不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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STEP 9 「やっぱ、ぜんっぜん我慢できねえわ」

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 人通りもまばらな路地を歩きながら、八城が秘密を共有するのが楽しくて仕方がない人の顔をして、笑っている。これ以上好きになりたくないと思うのに、八城に触れれば触れるほど、知りたいが大きくなってしまう。

「私、どこで八城さんの初めて、もらっていますか」

 八城に初めて経験することなどあるのだろうか。

 八城は、いつも卒なくこなしている。余裕で、いつも私ばかりが焦っている気がする。真剣に聞いてみたら、八城が一層楽しそうに笑った。身体をかがめた八城が、私の耳元に小さく吹き込んでくる。

「可愛い後輩に好意もなく抱いてほしいって言われるのは、はじめて」

 心臓に響くような低音に、反射のように肩が震えた。思わず身体を引いて、くつくつと笑っている八城を見上げる。

「や、めてください」
「ごめんごめん。それくらい衝撃なんだよ」

 人生においてもそうそう経験することのないことだろう。わかってはいるけれど、どうしても、八城に貰ってほしかった。

 それだけを思い出に、生きていけると本気で思うくらいには、八城に惹かれてしまっている。

「でも、ほんき、なので」
「ん。……あとは、ドライヤーで髪乾かしたり、キスで意識飛ばされかけたり」
「うわ、あ、もう、いいです」

 口に出すたびに身体を寄せて耳元に囁いてくるから落ち着かない。周囲に人影が見えないからまだいいけれど、周りから見たら、どう見ても交際関係にある男女だろう。

 必死で突っぱねようとして、とどめのように低い声に囁かれた。

「抱いていいって言われてんのに、こんなに我慢してんのもはじめて」

 直接的な表現で、立ち眩みを起こしてしまいそうになった。強く手を握られて、逃れられずに八城の顔を見上げる。

 とうとう足が止まってしまった。

 あと3分も歩けば駅にたどり着くだろう。八城もよく分かっている。このまま、何も言わなければここで解散になる。

 もうすこしそばに居たいからなのか、それとも、はやく抱かれて、終わってしまいたいからなのか、私にはもう、よくわからない。

「お家、寄って行きませんか」
「……誘惑してんの?」
「誘惑、してます」
「なるほど」
「だめですか」
「いや? はじめから寄るつもり」

 私の誘惑なんてあっさりと躱した八城に手を握られたまま、一緒に駅の改札をくぐって、あっという間に最寄駅にたどり着く。

 すでに駅から私のマンションまでの道もしっかりと理解しているらしい八城に手を引かれて、何に阻まれることもなく、エントランスをくぐって、エレベーターに乗り込んだ。

 道中は八城の大学時代のことや、土曜に会う子どもたちが、私の作るお弁当をうらやましがっているらしい話を教えてくれていた。

 八城は誘惑をされた人とは思えないほどに長閑な話をしながら、あっさりと私の部屋の前にたどり着いた。

 扉の目の前で一緒に立ち止まって、部屋の鍵を開けた。

「……紅茶でも、淹れます、ね。たしかケーキが」
「明菜」

 八城と繋がれていた指先が離れたのはその瞬間で、一緒に玄関に足を踏み入れた時には、両手が私の身体に回されていた。

 靴を脱ぎかけたところでお腹に回ってきた腕に体を起されて、後ろから抱きすくめられる。吃驚してお腹に触れる手を触ったら、簡単に両手に絡めとられた。

「や、しろさ……」
「あー、くそ、触りたくて頭イカれそ……」
「いかれ……」

 熱いため息が首筋にあたって、ぴくりと身体が震える。私の震えを感じ取った八城がますますつよく身体を抱いて、もう一度息を吐き下ろした。

「ん、くすぐった」
「あきな」
「う、ん」
「明菜」
「は、い」
「……正面から抱きしめたい」

 こっち向いて、と囁かれて、背筋が粟立つ。

 肯定も否定も口に出せずに緩くなった拘束の中で、ゆっくりと振り返る。上から見おろす八城の目は、獰猛な鋭さを孕んでいた。

「やし、ろさ、」

 ただ、狼狽えているうちにまたつよく抱きしめられて、すっぽりと身体が埋まった。八城の熱を分け与えられているみたいで落ち着かない。

「名前」
「う、ん?」
「名前で呼んでくんねえの」
「あ、……はる、うみさん」
「ん」
「春海さん」
「……あと十秒で離れて、ちゃんと帰るんで」
「十秒」
「大人しく帰るんで、もうすこし好きにさせてほしい」

