ユメノオトコ

ジャム

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5、帰還

まいった・・・。
マジで、まいった。
オレは、バカだったーーー大バカだった。

たった一言。

オレは、西遠に”オレの側にいろ”と言われて、間髪入れずにイエスと答えていたのだ。
これは一体どういう事なのか。
オレは新藤の大笑いする姿を見て、初めて自分が犯したミスの大きさに気付いた。
目の前にいる人間は、普通の人間じゃない。
『極道』と呼ばれる彼らは、強者の理論で作られた裏社会を束ねる一組織に属する、しかも幹部。
言わば一国一城の主。
そんな人間と気軽に会って話が出来ない事くらい、普通のサラリーマンの頭でもわかる。
そんな人間を相手に、オレは、なんて返事をしてしまったのか・・!!

次いで、今、忘れていた背中の痛みがジンジンとしてくる。
オレの肩で大口を開けた、青い虎だ。
獲物を捕らえるべく爪を突き出した前足。
それがオレの肘のすぐ上にある。
新藤が酔狂で、オレを軟禁して彫らせたモノだ。
そうオレは二度と、プールにも銭湯にも、露天風呂にも入れない人種になってしまったのだ。

VIPかハイソな人種しか入れないような隠れ家的な高級クラブに無理矢理連れて
来られて、今、オレの前では新藤がニヤつき、オレの膝の上では。
西遠が瞼の下がった眠そうな目で天井をボーッと見ている。
「言ったな。ナカザワ」
「いや、今のは・・・違うんだ!」
新藤はグラスを傾けて、挑戦的に笑う。
顔は、”もうこっちのもんだ”って顔でオレを睨んでいた。
相手はヤクザだ。
男の道を行く男だ。
半端や無知や弱い事を許さない男だ。
ゾッとしながら、オレは言い訳を考える。
そんな世界で、オレは立派になんてやっていきたく無い!!
「なにが、違うって?」
ギラリと新藤の目が光った。
何を言っても、許さないという顔だった。
ここでオレがこれ以上何かを言えば新藤の拳が飛んでくる、かも知れない。
緊張する雰囲気に店のホステス達も、一瞬シンと静まり返った。
「あ、中澤さん、何か召し上がりますか?ご飯まだなんじゃ・・・」
慌てて口を開いたのは、さっきまで西遠の隣に寄り添っていた、足首まであるグレーの長いドレスを着た品のある女性だった。
「リサ」
新藤が、緊張を崩させないように女の名前を呼ぶ。
リサは上げ掛けた腰を下ろし、気まずい顔で廻りを見る。
他のホステス達も同様に、困ったように目配せしている。
オレは黙ったまま新藤と目を合わせた。
新藤の目が鋭く細められる。
強い眼力に我を挫かれそうだった。
その緊張が不思議に店の中へ広がり、なんとなく、店内から人の声が聞こえなくなった。
ただ流れるのは感じのいい静かなバイオリンの音だけ。
「新藤」
強い怒気を放つ新藤を、諌めるように西遠が呼ぶ。

オレの膝を枕にした男は、眠そうな目を新藤に向ける。
すると新藤も眉間の皺を広げ、穏やかな顔に戻った。
「眠い。帰るぞ」
「わかりました。今、車を廻させます」
新藤がスーツのポケットから取り出した携帯を開く。
西遠はムクリとオレの膝の上から起き上がると、オレに背を向ける格好のままで呟いた。
「ちょっと。本気にした」
少し寂しそうな声は、本心からのものに聞こえて、自分の胸に突き刺さった。
西遠がソファーから立ち上がる。
上着の襟を正して、再びオレに向き直ると握手を求められた。
オレは座ったままで、慌てて手を出す。
「またいつか、会える事があればいいですね。今日は来てくれて、ありがとう」
さっきまで、オレの膝に寝転んで寛いでいた本人とは思えない程、冷たい顔の西遠がそこにいた。
ただただ愕然として、彼等が自分を残して去った後も、数分ジッとしていた。
バカだと思う。
なぜ、こんな気持ちになるのか。

サイオンに、見限られた・・!

そう思わずにはいられなかった。
「あなた、大丈夫?」
心配そうに声を掛けてくれたのはリサだった。
「あ、ああ、・・・平気です」
なんとか立ち上がり、引き止められるのも構わず店を出た。
肌寒い夜風。
もちろん連れて来られる時にいた若造も、その車も無かった。
その呆気なさに、自分がとんでもない失敗を犯したような感覚になる。
晴れて自由の身になったというのに、この胸に沸く喪失感は何だろう。
なんなんだ?
がっかりしている?
サイオンにがっかりされて、オレまでがっかりしてしまっている。
言い知れぬ虚脱感。
勝手知ったる街の一角がまるで知らない街に見えて、人や車が行き交うのをただ呆然と見ていた。
けれど、そうして、いつまでも歩道に立ち尽くしてもいられない。
何をしているのだろうと、すれ違う人から向けられる好奇の目に抗えず、歩き出した。
車が横を通る度に、黒の外車と見間違えた。
追いかけて来るんじゃないか、本当はこの少し先で待っているんじゃないか。
そんな気持ちに気付いて、自分に自分が裏切られる。

どうして、そう思うんだ。
本当は、アイツらと一緒に行きたかったのか?
無理やり入墨を入れられ、それを隠しながら生きなければいけない。
順風満帆だった筈のこの先の人生を狂わされて、それなのに、西遠の側に居たいのか?
あの空気は危険だ。
あの二人は危険だ。
自分を惑わす。
人を惹き付ける。
吸ってはいけない媚薬のような香り。

けれど、そんな物はきっとすぐに、霧のように掻き消えてしまう。

これで、いいんだーーーー

オレは強く一歩を踏み出した。
オレは普通の生活へと戻る。
このおかしな数日がやっと終ったのだと、自分に言い聞かせた。
俯いた時に下がった眼鏡を押し上げようと、腕を上げた肩が痛む。
右肩の虎。
残ったのはオマエだけか・・・。
と、自分の肩を触ってみて、ハタと気づいた。

「かばん・・・!!」

慌てて振り向いて、あの店の前へ走る。だが、さっきも見た通り、車は無い。
サーーーーーーッッと血の気が下がる。
明日の会議で使う書類が、まだ書き途中だったのだ。
本来、社外不出、守秘データ。
中身は健康食品の新商品開発についてのものだった。
「ハハハ・・・」
途端に脱力した。
おかしくておかしくて仕方がなくなってくる。
車に戻った新藤が、オレの鞄に気づいていない筈はない。
「あ~あ」
歩道の手摺に寄り掛かり、胸ポケットからタバコを取り出す。
ライターで火をつけて、深く吸い込む。
ゆっくりと煙を吐き出しながら、また、笑えてくる。
「母さんになんて言うか・・・」
タバコのせいか、それとも、サイオンを裏切らずに済むせいか。
気分は、すっきりしていた。
半分まで吸ったソレを惜しいとも思わず、水溜りへと投げた。
「行くか」
オレは自ら、西遠総合興行の事務所へと向かったのだった。
もう二度と行くまいと思った場所へ、オレは、還ろうとしていた。
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