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7、やくざのお仕事
毎日、オレの背中に軟膏を塗り込め、新藤の手がオレの蒼い虎を撫でる。
この作業は、オレの背中に入墨が彫られてからずっと、新藤の日課になりつつある。
「新藤さん・・・タバコ、落とさないで下さいよ・・」
火の熱さに眉を顰めると、熱いか?と新藤が一際肌に近い場所でタバコの火を赤々と燃えさせる。
「新藤さん・・・!」
チリチリと肌が焼けるような熱さに慌てて振り向くと「冗談だ」と、笑った新藤がタバコの火を灰皿で捩じ消した。
「いい色になってきたな・・・腫れも大分ひいてる」
そう言って、ふわりと肩に真新しいYシャツを掛けられ、それで今日の作業の終了を告げられる。
染みるような肌の痛みはもう無い。
代わりに、新藤に撫でられ、その手の温もりを心地よく思っている虎がシャツの冷たさに不満を持つ。
すっかり手懐けられたとはこの事だろう。
組織のナンバー2(いや、本当のトップは新藤かも知れない)でもある男が、意外にも面倒見のいい性格で、オレの背中の虎は甲斐甲斐しく自分の世話を焼いてくれるこの男の事を、気に入っている。
新藤は、実にマメな男だった。
自分でさえ億劫になり勝ちな細々とした物事を、新藤は面倒がらずにしてくれる。
大人になるとこんな風に、誰かに背中を摩られる事も多くない。
それも、とても極道者とは思えない柔らかなタッチで、丁寧に薬を塗り込んでくれるのだ。
その手付きに、時折戸惑う程の熱っぽさを感じる事があるが、それは多分、男の煙草のせいだろう。
新藤が選んでくれたワイシャツに袖を通し、オレの一日が始まる。
オレ、中澤 千垣は、健康食品会社を依願退職し、その日の夕方には、送別会の予定も立たない内に会社を離れ、新藤が迎えに寄越した車に乗り込んでいた。
定時で、まだ陽も沈んでいない時間に会社を出たのは、本当に久しぶりの事だった。
詳しい事は誰にも話せなかった。
明日からの生活に不安がない訳ではない。
せめて世話になった人間にだけは、挨拶をして回ったが引き留められると辛かった。
きっと事実を知ったら、もう誰もオレに話しかけやしないだろう。
オレが選んだ道は、彼らとは相容れない。
もう二度と、同僚達と一緒に酒を飲む事もない。
いや、自分のような人間と関わりになったらダメだ。
背中に入墨を入れているような男と親しくしていたら、あいつらにどんな因縁が降り掛かるかわからない。
何も知らせずに、離れる事が一番なのだ。
そう思ったら、寂しくなった。
これは、何の運命なのだろう?
今、オレがここにいるのは、一体いつから決まっていた運命だったんだろう?
胸に押し寄せる寂寥感を抱え、車の後部座席から見える窓の外の景色をただ眺めていた。
「ナカザワ、今日は出張に行く。北海道に建てたばかりのリゾートホテルの見学だ」
「リゾートホテル?そんな不動産を?」
新藤がニヤリと笑う。
「たまたま借金の形で手に入れた北海道のリゾート物件に高値がついてな。勿論売る気は無いが、どうしても交渉したいらしく、接待させてやることにした。とことん甘みは吸い取り、焦らすだけ焦らして最後は高いマージンを取って働かせてやるつもりだ」
言いながら新藤が、電話の内線をスピーカーにして西遠に呼び掛ける。
「社長、そろそろ時間です。支度はいいですか?今日は頭の硬い連中と会いますから、派手なスーツはやめてください。赤いシャツも無しです」
真面目な顔で揶揄う新藤を横目に部屋を出ようとすると、新藤がオレの名前を呼んだ。
ドアノブを手に振り返ると、新藤が慌てて電話を掛け直している。