 この間みたいに茶化してカウントを取ることもなく、ただじっと無言で抱きしめられていた。

 心臓の音だけがうるさくて、こんなにもぴったりとくっついていたら、きっと八城にはすべて筒抜けだっただろうと思う。

 ほんのすこしの時間で、八城の熱が離れる。さみしくて、つい、恨めしい顔で見上げてしまった。私を見下ろす八城の目が苦笑している。

「……ちゃんとぐっすり寝て、明日も仕事来いよ?」
「春海さん」
「明日からは残業禁止」
「はる、」

 必死に引き止めようとしているのに、顔を寄せられたら、勝手に瞼が降りてしまう。

 八城の唇が、優しく瞼に触れた。

 いつも、帰り際にしてもらえるから、すぐにおやすみの挨拶なのだと気づいてしまう。たまらなく胸がぎゅっと苦しくなって、息ができなくなる。

「今日はマジで、絶対抱かないって決めたんで、大人しく送り届けられといて」

 その言葉に、まだ、あともうすこし、この関係が続いて、好きな人と一緒に居られるだなんて、思ってしまってはいけない。

「ほんとうに、もらってくださって構わないのに」
「ん、もうすこし、明菜の特別な部分に行きたいだけ」

 もう、十分特別な人だ。

 まっすぐに見上げて視線で訴えれば、八城はまた困ったような顔をして、小さく笑った。

「明菜は俺におやすみの挨拶、してくんねえの?」
「……したら、帰っちゃうんですよね」
「今日は、頑張った明菜をしっかり家まで送るって決めてたからね」
「……じゃあ、目を閉じてください」

 私がお願いすれば、八城は軽く私の髪を撫でてから静かに屈んで瞼を下ろしてくれる。何度見ても惚れ惚れしてしまうような綺麗な顔だと思う。

 そっと両頬を指先で包んで、唇を寄せる。瞼ではなく、八城の唇に優しく押し付けたら、目の前の瞳がぱちりと瞼を押し上げて私を見つめた。

「あき、」
「まだ閉じてください」

 頬を優しく掴んで咎めれば、悩まし気に眉を寄せた八城が、しぶしぶ瞼をおろしてくれた。

「今日は、助けてくださって、ありがとうございました」

 声を出して、小さく額に口づける。優しく触れて離したら、今度は瞼を開くことなく、八城が小さく笑ったのが見えた。

「児島部長のことは、……どうしても父の姿と重なって諦めきれなくて、ちょっと、意地になっていました」
「……ん」
「目の前にあるお仕事を、ちゃんと、しっかりします。……でも、もう、意地になって無理をするのは、やめます」
「ああ」

 囁きながら、八城の顔にたくさんキスの雨を降らせて、されるがままになっている八城に笑ってしまう。私なんかの誘惑なんて、本当に効き目がないと思う。

「春海さん」
「うん?」
「やっぱり、春海さんに頼んでよかったです」

 遠くから見つめている時、きっとすてきな人だろうなと思っていた。近くで見つめるようになって、やっぱりすてきな人なのだと再認識した。

 こうして関わり合うようになってしまったら、どうしようもなく好きでたまらない人になってしまうのは、当然だった。

「……春海さんに、もらってほしいです」

 願いながら囁いて、もう一度唇に自分のものを触れ合わせた。

 ぴったりと触れさせて柔らかに離れる。その瞬間に、閉じられていた瞼が、簡単に押し開かれた。

 瞳にどろどろの熱がこもっている。されるがままになっていたはずの八城の身体が動いて、景色が入れ替わる。

「はる、」
「やっぱ、ぜんっぜん我慢できねえわ」

 壁に身体を押し付けられているのだと理解する前に、八城の足が両足の間に入って、ますます身動きが取れなくなる。ただ、鋭い視線に見下ろされて、声もなく、八城を見つめていた。

