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しおりを挟む日当たりのいい図書室を大司教はレオに貸し与え、そこを彼らは執務室として使っていた。南向きのいい場所である。夜でも気持ちのいい風が吹く。
アガットたちが戻ってもまだ男たちは起きていた。警備の見直し、責任者への罰や、いろいろ複雑な処理があるのだろう。一人椅子に座ったレオの周りに、軍服や執務服姿の青年や中年の男たちがざわざわしているのはなかなかの迫力だった。
レオがいる執務室の小さな続き部屋で入るタイミングを伺っていたところ、驚いたことに侍従に先導させて入ってきたのは大司教だった。アガットは思わず、ジョシュアと顔を見合わせた。これでは邪魔できない。あまりに高貴なお方すぎて。
ロンドリオネア大司教は恰幅の良い禿げあがった男で、真っ赤な司教服がよく似合っていた。足取りは肥満体らしくよろめきつつ、頬は赤ん坊のようにふくふくとしているが、まっすぐにレオまでを歩いた。
アガットは続き部屋の小さな、だがスツールとは比べものにならないふかふかの詰め物をした青い椅子に座り込み、扉の隙間から執務室の中を伺った。膝には蛍虫のランプをしっかり抱えた。
ジョシュアはそれを止めようとしたものの、何をどれだけ囁きかけてもアガットは頑として動かないし、かといって主君の妻の身体に手をかけてしまえば下手したら姦通罪である。青年はむっつりと押し黙り、アガットの頭の上にかがみこむようにして同じく室内を見つめることにした。彼だってこの邸宅の主が、襲われかけた貴公子に何を言い出すのか興味津々だった。
「おお、勇壮なレオ。我が一族の星よ! なんとかわいそうに。あの男は期待していた学者だったのだが」
――そう来たか。
大司教はレオの前に頽れると、おいおい泣き真似をした。
「叔父上殿。敬愛なる大司教様。どうか顔をお上げください」
とレオは大叔父を省略してそう呼んだ。その声はどこか芝居がかって、ああ、この声をアガットは聞いたことがある。
(相変わらず、なんてしらじらしい声かしら)
とアガットは苦笑を噛み殺しつつ思った。あの狩猟小屋で熱を出し、介抱された翌日のこと……アガットに家族について話させて、手放しで褒めたたえてきたレオの声。表情。
「叔父上殿。ご覧の通り私には傷ひとつありません。ええ? あなたを疑うなんて。そんなことがあり得るとお思いですか。常に私を引き立て、我が父を気にかけてくださったのは叔父上です。どれほど感謝していることか!」
本人さえも信じ込んでいる、レオの敬愛の声が今はおかしい。
アガットが口の中で笑いを漏らすと、ジョシュアが苛立たしげに首を横に振った。
大司教はさんざん美辞麗句を並べたが、要するに俺は悪くない、酒を持って訪ねた男はどこかの間諜に違いなく、間違っても俺が差し向けたんじゃないから勘違いするな。ということらしい。
いかにも保身に優れた聖職者らしい言い分である。アガットはどうしてレオがなかなか挙兵しないのか、王になると言ったのに国王への直訴にすら冬という刻限を設けたのか、わかった気がした。このようにして我が身を守り生き延びてきたから、彼らは聖職者さえ抱き込んだ大貴族なのだろう。
――あ。
扉の隙間ごしに、目が合った。レオは緑の目を一瞬見開き、立ち上がって今は目の前の椅子にどっかりと座る大叔父に視線を戻す。
「そうだ、叔父上。私の妻を紹介していませんでしたね。ちょうど控えておりますからお引き合わせしましょう」
彼の緑の目はまっすぐに続き部屋の扉を見つめている。
「おいで、アガット」
それでアガットは言われた通り出て行った、夫に呼ばれて駆けつけない妻などいるはずがない。
服装は新妻の夜歩きに見せるために選んだ深緑のベルベットドレスで、装飾品は危険を避けるためつけないでいた。ティアラどころかネックレスもない、指輪もない。青味を帯びた暗い灰色の髪を結い上げ櫛で留めているのが、装飾と言えば装飾である。
