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第二部
第20話
しおりを挟む時刻は昼を少し過ぎたばかりか。
二つのベッド。
片方には腰掛けた青年。
「フィリップさん……大丈夫ですか?」
部屋の中で顔を傷で真っ赤にしてもう一方のベッドに横たわっていたフィリップが目を覚ましたのを見て、オリバーは尋ねる。
「問題ないよ」
どんな答えが返ってくるかもわかっていたはずだ。返ってきた答えに自らが何も言えない事も分かっている。フィリップが無理をしていると言う事は百も承知で、ただ、それでも無理をするななどとは口が裂けても言えない。
彼がどんな思いで戦おうとしているのか。今立ち向かっている彼が方法を間違っているとしても、咎める立場にオリバーは立っていない。
「何より、絶対にボクはアイツらを許せないから。許せないアイツらよりも弱かったらダメなんだよ……」
無力だった。
救えたかもしれない命があった筈なのに。目の前でまた喪ってしまった。責任は誰に追求される。きっとフィリップ個人にある責任などと言う物は彼自身が思っているよりも少ないのかもしれない。
ただ、仕方ないという言葉でフィリップには片付けられない。彼の善心が人命の損失を仕方がないと言う投げやりな言葉で責任を放棄することを許せない。
動かす度に痛む身体に顔を顰めながら彼がベッドの上で腹より上を起こすと、オリバーに目を向けた。
「なあ、オリバー……。キミは自らの無力に絶望した事はあるかい……?」
尋ねるフィリップの緑色の目はオリバーを見ている筈だと言うのに、虚空を見ている様にも思える。
光の通らない濁った目にオリバーは映っているのだろうか。
オリバーの答えに興味があるのかも不明だ。ただ語っていたいだけとも感じられる。
「救えた誰かを、自らの無力で失ったこと。助けたかった何かが目の前で壊されたこと。当たり前の日々がいつの日か消えてしまう事。キミは知っているか」
どう答えれば満足だ。
何と答えれば納得するのか。
オリバーには分からない。
何も。
初めから何も無かった。生きるために罪を重ねた彼にはフィリップの様に失う何かを持っていなかった。だから何も知らない。今はまだ失うと言う事の辛さも。
「……知らねえよ」
オリバーの吐いた小さな呟きは彼の口の中に閉じ籠ってフィリップの耳に届く事はない。
無言の空間が支配する。
重たい世界でフィリップは徐に立ち上がる。物音にオリバーが視線を上げた。
「まだ、やるんですか?」
「…………」
フィリップは言葉も返さずに部屋を出て行ってしまう。一人になってオリバーは天井を見上げて一言、声を漏らした。
「ーー俺は正しくなんかなれないよ、団長」
自分の正しさに自信を持てずに、迷うばかりだ。
ミアの心が壊れそうな程に痛む。
「ミアさん、立てる?」
立ち上がる力はまだ有るか。
絶望に打ちひしがれても。
それでも。
「…………はい」
立って、一人で。
一人で進まなければ。でなければ、いつまでも彼女は妹の所為にしてしまうだろう。今まで頑張って来れたことを妹のお陰だと感謝をしていたのに、これからを生きる事の苦しさを妹の所為だと恨む事になってしまう。
「…………っ」
ダメだ。
オリビアを頼ってばかりでは居られない。
オリビアを恨んでしまってはならない。
そんな物はあまりにもミアという人間にとって都合が良すぎる。
ーー怖いよ。怖くても。
ここで立たなければならない。
「……リビアには心配かけれないから」
立ち向かわなければ。
前に進まなければ。
妹の事を忘れるつもりはない、絶対に。
ベッドの上から震える足で立ち上がって、杖の無い世界に投げ出された。妹と言う支えのない世界に彼女は立つ。
まだ光が見えている。光がある方に。
「死ねないよ」
「うん」
「……闘うよ」
「うん」
立ち上がったミアを祝福するように抱き留める。
正面からシャーロットがミアの背中に腕を回して摩る。
「大丈夫……ミアさんなら、大丈夫」
シャーロットの右手がミアの後頭部を優しく撫でた。温かく柔らかく、包み込む様な優しさを感じる。
「シャーロットさんはお姉ちゃんだもんね」
ふわり。
温もりが離れて、どこか儚げな微笑みを浮かべたシャーロットの顔がミアの瞳に映る。