「は、」
「責任とれ」

 何の責任なのかも分からずに、目を白黒している間に唇に噛みつかれる。

 私が捧げたような可愛らしい触れ合いではない、初めから深く貪るような力強いキスだ。

 翻弄されて、すぐに身体が震えそうになる。何度もしているから、八城はどうすれば私の身体から力が抜けてしまうのかも知っている。

「……ん、ふ、ぅ」

 どろどろに口づけられて、両足の感覚が曖昧になる。崩れ落ちかけたところで力強い腕に支え直されて、ますます身体が密着する。

 身体の輪郭が八城の身体に歪められてしまいそうなくらいきつく抱き寄せられて、目を回した。

「明菜」
「ん、っ……、」

 唇から離れた八城が、輪郭をたのしむように耳を舐めて食んでくる。訳も分からずに縋りついたら、八城が小さく笑った気がした。

「俺以外に誘惑すんなよ」
「し、…‥てな」
「三週間、会えなくて、我慢できんの」
「さん、しゅう……」
「出張中」

 囁き入れながら、不規則に口づけられる。八城の唇から奏でられる音がすべてお腹の奥に痺れて、おかしな気分になってしまった。

 耳殻をなぞっていた唇が徐々に下りてきて、首筋から鎖骨に吸い付いては食んで、慰めるように舐められる。

「マーキングでもしとくか?」
「ま……きん、ぐ?」
「痕つけるとか」
「あ、と……」

 ふわふわと落ち着かない世界で、八城が獰猛に笑っている。意図をかみ砕けずに近くに光る瞳を覗き込んでは、もう一度笑われた。

「キスマーク、つけておくか? 俺のものだって分かるように」
「ど、やって……、つけるんです、か」
「あはは、はじめて?」
「……うん」
「つけてみる?」
「ど、こに?」
「どこにつけられてえの」

 キスマークがどんなものなのか、よくわからない。皮膚の鬱血らしいことだけ知っていたけれど、つけ方まで考えたことはなかった。

 知っている人が見れば、分かるものなのだろうか。それすらも曖昧で、どこに付けるべきものなのかも分からない。困り果てて首を傾げたら、もう一度唇に噛みつかれた。

「ん、……ぅ、っ」
「ほら。早く断らねえと、マジでやられるぞ。いいのか?」
「つ、けても……いい、んです、けど……、どこにしたらいいのかは、わかりませ、ん」
「そんなもん見えるとこにつけてたら、周りの奴らに明菜は誰かとセックスしたんだなって思われるようなもんなんだけど。意味わかってんの?」
「……あ、そう、なんですね、でも、私……、春海さんに、してもらえて、ないから、じゃあ、だめですね」

 熱に浮かされながら、なんとか答えを口にしている。

「……明菜」
「うん?」
「他の男に付けたいって言われたら、絶対断れよ」
「……うん? 春海さんしか、いわない、です」
「ん、そうだな。それでいいわ」

 眉を寄せた八城が、小さくため息を吐いて私を抱き直してくれる。

「煽られまくってて、頭狂いそうだわ」
「うん?」
「手ぇ出して」
「手、です?」
「ん」

 言われた通りに右手を差し出して、自分が思っている以上に力が入らなくなっていることに気づいた。私が驚いていることなど知りもしない八城がそっと手に触れて、顔を寄せる。

「なに、」
「じっとしてろ、な」

 低い声に静かに囁かれて、何も言えずに頷く。私の頷きに満足したらしい八城が笑って、もう一度手のひらに唇を寄せた。

 繰り返し食んで、リップノイズを立ててキスを落としてくる。八城がこうべを垂れて熱心に私の手のひらに口付けるところを、ただ熱に浮かされた頭で何も考えられずに見つめて、ようやく唇の熱から解放された。

「あ……」

 親指の付け根あたりに、鬱血痕が残されている。吃驚して八城を見上げれば、もう一度掠めるようなキスを贈られた。

「それ見て俺のもんだってこと、自覚してください」
「じ、かく」
「よそ見禁止」
「してな、」

 そんなもの、できるはずもない。

 最後まで言わせてくれない八城にもう一度口づけられて、言葉が消えていく。熱いキスの匂いだけが充満する玄関で、ただ、八城から送られる熱を飲み下していた。

 考えることもままならなくなったころに、ようやく八城の熱が離れて、頭を撫でられる。

 音もなくもう一度近づいては、優しく瞼に唇を落とされた。

「明菜、おやすみ」

 今度は引き留める気力もなく、すぐ近くに寄せられた瞼に、八城と同じように唇で触れて、「おやすみなさい」と囁く。

 私の声を聞いた八城は、結局ドアの先に隠されて綺麗に消え去ってしまった。

 手のひらに残された痕を見下ろして、ぺたりと座り込む。

「……春海さん、しか、見えない、のに」

 これ以上好きになって、どうするのだろう。
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