「ナカザワ!上に行って、社長を起こして来い!オレは飛行機のチケットを取り直さなけりゃならん!」
新藤の舌打ちに、オレも真っ青になった。
「まだ起きていなかったのか!!」
時計は8時半を回っている。
オレは走って西遠のいる5階へと駆け上がった。
社長室の奥の応接間の更に奥のドアを開ける。
「社長!」
入った正面、部屋の真ん中へ置かれているベッドには、横向きに寝る上半身裸の西遠の張りのある背中が見えた。
枕を片手で抱えたそのうつ伏せの背中、ゆるやかに背骨がS字を描き、腰の辺りに出来る窪みにイヤでも目が惹き付けられる。
いや、それよりもその背中が赤い。
背中を真っ赤に染める入墨。
黒で淵取られた赤い鳥が両翼を広げ、左肩へと頭をもたげている。
「社長・・」
急いで叩き起こさなければいけないところなのに、その背中に見惚れて動けなくなってしまう。
ベッドに近づいて、その背中にそっと手を伸ばす。
あと少しで触れる寸前に、「ナカザワ?」と西遠の声で呼ばれ、ハッとして手を引っ込めた。
しなるような筋肉質な肌を波立たせ、まるで猫の背伸びのようにベッドから起き上がる。
「あ~・・寝坊した?オレ」
のそのそと起き上がった西遠の両足が床の上に降りる。
ベッドから立ち上がった西遠の姿にギョッとして、慌ててオレは目を逸らした。
裸、だった。
上も下も何も身に付けていない。
その肢体を隠そうともせず、自分の眼前を堂々と通り過ぎ、クロークへと向かう。
振返ると、男らしく上がった尻が目に焼き付いた。
裸を見られる事に抵抗がないのか、人目に見られる事に慣れているのか、まるで自分がここにいる事に気付いてもいないような態度だった。
それが少し悔しい。
けれど、確かに、あれは誰に見せても恥ずかしくない体だと思った。
背も肩幅も男性的で、程よく筋肉質で、かといってむさ苦しくはない。
男の裸に気後れする自分に溜め息が零れる。
・・・いいカラダしてる・・
そんな感想が沸いて、思わず自分の口元を手で覆って隠した。
それからすぐ、クロークに入った西遠がシャツを羽織って戻って来る。
そのどぎつい色に、今、甘い溜め息を吐いていた事も忘れ、飛び上がった。
「社長!そのシャツ・・!」
新藤の台詞を思い出し、西遠がシャツのボタンを留めようとするのを慌てて止める。
「赤はダメだって、新藤さんが言ってました」
「・・・・」
西遠の目が、うっとおしそうにオレを見た。
目力の強さに、ウッとなるのを堪え、オレは失礼します、と声を掛けてクロークへ入り、作り付けの家具の引き出しからストライプ柄のワイシャツを取り、それに合いそうな冴えた水色のネクタイを手に西遠の元へと戻った。
西遠は脱いだシャツをベッドの上へ放り投げ、上半身裸のままソファーの背もたれに両手を広げて待っていた。
な・・・なんて格好だ・・・この人は・・!
本当に、なんて朝の似合わない男だろう・・
眼鏡のブリッジを押上げ、気を取り直して、彼に近づく。
「社長。早く着てください。今、新藤さんがチケットを取り直してますから」
全く、この男に近づくのだけでも相当な勇気がいるっていうのに・・・・。
西遠はやる気の無い顔をオレにチラと向けて、右手を差し出した。
それもそっぽをむいて。
もしかして、着せろってか・・?
この男は・・・本当に・・・もう・・・っっ
急いでワイシャツを広げ、西遠の腕を袖の中へ通す。
それから西遠の前へまわり、シャツを右から左へと羽織わせ、左の腕もそこへ通させる。
「ちょ・・・ちょっとは、自分で動いて下さいよ・・・!」
大の男にシャツを着せる作業がこれ程、難しくて恥ずかしい事とは思いもしなかった。
西遠はフフッと笑い、や~だと鳴く。
まったくなんて男なんだ・・!?
これがあの夜の、強面連中に頭を垂れさせていた男には到底見えない。
「なに・・・赤くなってんの?」
面白そうに笑う西遠の顔を見ないように、シャツのボタンを嵌めていく。
それからテーブルに置いておいたネクタイを手に取り、一拍置いて、西遠の首へとそれをまわす。
硬い襟の中をシュッと衣擦れの音と共に丁寧にネクタイを潜らせる。
緊張に手を震わせながらネクタイを結ぶオレを、西遠がジッと見つめていた。
震えるな、震えるな、と唱えながら、意識をネクタイに集中させるが、目の前にある形のいい唇が微笑んでいるのを目にして、顔に血が上る。
必死に、頭の中でネクタイの結び方だけをイメージしたが、ネクタイを結び終わる頃には掌や背中にしっとりと汗を掻いていた。
「出来ました」
西遠の前から膝を立てようとした。
その肩、オレの左の肩に、西遠の右足が乗せられる。
「・・・な、何をして・・」
驚きに声が震えた。
「もう、終わり?」
つまらないって顔で西遠がオレを見下ろしてくる。
傲慢な女王様の顔だ。
もっと自分を楽しませろと、口元に悪い笑みを浮かべて、オレを見下ろしていた。
そんな姿さえ、様になる。
人の上に立つ人間とは、こういうものなのだろうか。
どんな態度をとっても、嫌味にならない。
ただただ人を惹き付けてしまう。
そう、望まれれば、それに応えたくなってしまう。
そんな気持ちにさせられる人だった。
「何やってんですか、あなたは・・・」
盛大な溜め息混じりに呟かれた声に身を竦めると、いつの間にか部屋の中に新藤がいた。
思わず、西遠の足の存在も忘れて急いで立ち上がってしまい、西遠がソファーの上で仰け反る。
それを見た新藤が、プッと吹き出してオレの肩を叩いた。
「ナ、ナカザワ・・・!お前は何にも悪く無い。安心しろ」
可笑しくて可笑しくて仕方無いと口を押さえる新藤に、顔が熱くなる。
なんなんだ・・・悪くないって・・・・。
まるで、不貞を暴かれたみたいなこの感じは・・!!
「に、荷物取って来ます!」
早口に言ってオレは西遠の寝室から飛び出した。
情けなくも、その場から逃出す自分の背中に二人の視線を痛い程に感じた。
「そんなに気に入りましたか?」
新藤の問い掛けに、西遠は「ん?」と眉を上げる。
「いえ。何でも」
冬前の北海道。
とは言え、山の上には白い粉砂糖のような雪がかかっている。
その山を見上げる中腹、まさにゲレンデとなるであろう、1本の木も生えていない真っ新な山肌のど真ん中に、その建物はあった。
4階建ての横に長いリゾートホテルは、リニューアルオープンに向けて、内外装をリフォーム中だ。
建物の中央が少しだけ内側に折れ、デカイ辞書を開いて立たせたみたいな作りだ。
建物のエントランスには、悪趣味な程に長いロールスロイス。
雪山にはどう見ても不釣り合いなブツだ。
「一体どこのバカがこんなもんを用意したんだ?これにだけは乗りたくないな」
バカにした笑いで、新藤がロールスを指差す。
「カーセックス専用だろう」
西遠も呆れ顔だ。
その西遠は、自分が選んだスーツとシャツ姿で、姿勢良く堂々とした歩調でロビーを歩く。
そのロビーの左手には、赤い絨毯にゆったりとしたソファーが並べられたラウンジ。
そこで待ち構えていた数人の男と西遠は握手をして、さも自分が遅れて来た事実など無いような顔で席に座った。
もちろん 新藤も西遠の隣へと席につく。
さて、そこで席はいっぱいになってしまった。簡単な自己紹介が始まり、オレは話を聞いているべきか、離れるべきかを考える。
そう考えて後ろを振り向いて、顔を前へ戻すと「では」と西遠が言った。
西遠は新藤の肩を叩くと、新藤は、はいはい、といった感じで手を軽く振り、オレを顎でしゃくった。
「え」
立ち止まっているオレの横を颯爽と歩いて行く西遠が「行くよ」と言った。
慌てて、オレもその後を付いて行く。
すぐ受け付けの前のエレベーターへ乗り込み、上着のボタンを外す西遠の顔を見る。
どうして西遠だけエレベーターへ乗ったのか、その意図が知りたくて表情を確かめたが、そこからは何も読めなかった。
「あの、何階へ?」
「一番上。オレ専用の部屋がある」
エレベーターの中の後ろの壁へ寄りかかり、足を組む西遠。
「もう・・・話は終わりでいいんですか?」
「あ~。いつもあんなもんよ?オレの出番なんて。言ったろ?オレは占い師みたいなもんだって。相手を見て、信用出来そうか、そうでないか新藤に言うだけだ。それで、新藤は組む相手を決める」
なんだか・・雲を掴むような仕事の仕方に聞こえた。
まじまじと西遠を見つめてしまう。
この堂々とした態度。少々、口調がガキっぽいが、とても仕事の出来ない男には見えない。
なのに、新藤は西遠をひたすらに象徴のように崇めているように感じる。
いや、それとも・・・。逆だろうか?