「ーーごめんなさい、シャーロットさん。……ありがとう」
閉じ籠る自分を、壊れようとしていた自分を見捨てないでくれて。
「うん」
何もかもを救えた訳ではない。シャーロットにもわかっている。卑怯な言葉だ。彼女の大切なモノを引き合いに出して。
「もう大丈夫……です」
だからと言うわけでもないが、無理をしろとは言わない。
「そっか」
ただ、彼女の前進する勇気を邪魔をするつもりはシャーロットには湧かない。立ち上がった彼女の心に水を掛けることになると思ったから。
もう要らないだろう、慰めも説教も。
『皆、執務室に集まってくれ』
『牙』基地内にマルコの声が響き渡り、シャーロットがミアの顔を見れば。
「行こう、シャーロットさん」
前を向いていた。
扉を開いて、部屋を出た瞬間に。
ーー頑張れ、お姉ちゃん。
誰かの声が聞こえた気がして、ミアは振り返った。
誰も立っていない。窓は閉まっていると言うのにカーテンが揺れる。
彼女は頷き、ホロリと笑みを浮かべて小さな声で「頑張るよ」と誓いを立てた。
「お姉ちゃんだから……」
心配を掛けないように。
静かに部屋の扉が閉じられる。
ーーじゃあね。
部屋の中、茶髪の少女が満足気に笑って消えた。
最初からそんな少女は居なかったのかもしれない。誰も彼女を認識していなかったのだから。
またカーテンがふわりと揺れた。
囚われの天使は白色の部屋で目蓋を開いた。どうやら、眠ってしまっていた様だ。
長い金色の睫毛が僅かにアリエルの目を覆う。
声が聞こえた。
「おはよう、エンジェル」
語りかけてくる声だ。
男の声。
「私はエンジェルじゃない……」
対して彼女は否定の言を吐いた。
何度も言っている。
自らはアリエル・アガターという名前であると。何故今更に、エンジェルと呼び直したのか。
うつらうつらと視線を上げれば立っていたのはエスターではない。
「アリエル・アガターだったね。まあ、君の名前は至ってどうでも良いのだよ」
「貴方は……」
見えたのはスキンヘッド。
皺の深い男。スーツを身に付け、その顔には笑みを湛えている。
両手を後ろで組み直立。
堂々とした、威厳のある立ち姿。
知っている。
見覚えのある顔だ。
「おや、敬う態度はある様だな」
アリエルの記憶の中にある顔と名前を一致させる。気がつけば男の名前を呼んでいた。怒りの篭った声で。
「エイデン・ヘイズ……!」
この場にいる。
これだけの事がエイデンという男を信用してはならないと言う事のなによりもの証明になった。
「覚えていてくれたか。それは重畳だ」
忘れるわけもない。
『牙』へのパワードスーツの製作を行うエクス社の代表取締役となれば知らぬもの、憶えの無いモノの方が珍奇だ。
「さて……と、少しだけ話をしようか」
縛り付けられているアリエルはエイデンを睨みつけるが通じない。
「君も退屈だろう? こんな何もない部屋に閉じ込められて」
まるで当たり前のことを確認するかの様に斜めに視線を向けてくる。
「閉じ込める様にしたのは私だがね」
ジョークにしてはあまりにも最低だ。ブラックなどと言う物ではない。
「話と言うなら……そう、例えば君の出生だとか」
アリエルの口から小さく息が漏れて、直ぐに歯を力強く噛み締めてから叫ぶ。
「私の親は、ユージン・アガターだ!」
愛する父は一人だけ。
出生などと言うものはどうでも良い。
「はははは。君の親は……いや、親と言うのもおかしいかもしれないが間違いなくユージンなどと言う男ではない」
笑い、事実を紡ぐ。
全てが彼の掌の上で動いている様な感覚に気持ちの悪さを覚える。
「ミカエル・ホワイト。最強でありながら、たった一度の敗北により名を隠された男。それが君のオリジナルだよ」
それでも、転がされる事が止められない。
手足を縛られ、自由を奪われた彼女は抵抗する事ができない。
「君の出生についてだ。……君は何年も前からヴォーリァとの冷戦の戦力として研究されていたんだ」
語る。全てを。
ここで彼女は何を思うのだろうか。
「私も出資者として関わっていた。当然、研究には莫大な資金が必要とされるからな」
誕生と、絶望と彼女の背後に隠された物を明かそう。
エイデンは薄く笑って、口を開いた。
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