大司教の目が素早くアガットの姿かたちを観察し、なんだこの程度の女か、と拍子抜けした顔をした。
「お初にお目にかかります――」
から続く正式な挨拶を、中年男はふんふんと受け流した。目だけが優しい固まった笑顔で、信徒に奇跡を授ける業務をこなす効率的な仕草でアガットの下げた頭に触れ、
「なんと可愛らしい娘さんでしょう。あなたのシャヴァネルへの献身は神も祝福なさいましょう」
まるきり馬鹿にした言いぐさである。
「恐れ入ります、大司教様。温かいお言葉に身が震えます」
なのでアガットも適当に答えておいた、教本にあったような、なかったような言葉で。
大司教は無学な農民にするようににっこりすると、さてと立ち上がった。いい頃合いだったのは確かだった。自室へ向かう彼を夫婦揃って(夫婦揃って!)見送ると、レオは騎士たちに向き直った。
「さ。もういいだろう。このままでは議論とて堂々巡りだ。皆、明日に備えて戻ってくれ」
「ですが、閣下」
と言ったのは年嵩の見慣れない騎士だったが、レオは赤茶色の髪と立派な頬髯を蓄えた彼に片目をつぶって見せ、
「頼むよ。これから夫婦の語らいなのだ。妻にひっかかれてしまう」
とは言ったものである。
ダシにされてもアガットに苛つきはなかった。もしも似たようなことをテミア子爵にされたら烈火のごとく怒り狂った自覚はあるのだが。
室内が静かになると、レオは潤んだように青味が濃い緑の目でアガットに向き直る。自然と膝を折ってしまいたくなるほど屈託のない、相手が自分の望むものを差し出すと確信しているまなざしだった。
「裏路地に流通を確認いたしました。おそらくはあの男の背後には誰もいません。そそのかした者はいたかもしれませんが、それは人の身体でいうところの爪くらいの存在ですわ」
「確かか」
「はい。――店の者は何も言いませんでしたが、店内を見せてもらいましたから。あの店はオーレアット・コットと取引がありますわ。品揃えを見ればわかります。また、ロカの話とも合致します。根拠に関しましては、私の目を信頼してくださいませとしか申し上げられませんが」
アガットは堂々と報告する。自分の目が確かだという確信は、あった。何せ薬屋は母に乳さえもらえなかった彼女を麦粥で育てながら、己の知ることを教えたのである。歩き方喋り方からそれは始まった。アガットは生まれつきの毒殺者なのだ。
これまで使う機会があった技術は直接的に毒を盛る方法だとか毒の識別方だとか、気づかれないよう忍び寄る歩き方やあらゆる身分の女に成りすます喋り方、それから毒作りの副産物である料理の腕くらいだったわけだから、対象を観察し推測する技能を使えて楽しかった。アガットはすっかり調子に乗っていた。
だからついつい言ってしまった、レオの目の前できちんと臣下の礼儀を守りながらも上目遣いに、
「毒の流通は王都より多いくらいでしたわ、レオ様。その分それを必要とする者たちの動きも活発だということ。入り込んだ間諜も多いでしょう。出兵時期は国王陛下に勘ぐられていると見てよろしいかと」
シャヴァネル公爵家の名の許、少しずつ傭兵や志願兵が集められていることはなんとなく察していた。大司教邸の中の雰囲気が、近々魔物の大攻勢があるらしいと聞いて殺気立つ王都の人々や、野営地へ向かう隊列の兵士に感じたのと同じなのである。
だがその気づきが父と慕った人からの知識の伝授を理由とするものではなく、ただの一市民として生きてきた自分の感覚に由来するということを忘れていた。
レオはにっこりした。この男は顔も身体もまっすぐだ。アガットを立たせ自分はいつの間にか椅子に腰かけて、背もたれにくつろいで、それがちっともおかしくないくらいに高貴で尊大で、それが似合うのだ。
冷たい声がアガットの耳を打った。
「――そなた、勘違いをしているな」
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