出来るだけ、この男を人に会わせないために・・・新藤が仕事をしているんではないだろうか?
このやたらとフェロモンをまき散らしている男に、虫がたかってこないように・・・。
西遠を目当てに近づく人間を牽制するために・・・?
だとしたら、自分はなんだろう?
人を寄せつけたく無いなら・・・オレが選ばれ西遠の側にいる理由はなんだろう?
西遠が、スっと壁から背を起こした。
その直後、エレベーターは少しだけ浮遊感を残し、静止した。
「さて、と・・・風呂でも入るか」
「風呂ですか・・?」
西遠の後ろに付きながら、新藤に指示を仰ぐべきか悩む。
本当にあれで、この人の仕事は終わりなんだろうか?
サボってるだけなんじゃないのか?
もしこの後にも、人に会う仕事が残っているとして・・・西遠が風呂に入ってしまったら、またその相手を待たせる事になる。
カードキーで部屋のドアを開けた西遠が、服を脱ぎながら歩いて行く。
「ちょ、ちょっと脱がないで、下さい・・っ」
え?と振り返る西遠。
「何?恥ずかしいの?」
「違いますよ!風呂は新藤さんに聞いてからにして下さい。オレはこの後のスケジュールはよくわかってないんです。本当に寛いでいいのか聞いてから・・・ちょっと!」
話してる間にも西遠はネクタイを外し放り投げる。
それから、オレの目の前、半歩も空かない距離に詰めると鼻先で笑い。
「オレがいいって言ったら、いいの」
と、オレの眼鏡をコンッと指先で叩いた。
「・・・・・」
そこでオレは思う。
たったアレだけのために呼ばれる西遠も、大変な仕事だと言える、が、しかし。
その西遠に服を着せ、ここまで引っ張って来たのは自分と新藤だ。
その労力が、たったあれだけの挨拶のために費やされたのかと思うと、笑うに笑えない。
いや、まさか、あれだけと言う筈ないだろう。
「あの、本当にもう下には行かれないんですか?」
食い下がる自分の言葉の意味がわからないという様に、西遠は首を傾げつつシャツを脱ぎ捨て、ベルトを引き抜く。
このままでは、本当に風呂に入ってしまう。
それでいいのか悪いのかもわからず、振り回される。
惜しげも無く西遠が自分の前に裸体を晒し、風呂の扉を開きながら振り返った。
「ナカザワ、早く脱いで、背中流せ」
パタンとしまる扉。
ヤクザの仕事について、わかった事がある。
・・・分別がない。
という事だ。
そうだ。これはまさに、パシリと言われる仕事では無いだろうか。
西遠がAと言えばA。
Xと言えばXなのだ。
しばし、天井を見つめる。
と。
「なーかーざーわー」
「・・・・・」
「なーかーざーわー、ちーがーきー!」
片手で額を覆い、その手で顔を撫で、もう一度呼ばれる前にオレは上着を半ばヤケクソ気味に脱ぎ捨てた。
「はい、はい、はいっ・・・今、行きますよ!」
『はい』の部分だけは、小声で応えて。
毎日、オレの背中に軟膏を塗り込め、新藤の手がオレの蒼い虎を撫でる。
この作業は、オレの背中に入墨が彫られてからずっと、新藤の日課になりつつある。
「新藤さん・・・タバコ、落とさないで下さいよ・・」
火の熱さに眉を顰めると、熱いか?と新藤が一際肌に近い場所でタバコの火を赤々と燃えさせる。
「新藤さん・・・!」
チリチリと肌が焼けるような熱さに慌てて振り向くと「冗談だ」と、笑った新藤がタバコの火を灰皿で捩じ消した。
「いい色になってきたな・・・腫れも大分ひいてる」
そう言って、ふわりと肩に真新しいYシャツを掛けられ、それで今日の作業の終了を告げられる。
染みるような肌の痛みはもう無い。
代わりに、新藤に撫でられ、その手の温もりを心地よく思っている虎がシャツの冷たさに不満を持つ。
すっかり手懐けられたとはこの事だろう。
組織のナンバー2(いや、本当のトップは新藤かも知れない)でもある男が、意外にも面倒見のいい性格で、オレの背中の虎は甲斐甲斐しく自分の世話を焼いてくれるこの男の事を、気に入っている。
新藤は、実にマメな男だった。
自分でさえ億劫になり勝ちな細々とした物事を、新藤は面倒がらずにしてくれる。
大人になるとこんな風に、誰かに背中を摩られる事も多くない。
それも、とても極道者とは思えない柔らかなタッチで、丁寧に薬を塗り込んでくれるのだ。
その手付きに、時折戸惑う程の熱っぽさを感じる事があるが、それは多分、男の煙草のせいだろう。
新藤が選んでくれたワイシャツに袖を通し、オレの一日が始まる。
オレ、中澤 千垣は、健康食品会社を依願退職し、その日の夕方には、送別会の予定も立たない内に会社を離れ、新藤が迎えに寄越した車に乗り込んでいた。
定時で、まだ陽も沈んでいない時間に会社を出たのは、本当に久しぶりの事だった。
詳しい事は誰にも話せなかった。
明日からの生活に不安がない訳ではない。
せめて世話になった人間にだけは、挨拶をして回ったが引き留められると辛かった。
きっと事実を知ったら、もう誰もオレに話しかけやしないだろう。
オレが選んだ道は、彼らとは相容れない。
もう二度と、同僚達と一緒に酒を飲む事もない。
いや、自分のような人間と関わりになったらダメだ。
背中に入墨を入れているような男と親しくしていたら、あいつらにどんな因縁が降り掛かるかわからない。
何も知らせずに、離れる事が一番なのだ。
そう思ったら、寂しくなった。
これは、何の運命なのだろう?
今、オレがここにいるのは、一体いつから決まっていた運命だったんだろう?
胸に押し寄せる寂寥感を抱え、車の後部座席から見える窓の外の景色をただ眺めていた。
「ナカザワ、今日は出張に行く。北海道に建てたばかりのリゾートホテルの見学だ」
「リゾートホテル?そんな不動産を?」
新藤がニヤリと笑う。
「たまたま借金の形で手に入れた北海道のリゾート物件に高値がついてな。勿論売る気は無いが、どうしても交渉したいらしく、接待させてやることにした。とことん甘みは吸い取り、焦らすだけ焦らして最後は高いマージンを取って働かせてやるつもりだ」
言いながら新藤が、電話の内線をスピーカーにして西遠に呼び掛ける。
「社長、そろそろ時間です。支度はいいですか?今日は頭の硬い連中と会いますから、派手なスーツはやめてください。赤いシャツも無しです」
真面目な顔で揶揄う新藤を横目に部屋を出ようとすると、新藤がオレの名前を呼んだ。
ドアノブを手に振り返ると、新藤が慌てて電話を掛け直している。
「ナカザワ!上に行って、社長を起こして来い!オレは飛行機のチケットを取り直さなけりゃならん!」
新藤の舌打ちに、オレも真っ青になった。
「まだ起きていなかったのか!!」
時計は8時半を回っている。
オレは走って西遠のいる5階へと駆け上がった。
社長室の奥の応接間の更に奥のドアを開ける。
「社長!」
入った正面、部屋の真ん中へ置かれているベッドには、横向きに寝る上半身裸の西遠の張りのある背中が見えた。
枕を片手で抱えたそのうつ伏せの背中、ゆるやかに背骨がS字を描き、腰の辺りに出来る窪みにイヤでも目が惹き付けられる。
いや、それよりもその背中が赤い。
背中を真っ赤に染める入墨。
黒で淵取られた赤い鳥が両翼を広げ、左肩へと頭をもたげている。
「社長・・」
急いで叩き起こさなければいけないところなのに、その背中に見惚れて動けなくなってしまう。
ベッドに近づいて、その背中にそっと手を伸ばす。
あと少しで触れる寸前に、「ナカザワ?」と西遠の声で呼ばれ、ハッとして手を引っ込めた。
しなるような筋肉質な肌を波立たせ、まるで猫の背伸びのようにベッドから起き上がる。
「あ~・・寝坊した?オレ」
のそのそと起き上がった西遠の両足が床の上に降りる。
ベッドから立ち上がった西遠の姿にギョッとして、慌ててオレは目を逸らした。
裸、だった。
上も下も何も身に付けていない。
その肢体を隠そうともせず、自分の眼前を堂々と通り過ぎ、クロークへと向かう。
振返ると、男らしく上がった尻が目に焼き付いた。
裸を見られる事に抵抗がないのか、人目に見られる事に慣れているのか、まるで自分がここにいる事に気付いてもいないような態度だった。
それが少し悔しい。
けれど、確かに、あれは誰に見せても恥ずかしくない体だと思った。
背も肩幅も男性的で、程よく筋肉質で、かといってむさ苦しくはない。
男の裸に気後れする自分に溜め息が零れる。
・・・いいカラダしてる・・
そんな感想が沸いて、思わず自分の口元を手で覆って隠した。
それからすぐ、クロークに入った西遠がシャツを羽織って戻って来る。
そのどぎつい色に、今、甘い溜め息を吐いていた事も忘れ、飛び上がった。
「社長!そのシャツ・・!」
新藤の台詞を思い出し、西遠がシャツのボタンを留めようとするのを慌てて止める。
「赤はダメだって、新藤さんが言ってました」
「・・・・」
西遠の目が、うっとおしそうにオレを見た。
目力の強さに、ウッとなるのを堪え、オレは失礼します、と声を掛けてクロークへ入り、作り付けの家具の引き出しからストライプ柄のワイシャツを取り、それに合いそうな冴えた水色のネクタイを手に西遠の元へと戻った。
西遠は脱いだシャツをベッドの上へ放り投げ、上半身裸のままソファーの背もたれに両手を広げて待っていた。
な・・・なんて格好だ・・・この人は・・!
本当に、なんて朝の似合わない男だろう・・
眼鏡のブリッジを押上げ、気を取り直して、彼に近づく。
「社長。早く着てください。今、新藤さんがチケットを取り直してますから」
全く、この男に近づくのだけでも相当な勇気がいるっていうのに・・・・。
西遠はやる気の無い顔をオレにチラと向けて、右手を差し出した。
それもそっぽをむいて。
もしかして、着せろってか・・?
この男は・・・本当に・・・もう・・・っっ
急いでワイシャツを広げ、西遠の腕を袖の中へ通す。
それから西遠の前へまわり、シャツを右から左へと羽織わせ、左の腕もそこへ通させる。
「ちょ・・・ちょっとは、自分で動いて下さいよ・・・!」
大の男にシャツを着せる作業がこれ程、難しくて恥ずかしい事とは思いもしなかった。
西遠はフフッと笑い、や~だと鳴く。
まったくなんて男なんだ・・!?
これがあの夜の、強面連中に頭を垂れさせていた男には到底見えない。
「なに・・・赤くなってんの?」
面白そうに笑う西遠の顔を見ないように、シャツのボタンを嵌めていく。
それからテーブルに置いておいたネクタイを手に取り、一拍置いて、西遠の首へとそれをまわす。
硬い襟の中をシュッと衣擦れの音と共に丁寧にネクタイを潜らせる。
緊張に手を震わせながらネクタイを結ぶオレを、西遠がジッと見つめていた。
震えるな、震えるな、と唱えながら、意識をネクタイに集中させるが、目の前にある形のいい唇が微笑んでいるのを目にして、顔に血が上る。
必死に、頭の中でネクタイの結び方だけをイメージしたが、ネクタイを結び終わる頃には掌や背中にしっとりと汗を掻いていた。
「出来ました」
西遠の前から膝を立てようとした。
その肩、オレの左の肩に、西遠の右足が乗せられる。
「・・・な、何をして・・」
驚きに声が震えた。
「もう、終わり?」
つまらないって顔で西遠がオレを見下ろしてくる。
傲慢な女王様の顔だ。
もっと自分を楽しませろと、口元に悪い笑みを浮かべて、オレを見下ろしていた。
そんな姿さえ、様になる。
人の上に立つ人間とは、こういうものなのだろうか。
どんな態度をとっても、嫌味にならない。
ただただ人を惹き付けてしまう。
そう、望まれれば、それに応えたくなってしまう。
そんな気持ちにさせられる人だった。
「何やってんですか、あなたは・・・」
盛大な溜め息混じりに呟かれた声に身を竦めると、いつの間にか部屋の中に新藤がいた。
思わず、西遠の足の存在も忘れて急いで立ち上がってしまい、西遠がソファーの上で仰け反る。
それを見た新藤が、プッと吹き出してオレの肩を叩いた。
「ナ、ナカザワ・・・!お前は何にも悪く無い。安心しろ」
可笑しくて可笑しくて仕方無いと口を押さえる新藤に、顔が熱くなる。
なんなんだ・・・悪くないって・・・・。
まるで、不貞を暴かれたみたいなこの感じは・・!!
「に、荷物取って来ます!」
早口に言ってオレは西遠の寝室から飛び出した。
情けなくも、その場から逃出す自分の背中に二人の視線を痛い程に感じた。
「そんなに気に入りましたか?」
新藤の問い掛けに、西遠は「ん?」と眉を上げる。
「いえ。何でも」
冬前の北海道。
とは言え、山の上には白い粉砂糖のような雪がかかっている。
その山を見上げる中腹、まさにゲレンデとなるであろう、1本の木も生えていない真っ新な山肌のど真ん中に、その建物はあった。
4階建ての横に長いリゾートホテルは、リニューアルオープンに向けて、内外装をリフォーム中だ。
建物の中央が少しだけ内側に折れ、デカイ辞書を開いて立たせたみたいな作りだ。
建物のエントランスには、悪趣味な程に長いロールスロイス。
雪山にはどう見ても不釣り合いなブツだ。
「一体どこのバカがこんなもんを用意したんだ?これにだけは乗りたくないな」
バカにした笑いで、新藤がロールスを指差す。
「カーセックス専用だろう」
西遠も呆れ顔だ。
その西遠は、自分が選んだスーツとシャツ姿で、姿勢良く堂々とした歩調でロビーを歩く。
そのロビーの左手には、赤い絨毯にゆったりとしたソファーが並べられたラウンジ。
そこで待ち構えていた数人の男と西遠は握手をして、さも自分が遅れて来た事実など無いような顔で席に座った。
もちろん 新藤も西遠の隣へと席につく。
さて、そこで席はいっぱいになってしまった。簡単な自己紹介が始まり、オレは話を聞いているべきか、離れるべきかを考える。
そう考えて後ろを振り向いて、顔を前へ戻すと「では」と西遠が言った。
西遠は新藤の肩を叩くと、新藤は、はいはい、といった感じで手を軽く振り、オレを顎でしゃくった。
「え」
立ち止まっているオレの横を颯爽と歩いて行く西遠が「行くよ」と言った。
慌てて、オレもその後を付いて行く。
すぐ受け付けの前のエレベーターへ乗り込み、上着のボタンを外す西遠の顔を見る。
どうして西遠だけエレベーターへ乗ったのか、その意図が知りたくて表情を確かめたが、そこからは何も読めなかった。
「あの、何階へ?」
「一番上。オレ専用の部屋がある」
エレベーターの中の後ろの壁へ寄りかかり、足を組む西遠。
「もう・・・話は終わりでいいんですか?」
「あ~。いつもあんなもんよ?オレの出番なんて。言ったろ?オレは占い師みたいなもんだって。相手を見て、信用出来そうか、そうでないか新藤に言うだけだ。それで、新藤は組む相手を決める」
なんだか・・雲を掴むような仕事の仕方に聞こえた。
まじまじと西遠を見つめてしまう。
この堂々とした態度。少々、口調がガキっぽいが、とても仕事の出来ない男には見えない。
なのに、新藤は西遠をひたすらに象徴のように崇めているように感じる。
いや、それとも・・・。逆だろうか?
出来るだけ、この男を人に会わせないために・・・新藤が仕事をしているんではないだろうか?
このやたらとフェロモンをまき散らしている男に、虫がたかってこないように・・・。
西遠を目当てに近づく人間を牽制するために・・・?
だとしたら、自分はなんだろう?
人を寄せつけたく無いなら・・・オレが選ばれ西遠の側にいる理由はなんだろう?
西遠が、スっと壁から背を起こした。
その直後、エレベーターは少しだけ浮遊感を残し、静止した。
「さて、と・・・風呂でも入るか」
「風呂ですか・・?」
西遠の後ろに付きながら、新藤に指示を仰ぐべきか悩む。
本当にあれで、この人の仕事は終わりなんだろうか?
サボってるだけなんじゃないのか?
もしこの後にも、人に会う仕事が残っているとして・・・西遠が風呂に入ってしまったら、またその相手を待たせる事になる。
カードキーで部屋のドアを開けた西遠が、服を脱ぎながら歩いて行く。
「ちょ、ちょっと脱がないで、下さい・・っ」
え?と振り返る西遠。
「何?恥ずかしいの?」
「違いますよ!風呂は新藤さんに聞いてからにして下さい。オレはこの後のスケジュールはよくわかってないんです。本当に寛いでいいのか聞いてから・・・ちょっと!」
話してる間にも西遠はネクタイを外し放り投げる。
それから、オレの目の前、半歩も空かない距離に詰めると鼻先で笑い。
「オレがいいって言ったら、いいの」
と、オレの眼鏡をコンッと指先で叩いた。
「・・・・・」
そこでオレは思う。
たったアレだけのために呼ばれる西遠も、大変な仕事だと言える、が、しかし。
その西遠に服を着せ、ここまで引っ張って来たのは自分と新藤だ。
その労力が、たったあれだけの挨拶のために費やされたのかと思うと、笑うに笑えない。
いや、まさか、あれだけと言う筈ないだろう。
「あの、本当にもう下には行かれないんですか?」
食い下がる自分の言葉の意味がわからないという様に、西遠は首を傾げつつシャツを脱ぎ捨て、ベルトを引き抜く。
このままでは、本当に風呂に入ってしまう。
それでいいのか悪いのかもわからず、振り回される。
惜しげも無く西遠が自分の前に裸体を晒し、風呂の扉を開きながら振り返った。
「ナカザワ、早く脱いで、背中流せ」
パタンとしまる扉。
ヤクザの仕事について、わかった事がある。
・・・分別がない。
という事だ。
そうだ。これはまさに、パシリと言われる仕事では無いだろうか。
西遠がAと言えばA。
Xと言えばXなのだ。
しばし、天井を見つめる。
と。
「なーかーざーわー」
「・・・・・」
「なーかーざーわー、ちーがーきー!」
片手で額を覆い、その手で顔を撫で、もう一度呼ばれる前にオレは上着を半ばヤケクソ気味に脱ぎ捨てた。
「はい、はい、はいっ・・・今、行きますよ!」
『はい』の部分だけは、小声で応えて。
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