殴り飛ばされ意識を失ってしまう
そのショックで、ステファニーは前世社畜OL だった記憶を思い出し、日本料理を提供するファミリーレストランを開業することを思いつく
公爵令嬢として、持ち出せる宝石をなぜか物心ついたときには、すでに貯めていて、それを原資として開業するつもりでいる
この国では婚約破棄された令嬢は、キズモノとして扱われることから、なんとか自立しようと修道院回避のために幼いときから貯金していたみたいだった
足取り重く公爵邸に帰ったステファニーに待ち構えていたのが、父からの勘当宣告で……
エストロゲン家では、昔から異能をもって生まれてくるということを当然としている家柄で、異能を持たないステファニーは、前から肩身の狭い思いをしていた
修道院へ行くか、勘当を甘んじて受け入れるか、二者択一を迫られたステファニーは翌早朝にこっそり、家を出た
ステファニー自身は忘れているが、実は女神の化身で何代前の過去に人間との恋でいさかいがあり、無念が残っていたので、神界に帰らず、人間界の中で転生を繰り返すうちに、自分自身が女神であるということを忘れている
エストロゲン家の人々は、ステファニーの恩恵を受け異能を覚醒したということを知らない
ステファニーを追い出したことにより、次々に異能が消えていく……
4/20ようやく誤字チェックが完了しました
もしまだ、何かお気づきの点がありましたら、ご報告お待ち申し上げておりますm(_)m
いったん終了します
思いがけずに長くなってしまいましたので、各単元ごとはショートショートなのですが(笑)
平民女性に転生して、下剋上をするという話も面白いかなぁと
気が向いたら書きますね
どうも、死んだはずの悪役令嬢です。
西藤島 みや
ファンタジー
ある夏の夜。公爵令嬢のアシュレイは王宮殿の舞踏会で、婚約者のルディ皇子にいつも通り罵声を浴びせられていた。
皇子の罵声のせいで、男にだらしなく浪費家と思われて王宮殿の使用人どころか通っている学園でも遠巻きにされているアシュレイ。
アシュレイの誕生日だというのに、エスコートすら放棄して、皇子づきのメイドのミュシャに気を遣うよう求めてくる皇子と取り巻き達に、呆れるばかり。
「幼馴染みだかなんだかしらないけれど、もう限界だわ。あの人達に罰があたればいいのに」
こっそり呟いた瞬間、
《願いを聞き届けてあげるよ!》
何故か全くの別人になってしまっていたアシュレイ。目の前で、アシュレイが倒れて意識不明になるのを見ることになる。
「よくも、義妹にこんなことを!皇子、婚約はなかったことにしてもらいます!」
義父と義兄はアシュレイが状況を理解する前に、アシュレイの体を持ち去ってしまう。
今までミュシャを崇めてアシュレイを冷遇してきた取り巻き達は、次々と不幸に巻き込まれてゆき…ついには、ミュシャや皇子まで…
ひたすら一人づつざまあされていくのを、呆然と見守ることになってしまった公爵令嬢と、怒り心頭の義父と義兄の物語。
はたしてアシュレイは元に戻れるのか?
剣と魔法と妖精の住む世界の、まあまあよくあるざまあメインの物語です。
ざまあが書きたかった。それだけです。
稀代の悪女として処刑されたはずの私は、なぜか幼女になって公爵様に溺愛されています
水谷繭
ファンタジー
グレースは皆に悪女と罵られながら処刑された。しかし、確かに死んだはずが目を覚ますと森の中だった。その上、なぜか元の姿とは似ても似つかない幼女の姿になっている。
森を彷徨っていたグレースは、公爵様に見つかりお屋敷に引き取られることに。初めは戸惑っていたグレースだが、都合がいいので、かわい子ぶって公爵家の力を利用することに決める。
公爵様にシャーリーと名付けられ、溺愛されながら過ごすグレース。そんなある日、前世で自分を陥れたシスターと出くわす。公爵様に好意を持っているそのシスターは、シャーリーを世話するという口実で公爵に近づこうとする。シスターの目的を察したグレースは、彼女に復讐することを思いつき……。
◇画像はGirly Drop様からお借りしました
◆エール送ってくれた方ありがとうございます!
【完結】魔力がないと見下されていた私は仮面で素顔を隠した伯爵と結婚することになりました〜さらに魔力石まで作り出せなんて、冗談じゃない〜
光城 朱純
ファンタジー
魔力が強いはずの見た目に生まれた王女リーゼロッテ。
それにも拘わらず、魔力の片鱗すらみえないリーゼロッテは家族中から疎まれ、ある日辺境伯との結婚を決められる。
自分のあざを隠す為に仮面をつけて生活する辺境伯は、龍を操ることができると噂の伯爵。
隣に魔獣の出る森を持ち、雪深い辺境地での冷たい辺境伯との新婚生活は、身も心も凍えそう。
それでも国の端でひっそり生きていくから、もう放っておいて下さい。
私のことは私で何とかします。
ですから、国のことは国王が何とかすればいいのです。
魔力が使えない私に、魔力石を作り出せだなんて、そんなの無茶です。
もし作り出すことができたとしても、やすやすと渡したりしませんよ?
これまで虐げられた分、ちゃんと返して下さいね。
表紙はPhoto AC様よりお借りしております。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる